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義兵運動と日本軍

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(韓国の国花のムクゲの花:2018.09.08@Nagasaki)

日韓併合を考える②
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(興宣大院君)

朝鮮半島への近代化の波が押し寄せる中、当時の王朝は有効な対応ができなかったようです。
ドラマの最初にあった1871年の“辛未洋擾(シンミヤンヨ)”の際に、朝鮮を開国させようとしたアメリカのロー公使は、
「朝鮮はペリー提督出向前の日本よりもいっそう厳しく鎖した国土である」と評しています。

# ドラマにあった辛未洋擾(신미양요、シンミヤンヨ)
当時の清に駐在していたフレドリック・ロー公使の要請によるもので、5隻の軍艦を率いたのはジョン・ロジャース司令官

艦上の司令官

「我々はまだ外交関係を締結できません」
(米国海軍士官)

「朝鮮の議会は安心ができないようだ。
 しかし、日本での経験からの反省もあり、
 軍事力で開港を求める訳にはいかない。
 これまでの米国の方針により、戦争捕虜たちは釈放する」
(提督:ロジャース司令官)
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(KJS『ミスターサンシャイン』第1話より)

前回に続き『誰も書かなかった日韓併合の真実』より抜粋・引用します。

①「19世紀半ばの朝鮮半島で実権を握っていたのは、国王(高宗)の妻・閔妃(ミンビ)だ」
「もともとは高宗の父である大院君が政権を掌握していたが、…」閔妃が有力な官僚や改革派の一部を取り込んで、大院君を追放しました。

# 高宗の実父・興宣(フンソン)大院君の名は李昰応(イ・ハウン)
# 高宗の妻・明成(ミョンソン)皇后・閔妃(ミンビ)の名は閔玆暎(ミン・ジャヨン)

②ただし、閔妃政権の特徴は「近代化を目指しながらも一族の利権を優先したことにある」

③「日本が日清戦争、日露戦争に踏み切った原因の一つも、…閔妃が清、日本、ロシア、アメリカへと次々と接近する国を変えたり、高宗自身が近代化を拒んだり、…義兵運動や農民運動を防ぐことができなかったりしたことで、朝鮮の独立が脅かされることを日本は焦った」

④しかし、日本のその焦りが強硬論に繋がり、「親日派にテコ入れして内政干渉を強化する強気な策をとっていくのである。当然ながら、朝鮮における日本への反発はさらに高まっていき、義兵運動が増えていった」

⑤「なぜこのような反発が起きたのだろうか?
それは、これまで朝鮮の独立を唱えてきたはずの日本が、独立とは正反対の保護国化を決めたからである」

⑥「ハーグ密使事件後さらに拡大した。日本は韓国政府に第3次日韓協約を結ばせ、内政権を掌握して軍隊を解散させ…」
しかし、「一部の軍人が民衆蜂起に加わり、反日武装闘争抗日ゲリラなどで抵抗するようになったのだ」

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(KJS『ミスターサンシャイン』第1話より)
<1871年6月10日、第26代王・高宗即位後8年目>

「彼らは江華島への侵入許可を求めて来ました。
 5年前に外国商船を焼き討ちしたことの見返りなのですが、
 今回は外交関係の樹立を求めて来ました」

「美国(アメリカ)とはどのような国なのか?」
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# 第26代王・高宗(コジョン)

「アメリカはワシントンが英国との交渉により建国して独立した国です。
 村のような国だと思って下さい。
 北方のオランケ(# )みたいなものです」

「そうです。戦って排斥して下さい」

「では…?」

「オランケとの国交などありえません」

「…」

「江華島の兵力と砲台を増やして下さい」
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# 興宣(フンソン)大院君(テウォングン)
オランケ=女真族などを“蛮族”と蔑む言葉。

# 次の写真は明成(ミョンソン)皇后・閔妃(ミンビ)として広く出回っていますが、
後世の研究により“本人ではない”と結論されました。
当時の閔妃の写真は、暗殺後にすべて焼却されたということです。

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# 次の「日韓併合を考える③」は29日に予定しています。

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伊藤博文の考え

日韓併合を考える①
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1.初代統監・伊藤博文の考え

1905年、伊藤博文は第2次日韓協約により設置された統監府の初代統監に就任しました。
そして、天皇の名代として激化する義兵運動を軍隊によって鎮圧するなど、半島の治安維持を図ろうとしました。
その後、
1909年、ハルビン駅にて、民族主義者により暗殺されるという悲劇に遭遇するのですが、それまでの伊藤博文の考え方を『誰も書かなかった日韓併合の真実』より抜粋引用します。

