キム・ウンスクと義兵

# 2017年11月のKJSの先に以下の新しい情報を加筆しておきます。

Kstyle(エンタメ)Newsより。

tvNの新ドラマ「ミスター・サンシャイン」(脚本:キム・ウンスク、演出:イ・ウンボク)が、2018年の下半期に編成される予定だ。
tvN側は本日(7日)、「『ミスター・サンシャイン』はさらに完成度の高い作品にするため、来年の6月末から7月初めに編成される予定だ」と伝えた。

「ミスター・サンシャイン」は1900年代を舞台に歴史には記録されていない、私たちが必ず記憶しておくべき義兵たちの物語を描くヒューマンロマンスドラマだ。イ・ビョンホン、キム・テリ、ユ・ヨンソク、ピョン・ヨハン、チョ・ウジンなどが出演する。

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元記事配信日時 : 2017年12月07日11時44分
記者 : パク・ユンジン

2017年11月の高来神社(神奈川県・大磯町)
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# 11月に入って、1日と2日に二つの高句麗由来の神社、高来(たかく)神社と高麗(こま)神社を参拝しました。
神奈川県・大磯町と埼玉県・日高市にある神社です。
飛鳥時代から奈良時代に亘り、東国(東日本)の新田開発を行った“若光(高句麗の王族)”の足跡を体験したかったからです。
(詳細は後日記事にします)

<古代の韓半島(ハンバンド)>を9回書いてきたところで、ドラマに合わせて第10回で高麗末期に触れます。

(それぞれの時代の年数の長さを引き算して比較・想像してみて下さい)
韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

上記の表にあるように朝鮮王朝は1392年に始まりますが、518年後の1910年8月の日韓併合により終わります。
1900年代に関しては、日韓に横たわる歴史認識のギャップが表面化しているのが現状。
英和辞書でのタッチ―(touchy)とは、扱い難いとか、神経過敏なとかの意味。
きっと日韓の政治的な関係も散見されるとは思いますが、来年上半期に放送される『ミスターサンシャイン』を通じて直視してみたいと思います。

『ミスターサンシャイン』~キム・ウンスクと義兵

(以下コピペです)

1.キム・ウンスク作家と俳優イ・ビョンホンが出会う
Kstyleエンタメニュースより

エンダムピクチャーズは6月24日、「キム・ウンスク作家の次期作「ミスターサンシャイン」男性主人公にイ・ビョンホンがキャスティングされた」と発表した。

キム・ウンスク作家はある媒体とのインタビューを通じて「1900年代を背景に、“歴史に記録されなかった、私たちは必ず記憶しなければならない、義兵たちの話を執筆中”としながら「太陽の末裔」、「鬼」の美しい映像美を見せてくれたイ・ウンボク監督と再び呼吸を合わせる予定だと明らかにした。
キム・ウンスク作家の次期作の便りが伝えられ、ドラマの内容に十分な大きく熱いイシューが浮び上がったのが男主人公である。

「パリの恋人」「シークレットガーデン」「紳士の品格」「相続人」「太陽の末裔」そして最近の「鬼」まで毎作品ごとに最高の魅力的な男主人公を作成してきたキム・ウンスク作家だから」仮想キャスティングリスト」が出てくる程度のファンたちの関心は熱かった。

エンダムピクチャーズユン・ハリム代表は「今回の作品は、実際に準備することがとても多く、事前製作ではないがクオリティの作品を作るために撮影に長い時間ボールをかけなければならない作品である。だからキャスティングをすぐに決定することが良いと判断した。そしてキム作家はミスターサンシャインの男主人公が演技も上手で、英語も上手俳優になったらした幸いなことに、イ・ビョンホンさんと良い縁になったようだ」とキャスティングの背景について説明した。

大韓民国最高の作家キム・ウンスク、カラフルな映像美を誇るイ・ウンボク監督、2009年「アイリス」以来、久しぶりにお茶の間劇場に帰ってきたイ・ビョンホンが視聴者にどのような話を聞かせてくれる期待されるドラマ「ミスターサンシャイン」は、2018年上半期に放映される予定である。

2.義兵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%85%B5
(ウィキペディアより)

19-20世紀の朝鮮半島における義兵
義兵戦争(ぎへいせんそう)・義兵闘争(ぎへいとうそう)・義兵運動(ぎへいうんどう)と呼ばれる日本の韓国併合に反対する抵抗運動は次の2期あるいは3期に分けられる。

(中略)

1907年末に儒学者の李麟栄が各地で戦っていた義兵を糾合し、京畿道楊州に兵1万(そのうち旧韓国軍兵士は3000名にのぼったという)を集めて彼を倡義総大将とする、韓国13道すべてを結集した義兵軍という意味の「十三道倡義軍」が成立し、同年12月に許蔿(号:旺山)を司令官としてソウル奪還を目指して首都ソウルへ進撃した。
日本軍は東大門においてこれを破ったものの、この善戦が各地の義兵勢力を勢いづけて1908年の第2次ソウル奪還作戦など1909年にかけて各地で日本軍と交戦した。
(掉尾の一振となる事件が、1909年10月26日、哈爾浜駅構内での、安重根による韓国統監府初代統監を退任していた伊藤博文暗殺である)
だが、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は「南韓討伐大作戦」を断行し、徹底的な焦土作戦や包囲作戦などによって鎮圧した。
これによって義兵側に1万7千人の死者が出たとされているが、実際にはもっと多かったとも言われている。
一部は日韓併合後も抵抗を続けたが1914年頃には鎮圧され、生き残りは満州(間島地区など)や沿海州などに逃れて朝鮮独立運動を継続するようになる。

3.10年ほど前の記事
Innolife エンタメニュースより

キム・ウンスク (김은숙)
生年:1973年
学歴:ソウル芸術大学文芸創作科
[作品]
2003年 SBS『太陽の南側』
2004年 SBS『パリの恋人』
2005年 SBS『プラハの恋人』
2008年 SBS『オンエア』

『パリの恋人』(2004年)をはじめとして、『プラハの恋人』(2005年)、『恋人』(2006年)等、“恋人シリーズ”をヒットさせたキム・ウンスク作家が、冷酷な芸能界の裏話で2008年復帰した。
幼い頃から泣き虫で有名だったキム・ウンスク作家。誰かに叱られて泣くのは当たり前だが、彼女は少し悲しくても叱られても泣いたという…どれくらいよく泣いたかというと、「また涙にご飯を混ぜて食べてる!」とお母さんからいつも叱られたという。

彼女が作家としての基礎を作ったのは、幼い時から読んでいた本。
ハングルを理解するようになる頃から本を読み始めたキム・ウンスク作家は、小学二年生ぐらいから放課後になると図書館に通った。
本を読みながら世の中に対する疑問を育てていった彼女は、二十代になってはじめて文章を書かなければと漠然と思ったという。
もちろんそれが小説なのか随筆なのか詩なのか分からなかったし、どのように始めるのかさえ分からなかった…

キム・ウンスク作家が本格的に執筆を始めたのは、彼女の人生で最も暗い時期であった。
早い結婚は彼女に多くの苦痛を与えたし、彼女は現実からの脱出として文を書くことを選択した。
スター作家キム・ウンスクは、もしかしたら悲喜と、明暗が交錯した中で誕生したのかもしれない。

