オクチョン30歳のころに

『トンイ(同伊)』を見た人は自然にトンイ派。
『チャン・オクチョン』を見た人はオクチョン派。
私も数年前にブログを開いてから“トンイ”に嵌りました。

しかし<王朝絵巻>を進めるにつれ、
なんとフィクションばかりの王朝ドラマだと気付いた次第。
歴史ドラマファンの方々は既にお気づきだったと思いますが、
私はようやく理解し出したところです。
同時に「なんでこんなにも歴史解釈が違うのか?」
それは、
きっとわずかな資料だけしか残っていないからだ。
脚本家の理解と演出家の描き方にも無理はない…。
そう思うことにしました。

そういう私は“オクチョン派”です。 
先日までの<王朝絵巻>のまとめでも、
次の3点を挙げました。

①第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった。
②張禧嬪(チャンヒビン:オクチョン)は、
 派閥間の政争の犠牲であった。
③日韓・韓日関係は19世紀まで良かった。
 禍根を作ったのは20世紀前半の50年の間。

以上は<王朝絵巻>をパート6まで進めているうちに、
ドラマと数々の書物が教えてくれたからです。

両班たちや官僚たちの“身分差別”と
“実家一族”主義の偏狭さが国をも衰退させた。
そう思わざるをえません。
これに対して、国民を思う王たちの映画・ドラマが、
最近は歴史観を変換させているようです。

映画『光海(王になった男)』の第15代王・光海君、
この『チャン・オクチョン』の第19代王・粛宗、
また、
映画『逆鱗(王の涙)』の第22代王・正祖がそうだと思います。

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(MBC『華政』より:
 今度は7月から、『華政』をアップをします。
 「①第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった」を追及します)

1.オクチョンとスクチョンの私生活

オクチョンの略歴
1680年:二人の出会い(21歳)
1686年:淑媛(従四品相当)
1688年:第20代王・景宗を生む(29歳)
(この時には、正二品の昭儀)
1689年:“嬪(正一品)”へと昇格(30歳)
1690年:朝鮮史上唯一の中人出身の王妃(31歳)
1701年:42歳で他界。

(康煕奉『朝鮮王宮-王妃たちの運命-』2011.12実業之日本社)
および下記、
(ウィキペディア)
張氏は中人(仁同張氏)の出身で、仁祖の継妃で粛宗の曾祖母に当たる荘烈大王大妃の女官として宮中に入った。
しかしながら、1680年10月から1681年3月の間に宮廷から追われた。
当時の朝鮮では西人派と南人派の党派争いが展開されており、西人派が仁顕王后閔氏を後ろ盾に政権を握っていた。
しかし仁顕王后は王妃に立てられてから6年を経ても子供に恵まれなかった。
そこに目をつけた荘烈大王大妃を始めとする南人派は康熙25年(1686年)に「美貌に秀でた」張氏を再度、後宮に送りこみ、承恩尚宮(スンウンサングン、正五品相当)とした。
張氏は1686年12月10日に「淑媛」(スグォン、従四品相当)に立てられ、さらに1688年に「昭儀」(ソイ、正二品相当)へと昇進し、同年10月27日には王子李昀(後の景宗)を生む。
康熙28年(1689年)1月15日にはその功労によって「嬪」(ピン、正一品相当。側室の最上位)に昇進し「禧嬪(ヒビン)」と号され、李昀は王世子に立てられた。

他界するまでは出会いから21年です。
ただし、
1694年:淑嬪崔(『トンイ』)が息子を産む
したがって、
オクチョンが35歳の時には、
スクチョンとの関係に何か変化が出たと思われます。
しかし、
少なくとも出会いから14年間は愛し合った。
また、
亡くなるまでに息子が13歳になっているので、
少なくとも29歳からの13年間は、
スクチョンと息子と共に家族の生活を営んだ。

以上がオクチョンの略歴と、
これまでの検討から想像できるふたりの私生活です。

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(日本語版DVD収録の舞台裏)

2.派閥抗争(老論派と少論派の政争)

まずウィキペディアから、

粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい時期だった。在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年、南人の専横に歯止めをかけたい粛宗が南人を大量に追放した庚申換局(キョンシンホァングク)を契機に、西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになった。

ドラマでは福善君以下の南人派による謀反により、
庚申換局(1680年)がありました。
南人派が一掃されて、西人派が議会を独占。
しかし、仁顕王后が廃位されると共に、今度は
己巳換局(1689年)で西人派が一掃されます。
これで南人派の政権復帰。
ただし、今度は政権を担う力量不足から、
甲戌換局(1694年)で南人派が退かされて、
再度西人派が主流になります。
以上のように粛宗は絶対君主としての権限を、
3度も活用した強い王だったと思います。

そこで、
西人派の「老論派」と「少論派」なのですが、
ウィキペディアによれば、
1680年の庚申換局で分裂とあります。
他方、康 煕奉(カンヒボン)氏の研究では、
分裂は1700年とあります。
(康煕奉『朝鮮王朝』2013.06収穫社)

この20年間のギャップのこと。
ドラマを振り返ると、スクチョン
(世子:イ・スン)の最初の王妃選びの際に、
同じ西人派からの候補ではあるものの、
大妃が協力に推薦するミン・ユジュンの娘の
イニョンと、
キム・マンギの娘のインギョンが選考に残るものの、
分裂を狙ったのか、スクチョンは本命ではなく、
インギョンのことを王妃(最初の正室)に選びました。
これで、
キム・マンギとミン・ユジュンの間に溝ができます。
(1680年頃)
しかし、
ドラマではわずかなシーンであるものの、
二人は西人派のために仲直りと協力のために、
杯を重ねます。西人派が一致団結するわけです。
つまり、
1700年頃を老・少論派分裂とするのは、
再分裂説ではないかと思うわけです。

幸いにウィキペディアでも次の短いフレーズがありました。

復位6年後に仁顕王后が亡くなると、仁顕王后を呪ったとして1701年10月10日、禧嬪張氏は賜薬により処刑された。
しかし党争は西人と南人の対立で止まず、西人がまた老論と少論で分離して対立するようになった。

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派閥の終焉は正祖が亡くなってから。
イ・サンが10歳の頃でした。
父親の荘献(思悼世子・荘祖)の処遇を巡って、
父親を追い詰めた老論派の中にも、
穏健で同情を示した時派(シバ)と、
強硬派の僻派(ビョクハ)
に分裂します。
その際には映画『逆鱗』に出てくる、
サンの母よりも若い貞純(チョンスン)大王大妃は、
僻派に組します。1762年のことでした。
また、第22代王・正祖イ・サンは、
父親を追い詰めた老論派を嫌います。

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