①伊藤博文暗殺事件の背景には、「日本が約束を破って朝鮮を保護国化したことが理由の一つだ」
しかし、「日韓併合反対派の伊藤が暗殺されたことで日韓併合が早まった(1910年)と言われることがあるが、それは誤解だ」

②伊藤は総監時代の前期には「植民地経営にはコストがかかることを懸念していた」
つまり、朝鮮半島が自立するまでの間は一時的に保護国化した方が良いとの考え方だったようです。

③ただし、1907年の日露協商締結交渉の際には、「ロシアに対して、朝鮮との合併の承認を得ようとしていた」

④しかし、伊藤の「保護国化論」には朝鮮民衆の大反対があり、「1909年前半には保護国化を諦めていた」

⑤その後の統監辞任後「枢密院議員」となって、「桂太郎首相から日韓併合の可否を尋ねられた際、特に反対もせずにこれを承認している。伊藤が暗殺されなかったとしても、日韓併合は予定どおり進めてられていただろう」

2.半島の一進会

時期を同じくして、朝鮮国内では日本と朝鮮との「対等合併」を唱える勢力がありました。
1904年12月に設立された「一進会」という団体です。

①一進会の前身の進歩会は「日露戦争中に約5万人を動員して日本陸軍の鉄道建設工事や弾薬の運搬などを支援していたという」

②一進会は日本の国家主義団体を通じて日本政府との連絡を取るようになり、「1907年に成立した李完用(イ・ワニョン)内閣はには、一進会出身者が入閣するほど勢力を拡大していた」

③1910年8月18日、「日本側の意を受けた首相の李・完用が(第27代王)純宗(スンジョン)皇帝に対して、“日韓併合に関する条約”の締結を昌徳宮で奏上した」

④「一進会も支持していたとはいえ、彼らが唱えたのはあくまで日本と朝鮮の対等な合併である」

(22日につづく)

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以上は豊田隆雄『誰も書かなかった日韓併合の真実』(2018年5月、彩図社) よりの抜粋です。
次は、ドラマでの伊藤博文とイ・ワンイク(第1話より)

<1875年>
日本に来ている訳官(イ・ワンイク)

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「小生は貧しい小作農の息子として、
 何も持たないことを恨んでいましたが、
 高価なものを持っていることが分かりました。
 売れば相当の金額になります」

「何のことだ?」

「朝鮮です。
 5万ウォンだけ頂ければ、朝鮮を差し上げます」

「わずか5万ウォンなのか?」

「今は物資の補給もない軍隊です。
 開港を求めようが、制圧しようが、日本の損にはなりません」
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通訳だったワンイクは、抗日運動を軍の力で抑えようとする者たちと結託し、
東京で活動していたエシンの両親を殺害しました。

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ネルー首相の日本観

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(ウィリアム・タフトと桂太郎)

ネルー首相の日本観

1.桂・タフト協定
(# ウィキペディアによります)

桂・タフト協定(Taft-Katsura Agreement)とは、日露戦争中の1905年(明治38年)7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定。
なお、タフトは後に第27代アメリカ合衆国大統領に就任した。
この協定当時、日本軍は日露戦争中であったが、すでに日本海海戦での勝利を経たあとで、ロシア帝国軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた。
またアメリカ合衆国は、同国駐韓公使のホレイス・ニュートン・アレンを解任しており、アレンは1905年6月に韓国を去っていた。

この協定では、米国は当時の大韓帝国(以下、韓国)における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。
列強が勢力を模索する時代の中で、日米首脳が相手国の権利を認め合った協定といわれ、その後の日米関係を円滑にするものであった。
また1902年(明治35年)の日英同盟を踏まえたもので、日英米の三国による東アジアの安全保障について意見が交換された。

協定は、互恵的に署名された文書や秘密の条約ではなく、合意を記した会合覚書(メモ)であり、この合意覚書は、アメリカ外交史家だったタイラー・デネットがセオドア・ルーズベルト文書中でこれを発見して、雑誌『Current History』にタフトが時の国務長官エリフ・ルートに宛てて送付した合意の電文を掲載した1924年(大正13年)まで公表されなかった。この協定は、東京で日本の桂首相とウィリアム・タフト特使が1905年(明治38年)7月27日の朝から外務次官珍田捨巳の通訳の下で行なった会合の記録から、長時間になった機密の会話の部分で構成されている。 覚書には1905年7月29日の日付が記入されている。

協定の内容
・日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
・極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
・アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。

この協定の中で、桂は、
「大韓帝国政府が日露戦争の直接の原因である」と指摘し、
「朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし大韓帝国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう。従って日本は、大韓帝国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない」と主張した。

