日韓の文化交流のために (その3)

日韓の文化交流のために

(その1)
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(その2)
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日韓の文化交流のために(その3)

第26代王・高宗が亡くなったのが1919年1月で、その3月1日

「我々はここに我が朝鮮の独立国たることと、朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
この言葉で始まる独立宣言書が起草されました。

# ただし、これの直接の相手国が日本(抗日)だけだとする考え方は良くないと思います。
それまでの半島の歴史にあったように、半島は欧米の列強国から政治介入を余儀なくされ、独立運動家たちの母体であった「独立協会」は韓国半島が“全ての国から自主独立すること”であったからです。

以下、韓国観光のサイト“コネスト”から引用します。

三一節(サミルジョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが独立を願って行なった運動をたたえた祝日です。
http://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?no=440

3月1日は街中のいたるところで太極旗(テグッキ)が掲げられ、タプコル公園のある鍾路(チョンノ)では、毎年三・一独立運動で殉死した人々を追悼する記念行事や、独立を祝う記念行事が行なわれています。
普信閣(ポシンガッ)~ソウル劇場までの鍾路1~3街の800メートルの区間は歩行者天国になり、「万歳運動再現行事」をはじめとして、写真展・国楽フェスティバル・農楽(ノンアッ)など多彩なイベントが朝から夕方まで続きます。

またこの日を前後して、独島・竹島問題や歴史教科書問題など、日韓の歴史に関する集会やデモが行なわれることもありますが、観光を控えるほどではありません。
しかし、道を歩いていると「今日が何の日か知っている?」と年配の方に聞かれることもあるので、この日がどんな日であるかを知り、観光することをオススメします。

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# これからは未来志向が大切です
この11月には朴大統領の訪日が予定されています。

(昨年、今年と日韓首脳会談がありました)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人々③


黒船外交

幕末にペリー提督が率いる4隻の軍艦が到来して以降、日本はまず米国との和親条約を締結して開国の道を歩むことになりました。
当時の米国は、1823年の(第5代大統領)ジェームス・モンローの教書により、欧州などの他国への政治的・軍事的な介入はしないという、不干渉主義を宣言していました。
従って、政治的な意図ではなく、貿易による共栄共存を拡大するという対外政策でした。

ただし、江華島事件を契機に、日本が朝鮮王朝と締結した「江華条約」は米国にとっても都合が良かったのだと思います。
江華条約には2つのポイントがあって、半島が①開国することと、②冊封から独立することです。
2番目の点が重要で、朝鮮王朝が清から独立するということは、清が半島に政治・軍事介入するとなれば、日本も黙ってはいないということ。
つまり、米国は極東の安定化を日本の軍事力に任せたということになります。
1894年の日清戦争を米国は容認しています。
また、その10年後の日露戦争(1904年)を前に1902年には日英同盟(軍事同盟)が締結されているので、英国も日本の半島・大陸での行動を容認していたということになります。

2人の男

朝鮮王朝の政治家たちだけでなく、一般庶民の間でも、清の傘の下に入っての平和なのか、欧米や日本との協力関係で清の冊封から独立を勝ち取るべきかによって、王朝内は割れます。

王朝末期に大きな3つの事件が起きました。
まずは、1882年の「壬午(イモ)軍乱」
これは、西洋や日本に習って近代化を進めようとする派閥に対して、待遇が悪くなっていく守旧派勢力が反乱を起こした事件。
旧来の軍人たちが王宮や日本大使館を襲撃しました。
この際に再度復帰したのが興宣大院君です。
明成王后の力だけでは収束できず、守旧派を抑えるには大院君の力が必要だったからです。
王后が31歳の時です。

次いで、1884年の「甲申(カプシン)事変」
これは日本に留学して福沢諭吉の門下であった、金玉均(キム・オクキュン)が主導した改革派の事件で、王宮は占拠されました。
しかし、日本の後ろ盾を得た開化派の乱であったために、清が黙っておらず、軍事力でわずか3日で収束させます。
金玉均は日本に亡命、後に上海で暗殺されます。

(金玉均)
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3番目は有名な1894年の「東学党の乱」で、正式には「甲午(カボ)農民戦争」と呼ばれるものです。
東学は儒教・仏教などの東洋哲学を意味し、キリスト教の西学を受け入れないものの、基本的な思想は人間平等と社会改革をモットーとするもので同じだと思います。
政府内の混乱により農政が無視されていたので、全羅道(半島の南西)の農民を中心に、彼らの心のよりどころとなり、広がっていた思想で、リーダーは全琫準(チョン・ボンジュン)でした。
東学党は役所を襲撃して全羅道を征圧しました。
しかし、王朝政府とは和睦します。

(全琫準:1894年12月逮捕)
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度重なる内乱は、平定を口実に清と日本の軍隊の駐留を許してしまっていました。

# マクロ経済学でのプレイヤー(主体)は、政府と企業と私たち消費者の3者です。
政府には国家予算・財政収支、企業には企業会計、消費者には家計簿があるように、それぞれの勘定は別々です。
したがって、政治を追いかけるマスコミが“政府=国”と錯覚するような記事には強い違和感を持ちます。
現在の民主主義の下では“国=国民”だとの定義の方がしっくりときます。

政府、企業そして私たち国民と、それぞれに属する人たちの発想法には違いがあるはずだとは思います。
しかし、とくに、日韓併合(1910年)がもたらした大韓民国の国民へのネガティブな、国民の自尊心を傷つけるような歴史を作った両国の高官・政治家たちの責任は大きかったと思います。

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