“米櫃事件”の史実と謎

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(2016.06.11)

(INDEX)
<思悼 その1>
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2884.html
<思悼 その2>
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2885.html
<思悼 その3>
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2886.html

映画『思悼(サド)』(世子)の史実と登場人物背景

1.『思悼(サド)』(世子)映画の背景

思悼(サド)世子は1735年に、英祖が41歳の時に生まれた子(母は側室の英嬪・ヨンビン)だったので、翌年の1歳の時に世子として認められました。

この映画の題材は有名な“米櫃事件”。
その8日間を通して、思悼世子の生涯が描かれます。
22歳から奇行が目立ち(躁鬱病)、これが蛮行に及んでいたことが、妻の恵慶宮(ヘギョングン)の随想録「閑中録」にも記されているそうで、映画は「朝鮮王朝実録」と合わせて、「閑中録」を資料にしているようです。
ただし、当時の記録の「承政院日記」(「朝鮮王朝実録」の原典)が破棄されているので、史実の確認ができていないのが現状です。

米櫃事件の背後には貞純王后と老論派が暗躍したことは史実なので、映画はこの点を正面から描いています。
毒薬(精神高揚・攪乱剤)の投与には触れられていないので、思悼世子の豹変は、厳しい父親から受けたストレスと飲酒によるものとしておきます。

なお、思悼(サド)は死後の尊号(おくり名)なので、以下は本命の荘献(チャンボン)または世子と記します。

2.歴史背景

映画のメイン・キャストの一人が第21代王・英祖(ヨンジョ)。
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英祖はドラマ『トンイ(同伊)』にあったように、幼少の頃の名は延礽君(ヨニングン)。
もちろん、母親は淑嬪・崔(スクビン・チェ)氏(トンイのこと)でしたが、彼女は水汲みなどの雑用係で、モンゴル語では<ムスリ(少女の意):水賜伊>と呼ばれる官婢でしたので、ドラマ『チャン・オクチョン』では「雑用係のムスリ」と呼ばれました。
ただし、延礽君はムスリの子供ではなかったという説(噂)もあります(康煕奉『謎めいた朝鮮王朝』双葉社、2015年、p92)。
これは、美しく描かれたドラマ『トンイ(同伊)』からも、『チャン・オクチョン』からも窺い知ることはできませんが、老論派が粛宗(第19代王)の元にムスリを送りこんだという政治的な背景から推測は可能です。

英祖の父・第19代王・粛宗(スクチョン)は、仁顕(イニョン)王后・閔氏が1701年に亡くなると、翌年には仁元(イヌォン)王后・金氏を迎えており、この『思悼』では、仁元王后が“大王大妃(テワンテビ)”として王室最高位の役割として登場します。

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(仁元大王大妃、側室・英嬪(ヨンビン:荘献の母)とピングン(荘献の妻:恵慶宮))

1704年、英祖・延礽君(ヨニングン)が10歳の時に、当時12歳の貞聖(チョンソン)王后・徐氏と結婚し、王后は65歳まで連れ添っています。
映画では、中殿(チュンジョン:王妃)として荘献が還暦の後の5年後に“還暦祝い”を行います。

その後、1759年に英祖(65歳)は2番目の正室として、貞純王后・金氏(当時14歳)を迎えました。
この貞純王后が大変な女性。
貞純王后は、荘献の母親であった英嬪(側室:ヨンビン)と荘献を嫌い、老論派と結託してあらゆる妨害を始めます。
ヨンビンよりも荘献よりも年下の王后なのですが、荘献にとってはそれでも継母です。
当然ながら、荘献の正室・恵慶宮(ヘギョングン)よりも年下でした。

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(貞純王后・金氏)

3.思悼世子(サドセジャ)のこと

荘献は映画にあるように2歳の時には「孝経」を暗記するほどの俊才で、10歳を超えた頃から武道にも興味を持ちました。
14歳になると英祖からは政治の一部を任されるのですが、鋭い改革の考え方をしていたので、税金や軍制に既得権を持つ老論派から徐々に嫌われます。
また、英祖が各派閥の和合を重んじたのに対して、荘献は“老論派を嫌っていた”ので、英祖とも対立・確執しました。

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英祖との確執と英祖の短気・癇癪により官僚たちの前でも怒鳴られて、恥をかかされることが多くなり、荘献のストレスが高まって行きます。
荘献の酒癖や尼僧を宮廷に引き入れたことなどの奇行には、躁鬱病が原因とされています。
ただし、その精神を病んだ原因には精神高揚剤の投与の説もあります。