事実知られているようにキム・ウンスク作家は『パリの恋人』、『プラハの恋人』、『恋人』の恋人3部作でスター作家の位置に就いた人だ。『パリの恋人』は典型的な財閥2世と貧しい女の恋愛物語であり、『プラハの恋人』はシンデレラストーリーの男女の役割を変えて、大統領の娘と警察官の話だ。
『恋人』もやはりそれらと同じシンデレラストーリーの範疇であった。韓国ドラマに必ず登場するといわれている新派劇や、典型的な主人公が登場するドラマは、キム・ウンスク作家によるものだと言うことができる。

しかし彼女が変わった。
放映序盤から女優のスポンサーとの性関係、奴隷契約、演技大賞の不正など放送界のスキャンダルをドラマの素材にして、国内だけでなく海外でも大きい関心を呼んでいる。
事実このドラマを制作してみて、キム作家も自ら知っている話なので、やさしいと考えていたが水位調節が難しいという。
飛び交うデマを正面から扱ってしまうと、既成事実化されてしまうようで時には不安だという。
しかしドラマはドラマでしかない。
芸能界の「裏話」なのに、事実は誰でも知っている芸能界の「表話」だと強調する。
今回のドラマは、トレンディードラマを主に執筆してきたキム作家にとって感慨深い。
自身を振り返ってみるという意味とともに、このドラマを通して韓国ドラマの慢性的な問題である、断片台本、常套手段、劣悪な制作環境などを皮肉っている。

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(昨年の作品)
「第53回百想芸術大賞」受賞リスト

【映画部門】
◆映画大賞=パク・チャヌク監督(「お嬢さん」)
◆映画作品賞=「哭声/コクソン」
◆映画監督賞=キム・ジウン監督(「密偵」)
◆映画男性最優秀演技賞=ソン・ガンホ(「密偵」)
◆映画女性最優秀演技賞=ソン・イェジン(「ラスト・プリンセス」)
◆映画男賞=キム・ウィソン(「新感染 ファイナルエクスプレス」)
◆映画の女の子賞=キム・ソジン(「ザ・キング」)
◆映画男性新人演技賞=リュ・ジュンヨル(「ザ・キング」)
◆映画女性新人演技賞=イ・サンヒ(「恋物語(Our Love Story)」)
◆映画新人監督賞=ヨン・サンホ監督(「新感染 ファイナルエクスプレス」)
◆映画シナリオ賞=ユン・ガウン監督(「私たち」)
◆映画男人気賞=EXO ディオ(「あの日、兄貴が灯した光(原題:兄貴)」)
◆映画女性人気賞=少女時代 ユナ(「共助」)

【TV部門】
◆TV大賞=キム・ウンスク作家(「鬼」)
◆TV作品賞(ドラマ)=「ディア・マイ・フレンズ」
◆TV作品賞(バラエティ)=「みにくいうちの子」
◆TV作品賞(教養)=「ソル戦」
◆TV演出賞=ユ・インシクプロデューサー(「浪漫ドクターキム・サブ」)
◆TV男性最優秀演技賞=コン・ユ(「鬼」)
◆TV女性最優秀演技賞=ソ・ヒョンジン(「また!?オ・ヘヨン~僕が愛した未来(ジカン)~」)
◆TV男性新人演技賞=キム・ミンソク(「ドクターズ」)
◆TV女性新人演技賞=イ・セヨン(「月桂樹洋服店の紳士たち」)
◆TV男性バラエティ賞=ヤン・セヒョン(「ヤン・セヒョンのShorterview」)
◆TV女性バラエティ賞=パク・ナレ(「私は一人で暮らす」)
◆TV脚本賞=ノ・ヒギョン作家(「ディア・マイ・フレンズ」)
◆TV男性人気賞=パク・ボゴム(「雲が描いた月明かり」)
◆TV女性人気賞=キム・ユジョン(「雲が描いた月明かり」)

【その他の部門】
◆「Instyle」ベストスタイル賞=キム・ハヌル
◆功労賞=故キム・ヨンエ

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今日は文化の日ですね。
現在、東京国立博物館では「運慶」展が開催中です。
下の絵は昨年の「日韓の半跏思惟像」の出会いの特別展示でした。
木造(クスノキ)と銅の像です。
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ラスト ピングン

色づいてきたモミジです
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(2016.11.08)

日韓の文化交流のために (追記)<王朝絵巻シーズン7> 
王朝最後の皇太子妃 李方子妃殿下

今日は次の映像をご覧ください。

(NHKのドキュメンタリー:朝鮮王朝 最後の皇太子妃
https://www.youtube.com/watch?v=Ul0l7GOkf34
(2016年11月8日時点)

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時は既に国号が「大韓帝国」と変わっています(1897年から)

1907年に<朝鮮王朝>第26代王・高宗(コジョン)が亡くなり、第27代王・純宗(スンジョン)が即位。
弟の李垠(イ・ウン)が世子(セジャ)に認めらます。
世子のイ・ウンは日本の皇室の梨本宮妃・方子妃と結婚(1920年)。
世子のお妃はピングンと呼ばれますので、李方子(イ・バンジャ)妃はラスト ピングン

次のカットは、NHKのドキュメンタリーより、雉衣(キジの刺繍があるクィイ)と呼ばれる、王妃とピングンだけが着ることができる最高位の大礼服(テレボク)です。

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(方子妃が創設した障害児の学校・明暉園(ミョンフィウォン)の博物館)

画像の女官たちの頭の髪型(モリ:頭の意味)はカチェと呼ばれるカツラです。
翼のようなカチェはトクジモリといいます。
また、次のような国立故宮博物館(ソウル)のテレボクを着ているクィーンのカチェはテスモリと呼びます。

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夫婦が国籍を得て韓国に帰ることを許されたのは1963年のことでした。
日本の外務省を通じ、朴正煕大統領(現大統領の父)と面会する方子妃。

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大統領のとりはからいにより帰国を許された夫婦でした。
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領といえば、
韓国経済に高度成長をもたらした人。
park chonhi


1970年代の
ソウル地下鉄、
江南(カンナム)の開発、
農村の改革(セマウル運動)など。

そして、
1988年のソウルオリンピックへとつながります。

日本は東京オリンピック(1964年)を契機に高度成長期に入りました。
ソウル地下鉄の建設は日本の技術協力、資金協力によるものです。

ところで、地下鉄の駅などのトイレ(化粧室:ファジャンシル)のこと。
風水の世界ではキッチン、風呂、トイレなどの水回りはとても大切です。

naoさんからは上記NHKの番組紹介と共に、次の記事が届いています。

香港のトイレ事情の記事

http://hongkong-bs.com/topics/2016110401/

なぜ、香港の地下鉄(MTR)にはトイレが無かったのか?
市民(地下鉄利用者)に提供すると、掃除が大変だから!
です。
更に、私が推測するには、トイレって意外に犯罪がある場所だと思いませんか?
爆弾テロとか、性犯罪、麻薬、テレビの見過ぎかしら?
日本も公園の公衆トイレでの犯罪…。
あ、香港の公園には公衆トイレあるなぁ。
やはり、掃除が大変!
だから、かな?
(by nao)

こちらはAPBさんからの、奈良「興福寺のトイレ事情」

猿沢の池から石段をのぼり、右手に五重塔と東金堂を望んで、
左手に南大門跡の土塀が続きます。
その一角の門をくぐると公衆トイレがあります。
とっても古いもので、設備も旧式です。

看板に「興福寺南大門跡 公衆便所 WC 」と消えかけた文字があります。 
時代もんです。
ぼう~と歩いていると、気付かず見過ごしそう。
門の中に見える建物がトイレです。
入口に高さが胸のあたりま での木の柵が見えます。
これは鹿除けの仕切り戸で、ぎぎ~っと開けて入ります。
(by APB)

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# ソウルの地下鉄の駅はどこも広く、レストランや商店街となっており、
したがって、トイレは改札口の外にあり、公衆トイレとして便利です。
なぜ東京のJRや地下鉄のトイレは改札内なのでしょうか?