桂の主張を聞いたタフト特使は、大韓帝国が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意した。
タフトはまた彼の意見として、ルーズベルト大統領はこの点に同意するだろうという彼の確信を示した。
タフトは、この会談での合意を米国政府へ電文で送付し、電文を読んだルーズベルトは7月31日、
「桂とタフト間の会談はあらゆる点において全く正しいこと、タフトが語ったこと全てを自分が確認したこと」を桂に伝えることを内容とする電文をタフトに送付した。

それを受けたタフトは8月7日、マニラから「ルーズベルトが自分たちの会談における、自分の発言を全ての点において確認した」という内容の電文を桂に送付した。桂は翌日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスに滞在していた外相小村寿太郎にこのことを知らせることによって、日米間の合意をめぐる一連の行為は完了する形となった。

桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果、日本の勝利で講和成立し締結されたポーツマス条約によって、ロシアにも朝鮮に対する優越権を承認させた結果、事実上、列強の全ての国が大韓帝国に対する日本の支配権を承認した結果となり、その後、第二次日韓協約が締結され、大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となる。
しかし、高宗は、この第二次日韓協約の裏をかく形で、再び1907年(明治40年)にハーグ密使事件を引き起こし、結果として退位させられることとなる。
1910年(明治43年)8月29日、韓国併合が実現する。

2.ネルーの日本観

ネルー首相

(# ウィキペディアによります)
1894―95年の日清戦争は、日本がすでに陸海軍を新式で組織・訓練させて用意 万端な状態で臨んだので、旧式の軍隊のままの中国に勝利したことは「朝飯前 の仕事」であった。
中国に勝った日本は、極東における最大の強国の地位を得 たのである。
その後、ロシアが、満州、朝鮮への勢力を拡張したことは日本を強く刺激し た。
日本は無言のうちに、しかし営々として戦争の準備に取りかかった。

日清 戦争10年後の日露戦争に日本が勝利したのを、ネルーは少年時代に、
「ヨーロッ パの大国ロシアが日本に敗れた」と感動しており、それを娘によく話したと書 いている。
ネルーに限らず、アジアの多くの少年、少女も「日本兵の勇気に」 感心したのだった。
西洋ヨーロッパ帝国の侵略を受けていたアジアの国々にとっ ては、それは大きな希望と勇気を与えてくれて、「刺激」ともなったことだろう。

しかし、日露戦争における日本の勝利は、その後の日本を朝鮮の植民地支配 に、さらには中国侵略へと向かわせた。
開戦の責任が重いのは、日本かロシア か。
日本が自衛のためにやむをえず開戦したという理屈は果たして成り立つの だろうか。
戦争の主戦場となったのは朝鮮半島と中国東北部だったにもかかわ らず、中国と朝鮮の民衆の視点はほとんど抜け落ちていたのではないだろうか。

ネルーは、
「日露戦争のすぐ後の結果は、一握りの侵略的帝国主義グループに もう一国を加えたというに過ぎなかった」と述べている。
そ の苦い結果を最初になめたのは、朝鮮の民衆であった。

ジャワハルラール・ネルー(ネール:1889年11月14日 - 1964年5月27日)は、インドの初代首相。
インド国民会議議長。
インド独立運動の指導者。著述家。
マハトマ・ガンディーとともにインド独立運動の最も著名な指導者となり、1947年に独立を達成したインドの初代首相に就任した。

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ドラマ『大君』より。

「成功者は私だ。歴史が刻んでくれる」

「歴史の勝利者は現世の者ではありません。
 いつの日にか、真の勝利者が判明するのです
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ワイツゼッカー大統領の言葉

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ワイツゼッカー大統領の言葉~平和への祈り

(以下はウィキペディアによります)
ドイツ第6代連邦大統領・ワイツゼッカー(Weizsäcker:1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、第2次世界大戦終戦40年を記念する演説で、
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と述べたことで知られる。

ドイツ敗戦40周年の1985年5月、ナチスの罪を直視するよう呼びかけた西ドイツ連邦議会演説で、
「歴史を変えたり無かったりすることはできない。過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。非人間的行為を心に刻もうとしないものは、また同じ危険に陥るのだ」

同氏は1990年5月、国家元首として初めてポーランドを訪問したのをはじめ、被害を与えた周辺諸国との和解に努力した。

戦後50年に訪問した広島の平和資料館で、
「ここでは言葉も文化も超えて、すべての人がすべてを理解できる」
そして次のようなメッセージを書き残した。
「広島を訪れた者は生涯、平和のメッセージを世界に伝え続けるだろう」。
また若者たちに対して、
「他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることがないように」と語りかけた。

