<古代の韓半島(ハンバンド)>(7) 三国時代

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(9月末の上野公園)

# すみませんでした
今朝は作成中の第29話(下)を“にほんブログ村”にアップしてしまいました。
チェックを怠っていました。

<古代の韓半島(ハンバンド)>(7) 
 三国時代


1.三国時代

後の第19代王・広開土(クァンゲト)大王(テワン)こと、タムドクが16歳で高句麗王となったのが391年でした。
広開土王の高句麗(コクリョ:고구려)が版図を拡大して次の歴史地図のような状況となっていきました。
では、三国時代と呼ばれる他の二つの国、百済(ペクチェ:백제)と新羅(シルラ:신라 )はどうだったのか?

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(1)百済

高句麗を建国した朱蒙と共に高句麗の女王となったソソノでした。
そして、ソソノは息子二人を連れて南下しました。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3375.html
長男(ピリュ:沸流)は現在の仁川のあたり、そして、次男(オンジョ:温祚)は全羅道(公州)に後の百済の都を築きました。
兄よりも肥沃な土地だったので弟の国が繁栄することになります。
その百済が興ったのは紀元前18年のことですが、まだ伝説の域を出ません。
国としての記録が出てくるのは346年です。

(2)新羅

百済と同じ伝説の国家が新羅(紀元前57年)。
慶州(キョンジュ)あたりのいくつかの部族の連合国家の呼称だったようですが、百済と同様に新羅も肥沃な土地に恵まれて、国力を蓄えていきました。
新羅という国の記録は百済よりも10年後の356年です。
高句麗が版図を拡大するにつれて、自国の力だけでは対抗できないので、百済と新羅は連合関係にあった。
これが4世紀から5世紀にかけての二つの国だったようです。

(3)高句麗の拡大

高句麗が首都を国内城(クンネソン)に遷都したのが343年です。
朱蒙大王の建国から広開土王の時代までのおよそ400年。
5世紀までに、半島の覇権を握る帝国に育っていったということです。
(上記の地図にあるように、第19代王・広開土王の時代が最盛期だと言われます)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3388.html

何らかの記録に残る5世紀からが三国時代とも言えると思います。
ただし、もう一つ伽耶の国が興っていましたので、正確には四国時代でしょうか。

(4)そのころの大陸と日本

その後の6世紀の大陸では、乱立の五胡十六国時代を経て、ようやく「隋(ずい)」が統一しました(581年)。

日本は弥生~古墳時代を経て、593年に聖徳太子が摂政政治を始めました(飛鳥時代)。
そして、600年に隋からの使者を迎えています。
太子が“17条の憲法”を制定したのが、604年。
また、小野妹子を607年に遣隋使として派遣しています。
なお、隋から「唐(とう)」に変わるのが618年で、日本からの遣唐使が始まるのが630年です。

韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

2.なぜ百済と高句麗は滅亡したか?
 ~南北国時代の前に


# ドラマ『太王四神記』の後の時代は視聴したドラマがないのでイメージがなく、一気に先に進みます。
その後となると、私の場合は渤海(パルへ)建国の『大祚榮(テジョヨン)』と新羅の『善徳女王(ソンドクヨワン)』です。
なお、KBS、MBC、SBSの地上波3代ネットには、それぞれ“歴史考察委員会”が設置されているので、ファッションに関してもイメージが大きく外れていることはないと思います。

半島での覇権争いが繰り広げられた三国時代は300年ほどで、時は7世紀に入ります。
660年の百済滅亡、668年の高句麗の滅亡により、新羅が統一しました(676年)

では、なぜ百済と高句麗は滅亡したか?
なのですが、
一言で表せば、“新羅と唐の連合軍の勝利”です。

そもそも、三国時代では一番小さな新羅でした(伽耶を562年に既に吸収しています)が、水利事業の展開による農業の生産性が大きかったことと、もう一つは「花郎制度」だとされます。
この「花郎(ファラン)」は貴族階級の青年たちのことで、「忠義」、「孝行」、「信義」などのファラン精神をベースに鍛えられたエリート集団です。
ドラマ『善徳女王』では花郎出身の大将軍・金庾信(キム・ユシン)が軍を統率しました。
史実です。

さて、もとより小国だったので、北の高句麗の侵入に対しては百済と連合関係を築いて対抗してきました。
しかし、自らの領土欲のために百済と連携して得た領土を独り占めにするなど、二つの国の関係亀裂の原因を作りました。
孤立した新羅が応援を求めたのが大陸の“唐”です。
当時は唐と高句麗が戦争状態にあったので、新羅と唐の両者の利害が一致。
まずは百済を攻め落とし、次いで高句麗を攻め落としました。
多くは高句麗と対峙できた唐の大きな力だったのかもしれません。

# この後の「南北国時代」のことは次回にします。

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百済と高句麗の末期の将軍2人の名前を挙げておきます。
・百済の階伯(ケベク)将軍
・高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン):彼は王には就かず、最高官職に留まり、高句麗の屋台骨を支えていました。
階伯(ケベク)も淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)も、同名のドラマになっているようです。

『王は愛する』も終盤に入ってきました。
こちら<古代の韓半島>では、
次回は、渤海(パルへ)建国の『大祚榮(テジョヨン)
次々回に、新羅の『善徳女王(ソンドクヨワン)』を取りあげる予定です。

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