ソウル郊外の仁川(インチョン)駅は地下鉄1号線の終着駅です。
次の写真の左側がトイレの入り口で、ここも改札の外です。
中もキレイに維持されています。

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こちらは標高2000m弱の済州島・ハルラ山の中腹にある休憩所のトイレ(写真の奥)。
この高さになると、水を運ぶのも大変です。
キレイなのですが、さすがに水の事情が良くないです。

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日韓の文化交流のために (その4)

オペラ「ラストクイーン」(梨本宮家の方子(のりこ)妃のこと)が11月1日と2日に再公演となりました。
主演・脚本は在日韓国人2世のソプラノ歌手、田月仙(チョン・ウォルソン)
舞台では雉(クィ)が刺繍が施された大礼服(テレボク)をみることができるそうです。

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国立故宮博物館(ソウル)は、昨年の冬から今年の春にかけて内部の一部改装と展示物の入れ替えがなされました。
下の写真の雉衣(クィイ)は、今年の7月に撮影したもので、一番新しい展示品です。
通常、王妃だけが着る最高位の大礼服(テレボク)なので、方子妃が身にまとったとすれば、日本人女性としては最初で最後だったと思います。

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(後ろからの撮影)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人たち④


<朝鮮王朝>最後の王族となるのは第26代王・高宗(コジョン)の子供たち。
明成王皇后との間に生まれた次男の李拓(イ・チョク)が後に(1907年)、第27代王・純宗(スンジョン)となります。
(長男は側室の子・完和君:12歳で早世)

そして、日韓の王室同士の姻戚関係を結ぶのが高宗の4男の李垠(イ・ウン:1897年生まれ)。
高宗が愛した側室・貴妃巌氏の子で、英親王と呼ばれています。
彼は10歳の時に日本に渡り留学生活を送ることになりますが、これはいわば人質であったと思われます。
そして、23歳の時に梨本宮家の方子(のりこ)妃と結婚しました(1920年)。

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梨本宮家の方子妃は1901年生まれで、李垠より4歳年下なので、1920年に19歳で結婚したことになりますが、婚姻を知るのは15歳の時です。
しかも、新聞報道で初めて自分の結婚を知ることになりました。
この時の彼女のショックは計り知れないものがあったと思います。

日本での40数年の結婚生活の後、1963年に李垠と共に韓国での生活となります。
この間には第2次世界大戦と1950年の韓国戦争があり、半島の庶民生活は辛く、王室もプサンへの逃避など、苦渋の時代だったので、身の安全を思えば彼女は比較的幸運でもあったと思います。
さて、
1963年というのは、既に韓国半島は日本の植民地支配から解放されて、ずいぶん時を経ています。
この李垠の帰国が遅くなった理由には、既に民主主義の国に変わっていた大韓民国政府が旧王家には冷たくなっており(大韓民国の初代大統領であった李承晩の時代)、帰国の許可が遅くなったとされます。
朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たしました。
夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮(チャンドッグン)内に住まうことになりました。

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(これは昨年撮影 @ 国立故宮博物館)

方子妃の韓国での活躍のこと

純宗が皇帝に就いた際に李垠(英親王)が世継ぎの皇太子に冊封されます。
時はすでに“大韓帝国”に変号されていたので、方子妃は皇太子妃なのですが、<朝鮮王朝時代>は世子の妃を“ピングン”と呼んでいました。
私としてはラストピングンのほうが可愛い響きに聞こえます。
なお、李方子なのでハングルでは(이 방자:イ・バンジャ)となります。

彼女の韓国での活躍のことは次のウィキペディアを読むだけで感動です。

韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。
趣味でもあった七宝焼の特技を生かし、ソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。
なお、"明暉"は李垠の、"慈恵"は方子自身のそれぞれの雅号である。
方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、1981年(昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
また、終戦後の混乱期に様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。
また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳皇后を始めとする皇族とも会う機会はあった。
1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。
葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。
後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。

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彼女の日記は同じく国立故宮博物館に展示されています。

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(2015.12 @ 国立故宮博物館)

# 方子妃の夫の李垠については、ウィキペディアには次の説明。

李垠(이은:イ・ウン)は、大韓帝国最後の皇太子で、大韓帝国時代の称号は英親王。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。
妃は梨本宮守正王第一女子方子。
李王朝が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となった。
幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院・陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。

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(2015.12 @ 国立故宮博物館)

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昨年(2015年)に日韓国交正常化50周年を迎えましたが、その起算点は?
ウィキペディアを引用します。

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約は、1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。
通称日韓基本条約
日本の韓国に対する経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などが取り決められた。
なお竹島(韓国名独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた。

# 私の個人的な考えですが、
その島の海域数海里は、“所有権・漁業権など”を両国が放棄して、周囲を自然環境保護区にするのが良いと思っています。

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日韓の文化交流のために (その3)

日韓の文化交流のために

(その1)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3008.html
(その2)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2979.html

日韓の文化交流のために(その3)

第26代王・高宗が亡くなったのが1919年1月で、その3月1日

「我々はここに我が朝鮮の独立国たることと、朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
この言葉で始まる独立宣言書が起草されました。

# ただし、これの直接の相手国が日本(抗日)だけだとする考え方は良くないと思います。
それまでの半島の歴史にあったように、半島は欧米の列強国から政治介入を余儀なくされ、独立運動家たちの母体であった「独立協会」は韓国半島が“全ての国から自主独立すること”であったからです。

以下、韓国観光のサイト“コネスト”から引用します。

三一節(サミルジョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが独立を願って行なった運動をたたえた祝日です。
http://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?no=440

3月1日は街中のいたるところで太極旗(テグッキ)が掲げられ、タプコル公園のある鍾路(チョンノ)では、毎年三・一独立運動で殉死した人々を追悼する記念行事や、独立を祝う記念行事が行なわれています。
普信閣(ポシンガッ)~ソウル劇場までの鍾路1~3街の800メートルの区間は歩行者天国になり、「万歳運動再現行事」をはじめとして、写真展・国楽フェスティバル・農楽(ノンアッ)など多彩なイベントが朝から夕方まで続きます。

またこの日を前後して、独島・竹島問題や歴史教科書問題など、日韓の歴史に関する集会やデモが行なわれることもありますが、観光を控えるほどではありません。
しかし、道を歩いていると「今日が何の日か知っている?」と年配の方に聞かれることもあるので、この日がどんな日であるかを知り、観光することをオススメします。

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# これからは未来志向が大切です
この11月には朴大統領の訪日が予定されています。

(昨年、今年と日韓首脳会談がありました)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人々③


黒船外交

幕末にペリー提督が率いる4隻の軍艦が到来して以降、日本はまず米国との和親条約を締結して開国の道を歩むことになりました。
当時の米国は、1823年の(第5代大統領)ジェームス・モンローの教書により、欧州などの他国への政治的・軍事的な介入はしないという、不干渉主義を宣言していました。
従って、政治的な意図ではなく、貿易による共栄共存を拡大するという対外政策でした。