日本でも『荒れ野の40年』(日本語訳は岩波ブックレット)と題する、1985年5月8日の連邦議会における演説の中の一節“過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる”で知られる。
「過去についての構え」である罪と「未来についての構え」である責任とを区別し、個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを呼びかけた。
同時に、
「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい」とも述べた。
この日はドイツ降伏40周年にあたり、ヴァイツゼッカーはこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容した。
他にも“自由民主主義体制において必要な時期に立ち上がるなら、後で独裁者に脅える必要はない、つまり自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で市民的勇気も必要”などがある。

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未だに北方四島、竹島(独島)、南沙諸島(スプラトリー諸島)など、
領土問題が戦争(帝国主義時代)のマイナスの遺産を引き継いでいます。
なぜ、帝国時代の”奪ったり、奪い返したり”の感情が残っているのでしょうか?
なぜ、共同管理や漁業権の共有や、共同での自然環境保護ができないのでしょうか?
「仲良くやろうよ」と、みんなの空や海を大切にしたいものです。

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アメリカの対外政策

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(サンゴジュの実:2018.07.24)

ドラマ『信義』では、チェ・ヨン(将軍)が「刀には敵も味方もない(誰でも殺す)」
ドラマ『大君』では、アンピョン大君が「もしもそれが正義の刀なら、私を殺してくれ」
そして、
この『ミスターサンシャイン』では、
ユジンが「その銃には敵も味方もない。これも民主主義だ」と。

“義”とは「私利私欲なく、社会正義を貫く」という儒教の教えなので、家族や市民、国の独立を守るために立ち上がった者たちを“義兵”と呼んだのはこの民主主義の時代から見ても適語だと思います。

話は転じて、今朝のアップのユジンのセリフに、
「speak softly and carry a big stick(棍棒を携え、穏やかに話す)」とありました(第5話)。
こん棒とは、
エシンが思うように「(ひ弱な国も)武器の力に頼らないと、(独立を)守れない」の時代の象徴だったと思います。

「お前の勝ちだな」
(カイル司令官)

「Speak softly, and carry a big stick.」
(ユジン)

「ははは」

「…」
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1.米西戦争により本格的なアジアへの介入が始まった米国の外交

(1)モンロー宣言


「モンロー主義」は、単に“内政不干渉”ということで理解されているように思えます。
しかし、もとより、それまでの欧州の帝国主義・植民地主義は認めるものの、それ以上は望んではいなかったという意味だった考えられます。

(ウィキペディア)
1823年12月に米国・第5代大統領の年次教書には、
・ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。
・南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。
・南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない。
・現在、独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす。

これは、ヨーロッパ勢力と植民地間の戦争に対してアメリカ合衆国は中立を保つが、植民地の新設あるいはアメリカ大陸の独立国家に対するいかなる干渉もアメリカ合衆国への敵対行為とみなすという意図です。

そして、キューバやプエルトリコの独立運動に対するさらなるスペイン帝国の干渉に際して、米国は反撃・防衛を開始しました。
同時にアジアにおいては、
『ミスターサンシャイン』のカイル司令官とユージーン・チェが、フィリピンへのスペイン帝国への干渉に対抗して「米西戦争」に参加しました。

(2)セオドア・ルーズベルト大統領
(1901年から第26代大統領)


(ウィキペディア)
speak softly
米英戦争以来の米国外交方針の国是となっていたモンロー主義に基づき、西半球に積極的に介入した外交政策を指す。
セオドア・ルーズベルトが主張したことは、米国は西半球に、欧州諸国が介入するのを妨げる権利のみならず、砲艦外交をちらつかせる権利を持つということである。
この外交方針により、アメリカ合衆国海軍が拡張され、米国は積極外交を仕掛けることとなった。
ジョン・F・ケネディの対キューバ、ロナルド・レーガンの対グレナダなどの中南米強硬政策の先鞭をつけた。
この政策はルーズベルトの後継であるウィリアム・H・タフトのドル外交に引き継がれることとなった。

セオドア・ルーズベルトは、
西アフリカの諺である「棍棒を持って、静かに話せ、それで言い分は通る(Speak softly and carry a big stick, you will go far)」から棍棒の言葉を用いている。
セオドア・ルーズベルトは、棍棒外交という言葉を用いて、攻撃的な外交政策を指揮していった。
この政策に則り、1900年代の米国は国際的な政治力を増大してきたのであった。

