王朝絵巻 パート6 (上) 日清戦争の頃

<王朝絵巻>パート6(上)

ヒョンビンとハン・ジミンの『王の涙(原題:逆鱗)』と共に、
<王朝絵巻>パート6まで進めました。

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パートⅤまでは日清戦争に至る経緯まで触れました。
ポイントは韓半島の清国からの独立と近代化こそが、
日本にとってはロシアの南下からの防衛線だったこと。

しかし、清国への帰属意識が強かった朝鮮政府および
その外戚政治でしたので、米国および日本は苛立っていた。

純元(スヌォン)王后の家元の安東・金氏の外戚政治は、
高宗とその父親の大院君により、
王妃には閔ファミリーから迎えることで、金氏の勢力を排除。
しかし、今度は閔氏の勢力が増します。

この王妃となった(KBS)『明成皇后』を見ていると、
彼女は最初は親日派で、
日本を手本にして近代化を進めようとしますが、
いくつかの親日派と独立派が起こす事件により、
また閔氏ファミリーの意向もあり、親清派に変わります。
彼女は清国、ロシア、
そして日本とのバランス外交に力を注いだとされますが、
結局は国内の親日派と独立派からは敵視され、
また明治政府からも敵視されることから、
“暗殺”という事件に巻き込まれることになります。

今度は金谷俊一郎『米中韓と日本の歴史』
(2014.10月、朝日新聞出版)から、
王朝末期のことを紹介します。

-日清戦争と日露戦争と明成皇后-

清国はアヘン戦争などで弱体化が明らかになったために、
清国ではなくて、
日本への接近が積極的だった閔姫(明成皇后)とその一族。

他方では高宗の父親の大院君は軍と民衆の支持を得て、
1882年に日本公使館を襲撃します。
反閔姫の壬午(じんご)軍乱です。
ただし、大院君の考え方は、
「清国が満州人の国」であって「漢民族の国ではない」
との思想の人でしたので、その後、日本は大院君を支援します。

他方で閔姫とその一族が清国への依存を強める。
これはまだ残っていた義大思想と冊封制度への依存と言えましょう。
要は「寄らば大樹の陰」です。

こんな国内での事情がある中で、親日派と独立派は、
ベトナムがフランスの支配下に置かれていたので、
「ベトナムの二の舞になりかねない」と懸念し、
国内の親清国派を追放するために、
1884年に甲申(こうしん)事変をおこします。ただし、
これは清国の軍に鎮圧されます。
背後には日本政府がいたとの認識で、日清間は亀裂。

そして、1885年年に、
日清の両国は「天津条約」を結び韓半島から軍を引き上げることにします。
この条約の担当は伊藤博文と李鴻章(りこうしょう)です。

次の事件は1894年の減税要求と排日の甲午農民戦争。
これは朝鮮王朝が清国に助けを求め、天津条約に基づき、日本も出兵。
この後は清国と日本が半島に居座る形になります。
日本は親日派の大院君が擁立して親日政権を樹立させますが、
当然ながら清国は怒ります。
これが契機となって、日清戦争の勃発となります。

日清戦争の後に、この親日政権は、
閔姫(明成皇后)およびそのファミリー、派閥によって倒され、
高宗および明成皇后は親ロシアへと傾き、
親ロシア政権を樹立。
翌年の1895年、明成皇后暗殺事件となります。

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(高宗と明成皇后)
(次のサイトからお借りしました)
http://zywsky130.blog.sohu.com/61932605.html

-明成皇后暗殺事件-

次はウィキペディアからの引用です。

李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后は朝鮮王后(閔姫)とも呼ばれる。
義父興宣大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局は混乱し、乙未事変で日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された。
(中略)
閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(政治工作者)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
(中略)
息子の純宗および夫の高宗
純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。
禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。
また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。

meisei.jpg
(次のサイトからお借りしました)
http://bbs.tiexue.net/post_4437022_1.html

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