ただし、江華島事件を契機に、日本が朝鮮王朝と締結した「江華条約」は米国にとっても都合が良かったのだと思います。
江華条約には2つのポイントがあって、半島が①開国することと、②冊封から独立することです。
2番目の点が重要で、朝鮮王朝が清から独立するということは、清が半島に政治・軍事介入するとなれば、日本も黙ってはいないということ。
つまり、米国は極東の安定化を日本の軍事力に任せたということになります。
1894年の日清戦争を米国は容認しています。
また、その10年後の日露戦争(1904年)を前に1902年には日英同盟(軍事同盟)が締結されているので、英国も日本の半島・大陸での行動を容認していたということになります。

2人の男

朝鮮王朝の政治家たちだけでなく、一般庶民の間でも、清の傘の下に入っての平和なのか、欧米や日本との協力関係で清の冊封から独立を勝ち取るべきかによって、王朝内は割れます。

王朝末期に大きな3つの事件が起きました。
まずは、1882年の「壬午(イモ)軍乱」
これは、西洋や日本に習って近代化を進めようとする派閥に対して、待遇が悪くなっていく守旧派勢力が反乱を起こした事件。
旧来の軍人たちが王宮や日本大使館を襲撃しました。
この際に再度復帰したのが興宣大院君です。
明成王后の力だけでは収束できず、守旧派を抑えるには大院君の力が必要だったからです。
王后が31歳の時です。

次いで、1884年の「甲申(カプシン)事変」
これは日本に留学して福沢諭吉の門下であった、金玉均(キム・オクキュン)が主導した改革派の事件で、王宮は占拠されました。
しかし、日本の後ろ盾を得た開化派の乱であったために、清が黙っておらず、軍事力でわずか3日で収束させます。
金玉均は日本に亡命、後に上海で暗殺されます。

(金玉均)
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3番目は有名な1894年の「東学党の乱」で、正式には「甲午(カボ)農民戦争」と呼ばれるものです。
東学は儒教・仏教などの東洋哲学を意味し、キリスト教の西学を受け入れないものの、基本的な思想は人間平等と社会改革をモットーとするもので同じだと思います。
政府内の混乱により農政が無視されていたので、全羅道(半島の南西)の農民を中心に、彼らの心のよりどころとなり、広がっていた思想で、リーダーは全琫準(チョン・ボンジュン)でした。
東学党は役所を襲撃して全羅道を征圧しました。
しかし、王朝政府とは和睦します。

(全琫準:1894年12月逮捕)
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度重なる内乱は、平定を口実に清と日本の軍隊の駐留を許してしまっていました。

# マクロ経済学でのプレイヤー(主体)は、政府と企業と私たち消費者の3者です。
政府には国家予算・財政収支、企業には企業会計、消費者には家計簿があるように、それぞれの勘定は別々です。
したがって、政治を追いかけるマスコミが“政府=国”と錯覚するような記事には強い違和感を持ちます。
現在の民主主義の下では“国=国民”だとの定義の方がしっくりときます。

政府、企業そして私たち国民と、それぞれに属する人たちの発想法には違いがあるはずだとは思います。
しかし、とくに、日韓併合(1910年)がもたらした大韓民国の国民へのネガティブな、国民の自尊心を傷つけるような歴史を作った両国の高官・政治家たちの責任は大きかったと思います。

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日韓の文化交流のために (その2)

(その1)は↓
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3008.html

# 講演会(韓国文化院@ 2016.10.06)では日本通の韓国人の間では、“和モダン”が流行だとのこと。

wa modan4

wa modan
(@ kawasaki)
wa modan2

李明博(イ・ミョンバク)前大統領には、国内問題のことがあったために、海外に韓国国民の視線を逸らそうと、竹島・独島を訪問しました。
それが日韓の政治関係の悪化の要因ともなりました。
日韓の旅行者数がアップダウンしたのは、李明博前大統領の任期中(大統領制度の任期は1期で4年)でしたが、それでも日韓の旅行者の数は毎年記録を更新しています。
今年も韓国からと日本からの旅行者の数は、それぞれ250万人を超える予想です。
さらには、
従軍慰安婦の問題も両国が“過去を振り返らない”との約束で和解しましたので、これからが期待されます。

10月6日に、韓国文化院(東京・四ツ谷)で、金恵京(キム・ヘギョン)日本大学准教授の講演会がありました。
テレビや著作活動で彼女の活躍をご存知の方々が多いのでしょう。
「日本・韓国 和解への道」の講演には、ハンマダンホールに200を超える人々が集まりました。

韓国からの旅行者たちは、単に和食通というだけでなく、例えば「ウドンなら香川県の“讃岐うどん”が美味しい」というくらいの愛情を持っているとのこと。
もちろん日本酒や鹿児島の“イモ焼酎”などなど、ブランド志向だとのことです。
“一人一人が理解を深め、その輪を広げていくこと”、それに答えてくれる“政治家を選ぶ”という小さな努力の積み重ねが大切だと力説しておられました。

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(東京・浜松町の大韓航空支社)
# “日韓交流おまつり”のクイズ大会で往復航空券をゲットしました。
何か新情報など紹介できれば本望だと思ってソウルに行ってみます。

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王朝末期のころ(2)
(参考)康煕奉(カン・ヒボン)『宿命の日韓二千年史』勉誠出版、2015年10月

<王朝絵巻 シーズン7>世紀末を生きた人々②

鎖国から開国へ

1867年10月、大政奉還により264年の徳川幕府が終焉しました。
新しい明治政府は対馬藩を通じて、翌年12月に朝鮮王朝に対して明治天皇の国書を届けます。
ただし、この天皇の「皇」が問題。
当時の朝鮮王朝は清国の冊封国(配下のいわば属国)だったので、中国の「皇帝の下」ということで、「王」の国でした。
したがって、もう一つの上位の天皇が存在する新たな国を認めることが出来ず、使節団を無視することになりました。
このあたりが日韓の歴史のこじれの始まりだと思います。

ちょっと遡って、<朝鮮王朝>の第26代王・高祖(コジョン)が即位したのは1863年。
11歳の時でした。
自然と父親の興宣大院君(흥선대원군、フンソンデウォングン)に実権が集中します。
しかし、大院君の政策は鎖国攘夷論だった。
1866年にはキリスト教徒の弾圧、フランス宣教師たちを処刑。
さらには同年に、米国のジェネラル・シャーマン号を焼き討ちするという事件が起きて、米国との関係も悪化させました。
日本の幕末の志士たちが尊王攘夷から尊王開国へと思想を変化させたこととは違って、時代を逆行させるような思想だったと思います。

(興宣大院君)
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そこで歴史に登場するのが高祖の妃だった明成(ミョンソン)王后です。
彼女は1873年に政変を起こして、大院君を失脚させます。
明成王后が22歳の時です。

# 日本では明成(ミョンソン)王后を「閔妃(ミンビ)」と呼ぶようで、閔(ミン)ファミリーの出です。
舅の大院君(李ファミリー)とは早くから対立していたそうです。

(明成王后)
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ただし、明成王后の前に立ちはだかったのが日本政府。
欧米の列強と共に半島に野心を持っていた日本は1875年に「雲揚号」で挑発的な行動に出て、江華島(カンファド)事件を起こしました。
米国も日本も半島への野心から朝鮮王朝を刺激して、武力による政治介入を始める契機と名分作りをしたかったのだと思います。
江華島沖での事件を契機に、日本が欧米の列強に先だって朝鮮王朝を開国させます。

