日韓の文化交流のために (その1)

昨年(2015)は日韓国交正常化50周年を迎えました。
そして、毎年9月に開催される“日韓交流おまつり”は今年で第8回、8年目でした。

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http://www.nikkan-omatsuri.jp/npo/

私は3年目ですが、昨年よりも人出が多かった気がします。
(9月25日の日比谷公園)
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やはり人気は日曜日の夜に開かれるK-Popシークレットコンサートです。
当日まで出演者は発表されません。

昼のステージでテクノボーイズを楽しみました。
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(テクノボーイズ)
http://www.youtube.com/watch?v=y1ZYbwi10sg

夜のK-Popのステージは撮影不可。
しかし、そのうちに主催者側からの公開があると思います。
ただし、聞いてみると「年内には何とか…」の答えでした。

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ところで、1990年代に韓国で起きた“日流ブーム”をご存知でしょうか?
1988年に開催されたソウルオリンピックの後の1989年には、日韓でのVISAの発給の制限緩和などの渡航・文化交流統制が大幅に緩めらました。
それが契機となって、日本のドラマやJ-Popが韓国で大人気となりました。
もう20数年前のことなので、彼・彼女たちは今何歳を迎えたことでしょうか?
とはいえ、1990年代に日本を旅行した若い韓国人たちが火付け役です。

そしてピークは2002年の日韓共催ワールドカップサッカーでした。
他方、日本での“韓流ブーム”の火付け役は2003年の『冬のソナタ』の放送です。

今回は思うところがあって、4回に分けて<王朝絵巻 シーズン7>を書いてみました。
これまで<王朝絵巻>で、朝鮮王朝の初期と中期のことをアップしましたので、<朝鮮王朝>の末期のころの日韓関係のことです。

王朝末期のころ
<王朝絵巻 シーズン7>世紀末を生きた人々①

徳恵(トクへ)翁主(オンジュ)は、第26代王・高宗(コジョン)が60歳の時に、側室の貴人梁(ヤン)氏との間に1912年に生まれた娘(7人目の子)です。
第4回目に紹介する、日本から嫁いだ梨本宮家の方子妃が王朝最後の世子に嫁いだラストクイーンまたはラストピングン(世子の妻)ならば、徳恵翁主はラストプリンセスとなります。

当時は1910年の日本政府による韓国政府の併合がなされていた後のことで、彼女が7歳の時に父親の高宗が亡くなりました。
1919年1月に高宗が亡くなると、3月1日に「独立宣言」が起草されます。
それまでも、米国で民主主義を学んで帰国した人々などを中心に、「独立協会」という全国4000人ほどの組織がありましたが、それが母体でした。
独立運動家たちが集まったのは、仁寺洞(インサドン)の入口にある「タプコル公園」(またはパゴダ公園)です。

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今年の夏に韓国で公開された映画『徳恵翁主』

(Kstyle エンタメ Newsの、予告記事から)
目の前の利益に目がくらみ、国を売ってしまった朝廷の大臣たちに向かって怒鳴り散らす高宗(コジョン)皇帝(ペク・ユンシク)の姿から始まるメイン予告編は、実際の歴史的事件を連想させる。
冷たい目つきで幼い徳恵(キム・ソヒョン#)を見下ろす大臣ハン・テクス、そして着物を着て宮を出る徳恵の寂しそうな表情は、大韓帝国の最後の皇女、徳恵翁主の孤独な人生の始まりを知らせる。

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時代に翻弄された徳恵翁主。
13歳で来日、19歳の時に旧対馬藩主(#)の子孫の宗武志伯爵と結婚しました。
しかしこの結婚は薄幸で、とても愛されたというのに、彼女は元からの精神の病(分裂症)の悪化により、離縁となり1962年に韓国に帰ります。
義理の姉となっていた梨本宮家の方子妃の看病の元で1989年に亡くなりました(享年77歳)。

夫の宗氏と一緒の写真(ウィキペディアより)
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# 翁主の生涯のことは次のウィキペディアの記事で感動させられました。

徳恵翁主(1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、李氏朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。
「翁主」は、李氏朝鮮(大韓帝国)において王(皇帝)の側室所生の王女(皇女)の称号。
ただし、徳恵は日韓併合後の生まれである。
別名・俗称は李徳恵(イ・トッケ、または り とくえ)、宗徳恵(そう とくえ)。

1916年から高宗が徳寿宮内の即祚堂に設けた幼稚園で学んだが、1921年から京城(現ソウル)日之出小学校2年に編入し、日本語での教育を受けた。
日之出小学校時代に作詞の能力を認められ、「童謡の姫君様」と讃えられ、1922年頃に作った詞「雨」と「蜂」は1923年10月頃に京城に滞在した日本の音楽家宮城道雄が箏で作曲をつけ、1923年末頃に京城で「徳恵姫御作童謡発表会」が行われた。
その後1929年7月には日本ビクターからレコードが発売されている。
1924年には徳恵の作詞した「びら」に黒沢隆朝が作曲し、徳恵の前で演奏した。

1925年3月に12歳で渡日し、東京の学習院に留学する。
兄である李王純宗の見舞いや葬儀、母梁貴人の葬儀の際には京城に戻っている。
1930年頃に奇行を発したり、登校拒否や不眠の症状があったため病院で検査の結果、「早発性痴呆症」(精神分裂症)の診断を受けている。
1931年5月8日に旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁いだ。
朝鮮人である徳恵と武志との結婚には、朝鮮側にも、宗家側に反発が少なからずあったというが、このころ宗家は経済的に困窮しており、徳恵の実家である李王家からの支援を期待できるこの縁談は悪い話ではなかった。
そういう事情はありながらも、武志は妻となった徳恵を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年8月14日に長女正恵(まさえ)が生まれた。

しかし、結婚前から発症していた精神分裂症は新婚時代にも症状が見られた上、正恵の出産後から悪化し、終戦後の1946年頃松沢病院に入院したと思われる。
その後、1950年1月に韓国人新聞記者金乙漢が李垠家に続いて松沢病院を訪問し、徳恵の現状を韓国に紹介し、帰国のための運動を始める。
1955年6月に武志は徳恵と離婚。
徳恵は母方の姓を名乗って梁徳恵となった。

韓国で朴正煕が実権を握ってから李王家の人物の韓国帰還運動に手を差し伸べたため、徳恵は李垠に先立つ1962年1月26日に韓国へ帰国し、ソウル大学医学部付属病院に入院した。
この時に日韓両国の協力を得て韓国国籍を取得している。
純宗の妃尹氏の没後、異母兄李垠の妃だった李方子とともに昌徳宮内の楽善斎に住み、1989年4月21日に同所にて死去。
長らく病に伏していたという。

後に、詩人でもあった武志は、愛妻徳恵との別離の深い痛みと悲しみを山幸彦と豊玉姫の離別譚に託した詩を綴っている。

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(#) 対馬藩(現長崎県・対馬)といえば、江戸時代は朝鮮王朝からの朝鮮通信使の中継点であり、また日韓貿易の中継地でした。
オランダとの貿易を長崎・出島で行っていたことと同じです。
つまり、“江戸幕府=鎖国政策”という考え方は間違いだと思います。
日本と韓国の間にも正式国交があったということです。

映画『徳恵翁主』のヒロインはソン・イェジンで、その子役がキム・ソヒョン

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