(3)アレン公使

1890年には駐朝アメリカ公使館の書記官となり、1897年には駐韓アメリカ公使・総領事となった。
朝鮮初の電力会社や鉄道会社の設立が米国資本の導入によっておこなわれたのは、アレンの存在が大きい。
日露戦争中、アレンはアメリカ政府の不介入政策を積極的に批判した。
米国は1905年3月頃に公使をエドウィン・V・モーガン(英語版)に交代することを決め、アレンは同年6月9日に韓国を去った。
アレンが去った後、同年7月に日米で桂・タフト協定が締結されることとなる

2.半島<朝鮮王朝>での動き

(ウィキペディア)
独立協会(どくりつきょうかい)は、1896年から1898年まで李氏朝鮮にあった開化派の運動団体。
甲申政変に参加した徐載弼が李完用とともに創設し、朝鮮における立憲君主制導入を目指した。
ロシア公使アレクセイ・シュペイエルは、アメリカの宣教師が独立協会の活動を支援していたと主張している。

当時、李氏朝鮮は清の従属国から解放されたものの、李氏朝鮮に対するロシアの支配力が強くなった。
このような背景の中、国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化・植民地化を危惧し、開化思想を民衆に啓蒙するために、1896年に独立協会を設立。
同年4月より独立新聞を発行し、協会の主張を啓蒙している。

独立協会が刺激となり、仁州の博文協会、賛襄会、保民協会、皇国中央総商会などが誕生した。
独立協会は、李氏朝鮮の国内勢力と対抗しロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言。
後に、高宗は王宮に戻り、高宗は朝鮮初の皇帝に即位し(別名:光武皇帝)、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。

また独立協会は、日本と清との日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で清に朝鮮の独立を認めさせた後、それを祝い、開化思想を啓蒙する一環として、1897年、独立門を建設した。

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第2話より

「なぜいつも私に勝るつもりなのか?」

「…」

閔妃があの若さでなぜ亡くなったのか分かるか?」

「この国があまりにも弱いからです」

「違う。
 西洋文化に染まり、国王でもないのに、
 国事に介入したからだ」
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朝鮮は変わりつつあります

「それも間違いだ。朝鮮は変わらない」

「…」

「分裂しているだけだ」

「月に一度は新聞を読んでいるだけです。
 賤民ですら壁新聞から学んでいるのです。
 女でも勉学が必要です」
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「♪グリーンスリーブス」をバックにしたユジンのテーマです。
https://www.youtube.com/watch?v=g7lDVad1TR0

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スイス軍と義兵

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スイス軍と義兵~『ミスターサンシャイン』の時代背景(2)

メイン(主演:イ・ビョンホン)のユージーン・チョイ(米国籍)と、他の4人のキャラクター(思想背景)を知るために、出来事(歴史のポイント)を以下列挙します。

・1823年:米国第5代モンロー大統領の「モンロー宣言」
 (米国外交の基本路線)
 欧州などでの戦争・内政には不干渉・中立主義
 (しかし、1898年のスペインとの戦争で変わります)

・1853年:ペリー提督が“黒船”で浦賀に来日・開国要求。

・1863年:第26代王・高宗(コジョン)が即位(11歳)

・1868年:明治維新
  江戸幕府=攘夷論から開国主義へ
  薩摩・長州・土佐・肥前=攘夷論から尊王+開国主義へ
 (勝海舟+坂本竜馬らの協力で明治維新)

・1871年「辛未洋擾(シンミヤンヨ)」第1話
 高宗19歳および明成王后20歳=開国主義
 (親“清”から親“ロシア”へ)
 実権を握っていた興宣大院君は51歳=攘夷主義

その時のユージーン・チョイ(韓国名:チェ・ユジン)は9歳(数え年?)
その数年後(1875年)にコ・エシン(役:キム・テリ)生まれる

・1876年:朝鮮王朝の開国(日本との江華条約による)
 その後に欧米各国とも開国の条約

・1894年:日清戦争

・1895年:明成王后殺害事件(享年44歳)①
 「乙未事変(ウルミサピョン)」と称されます。

・1897年:国号は「大韓帝国」へ
 高宗は初代の皇帝に即位。
 明成王后(ワンフ)は明成皇后(ファンフ:追尊)。
 世子(後の純宗)は皇太子となる。

・1898年:米西戦争
 (ユージーン・チョイは米国海軍の大佐)に昇格。

・1902年:ドラマの第2話

・1904年:日露戦争

・1910年:日韓併合

1910年の日韓併合により<朝鮮王朝>は滅亡するのですが、映画『暗殺』にあったように、韓国は大陸(上海)に臨時政府を樹立して、満州ではその「独立軍」が日本軍と戦っていました。
また、今回の『ミスターサンシャイン』でのキーワードの一つは「義兵」なのですが、ドラマはそれよりも40年ほど前(1871年「辛未洋擾(シンミヤンヨ)」)から描かれました(第1話)。
当時は軍として組織化される前の段階の活動だと考えた方が良いようです。