他方の王朝も、もっと老獪に欧米や日本を引き入れて、宗主国の清に対抗するための富国強兵を進めるべきだったと思います。
当時はすでに宗主国の清は衰退を見せていました。
こんな時こそ第15代王・海光君(クァンヘグン)がいてくれたら…、と思う次第です。
とにかく国際情勢を見る目が曇っていたのが半島の政治家たちだったと思います。

(第26代王・高祖) 
kojyon.jpg

(明日に続きます)

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日韓の文化交流のために (その1)

昨年(2015)は日韓国交正常化50周年を迎えました。
そして、毎年9月に開催される“日韓交流おまつり”は今年で第8回、8年目でした。

omaturi.jpg
http://www.nikkan-omatsuri.jp/npo/

私は3年目ですが、昨年よりも人出が多かった気がします。
(9月25日の日比谷公園)
hibiya.jpg

やはり人気は日曜日の夜に開かれるK-Popシークレットコンサートです。
当日まで出演者は発表されません。

昼のステージでテクノボーイズを楽しみました。
kj m2
(テクノボーイズ)
http://www.youtube.com/watch?v=y1ZYbwi10sg

夜のK-Popのステージは撮影不可。
しかし、そのうちに主催者側からの公開があると思います。
ただし、聞いてみると「年内には何とか…」の答えでした。

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ところで、1990年代に韓国で起きた“日流ブーム”をご存知でしょうか?
1988年に開催されたソウルオリンピックの後の1989年には、日韓でのVISAの発給の制限緩和などの渡航・文化交流統制が大幅に緩めらました。
それが契機となって、日本のドラマやJ-Popが韓国で大人気となりました。
もう20数年前のことなので、彼・彼女たちは今何歳を迎えたことでしょうか?
とはいえ、1990年代に日本を旅行した若い韓国人たちが火付け役です。

そしてピークは2002年の日韓共催ワールドカップサッカーでした。
他方、日本での“韓流ブーム”の火付け役は2003年の『冬のソナタ』の放送です。

今回は思うところがあって、4回に分けて<王朝絵巻 シーズン7>を書いてみました。
これまで<王朝絵巻>で、朝鮮王朝の初期と中期のことをアップしましたので、<朝鮮王朝>の末期のころの日韓関係のことです。

王朝末期のころ
<王朝絵巻 シーズン7>世紀末を生きた人々①

徳恵(トクへ)翁主(オンジュ)は、第26代王・高宗(コジョン)が60歳の時に、側室の貴人梁(ヤン)氏との間に1912年に生まれた娘(7人目の子)です。
第4回目に紹介する、日本から嫁いだ梨本宮家の方子妃が王朝最後の世子に嫁いだラストクイーンまたはラストピングン(世子の妻)ならば、徳恵翁主はラストプリンセスとなります。

当時は1910年の日本政府による韓国政府の併合がなされていた後のことで、彼女が7歳の時に父親の高宗が亡くなりました。
1919年1月に高宗が亡くなると、3月1日に「独立宣言」が起草されます。
それまでも、米国で民主主義を学んで帰国した人々などを中心に、「独立協会」という全国4000人ほどの組織がありましたが、それが母体でした。
独立運動家たちが集まったのは、仁寺洞(インサドン)の入口にある「タプコル公園」(またはパゴダ公園)です。

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今年の夏に韓国で公開された映画『徳恵翁主』

(Kstyle エンタメ Newsの、予告記事から)
目の前の利益に目がくらみ、国を売ってしまった朝廷の大臣たちに向かって怒鳴り散らす高宗(コジョン)皇帝(ペク・ユンシク)の姿から始まるメイン予告編は、実際の歴史的事件を連想させる。
冷たい目つきで幼い徳恵(キム・ソヒョン#)を見下ろす大臣ハン・テクス、そして着物を着て宮を出る徳恵の寂しそうな表情は、大韓帝国の最後の皇女、徳恵翁主の孤独な人生の始まりを知らせる。

tokuhe3.jpg

時代に翻弄された徳恵翁主。
13歳で来日、19歳の時に旧対馬藩主(#)の子孫の宗武志伯爵と結婚しました。
しかしこの結婚は薄幸で、とても愛されたというのに、彼女は元からの精神の病(分裂症)の悪化により、離縁となり1962年に韓国に帰ります。
義理の姉となっていた梨本宮家の方子妃の看病の元で1989年に亡くなりました(享年77歳)。

夫の宗氏と一緒の写真(ウィキペディアより)
onjyu.jpg

# 翁主の生涯のことは次のウィキペディアの記事で感動させられました。

徳恵翁主(1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、李氏朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。
「翁主」は、李氏朝鮮(大韓帝国)において王(皇帝)の側室所生の王女(皇女)の称号。
ただし、徳恵は日韓併合後の生まれである。
別名・俗称は李徳恵(イ・トッケ、または り とくえ)、宗徳恵(そう とくえ)。

1916年から高宗が徳寿宮内の即祚堂に設けた幼稚園で学んだが、1921年から京城(現ソウル)日之出小学校2年に編入し、日本語での教育を受けた。
日之出小学校時代に作詞の能力を認められ、「童謡の姫君様」と讃えられ、1922年頃に作った詞「雨」と「蜂」は1923年10月頃に京城に滞在した日本の音楽家宮城道雄が箏で作曲をつけ、1923年末頃に京城で「徳恵姫御作童謡発表会」が行われた。
その後1929年7月には日本ビクターからレコードが発売されている。
1924年には徳恵の作詞した「びら」に黒沢隆朝が作曲し、徳恵の前で演奏した。

1925年3月に12歳で渡日し、東京の学習院に留学する。
兄である李王純宗の見舞いや葬儀、母梁貴人の葬儀の際には京城に戻っている。
1930年頃に奇行を発したり、登校拒否や不眠の症状があったため病院で検査の結果、「早発性痴呆症」(精神分裂症)の診断を受けている。
1931年5月8日に旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁いだ。
朝鮮人である徳恵と武志との結婚には、朝鮮側にも、宗家側に反発が少なからずあったというが、このころ宗家は経済的に困窮しており、徳恵の実家である李王家からの支援を期待できるこの縁談は悪い話ではなかった。
そういう事情はありながらも、武志は妻となった徳恵を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年8月14日に長女正恵(まさえ)が生まれた。

しかし、結婚前から発症していた精神分裂症は新婚時代にも症状が見られた上、正恵の出産後から悪化し、終戦後の1946年頃松沢病院に入院したと思われる。
その後、1950年1月に韓国人新聞記者金乙漢が李垠家に続いて松沢病院を訪問し、徳恵の現状を韓国に紹介し、帰国のための運動を始める。
1955年6月に武志は徳恵と離婚。
徳恵は母方の姓を名乗って梁徳恵となった。

韓国で朴正煕が実権を握ってから李王家の人物の韓国帰還運動に手を差し伸べたため、徳恵は李垠に先立つ1962年1月26日に韓国へ帰国し、ソウル大学医学部付属病院に入院した。
この時に日韓両国の協力を得て韓国国籍を取得している。
純宗の妃尹氏の没後、異母兄李垠の妃だった李方子とともに昌徳宮内の楽善斎に住み、1989年4月21日に同所にて死去。
長らく病に伏していたという。

後に、詩人でもあった武志は、愛妻徳恵との別離の深い痛みと悲しみを山幸彦と豊玉姫の離別譚に託した詩を綴っている。

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(#) 対馬藩(現長崎県・対馬)といえば、江戸時代は朝鮮王朝からの朝鮮通信使の中継点であり、また日韓貿易の中継地でした。
オランダとの貿易を長崎・出島で行っていたことと同じです。
つまり、“江戸幕府=鎖国政策”という考え方は間違いだと思います。
日本と韓国の間にも正式国交があったということです。

