王朝絵巻 粛宗のころ

<王朝絵巻>
1.王朝518年


康 煕奉『朝鮮王朝』(2013.06収穫社)によれば、
1392年の初代王から4代までの約50年間で
王政の基盤が整備された。
この王政を支えたのが官僚制度で、
中央から地方まで内政が組織化されて、
地方の豪族の反乱の芽は摘まれたこと。
もう一つには国教にした儒教。
儒教は秩序ある生活規範を重んじ、
また儒教は男尊女卑を認めるので、
厳格な身分制度を維持することにも都合が良かった。

しかし、官僚への依存が強くなったために、
官僚が派閥争いに明け暮れて、
これが王朝の病巣になったこと。
さらには、儒教の格式主義が実学の発展を遅らせ、
王朝の経済の停滞の要因となった。

以上、
史劇のファンのみなさまも納得だと思います。
であらばこそ、第19代王・粛宗、
第21代王・英祖および第22代王・正祖の
改革路線が評価できると思います。

2.身分の壁

およそ1割の王室・両班を支配者層にして、
壁の向こうの被支配者層が中人、常民、賎民。
とくに賎民の子は賎民なので、職業すら選べず、
奴隷(奴婢)で一生を終える人だって多かった。

こんなピラミッド型の身分制度に加えて、
本来の王道を正す儒教思想が形を変えて、
両班や庶民にまで、
“男尊女卑”を容認するといった横糸のために、
「七去之悪」などを強いていました。
何度も引用している康煕奉(カンヒボン)氏の本には、
この男尊女卑の思想は
“朱子学”によるとの記述があります

縦も横も強固な岩のような身分制度。
宮殿の外では、
男子は武官、女子は宮廷の尚宮・女官へと、
チャンスを見いだしたのかもしれません。
張禧嬪だけでなく淑嬪・崔氏だって、
それ相当の天分がないと側室にはなれず、
またシンデレラだったと思います。

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(税が払えず流民となった人々も…)

3.粛宗のころ(1)

「謝氏(サシ)南征記(ナムジョンギ)」

世継ぎを産んだという実績は非常に大きなこと。
しかし、これにてオクチョンが正室になり、
仁顕(イニョン)王妃が廃妃・追放された。
この顛末を風刺した小説が「南征記」で、
このドラマでは、
キム・マンギの弟が書いたことになっています。

西人派のネガティブキャンペーンであったものの、
オクチョンだけでなくスクチョンに対しても、
民心が批判に転じました。

スクチョンが“優柔不断”との説。
これも後世にまで残ります。

民心を重んじ、また、
民心の力を恐れてもいたスクチョンなので、
ことのショックは大きく、ドラマでも悩んでいます。

イニョンを哀れに思う気持ちは宮中にも広がり、
他方ではオクチョンの悪女説が流布されます。
南人派にそれくらいの文才があれば、
歴史の評価は違っていたと考えられる、
巧妙な民衆心理の扇動だったと思います。

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(祝日の庶民の楽しみ)

4.粛宗のころ(2)

ウィキペディアで粛宗を検索すると、
彼の功績について以下の記述があります。

粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導した。
そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、民生安定と経済発展に相当な業績を残した。

粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。
そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。
しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。

常平通貨のことはドラマにも出ました。
大同法」は映画『王になった男』でもありました。
光海君(第15代王)の発案によるもので、
両班や地方の豪族にも、所有土地の広さに応じて、
税金を課すというものです(これにて小作農民は無税)。
つまり、両班の懐に手を突っ込んだというわけです。

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(庶民とはまた違った華やかな宮中の祝日風景)

5.粛宗のころ(3)

仲良し東平君のこと

東平君はいつもオクチョンの味方でした。
彼は第16代王・仁祖(インジョ)の孫で、
スクチョンよりも1歳年上の幼馴染でした。
スクチョンと東平君がオクチョンと出会うのが、
それぞれ19歳、20歳と21歳でした。

東平君はチャンファミリーにとっても味方。
オクチョンの母親のユン氏、オクチョンの兄のヒジェ、
それにチャン・ヒョンにも近かったと思われます。

何が原因だったのかは分かりませんが、
彼は1701年に亡くなります。

この年の4月には淑嬪・崔氏が昌慶宮を出ており、
8月には仁顕王妃(イニョン閔氏)が心臓病で亡くなり、
10月には張禧嬪が賜薬で亡くなりました


連座でしょうかね?
チャン・ヒョン(叔父)、ヒジェ(兄)も、
この東平君も同年に亡くなっています。
東平君は41歳でした。

私は西人派(老論)による大粛清だと思っています。

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