派閥抗争の始まり


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(当時の『小学』・国立故宮博物館所蔵:2015.12.15撮影)

派閥抗争の始まり

# 放送の第16話のはじめは(フィクションの部分)、故チョ・サンムン参奉(サンボン)の妻のパク夫人+儒学者(ギルヒョンとチョンハクの師匠)が動いて、王族から追放されたチュウォン君を流刑から救った4年後のことでした。

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なお、その4年前の「戌午士禍(ムオサファ)」は、燕山君の父・成宗の時代の“士林派の巨頭”の故・金宗直(キム・ジョンジク)と、その後継者の金馹孫(キム・イルソン)の25人の門下生の尋問・拷問・処刑でした。

『六龍が飛ぶ』でバンウォンが2度の「王子の乱」で切り捨てた、鄭夢周(チョン・モンジュ)と鄭道伝(チョン・ドジョン)でしたが(二人は成均館での同窓)、上記の金宗直(キム・ジョンジク)は鄭夢周(チョン・モンジュ)→父親の教えの流れを汲むとのこと。
鄭夢周は高麗王を守ろうとする穏健派でした。
一方の鄭道伝は新・朝鮮を樹立せんとする急進派(“密本”の創始者)と区分しておきますが、
いずれにせよ、「民百姓は両班に従い」、「両班の妻は両班の夫に従う」ということで社会秩序を保つことができるという、「朱子学」では同じ思想です。

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(朱子学の基本経典「小学」)

他方、そんな儒学と(その亜流の)朱子学の思想とは関係なく、アモゲもギルドンも国の富を独占している官僚と両班から巻き上げて、その富は国王と庶民に返還するということを正義としました。

1.士林派(サイムバ)

過去から、<高麗時代>も<朝鮮王朝>も、王には立法・行政だけでなく司法権も備わっていましたから、王命はとにかく重い。
ただし、李成桂の建国の際に補佐官だった鄭道伝(チョン・ドジョン)が描いた政府組織は三司(サムサ)が王権を“チェック”して“バランス”を保つ官僚制度の重視でした。
(三司)
司憲府(サヒョンブ:検察・官僚の監察:従二品)
司諫院(サガンウォン:王への進言・顧問:正三品)
弘文館(ヒョンムングァン:歴史の記録・宮中の文書:正三品)

聞こえの良い「チェック&バランス」の言葉どおりに、制度が機能しているなら良いのですが、そもそも鄭道伝が作り上げた“密本(ミルボン)”という組織と、その朱子学に基づく思想は、身分制度による統治だけでなく、男尊女卑で、かつ他宗教を排他するもの。
本来の四書五経が説く王道の書からは徐々に乖離してしまったようです。
もちろんそこには、現実に生きる庶民への徳政は見られません。

朱子学の本流を自負していた士林派(サイムバ)は、燕山君の時に2回に亘り粛清されたものの、その“根は深く”、第11代王・中宗(チュンジョン)の時代にも、第13代王・明宗(ミンジョン)の時代にも地中に根を下ろしていました。
粛清(士禍)を受けても起き上がり復活して、第14代王・宣祖(ソンジョ)の時代になると、政権をも牛耳るようになりました。

しかし、この原理主義的な派閥が分裂するのが1575年です。

明宗の王妃の実弟であった沈義謙と新進の士林派の金孝元の哲学論争により、東西に分裂しました。
沈義謙が住むのが都の西側の貞洞(チョンドン)だったので、率いるのが「西人派」
他方の金孝元は、都の東の洛山(ナクサン)の麓に住んでいたので「東人派」を率いました
(『朝鮮王朝実録』p.249)
領袖の生い立ちや住所からだけでも、「西人派」が“宮殿”に近かったと思います。
その後の主流になります。

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①景福宮(キョンボックン)が最初の法宮

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(国立故宮博物館 2016.09撮影)