映画『徳恵翁主』のヒロインはソン・イェジンで、その子役がキム・ソヒョン

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<王朝絵巻> パート6 (下) まとめ

<王朝絵巻>パート6 (下) これまでのまとめ

(前回のつづき)

-皇后暗殺事件の影響-

明成皇后の暗殺後、
高宗はロシアの領事館に逃れて、執政します。
これからが日露戦争へと歴史が動きます。

(ウィキペディアより)
安川寿之輔や金文子は、閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布されたとし、そうした情報操作には福澤諭吉の関与があったと主張している。
この事件を期に、興宣大院君と高宗の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなったさいも略式の葬儀しか行われず、しかも高宗は父親の葬儀に参列しなかった。

福澤諭吉の「脱亜論」

金谷俊一郎『米中韓と日本の歴史』
(2014.10月、朝日新聞出版)P.59では、

「脱亜論(1885年)」について、
…日本は朝鮮や清国と絶縁して、欧米文明諸国と同じ態度で朝鮮や清国に接するべき…
(中略)。
 さらに、福沢は、日本は強大国を目指してアジアの覇権を狙うべきであると主張します。
以上の後段からあるように、現代の目から見ると非常に危険な軍事的思想を広げることになりました。
今度はロシア南下を阻止しようとする日本だけでなく、
英国および米国も日本を支持することとなります。
こうした背景があり、1904年に日露戦争が勃発。

-韓国併合へ-

日本にとっての脅威はロシアの南下ですので、
韓国の統治に乗り出します。
これからが韓国国民にとっての負の歴史です。

1905年に日本はそれまでの日英同盟の改定と共に、
米国とはタフト協定を結び、英米の承認を得て、
韓国併合で保護国化とすることになります。

当然ながら韓国の皇室は国際世論に訴えるのですが、
欧米諸国は既に無視する態度でした。
韓半島では反日の義兵運動が散発し、
1909年には韓国の独立派によって、
伊藤博文・前韓国統監の暗殺事件が起きました。
そして、
日本は1910年に英国とロシアの承認の下、
韓国併合条約を結び、植民地化します。

<王朝絵巻>パート6での歴史の流れはここまでにします
さて、<王朝絵巻>これまでのまとめ

昨年の秋からおよそ3シーズンに亘って、
朝鮮王朝518年の中期以降を中心に、
日本語の本で調べて、パート6まで書きました。
これまで調べたことから、
次に挙げる①と③はほぼ事実だと、自分なりに自信があります。

第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった。
張禧嬪(チャンヒビン:オクチョン)は、
 派閥間の政争の犠牲であった。
③日韓・韓日関係は19世紀まで良かった
 禍根を作ったのは20世紀前半の50年の間。

そして、①と②の罪のことを追記しておきます。

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当時の王宮というのは、楕円形の敷地で、
東西と南北にそれぞれ、
ソウル地下鉄の電車の駅の数にすれば、
4~5駅くらいもあります。
この広大な空間の中で何が起きたのか?
正確な記録はありません。
でっちあげが多々あったと思います。
ただ一つ、
「朝鮮王朝実録」に記された王と王妃の記録だけが正史。
なお、側室に関した記録はほとんど残されていません。
この正史から、
海光君とその後の19代王・粛宗、21代王・英祖、
そして22代王・正祖(チョンジョ)は、
国民の味方だったと言っても過言ではないと思います。

それは、両班の既得権益である、
「免税」と「兵役免除」を見直そうとしたからです。
当時はアンタッチャブルであった身分制度の中でも、
とくに、派閥に分かれて、両班が横暴・傲慢だったので、
そこのところにメスを入れ、力を削ぎ、
国防と王権の回復に努力しました。
命を狙われる王の映画やドラマは、
詳細はフィクションだとはいえ、事実でもあった。
その最大の犠牲者が光海君であり、
彼は謀反により追放され、おくり名さえありません。

『トンイ』と『チャン・オクチョン』のドラマも
フィクションがほとんどで、事実として残るのは、
それぞれが、
「追放」と「死罪」を命じられたということだけ。
ただ一点、
「朝鮮王朝実録」には女性の記述が少ない中で、
珍しく、チャン・オクチョンは容姿端麗であったと、
容姿に関する記録が残っているそうです。

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明日からは『チャン オクチョン』を始めます。

『トンイ』ではチ・ジニが粛宗(スクチョン)を演じました。
今回の『チャン オクチョン』ではユ・アイン。
この二人のトンイとの関係がどのように違うのか?
興味があります。

さらに、何よりも第19代のイ・スン(粛宗)から、
『逆鱗』でのイ・サン(第22代)までのことは
<王朝絵巻>でも触れたように、
社会・経済がとても発展した時代なので、
その面での興味もあります。

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<王朝絵巻>おわり
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王朝絵巻 パート6 (上) 日清戦争の頃

<王朝絵巻>パート6(上)

ヒョンビンとハン・ジミンの『王の涙(原題:逆鱗)』と共に、
<王朝絵巻>パート6まで進めました。

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パートⅤまでは日清戦争に至る経緯まで触れました。
ポイントは韓半島の清国からの独立と近代化こそが、
日本にとってはロシアの南下からの防衛線だったこと。

しかし、清国への帰属意識が強かった朝鮮政府および
その外戚政治でしたので、米国および日本は苛立っていた。

純元(スヌォン)王后の家元の安東・金氏の外戚政治は、
高宗とその父親の大院君により、
王妃には閔ファミリーから迎えることで、金氏の勢力を排除。
しかし、今度は閔氏の勢力が増します。

この王妃となった(KBS)『明成皇后』を見ていると、
彼女は最初は親日派で、
日本を手本にして近代化を進めようとしますが、
いくつかの親日派と独立派が起こす事件により、
また閔氏ファミリーの意向もあり、親清派に変わります。
彼女は清国、ロシア、
そして日本とのバランス外交に力を注いだとされますが、
結局は国内の親日派と独立派からは敵視され、
また明治政府からも敵視されることから、
“暗殺”という事件に巻き込まれることになります。

今度は金谷俊一郎『米中韓と日本の歴史』
(2014.10月、朝日新聞出版)から、
王朝末期のことを紹介します。

-日清戦争と日露戦争と明成皇后-

清国はアヘン戦争などで弱体化が明らかになったために、
清国ではなくて、
日本への接近が積極的だった閔姫(明成皇后)とその一族。

他方では高宗の父親の大院君は軍と民衆の支持を得て、
1882年に日本公使館を襲撃します。
反閔姫の壬午(じんご)軍乱です。
ただし、大院君の考え方は、
「清国が満州人の国」であって「漢民族の国ではない」
との思想の人でしたので、その後、日本は大院君を支援します。

他方で閔姫とその一族が清国への依存を強める。
これはまだ残っていた義大思想と冊封制度への依存と言えましょう。
要は「寄らば大樹の陰」です。

こんな国内での事情がある中で、親日派と独立派は、
ベトナムがフランスの支配下に置かれていたので、
「ベトナムの二の舞になりかねない」と懸念し、
国内の親清国派を追放するために、
1884年に甲申(こうしん)事変をおこします。ただし、
これは清国の軍に鎮圧されます。
背後には日本政府がいたとの認識で、日清間は亀裂。

