チョン・ドジョンと王子の乱

<王朝絵巻 シーズン6>
チョン・ドジョンと「第1次王子の乱」

1.チョン・ドジョン

ウィキペディアで読むチョン・ドジョン(鄭道伝)を羅列すると次の通りです。

1360年 科挙試験に合格
1388年 李成桂将軍の回軍後、将軍の幕僚となる
(ドラマでは東北地域の安定化策を策定)
1389年 昌王を廃して、鄭夢周とともに恭譲王(定昌君)を擁立

「いまこそ、この国の土地が新しく生まれ変わるのです!」
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字幕
…1390年9月、高麗の土地台帳は開京において焼き払われました。
 その火は数日間も燃え尽きることはなかった…。

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1392年初 出生の問題を理由に鄭夢周から追放される
(ドラマにあるように“高麗”の名にこだわった鄭夢周が、“新・朝鮮”を樹立ことに反対したため)
1392年7月 李芳遠が鄭夢周を処刑した後、政界に復帰
李成桂を初代朝鮮の王に擁立する

開国一等功臣と認定を受けて、門下侍郎賛成事、判都評議使司事、判戸曹事、判尚瑞司事、普門閣太学士、知経筵芸文春秋館事、判義興三軍府事など、ほとんどすべての要職を兼職または歴任した。
漢城遷都の以後は、宮と宗廟の位置と称号、門の称号を定め、『朝鮮経国典』を著わして法制等の基礎を作った。
『仏氏雑弁』を著わして崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立した。

1392~93年に世子選びで第一夫人の息子たちとの関係が揺れました。

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太祖・李成桂が2番目の康氏との間に生まれた、当時わずか11歳の末息子、芳碩(8男のバンソク)を世子に指名し、政権樹立に功績があった芳遠を遠ざけたからです。

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(バンソク)

チョン・ドジョンの政治思想は、個人である国王が全ての実権を握るよりも、宰相を中心とした士大夫(成均館出身などの科挙試験合格者)が軍事、財政、人事などを掌握し政治をリードすべきであると主張。
そのため強力な王権こそ社会の安定をもたらすと考える李芳遠と対立した。
明を刺激するであろう遼東出兵を計画したが、1398年に政敵であった李芳遠の軍勢に殺された。

以上がウィキペディアからの引用と加筆です。

ドラマでもあるように王の秘書官だけでなく、チョン・ドジョンは自分でも正義感が強い書記を連れ歩いていたようで、彼に関する記録は多く残っているようです。

2.「第1次王子の乱」

改革のあり方と世子・芳碩(8男)の後見人ということで、チョン・ドジョンに対してのバンウォンの態度は冷ややかになりました。
師匠でもあったのですが、次第にバンウォンの気持ちは怒りに変わります。

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ドラマでは遼東半島に本当に攻め入ることをイ・ソンゲに認めてもらうようにと、ドジョンの領土への野望を打ち明けます。
さすがに行きすぎでした。
バンウォンは明との友好関係を重視していたために、庶民もバンウォンには“大義”があると思ったに違いありません。
“無名”の思想にあるように、“戦争反対”。
家族を戦場に出す両親のことを考えれば答えは簡単では…?

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(明の第3代皇帝・永楽帝とバンウォン)

既に病気を患っていた、
李成桂が危篤だという偽の情報を流して、チョン・ドジョンは自分に反対するソンゲの息子たちを(景福宮に)招集して、一網打尽にする計略」を行います。
しかし、バンウォンは危険を察知。
逆に兄たちを逃がし、待機させていた自分の私兵によって反撃に出ます。
素早い反撃により逆にバンウォンが景福宮を征圧し、チョン・ドジョンを処刑する。

「 」の中が、康煕奉『朝鮮王朝の歴史と人物』実業之日本社(2011.07)と、それ以外は私の加筆です。

ただし、朴永圭(パク・ヨンギュ)(訳・神田聡・尹淑姫)『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)によれば、「 」の中のことを名分に作り上げて、バンウォンたちが真正面からクーデターを起こしたというのが史実のようです。
これが「第1次王子の乱」です。

まずは、チョン・ドジョンとナム・ウンを、ナム・ウンの私邸で殺害。
それぞれの配下の軍と警察の権限を奪った上で、バンウォンたちは景福宮へと進み、王宮を征圧するということになります。
ドラマは史実に基づいています。

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ウィキぺディアで拾うチョン・ドジョンの人物像

・妥協を許さない苛烈な面があり、儒教の教えに背く者や異端と見なした人物は許さず成敗した。
彼の改革は師の李穡や師弟の李崇仁など多くの友人にも反感を買ったが、鄭道伝はこれらの者も容赦なく粛清した。

・唯一生き残った嫡男の鄭津もまた清廉潔白な政治家として有名であり、鄭津が死んだ後、(第4代王)世宗は特別にその葬儀を行うため使者を送り、『実録』にもその人格を記録している。

・李芳遠の政敵だったことから長い間反逆者として扱われた。
しかし1791年、鄭道伝の学問を再評価した(第22代王)正祖(イ・サン)の命で、彼の文集である『三峰(サンボン)集』が再刊行された。

# 痛ましいセウォル号の海難事故から、来週末には2周年忌です。
 心よりお悔み申し上げます。
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(昨年4月10日・光化門広場で撮影)


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