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米櫃に入れられたのが27歳の時、1762年の旧暦の閏5月22日(太陽暦の6月末 # )でしたので、もう季節は蒸し暑くなっていたと思われます。
映画に出る羅景彦(ナ・ギョンオン)は東宮で働く官吏だったのですが、老論派とその背後にいた貞純王后(英祖の2番目の正室)に陥れられて、10項目に及ぶ訴状を英祖に提出しました。
彼らは荘献の“謀反説”の噂も同時に立てます。
上級クラスの官僚たちが、英祖が考えていた世子廃位案に賛同する提案書(上訴)を書くことを拒んでいたので、世子の廃位のための行動に出たのだと思います。

英祖は荘献を世子の座から廃位させて格下げにする程度の処遇を考えていただけでしたが、
老論派に操られていた羅景彦からは、
「謀反の噂は嘘ですが、世子の蛮行は事実です」と言うセリフが出ます。
英祖は謀反の噂を立てたことにより、宮廷を不安に陥れたとして官吏を処刑します。
ただし、その前に荘献は羅景彦とは直接話をさせてくれとして、「背後関係を調べもせずに処刑してはなりません!」と、
一方的に自分をも不利にさせる処罰と、裏にいる官僚と継母の行動を暗に指摘しました。

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ここからは映画の最初に戻り(1762年)、英祖が荘献に自決を求めるシーンからです。
KJSの<その1>では、映画のセリフをそのまま記していますが、要は荘献の母の映嬪が「王家を安泰にするためには、荘献を処分するしかありません」と英祖に訴え出るところからです。

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先の6シーズンほど、王朝の歴史ドラマを見ながら<王朝絵巻>を書くために本やネットで調べてきました。
そこで思ったことは、第21代王・英祖(ヨンジョ:ムスリの子:在位期間51年)が都合が良いように承政院の記録を修正したのではないかということです。
老論派-英祖-貞純王后という強力なラインが、自分たちの政権に都合よいように歴史に塗り替えたのではないかという疑問です。

その犠牲が、『チャン・オクチョン』であり、その子の第20代王・景宗(キョンジョン:在位はわずか4年)、さらにはこの『思悼(サド世子)』。
映画にも出る、第21代王・英祖による兄の“景宗毒殺?”および、英祖は第19代王・粛宗の息子ではなく、“トンイ(またはムスリ)と老論派の誰かとの子供ではなかったのか?”と、そんな疑問も拭えません。

そして思悼世子は社会正義に目覚め、さらに息子の第22代王・正祖(李祘:イ・サン)は正義を貫くためにも、漢陽(現ソウル)を捨てて、人心一新を図るために水原(スウォン)・華城(ファソン)に遷都の準備を進めた…。

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(ソ・ジソプが演じる李祘)

チョナ(殿下:전하)またはチュサン(主上:주상)、または合わせてチュサンチョナと呼ばれていた当時の王。
畏怖の念から実像画がほとんど数が描かれませんでした。
そして、幾度かの戦禍を避けて秘蔵されていたものの、ついに韓国戦争(日本では朝鮮戦争と呼ばれる:1950年)の際に、プサンの大火で焼失。
わずかに残った王と世子の実像画も半焼しており、6枚が復元可能でした。

(英祖が50歳の時の実像画で国立故宮博物館で特別展示されることがあります)
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(昨年12月撮影)

# 閏月(うるうづき)
1762年には5月が2度あったということになります。
ウィキペディアによる解説は次のとおりで、ちょうど今頃の気候のようです。

太陰暦は、空の月の欠けているのが満ちそして再び欠けるまでを「一か月」とし、それを12回繰り返すことで12ヶ月すなわち「一年」としている。
しかしこの月の満ち欠け(平均朔望月 = 約29.530 589日)による12ヶ月は約354.3671日であり、太陽暦の一年(約365.2422日)とくらべて約11日ほど短いので、この太陰暦をこのまま使い続けると暦と実際の季節が大幅にずれてしまう。
このずれは11 × 3 = 33日つまり3年間で1か月分ほどになる。
そこで太陰太陽暦ではこの太陰暦の12ヶ月に、約3年に1度、1ヶ月を加え13ヶ月とし、季節とのずれをなるべく少なくする調整をする。
この挿入された月を閏月という。

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