王朝絵巻 パート2 女性たちの韓半島 (4)

# 今年のおわりのブログとなりました。
 新年はヒョンビンとハン・ジミンの新作ドラマ
 (「ジキル・ハイド、私』)に挑戦しますが、ひとまず、
 KJSにいらっしゃった方々に御礼申し上げます。
 アクセス、クリックなどを多々、どうもありがとうございました。
 
 今夜から深夜(元日)までの
 KBS、MBCとSBSのドラマ演技大賞が気になりますが、
 それはまた楽しみにしておいて、とりあえず、おやすみなさい。
 『ホジュン』を観ておられる歴史ファンの
 シナモンロールさん! ライカさん!
 今年も来年もまだまだよろしくお願い申し上げます。
 
王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」(4)

その6 純元(スヌォン)王后


先の貞純(チョンスン)王后の「垂簾聴政」は彼女の引退の、
1805年までの約4年間でした。ただし、
その後も実権は父親の金祖淳(キムジョスン)が握っています。
本貫(ポングァン:本籍または始祖の出身地)は安東・金氏

登場する王后は、同じ出身の純元(スヌォン)王后。
彼女は13歳の時に第23代王・純祖の正室に入ります。
そして、68歳で亡くなるまでの55年間、また、
実家の安東・金ファミリーは1865年まで60年間を、
「勢道(セド)政治」
(王の外戚が実権を持つ政治)を行ってきました。
彼女の罪状は朝鮮王朝の近代化を遅らせたこと。
一族に国の資産が集中し、政権が腐敗し賄賂が横行しました。

その間の第24代王・憲宗(ホンジョン)、
第25代王・哲宗(チョルジョン)
第26代王・高宗(コジョン)までを
安東・金ファミリーが背後で操りました。
朝鮮半島は半世紀以上も
ある一族のために衰退の19世紀前半を送ったのです。

そんな中で、
高宗の父親(孝明)は他家からの正妻を得ることに固執し、
明成(ミョンソン)王后(出身は閔: ミン家)が登場します。
ラストクィーンは、
王朝最後の第27代王・純宗(スンジョン)の母です。

しかしながら、
日本では、もう明治(1868年より)を迎えていました。
さらに、近隣の中国、ロシアまた欧州の列強と、
半島には軍事力の影が徐々に忍び寄っていたのです。

その7 明成(ミョンソン)王后

ラストクィーンの明成皇后(명성황후:ミョンソンファンフ)。
彼女は西洋文化も取り入れようとした人で、後に
「徳寿宮」の石造殿を作った高宗にも影響があったと思います。

(当時の王室の衣装)
myonson1.jpg
(写真提供: naoさん)

museum.jpg
(国立故宮博物館にあります: 景福宮の隣
 photo by nao)

彼女のことをウィキペディアを読んでみると、
外交手腕に照らして実に聡明な女性であったと思います。
時は帝国時代。
清国(中国)、ロシア、日本の覇権争いの中、
国内では彼女の自分の出身の閔氏と
夫・高宗(コジョン)の外戚の
金氏との権力争いの渦の中でのことです。

先に私見を書いておきますが、
彼女は国内では自身の閔氏と金氏との争いと
対外的には親日派でななかったことが
後年の暗殺の背後にはあったと考えられます。
また、
その時の米国は? そんな疑問が湧いてきたのですが、
米国は1823年のモンロー大統領の年次教書にあるように、
他国の政治には「不介入」の「孤立」主義を貫いています。

これは1941年の真珠湾(パールハーバー)まで続いていた、
米国ならではの外交政策でした。
アメリカには他国に関与するまでの必要性が薄く、
むしろ、第2時世界大戦まで国力を十分に養っていました。

なお、
最初に紹介した明成王后をラストクィーンとしたのは、
朝鮮王朝はそれまでの鎖国政策から、1876年に開国し、
1897年に国号が「大韓帝国」となります。
その、高宗が第1代の皇帝となったので、
「李氏朝鮮王朝」では最後のクィーンと称しました。
その後は、
日清戦争、日露戦争を経て、
政治の実権が日本に移ります(1910年:日韓併合)。

以下はウィキペディアからの明成王后記事の抜粋です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%9C%AA%E4%BA%8B%E5%A4%89
# 第26代王・高宗と第27代王・純宗も出てきます。

1894年(# 彼女は満42歳)
3月28日
金玉均の遺体は清の軍艦咸靖で朝鮮に搬送。遺体は六支の極刑(凌遅刑)に処せられる。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。
5月31日
全琫準率いる東学農民軍が全州を占領。清と日本が出兵(甲午農民戦争)。
7月
日本軍が王宮を包囲。開化派中心の政権が成立する(閔氏政権を倒すクーデター)。
金弘集を中心とする政権 甲午改革
閔氏一族の閔泳翊、閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏が殺される。
8月 1日
日清戦争宣戦布告。

翌年のこと。

①乙未事変(いつびじへん:을미사변:ウルミサビョン)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
②純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。また現場いた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。
③サバチン(# ロシア人技術顧問)による事件についての報告書がロシア科学大学の教授に発見され、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている。サバチンの証言は以下のようなものである。
私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。

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“悪女たちの朝鮮王朝”は次のキム尚宮でパート2を終えますが、
引き続きパート3、パート4を整理・準備しています。
新年はパート4で佐賀県・有田町の焼き物の話をお届けします。

なお、『ホジュン』では歴史上の悲しいヒロインの
インモク王妃(次の絵)も出演しますよ。

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