王朝絵巻 パート5 日清戦争まで(上)


王朝絵巻 パートⅤ ①19世紀末の勢道政治

大学受験で選択したのは「日本史」でした。
当時の教科書では
1894年の日清戦争の勝利国の日本のことで、
戦後の下関講和条約では日本が清国の遼東半島を得て、
多額の賠償金をも得たことに焦点があり、
そして、その後の列強の三国干渉でした。
しかし、
今回歴史の本を読んでを振り返ってみると、
下関条約の第1条にあるように、日本は、
半島の独立と近代化を求めていたことが分かりました。
清国と朝鮮王朝の「冊封制度」を廃止することです。

朝鮮王朝500年の歴史の
終りの19世紀は停滞・衰退の時代でした。
衰退という意味は、政治の腐敗もありますが、
欧米や日本の近代化に比べて、
一般市民の生活に物質的な豊かさがなかったからです。

他方の欧米やロシアの列強は国の経済を富ませ、
すでに極東での貿易の利権を争っていました。
今度は、この19世紀後半の様子を
米国の外交官からの視点で書いた
渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』
(2014年12月、草思社)
で紹介します。

まずは、
朝鮮王朝内の当時の時代背景を振り返ると、
第22代王・正祖(イサン)の子が、
第23代王・純祖で、その王妃が純元王后。
彼女が実家の安東・金氏の後ろ盾にて
亡くなる1857年までの55年間、
女帝と外戚が影から操る勢道(せど)政治。
この院政を行ったことは先に書きました。

純元(スヌォン)王后が亡くなっても、
若い第24代王・憲宗、第25代王・哲宗を盾にして、
安東・金氏の勢道政治は続きます。
しかし、登場するのが王族の李是応(イハウン)。
彼は哲宗の後継に自分の息子を就けます。
1863年、第26代王・高宗は11歳で就任。
父の李是応は大院君(フンソン テウォングン)就任。
王の父親のことは大院君と呼びます。

大院君は、同じ儒教の漢民族の明国を中華、
朝鮮は小中華の兄弟関係と考えていましたので、
満州族の清国を嫌っていました。
また、
儒教思想とは反する平等主義のキリスト教を迫害します。
1866年のこと、
フランス人宣教師9人と1万人もの教徒を処刑しました。
他方、国内では安東金氏の勢力を削ぎつつも、
関係は上手く利用していたようです。

しかし、高宗が22歳の時、
王妃と実家の閔(ミン)氏が大院君の追放に成功し、
今度は閔一族に政権は握られることになります。
実家の意を反映して閔妃・明成王后は親清派で、
さらに、開国・近代化には一役をなしていると考えられます。

1876年(明治9年)、朝鮮王朝と明治政府は
「日韓修好条規(江華島条約)」を締結し、
世界に先駆けて王朝は日本との開国を成しました。

なお、宮脇淳子『韓流時代劇と朝鮮史の真実』
(2013年、扶桑社)
も参考にしています。

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(ドラマ『明成皇后』より)

王朝絵巻 パートⅤ ②冊封(さくほう)の国

いわゆる“寄らば大樹の影”の「事大主義」と、
明国への貢物を欠かさない「冊封」が映画『光海』でも問題となります。

冊封体制をウィキペディアで検索すると、
その意味は、
「周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。 職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。 これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる」

そして、
冊封体制の終焉は
「大きく広がった冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。
清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった

帝国主義の時代に入りました。
たとえば大英帝国は、開発途上のアフリカや
アジアの国々を植民地として配下に置きました。
フランス、ドイツ、オランダも同じです。
さらにロシアは西や東へと領土的な野心がありました。
ただし、19世紀前半は
日本も含め各国とも仲良しだったと思います。

日本では1854年に“ペリーの黒船”で和親条約が締結され、
日本は開国し、さらに1858年には日米修好通商条約締結。
また、ロシアのアレキサンドル2世は、
アラスカをアメリカに割譲するだけでなく、
日本との関係も良好でした。
その際の明治政府は欧米の制度、文化、技術の導入には
100%前向きでした。

そうした中でも停滞する清国・朝鮮王朝でしたから、
日本との格差は政治や(民主的な)制度だけでなく、
経済力での格差が大きく拡大しました。

また清国(満州族)と朝鮮(儒教)の2つの国は、
1858年~1866年にかけて、
宣教師やキリスト教徒を処刑しています。
ローマ法王の命によりキリスト教の布教を担っていた、
極東担当のフランスとはこれで当然ながら対立。
欧米列強やロシアが付け入る余地もありました。

こうした中で、明治政府は米国との連携をとりながら、
朝鮮王朝の開国のために、
森有礼(ありのり)に役目を与えます。
彼はイギリス、フランス、ロシアだけでなく、
フランスを恐れる清国に根回しをします。
そして、森有礼(政府代表)と李鴻章(清国代表)との会談など、
清国と欧州の国々を説得に成功し、
1876年には清国の冊封国であった朝鮮と、
「日朝修好条規」の締結に至ります。
アメリカと日本の意図は半島に近代的な国を作り、
大陸(とくにロシア)からの侵攻の盾にしたかったからです。

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(ドラマ『明成皇后』より; 徳寿宮)

王朝絵巻 パートⅤ ③「尊王開国論」

1882年、壬午(じんご)事変が起きます。
高祖の父の興宣(フンソン)大院君(テウォングン)は、
満州民族の清国を嫌っていたので、
閔氏一族の親清政策を歯がゆく思っていました。
名誉挽回のクーデターが壬午(じんご)事変です。
しかし、
これはあっけなく清の軍隊により鎮圧されます。
この際の現場の指揮は袁世凱(えんせいがい)です。

こうして高祖の父親たちの勢力が消えて、
王朝内の勢力は清に頼る事大派(閔氏一族)と
開化・(半島)独立派が残ります。
しかし、何が起きてもいっこうに制度改革がなされない朝鮮王朝。
そんな中で開化派の若手の官僚たちが立ち上がります。

内部からの改革を求めたのはアメリカと日本。
国境を接するロシアと大英帝国には領土的野心がありました。
地政学的にも重要な韓半島(ハンバンド)なので、
ロシアやイギリスからの“盾”となるようにと、
独立した近代国家を求めたのはアメリカと日本でした。

修好条約により、
朝鮮王朝からの留学生を受入れたのは明治政府。
井上馨たちは積極的に日本での若手の研修を進めました。
中にいたのが、金玉均(キムオッキュン)です。

1884年に金玉均はクーデターを起こします。
高宗に発表させた改革の内容は14か条で、
・両班貴族の専制の廃止
・宦官制度の廃止
・門閥の廃止と人材登用
・警察制度の改革
・財政の安定化
などの国内改革に加えて、
・清国への朝貢儀礼の廃止
という冊封制度の廃止などでした。

# どれも近代国家としての重要なポイントだと思います。

しかし、閔氏一族は黙ってはいませんでした。
いつものように清国に助けを求め、
この「甲申(こうしん)事変」は血で血を洗う結果となります。

1週間もしないうちに、
改革に参加した若者たちは清国軍に処刑され、
一部は日本に亡命することになります。
金玉均は日本での亡命生活を余儀なくされました。

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(当時のソウル公館の三浦と岡本役の二人。
 二人が伊藤博文の政策を実行します。
 ドラマ『明成皇后』より)

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