そして、1885年年に、
日清の両国は「天津条約」を結び韓半島から軍を引き上げることにします。
この条約の担当は伊藤博文と李鴻章(りこうしょう)です。

次の事件は1894年の減税要求と排日の甲午農民戦争。
これは朝鮮王朝が清国に助けを求め、天津条約に基づき、日本も出兵。
この後は清国と日本が半島に居座る形になります。
日本は親日派の大院君が擁立して親日政権を樹立させますが、
当然ながら清国は怒ります。
これが契機となって、日清戦争の勃発となります。

日清戦争の後に、この親日政権は、
閔姫(明成皇后)およびそのファミリー、派閥によって倒され、
高宗および明成皇后は親ロシアへと傾き、
親ロシア政権を樹立。
翌年の1895年、明成皇后暗殺事件となります。

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(高宗と明成皇后)
(次のサイトからお借りしました)
http://zywsky130.blog.sohu.com/61932605.html

-明成皇后暗殺事件-

次はウィキペディアからの引用です。

李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后は朝鮮王后(閔姫)とも呼ばれる。
義父興宣大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局は混乱し、乙未事変で日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された。
(中略)
閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(政治工作者)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
(中略)
息子の純宗および夫の高宗
純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。
禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。
また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。

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(次のサイトからお借りしました)
http://bbs.tiexue.net/post_4437022_1.html

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<王朝絵巻>
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王朝絵巻 パート5 日清戦争まで(下)


王朝絵巻 パートⅤ ④「楽浪郡化」政策

<王朝絵巻>を調べていた際いつも思っていたのは
「どうして日中韓は仲良くなれないのだろうか?」
赤坂の韓国料理店の人たちも同じように、
これは政治・政府の問題であって、
「庶民たちは“仲良くなりたい”の気持ちは変わらない」
そう言っています。

さて、ペリーの“黒船”の時と同様な政策にて、
米国は韓国との開国交渉をするのですが、失敗。
そのために、肩代わりで列強に根回しして、
世界に先駆けて日本が朝鮮王朝を開国させるのですが、
宗主国としてこだわる清国には二面性がありました。

一つは、
清国だけでなく同じ儒教の朝鮮王朝は、
フランス人宣教師たちと多くの信徒を処刑していますので、
欧米の非難を浴びたくないから、
朝鮮王朝とは別の国扱いして欲しいこと(責任回避)。
しかし一方では、
冊封制度により朝鮮王朝を属国にしておきたいこと。
これは、「楽浪郡化」といいます。

覚えていますか?
2009年のSBSドラマ『自鳴鼓(チャミョンゴ)』は
ホドン王子(第3代ムヒュルの子)の高句麗が、
中国の直轄地・楽浪郡を滅ぼすストーリーでした。
つまり、
李鴻章は韓半島を楽浪郡のように直轄して、
いわば「(韓半島に)外様大名」を置いておきたいとの意図でした。

しかしながら、宣教師処刑の犯罪経験から、
フランスからの介入・侵攻を恐れ、しかも、
明治政府がイギリス、ロシア、米国のバックアップを得ていたので、
朝鮮王朝の開国を認めたのでした。
開国の後は貿易を進めるための通商条約へと進展します。

もちろん、親清派の閔氏一族は従いました。

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日本に続きアメリカ、
その後に欧州の国が修好通商条約を結びます。
もとより江戸時代は、
明とは琉球、オランダとは長崎の出島、
朝鮮とは対馬藩だけが貿易を任されており、
対馬藩との貿易専用に
釜山には草梁倭館(朝鮮の出島)がありました。
当時の貿易品目は、次のようなものです。
朝鮮からは牛皮、フカヒレ、スケトウダラなどの食品、
朝鮮人参や熊胆などの漢方薬が輸出され、
日本からは銅、絹織物、紅花(染色剤)などが輸出されていました。

現在でも開発途上国との間では、
日本からは付加価値の高い工業製品、
プラントなどの資本財が多く輸出され、
日本は原材料やエネルギー資源を輸入するという
「垂直貿易」。
他方で先進国間では相互に
自動車やエレクトロニクス製品のような
付加価値の高い製品の取引のいわゆる
「水平貿易」のパターンです。
近年は例えば「サムスン」の
エレクトロニクスが日本に輸入されるようになっています。

少し時代を遡ると、
この朝鮮半島の開国を巡る明治政府内の出来事が
西郷隆盛の「西南戦争」となりました。
明治維新の志士たちが作った明治政府なのですが、
穏健派と強硬派に分かれ、
いわゆる力でこじ開けようとするのが西郷の「征韓論」でした。
しかし、これは木戸孝允が抑えます。
もとより木戸は政府内の関心を海外に向けて、
政府内あるいは国民の意識をまとめようとする、
古今東西の政治戦略でした。 でも穏健派。

されど、当の朝鮮王朝には何の改革の動きもでません。
海外からの新しい文化、技術を導入する政策は、
清国が好まなかったからです。
あくまでも冊封制度で朝鮮王朝の開化を好まず、
清国の属国であって欲しいからです。
皇帝から外交を任されていたのは李鴻章です。

(『明成皇后』)
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王朝絵巻 パートⅤ ⑤「下関条約」

18世紀末、フランスでは既に市民革命(フランス革命)が起きたのですが、
それから100年も経った後の
日清戦争(1894年)と下関講和条約(1895年)です。
その間に日本では明治維新がありました。

にもかかわらず、清国と朝鮮はまだまだ王政です。
開国はしたものの、内部改革が進まない朝鮮と清国。
また、「冊封制度」の二つの国に、アメリカも日本もあきれ果てます。
日米は、半島に対して徐々に諦めムードだったようです。

本来ならば市民たちの啓蒙化が進み、
抑圧された非支配層が両班に立ち向かうはずなのですが、
これが果たせなかったのは、
教育制度や情報制度が遅れたままで、
さらには清国と朝鮮王朝によって、
市民は極端にコントロールされていたものと考えられます。
貴族や両班たちの私利私欲のためだと思います。

ただし、明治政府は動きます。
また、ロシアの領土野心に対抗できるのは“日本だ”
と考えたのが大英帝国とアメリカです。
このイギリスとアメリカの理解をバックに、
日本は、高宗に“冊封制度”の廃止を認めさせます。
ただし、こうなると清国との戦争は避けられません。

こうして起きたのが1894年の「日清戦争」
戦勝国の日本が清国に求めた「下関条約」では、
第1条が
朝鮮と清国との「冊封制度」を廃止することでした


5回に分けて書いたパートⅤでしたが、
少なくとも
19世紀後半の日韓関係は良好で、
開化に向けて前向きだったと思います。
しかし、
清国の圧力で朝鮮王朝の改革は進みませんでした。

ドラマ『明成皇后』より
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パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」では、
最初に明成皇后と、彼女の暗殺の模様に触れました。
KBSのドラマ『明成皇后(ミョンソンファンフ)』では、
背後に明治政府がいたことになっています。
ただし、当時の日本軍は完全に統率が取れており、
王朝の軍の教育と近代化に務めます。
事件への軍の関与はありません。
むしろ、
朝鮮王朝の総理大臣を含む開化派が共謀しています。
明治政府から見た明成皇后は「親清派かつ親ロシア派」。
目の上のたんこぶの存在だったようです。

高宗は王妃の国葬を行うに際して、
ロシア公館に逃げ込んで、そこから政策を出します。
しかし、この政策は朝鮮半島の改革ではなく、
むしろ、旧制度を保守しようとするものでした。
これは、
日露戦争の原因にもなります。
ドラマは高宗と明成皇后を美化しすぎていると思います。
内政で日本が半島に求めていたのは、
王朝と政治の分離、科挙制度の廃止、
身分・家族制度の改革、税制の改革なのです。

