「六龍飛天」 ソウルへの遷都

木々が色づくのはもう少し後のようです
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このところ『六龍が飛ぶ』を、エンタメニュースの話題に沿ってアバウトに見始めているところです。
(詳細は月末からアップします)
実在とフィクションのそれぞれ3人の「六龍」が設定されていますが、そこでラブラインのこと。

先週はイ・バンジ(8年前のタンセ)とヨニの再会(二人はフィクション)のラインが顔を出しました。
また、今度はプニが獄中のバンウォンに告白しました(フィクション+実在のライン)。
そして、私が面白いと思っているのが、女性に弱いムヒュルのことと、カプンのこと。
この最も若い二人(フィクション)の出会いがあるのか?

ムヒュルはバンウォンのボディーガードへと、“馬番”から剣士として昇格しました。
カプンはバンジ(劇団の芸人+開京一番の講唱師)と生活を共にしている妹分。
そして、ヨニはバンジ、カプンのことだけでなく、プニも開京に来ていることを知ります。
8年前は(ムヒュルとバンウォン以外)、みんなが開京の近郊の村(イソ郡)の子供たちでした。

ドラマ『六龍が飛ぶ』は、歴史を踏まえつつもラブラインの展開が面白そうで楽しみです。
ちょっと気になるのはプニが兄のバンジの所在を知らないことです。

さて、歴史に戻ります

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1.夢占い

武将イ・ソンゲにとっての相談役でもあった実在の僧侶がいたそうです。

語り継がれる逸話ですが、日が暮れてソンゲが小さなお寺に宿泊した際に、「崩れかけた建物の大きな3本の柱を背負い支える」という変な夢を見て、無学(ムハク)大師に夢占いを求めます。
無学大師の答えは「柱には“王”の字が含まれます。崩れかけた建物とは“高麗”です。あなたの夢の姿はこの“柱”、すなわち王になるということです」

国を支える…、この考えがソンゲの心にあり、傀儡の第32代王と都堂(高麗議会)が明国に対して出兵を決定する際に、ソンゲは反対します。
小国が大国に勝てるわけがないとの判断からです。
そして出兵を余儀なくされて国境を越えたものの、やはり戦には勝てないという自然条件(雨季)での兵の士気の低下と食料不足を目の当たりにして、開京へのリターンを決めます。

2.李成桂のクーデター(1388年)

『六龍が飛ぶ』の第1話からあるように当時の国際情勢は、大陸では「元」から「明」へと勢力が変わり、他方では倭国(日本)の海賊(和寇)が横行していました。

こんな情勢の中で大国の明に対しての出兵などは「南の守りが手薄になるだけでなく、農繁期に若者を徴兵しなくてはならず、その上に、これからは長雨の季節に入る」と明への侵攻には反対する李成桂でした。
しかし、王命には従わざるを得ません。
この王命の背後には高麗貴族・豪族の意図があり、彼らは台頭する高麗武士の力を削いでしまうとの計画があったとされます。

1388年、イ・ソンゲは鴨緑江(アムノッカン)の中州の威化島(ウィファド)まで軍を進めますが、案の定、イ・ソンゲたちに立ちはだかるのは悪天候と食糧不足、それによって兵士たちの士気の低下が如実になります。

そんな時に無学(ムハク)大師の夢占いが現実化します。
“壊れかけた建物の3本の大きな柱を支える”という夢は、イ・ソンゲが妻の実家を訪問した帰りに宿泊した寺院でのこと。
その夢占いとは、崩壊する建物(高麗)の“柱という字には、王という字が入っている”というものでした。

イ・ソンゲは王命に背く大罪を“クーデター”で切り返すという覚悟をしました。

3.新都の景福宮(キョンボックン)

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(写真は次のサイトから拝借しています)
http://www.visitseoul.net/jp/article/article.do?_method=view&m=0004003002001&p=03&art_id=11141&lang=jp

1388年の覚悟のリターンと1392年の建国により、イ・ソンゲは“風水”を重んじて遷都します。

奈良の平城京も京都の平安京も盆地に開かれました。
四方を山に囲まれ川が流れる背山臨水の地は風水では特別の地ですから、同じようにイ・ソンゲは開京(ケギョン)から漢陽(ハニャン:現在のソウル)に遷都しました。

そして新しい宮殿のこと。
先に、済州島(チェジュド) の王国・耽羅(たむな)の開祖であった3人の王子は、三姓穴(サムソンヒョル)で生まれたとの伝説を紹介しました。

(三姓穴は次のYouTubeにアップしています:今年の9月撮影)
https://youtu.be/A28dwhwmRuI

風水ではこの“穴(ヒョル)”は“気”の中心を意味しますから、オーラ/パワースポットであり、そのスポットに建設されるのが景福宮です。

さて、ここで宮殿の向き、門の方向を巡って儒教者と仏教者での考えに相違が出ます。
鄭道傳が勧める南向きがベストなら、無学大師が勧める東向きがセカンドベストで、それぞれの理由はドラマの流に合わせて後に詳細を書くとして、イ・ソンゲが二者択一で選んだのは南向きでした。

この決定の背景には高麗時代からの仏教界の政治介入を嫌ったソンゲの判断もあったと思われます。
ドラマでは、フィクションのピグクサ(批国寺)と、その僧侶チョクリョンが出ます。
高麗は仏教国だったので仏教界が政界にも近く、当然ながら政治への影響力は大きかったのですが、その背景には全国ネットの仏教徒や僧侶からもたらされる情報の豊かさがありました。
しかし、
イ・ソンゲは仏教界が政治介入することを嫌って、儒教を重んじることになります。

(景福宮の正門・光化門の前の大広場:昨年の9月撮影)
https://youtu.be/QPN64MVnCuk

なお、<朝鮮>の国名は明国皇帝と相談の上で1393年に決定され、開京から漢陽への遷都は1394年で、景福宮の建設は1395年開始です。

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風水を大切にしたイ・ソンゲにより、開京から南東約60kmの漢陽に遷都されたのですが、広大な敷地です。
ソウルナビを検索すると、次のとおりです。

漢陽都城(ハニャントソン)とは朝鮮時代の都を囲む石造城郭(門を含む)のこと。広義では城郭とその内部の空間全体を指します。1396年(太祖5年)、朝鮮王朝の都である漢城と外部との境界を示し、外部からの侵入を防ぐために築造されました。全長18.627km、現存する世界の都城のなかでもっとも長い間、都城としての役割を果たしてきたといわれています。
(出典:ソウルナビ)

ところで、開京に戻って、
もとより狩猟民族だったモンゴル→元の国には女性が少なかったのでしょうか?
高麗の時代には貢女(공녀:コンニョ)の制度があって、身分の上流から下流まで、元の国に女性を捧げる制度がありました。
『信義』でもコンミン王が悲しいと思いつつも、少女の似顔絵を書いて贈るシーンがありましたね。

ha jiuxon


ドラマ『奇皇后』の写真

「信義」の高麗朝廷内では奇轍(キ・チョル)が権力を握っていました。
国政を私物化できたのは、元に貢女として奉げられた妹が、女官時代を経て元の皇帝・順貞の太子を生み皇后となるお陰でした。


ドラマ『信義』のキ・チョル

ki chol

(来週は初代から第4代王・世宗までの歴史の概略を書きます)

こちらは昨夕に触れた上野と横浜の韓国街

上野の韓国街の新旧の看板です。
これから開発されるのでしょうか…?
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(海雲台は釜山の北のリゾートビーチ)

横浜の韓国街の傍の伊勢佐木町モール
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