<王朝絵巻>パート7(2) 華城

1.<王朝絵巻 パート7>華城(1)

水原(スウォン)駅からは、
タクシーやバスで5~10分程度
華城(ファソン)へと向かいます。

fason first
(以下、2015.04.13 撮影)

ウィキペディアによると、

18世紀末に李氏朝鮮第22代国王・正祖が、老論派の陰謀により横死した父思悼世子の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移して、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めたものが、華城である。

華城は老論を排除して実学を重視した正祖の理想都市であり、一時は華城への遷都も検討されたが、華城完成直後に正祖が死亡したため遷都は見送られた。

華城建築には、1794年から1796年まで2年を越える月日と37万人の労力が投入された。城壁の長さは5kmを越え、中国から伝わった西洋の建築技術を輸入し、城郭の築造に石材とレンガが併用されている点が特徴的である。東洋と西洋の技術を融合させた設計を行ったのは朝鮮後期の実学者丁若鏞。これは当時の朝鮮の築城技術・建築美術の粋を集めたものであったが、華城を最後として、以降の李朝の築城は衰退した。

まず目に入るのが当時の南の正門にあたる、
八達門(팔달문:パルダルムン)です。

paru mun

半月形に積まれた石の上に、
2階建ての楼閣があります。
この門を通って、漢陽(現ソウル)から、
イ・サンの一行1800人ほど+
800頭の馬が出入りしたようです。

当時の行列を描いたものが華城にあります。
長い隊列の後方になりますが、
“鉄砲隊”がガードしています。

(本物は国立故宮博物館に保存されています)
gyoukou1.jpg

動画にあるように八達門の周囲はロータリーで、
城壁の中には大通りが走っています。
都市交通の妨げにならないようにでしょうか?

下は案内の地図で、左下(南)に八達門です。
外壁の周囲は6km近くあるので、
外壁の中には大通りや、片側1車線の道路、また
博物館などが普通の町のようにあり、
道路の交通量も多いです。

左上(山手)が観光のトレイルバス
(華城列車:地図の赤い線です)の出発点、
外壁(4分の1くらいの距離)の傍を往復しています。
それを避けるように一般の車が走っています。

fason map1
(文字がぼけて分かり難いのですが、
 地図の真ん中あたりに宮殿「行宮」があります。)

2.<王朝絵巻 パート7>華城(2)

修復されてやや短くなったとはいえ、
周囲は5.7kmもある外壁ですから、
写真にあるような西から北東の外壁を往復する、
華城列車(トレイルバス)を使うと楽です。
龍頭と御輿をモチーフにした赤いバス列車です。

fason first4

まずは西の山手まで徒歩で登って、
出発地点へと向かいます。

(長い坂道です)
fason first2

(遠くに市街が見えます)
fason first 3

華城列車に乗ります。

(料金は1500ウォンです)
fason trail

次の3枚の写真は“空心”といって、
偵察、遠望のための塔です。銃口や砲口が見えます。

fason1.jpg

fason 666

fason2.jpg
(2015.04.13 撮影)

3.<王朝絵巻 パート7>華城(3)
-行宮(ヘングン)-


行宮の字の意味からも想像できます。
漢陽(現ソウル)から離れた水原に遷都を考えた、
第22代王・正祖(チョンジョ)です。
すでに紹介した昌徳宮や昌慶宮ではなくて、
父の荘献の御霊をここに祭り、
この華城を行宮として拠点としたかったようです。

荘献(思悼世子:サドセジャ)のことを思い、
13回も参拝し宿泊した宮殿とのことです。
(華城:パンフレットの記述)

八達門が古い城壁の南の正門。
長安門(장안문、チャンアンムン)が北で、
その傍は華虹門(화홍문、ファホンムン)。

(長安門)
fason gate33

西門にあたる華西門(화서문、ファソムン)、
東門にあたる蒼龍門(창룡문、チャンリョンムン)
などで囲まれています。

正殿は中陽門の先の奉寿堂です。
この“奉寿堂”では、
母親の恵慶君の還暦の祝いも行っています。

fason 666
(再現されたシーンです)