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(ドラマ『明成皇后』の高祖)

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王朝絵巻 パート5 日清戦争まで(上)


王朝絵巻 パートⅤ ①19世紀末の勢道政治

大学受験で選択したのは「日本史」でした。
当時の教科書では
1894年の日清戦争の勝利国の日本のことで、
戦後の下関講和条約では日本が清国の遼東半島を得て、
多額の賠償金をも得たことに焦点があり、
そして、その後の列強の三国干渉でした。
しかし、
今回歴史の本を読んでを振り返ってみると、
下関条約の第1条にあるように、日本は、
半島の独立と近代化を求めていたことが分かりました。
清国と朝鮮王朝の「冊封制度」を廃止することです。

朝鮮王朝500年の歴史の
終りの19世紀は停滞・衰退の時代でした。
衰退という意味は、政治の腐敗もありますが、
欧米や日本の近代化に比べて、
一般市民の生活に物質的な豊かさがなかったからです。

他方の欧米やロシアの列強は国の経済を富ませ、
すでに極東での貿易の利権を争っていました。
今度は、この19世紀後半の様子を
米国の外交官からの視点で書いた
渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』
(2014年12月、草思社)
で紹介します。

まずは、
朝鮮王朝内の当時の時代背景を振り返ると、
第22代王・正祖(イサン)の子が、
第23代王・純祖で、その王妃が純元王后。
彼女が実家の安東・金氏の後ろ盾にて
亡くなる1857年までの55年間、
女帝と外戚が影から操る勢道(せど)政治。
この院政を行ったことは先に書きました。

純元(スヌォン)王后が亡くなっても、
若い第24代王・憲宗、第25代王・哲宗を盾にして、
安東・金氏の勢道政治は続きます。
しかし、登場するのが王族の李是応(イハウン)。
彼は哲宗の後継に自分の息子を就けます。
1863年、第26代王・高宗は11歳で就任。
父の李是応は大院君(フンソン テウォングン)就任。
王の父親のことは大院君と呼びます。

大院君は、同じ儒教の漢民族の明国を中華、
朝鮮は小中華の兄弟関係と考えていましたので、
満州族の清国を嫌っていました。
また、
儒教思想とは反する平等主義のキリスト教を迫害します。
1866年のこと、
フランス人宣教師9人と1万人もの教徒を処刑しました。
他方、国内では安東金氏の勢力を削ぎつつも、
関係は上手く利用していたようです。

しかし、高宗が22歳の時、
王妃と実家の閔(ミン)氏が大院君の追放に成功し、
今度は閔一族に政権は握られることになります。
実家の意を反映して閔妃・明成王后は親清派で、
さらに、開国・近代化には一役をなしていると考えられます。

1876年(明治9年)、朝鮮王朝と明治政府は
「日韓修好条規(江華島条約)」を締結し、
世界に先駆けて王朝は日本との開国を成しました。

なお、宮脇淳子『韓流時代劇と朝鮮史の真実』
(2013年、扶桑社)
も参考にしています。

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(ドラマ『明成皇后』より)

王朝絵巻 パートⅤ ②冊封(さくほう)の国

いわゆる“寄らば大樹の影”の「事大主義」と、
明国への貢物を欠かさない「冊封」が映画『光海』でも問題となります。

冊封体制をウィキペディアで検索すると、
その意味は、
「周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。 職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。 これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる」

そして、
冊封体制の終焉は
「大きく広がった冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。
清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった

帝国主義の時代に入りました。
たとえば大英帝国は、開発途上のアフリカや
アジアの国々を植民地として配下に置きました。
フランス、ドイツ、オランダも同じです。
さらにロシアは西や東へと領土的な野心がありました。
ただし、19世紀前半は
日本も含め各国とも仲良しだったと思います。

日本では1854年に“ペリーの黒船”で和親条約が締結され、
日本は開国し、さらに1858年には日米修好通商条約締結。
また、ロシアのアレキサンドル2世は、
アラスカをアメリカに割譲するだけでなく、
日本との関係も良好でした。
その際の明治政府は欧米の制度、文化、技術の導入には
100%前向きでした。

そうした中でも停滞する清国・朝鮮王朝でしたから、
日本との格差は政治や(民主的な)制度だけでなく、
経済力での格差が大きく拡大しました。

また清国(満州族)と朝鮮(儒教)の2つの国は、
1858年~1866年にかけて、
宣教師やキリスト教徒を処刑しています。
ローマ法王の命によりキリスト教の布教を担っていた、
極東担当のフランスとはこれで当然ながら対立。
欧米列強やロシアが付け入る余地もありました。

こうした中で、明治政府は米国との連携をとりながら、
朝鮮王朝の開国のために、
森有礼(ありのり)に役目を与えます。
彼はイギリス、フランス、ロシアだけでなく、
フランスを恐れる清国に根回しをします。
そして、森有礼(政府代表)と李鴻章(清国代表)との会談など、
清国と欧州の国々を説得に成功し、
1876年には清国の冊封国であった朝鮮と、
「日朝修好条規」の締結に至ります。
アメリカと日本の意図は半島に近代的な国を作り、
大陸(とくにロシア)からの侵攻の盾にしたかったからです。

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(ドラマ『明成皇后』より; 徳寿宮)

王朝絵巻 パートⅤ ③「尊王開国論」

1882年、壬午(じんご)事変が起きます。
高祖の父の興宣(フンソン)大院君(テウォングン)は、
満州民族の清国を嫌っていたので、
閔氏一族の親清政策を歯がゆく思っていました。
名誉挽回のクーデターが壬午(じんご)事変です。
しかし、
これはあっけなく清の軍隊により鎮圧されます。
この際の現場の指揮は袁世凱(えんせいがい)です。

こうして高祖の父親たちの勢力が消えて、
王朝内の勢力は清に頼る事大派(閔氏一族)と
開化・(半島)独立派が残ります。
しかし、何が起きてもいっこうに制度改革がなされない朝鮮王朝。
そんな中で開化派の若手の官僚たちが立ち上がります。

内部からの改革を求めたのはアメリカと日本。
国境を接するロシアと大英帝国には領土的野心がありました。
地政学的にも重要な韓半島(ハンバンド)なので、
ロシアやイギリスからの“盾”となるようにと、
独立した近代国家を求めたのはアメリカと日本でした。

修好条約により、
朝鮮王朝からの留学生を受入れたのは明治政府。
井上馨たちは積極的に日本での若手の研修を進めました。
中にいたのが、金玉均(キムオッキュン)です。

1884年に金玉均はクーデターを起こします。
高宗に発表させた改革の内容は14か条で、
・両班貴族の専制の廃止
・宦官制度の廃止
・門閥の廃止と人材登用
・警察制度の改革
・財政の安定化
などの国内改革に加えて、
・清国への朝貢儀礼の廃止
という冊封制度の廃止などでした。

# どれも近代国家としての重要なポイントだと思います。

しかし、閔氏一族は黙ってはいませんでした。
いつものように清国に助けを求め、
この「甲申(こうしん)事変」は血で血を洗う結果となります。

1週間もしないうちに、
改革に参加した若者たちは清国軍に処刑され、
一部は日本に亡命することになります。
金玉均は日本での亡命生活を余儀なくされました。

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(当時のソウル公館の三浦と岡本役の二人。
 二人が伊藤博文の政策を実行します。
 ドラマ『明成皇后』より)

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