上記①の「明成皇后殺害事件」はユージーンが30歳、エシンが18歳の頃でした。


「明成皇后殺害事件が民衆に広まると、“全国各地で義兵が立ち上がり”、官軍と日本軍に対抗して熾烈な戦いを展開した」
(朴永圭『朝鮮王朝実録』キネマ旬報社、p449)

つまり、「義兵」という言葉が一般的には狭義に使われて、「抗日抗争」の義勇軍のように扱われていますが、“対日本だけではなく”て、もっと広い意味(広義)での「朝鮮民族」の独立を守るために武器を取った人たちのこと。


第2話では、ユージーンがソウル(当時の漢城=漢陽)の公使館に駐在武官(大佐)兼副領事として派遣されました。

1.スイス国軍と韓国軍
~小国の兵士たち

ウィキペディアで、永世中立国スイス(人口840万人)の「スイス軍」を検索すると次のとおりで、戦車(レオパルド)と戦闘機(F-18ホーネット)を主力とする陸軍と空軍の二軍構成となっています。

最高指揮官は大統領であるが、実質的な権限は首相が有する。
スイス軍の管理・運営は連邦参事会が行う。
常備軍を構成するのは約4000名の職業軍人であるが、徴兵制度により21万名の予備役を確保している。
傭兵の歴史を持つスイスでは、国民皆兵を国是としており、徴兵制度を採用している。
また、外国政府がスイス国内に基地等の軍事施設を設置することも容認していない。

韓国の憲法は日本の憲法とほぼ同じとされますが、国防の義務が規定されている点が違い、男子には兵役の義務があります。
ただし、米国との安全保障条約により、「参戦」には米国の認可が必要です。
ベトナム戦争の際には韓国軍も参加しているほか、映画『国際市場で会いましょう』にあるように、外貨(ドル建ての給与)を獲得するために志願してベトナム戦争に参加した市民もいました。

2.明成王后殺害事件と義兵

「日本の三浦梧楼(ごろう)公使は朝鮮から追い出されることを恐れるあまり、一部親日政客と組んで、閔氏を含む親露派勢力を除去しようと乙未事変を起こして、閔妃を殺害する」
(朴永圭『朝鮮王朝実録』キネマ旬報社、2012.03 p455)

ウィキペディアでは次のように記載されています。
(多分に政治的な記録のようで、真相はいまだに不明瞭のようです)

乙未事変(いつびじへん:ウルミサピョン)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる

1895年10月8日午前三時、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。

三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられた。軍人8人は第五師団の軍法会議にかけられ、三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監されたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放された。
日本国内における裁判にあたっては、朝鮮政府(金弘集政権)が事件は朝鮮政府内部のもので大院君に責任があるとし、その内容で決着をさせようとする朝鮮政府(金弘集政権)からの意向が日本へ伝えられていた。

高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した。
史料によると高宗と純宗は殺害現場にいたことが記録されている。

上記①のとおりで、国を守り(国防)、家族を守るために立ち上がった志願兵、あるいは(ボランティアの)レジスタンスが広義の「義兵」だと思います。
ドラマ『華政』(第15代王・光海君のころ)にあるように、北方からの「後金」の侵入を防ぐために(国境地帯の守備)、光海と共に戦った人々(民百姓)も義兵だと考えても良いと思います。

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# 人口が少ないスイス(840万人ほど)をあえて検索したのですが、
ドラマ『ミスターサンシャイン』当時の韓国半島の人口は約3000万人と推計されています。

第2話の終りのシーンでした。
口を覆ったのは、相手(スナイパー:狙撃者)の目を確かめるためでした。

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PLS Stay in Tune, on KJS !(最新記事はこちらから↓)
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キム・ウンスクと義兵

# 2017年11月のKJSの先に以下の新しい情報を加筆しておきます。

Kstyle(エンタメ)Newsより。

tvNの新ドラマ「ミスター・サンシャイン」(脚本:キム・ウンスク、演出:イ・ウンボク)が、2018年の下半期に編成される予定だ。
tvN側は本日(7日)、「『ミスター・サンシャイン』はさらに完成度の高い作品にするため、来年の6月末から7月初めに編成される予定だ」と伝えた。

「ミスター・サンシャイン」は1900年代を舞台に歴史には記録されていない、私たちが必ず記憶しておくべき義兵たちの物語を描くヒューマンロマンスドラマだ。イ・ビョンホン、キム・テリ、ユ・ヨンソク、ピョン・ヨハン、チョ・ウジンなどが出演する。