(上と下の写真と説明は華城の正殿。
 イサンが恵慶宮に挨拶するところ)
suin hyegyon

(執務室と玉座)
sun hair

4.<王朝絵巻 パート7>華城(4)
-行宮(ヘングン2)-


昨日は先に行宮(ヘングン)の玉座を紹介しましたが、
八達門から行宮までは歩いて5分ほどです。

1500ウォンの華城・行宮の入場料を払って中に入ると、
目に付くのが『大張今(テチャングム:チャングムの誓い』
ここは「チャングムの誓い」の主要なロケ地だったようです。
彼女のことを思い出すと「水刺間(スラッカン)」ですが、
宮廷料理人ではなく、史実では医女だっただけで、
しかしながら、医女としての能力があり、
その面で御医と同格の地位が与えられたようです。

fason 222

ここは後宮にあたります。
次の3枚(写真)にはチャングムの出世の姿が
ドラマと合わせてその衣装・医服で展示されています。

changumu1.jpg

changumu2.jpg

changumu3.jpg

ただし、誤解なきよう付け加えます。
チャングム(長今)が医者として仕えたのは、
第11代王・中宗(チュンジョン:在位1506~1544年)。
「朝鮮王朝実録」では1515~1544年にかけて、
チャングムの記述が出てくるそうです。

つまり、ドラマの撮影には適した場所ではあっても、
この華城は、
チャングムや中宗の時代にはまだありませんでした。

5.<王朝絵巻 パート7>華城(5)
-行宮(ヘングン3)-


もう一度行宮の入り口に戻って、
まずは“新豊楼”。
第22代王・正祖の“新しい故郷”の楼の意味です。

sinnyou mon

内側から見た新豊楼

mun.jpg

左翊門の先には“中庸門”

cyuuyou munn

映画『王の涙(韓国題名:「逆鱗」)』では、
四書五経の中の「中庸」の一説である、
コツコツと“小さなことから改革を進めていくことで、
人々の感動を呼ぶ”という王道思想が底流にありました。

中庸門の先に見えるのが正殿の“奉寿堂”です。
先日書いたように、
正祖はここで母の恵慶宮の還暦祝いを行っています。

6.<王朝絵巻 パート7>華城(6)
-行宮(ヘングン4)-


米櫃事件

第21代王・英祖(ヨンジョ)の息子で、
第22代王・正祖(チョンジョ)の父の荘献。
荘献(チャンボン)が
“米櫃”の中で餓死させられた事件は何度か触れました。

この米櫃は次の写真にあるような大きさで、
大人がようやく入れる大きさです。

komebitsu_201505021800122ed.jpg

この米櫃の写真は、
華城・行宮の中に展示されていますが、
当時の物と同じ大きさではあるものの、
本物ではありません。
また、
21代と22代の王を語るときには避けられない、
痛恨の米櫃事件なので、華城だけではなく、
昌徳宮にも展示があります。
しかし、展示のない
“昌慶宮(チャンギョングン)”が現場
です。

このドラマの『チャン・オクチョン』の第19代王・粛宗から、
『イサン』の第22代王・正祖までの、
改革の時代の汚点だったと思います。
避けては通れない事件なので、
随所で話題になりますが、
米櫃は昌慶宮の後宮に展示して欲しいとも思います。

なお、『チャン・オクチョン』でも『イサン』でも、
舞台は
昌徳宮(チャンドックン)と昌慶宮(チャンギョングン)。
それぞれが西と東に位置し、
それぞれの北側の“秘苑”と庭園は、
当時は繋がっていたので、
実際に王家が散策した場所。
ドラマの撮影にも適した静かな場所です。

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これこそ“木魚”です。
お寺の木魚が一般的ですが、王朝当時のことです。
通信連絡手段の大切な一つです。
敵の来襲などなど、
この“木魚”のリズムで知らせたそうです。

mokugyo.jpg

(今日のラベンダー)
ravender.jpg

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