2.法宮

1392年に<朝鮮王朝>を建国した初代王・太祖(李成桂)は、政策補佐官の鄭道伝(チョン・ドジョン)の進言(風水)によって、1394年にそれまでの高麗の首都の開京(ケギョン)から漢陽(ハニャン)に遷都。
その首都は、北の北岳山(高さ342m)、南側の木覓山(南山:262m)、東側の駱山(洛山・125m)、西側の仁王山(338m)に囲まれた盆地で、総延長19km(世界遺産)に亘る城壁(漢陽都城)で守られた広大な都(完成:1936年)です。

その都市の中に、さらに東西南北の4つの門で囲まれていたのが王宮です。
ソウルの南大門市場(食料・雑貨)や東大門市場(ファッション)が観光名所ですから、2つの市場の距離感だけでも王宮の広さがお解りだと思います。

王宮の中に現存する5宮殿のことをしばしば引用していますが、それぞれの宮殿の役割は違っていて、それぞれが門を持ち、壁に囲まれています。

つまり、漢陽に来たとしても、宮殿に近づくには少なくとも2つ以上の検問を受ける必要があったようです。
ドラマ『逆賊』の時代は15世紀末なので法宮は①景福宮(キョンボックン)です。
なお、景福宮は1592年の壬辰倭乱(イムジンウェラン:第14代王・宣祖の時)で消失しました。
そのために、
②昌徳宮(チャンドックン)も同じく消失しましたが、海光君による再建はこちらが先。
その後は2法宮体制となります。

(景福宮の一番北まで歩くと、先には青瓦台(大統領府)が見えます)
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(右は景福宮の中から光化門を撮影)

3.派閥政治の始まり

燕山君の先王(成宗)時代に重要な三司(サム)を占めた士林(サイム)派でした。
しかし、ドラマにもあるように、
「儒教本来の思想ではない」として、燕山君は嫌いました。

1575年に東人派と西人派に分かれた儒学者・両班。
勢力が大きいのは王室に人脈を持つ「西人派」です。
1600年頃になると、東人派は「北人派」と「南人派」にさらに分裂しました。

ドラマでは、『華政』での第15代王・光海君が「西人派」を嫌いました。
光海君を支援したのは「東人派」から分裂した「北人派」と「南人派」(いずれもマイナー)でした。

1700年頃になると、ドラマ『チャン・オクチョン』の第19代王・粛宗も「西人派」を嫌います。
ただし、その頃に「西人派」が穏健な「小論(ソロン)派」と、より原理主義で強硬な「老論(ノロン)派」に分裂しました。
禧嬪・張(ヒビン・チャン:オクチョン)氏を支持したのが「小論派」で、
淑嬪・崔(スクチョン・チェ:トンイまたはムスリ)氏を支持したのが「老論派」です。
そして、
「老論派」は第22代王・正祖(イ・サン)の頃まで勢力を維持します。

(5大宮殿の北の高台にある北村“プッチョン”では両班の韓式屋敷の面影を見ることができます。
南山のソウルタワーが見えます)
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(写真の下は、景福宮の南東の清渓川“チョンゲチョン”で、商人が多く住んでいたところ。
上下共に昨年の11月撮影)

<その8>(<王朝絵巻>シーズン8)は、次などを参考にしています。
(おもな出典)
康煕奉『悪女たちの朝鮮王朝』双葉社(2014.06)
朴永圭『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)など。

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儒教の基本的な法典である四書五経ですが、それに陰陽五行説などを加えて、解釈や哲学による論争は表面だけのことだったと思います。
裏には官僚の権力欲の闘争。
そもそも派閥を形成することは儒教の本来の思想では許されないとされます。
国・民政を顧みることをせず、派閥が私利私欲に走るので「義」に反するからです。

なお、ウィキペディアには次のような記述があります。
成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と、士林派勢力の対立を産むが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。
(略)
成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献(チュホン)王后・尹氏が対立し、1482年に廃妃・尹(ユン)氏は賜死した。
成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。

この勲旧派とは、勲臣(功労・褒章の田畑などを得ている官僚)、戚臣(王家との外戚関係などを持つ官僚)からなる総理・副総理たち以下の官僚たちです。
反・士林派ではあるものの、持つものと持たざる者なので利害が一致しているわけではありません。
これは燕山君に対するクーデター(即位12年目)で明確になります。

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