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元記事配信日時 : 2017年12月07日11時44分
記者 : パク・ユンジン

2017年11月の高来神社(神奈川県・大磯町)
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# 11月に入って、1日と2日に二つの高句麗由来の神社、高来(たかく)神社と高麗(こま)神社を参拝しました。
神奈川県・大磯町と埼玉県・日高市にある神社です。
飛鳥時代から奈良時代に亘り、東国(東日本)の新田開発を行った“若光(高句麗の王族)”の足跡を体験したかったからです。
(詳細は後日記事にします)

<古代の韓半島(ハンバンド)>を9回書いてきたところで、ドラマに合わせて第10回で高麗末期に触れます。

(それぞれの時代の年数の長さを引き算して比較・想像してみて下さい)
韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

上記の表にあるように朝鮮王朝は1392年に始まりますが、518年後の1910年8月の日韓併合により終わります。
1900年代に関しては、日韓に横たわる歴史認識のギャップが表面化しているのが現状。
英和辞書でのタッチ―(touchy)とは、扱い難いとか、神経過敏なとかの意味。
きっと日韓の政治的な関係も散見されるとは思いますが、来年上半期に放送される『ミスターサンシャイン』を通じて直視してみたいと思います。

『ミスターサンシャイン』~キム・ウンスクと義兵

(以下コピペです)

1.キム・ウンスク作家と俳優イ・ビョンホンが出会う
Kstyleエンタメニュースより

エンダムピクチャーズは6月24日、「キム・ウンスク作家の次期作「ミスターサンシャイン」男性主人公にイ・ビョンホンがキャスティングされた」と発表した。

キム・ウンスク作家はある媒体とのインタビューを通じて「1900年代を背景に、“歴史に記録されなかった、私たちは必ず記憶しなければならない、義兵たちの話を執筆中”としながら「太陽の末裔」、「鬼」の美しい映像美を見せてくれたイ・ウンボク監督と再び呼吸を合わせる予定だと明らかにした。
キム・ウンスク作家の次期作の便りが伝えられ、ドラマの内容に十分な大きく熱いイシューが浮び上がったのが男主人公である。

「パリの恋人」「シークレットガーデン」「紳士の品格」「相続人」「太陽の末裔」そして最近の「鬼」まで毎作品ごとに最高の魅力的な男主人公を作成してきたキム・ウンスク作家だから」仮想キャスティングリスト」が出てくる程度のファンたちの関心は熱かった。

エンダムピクチャーズユン・ハリム代表は「今回の作品は、実際に準備することがとても多く、事前製作ではないがクオリティの作品を作るために撮影に長い時間ボールをかけなければならない作品である。だからキャスティングをすぐに決定することが良いと判断した。そしてキム作家はミスターサンシャインの男主人公が演技も上手で、英語も上手俳優になったらした幸いなことに、イ・ビョンホンさんと良い縁になったようだ」とキャスティングの背景について説明した。

大韓民国最高の作家キム・ウンスク、カラフルな映像美を誇るイ・ウンボク監督、2009年「アイリス」以来、久しぶりにお茶の間劇場に帰ってきたイ・ビョンホンが視聴者にどのような話を聞かせてくれる期待されるドラマ「ミスターサンシャイン」は、2018年上半期に放映される予定である。

2.義兵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%85%B5
(ウィキペディアより)

19-20世紀の朝鮮半島における義兵
義兵戦争(ぎへいせんそう)・義兵闘争(ぎへいとうそう)・義兵運動(ぎへいうんどう)と呼ばれる日本の韓国併合に反対する抵抗運動は次の2期あるいは3期に分けられる。

(中略)

1907年末に儒学者の李麟栄が各地で戦っていた義兵を糾合し、京畿道楊州に兵1万(そのうち旧韓国軍兵士は3000名にのぼったという)を集めて彼を倡義総大将とする、韓国13道すべてを結集した義兵軍という意味の「十三道倡義軍」が成立し、同年12月に許蔿(号:旺山)を司令官としてソウル奪還を目指して首都ソウルへ進撃した。
日本軍は東大門においてこれを破ったものの、この善戦が各地の義兵勢力を勢いづけて1908年の第2次ソウル奪還作戦など1909年にかけて各地で日本軍と交戦した。
(掉尾の一振となる事件が、1909年10月26日、哈爾浜駅構内での、安重根による韓国統監府初代統監を退任していた伊藤博文暗殺である)
だが、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は「南韓討伐大作戦」を断行し、徹底的な焦土作戦や包囲作戦などによって鎮圧した。
これによって義兵側に1万7千人の死者が出たとされているが、実際にはもっと多かったとも言われている。
一部は日韓併合後も抵抗を続けたが1914年頃には鎮圧され、生き残りは満州(間島地区など)や沿海州などに逃れて朝鮮独立運動を継続するようになる。

3.10年ほど前の記事
Innolife エンタメニュースより

キム・ウンスク (김은숙)
生年:1973年
学歴:ソウル芸術大学文芸創作科
[作品]
2003年 SBS『太陽の南側』
2004年 SBS『パリの恋人』
2005年 SBS『プラハの恋人』
2008年 SBS『オンエア』

『パリの恋人』(2004年)をはじめとして、『プラハの恋人』(2005年)、『恋人』(2006年)等、“恋人シリーズ”をヒットさせたキム・ウンスク作家が、冷酷な芸能界の裏話で2008年復帰した。
幼い頃から泣き虫で有名だったキム・ウンスク作家。誰かに叱られて泣くのは当たり前だが、彼女は少し悲しくても叱られても泣いたという…どれくらいよく泣いたかというと、「また涙にご飯を混ぜて食べてる!」とお母さんからいつも叱られたという。

彼女が作家としての基礎を作ったのは、幼い時から読んでいた本。
ハングルを理解するようになる頃から本を読み始めたキム・ウンスク作家は、小学二年生ぐらいから放課後になると図書館に通った。
本を読みながら世の中に対する疑問を育てていった彼女は、二十代になってはじめて文章を書かなければと漠然と思ったという。
もちろんそれが小説なのか随筆なのか詩なのか分からなかったし、どのように始めるのかさえ分からなかった…

キム・ウンスク作家が本格的に執筆を始めたのは、彼女の人生で最も暗い時期であった。
早い結婚は彼女に多くの苦痛を与えたし、彼女は現実からの脱出として文を書くことを選択した。
スター作家キム・ウンスクは、もしかしたら悲喜と、明暗が交錯した中で誕生したのかもしれない。

事実知られているようにキム・ウンスク作家は『パリの恋人』、『プラハの恋人』、『恋人』の恋人3部作でスター作家の位置に就いた人だ。『パリの恋人』は典型的な財閥2世と貧しい女の恋愛物語であり、『プラハの恋人』はシンデレラストーリーの男女の役割を変えて、大統領の娘と警察官の話だ。
『恋人』もやはりそれらと同じシンデレラストーリーの範疇であった。韓国ドラマに必ず登場するといわれている新派劇や、典型的な主人公が登場するドラマは、キム・ウンスク作家によるものだと言うことができる。

しかし彼女が変わった。
放映序盤から女優のスポンサーとの性関係、奴隷契約、演技大賞の不正など放送界のスキャンダルをドラマの素材にして、国内だけでなく海外でも大きい関心を呼んでいる。
事実このドラマを制作してみて、キム作家も自ら知っている話なので、やさしいと考えていたが水位調節が難しいという。
飛び交うデマを正面から扱ってしまうと、既成事実化されてしまうようで時には不安だという。
しかしドラマはドラマでしかない。
芸能界の「裏話」なのに、事実は誰でも知っている芸能界の「表話」だと強調する。
今回のドラマは、トレンディードラマを主に執筆してきたキム作家にとって感慨深い。
自身を振り返ってみるという意味とともに、このドラマを通して韓国ドラマの慢性的な問題である、断片台本、常套手段、劣悪な制作環境などを皮肉っている。

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(昨年の作品)
「第53回百想芸術大賞」受賞リスト

【映画部門】
◆映画大賞=パク・チャヌク監督(「お嬢さん」)
◆映画作品賞=「哭声/コクソン」
◆映画監督賞=キム・ジウン監督(「密偵」)
◆映画男性最優秀演技賞=ソン・ガンホ(「密偵」)
◆映画女性最優秀演技賞=ソン・イェジン(「ラスト・プリンセス」)
◆映画男賞=キム・ウィソン(「新感染 ファイナルエクスプレス」)
◆映画の女の子賞=キム・ソジン(「ザ・キング」)
◆映画男性新人演技賞=リュ・ジュンヨル(「ザ・キング」)
◆映画女性新人演技賞=イ・サンヒ(「恋物語(Our Love Story)」)
◆映画新人監督賞=ヨン・サンホ監督(「新感染 ファイナルエクスプレス」)
◆映画シナリオ賞=ユン・ガウン監督(「私たち」)
◆映画男人気賞=EXO ディオ(「あの日、兄貴が灯した光(原題:兄貴)」)
◆映画女性人気賞=少女時代 ユナ(「共助」)

【TV部門】
◆TV大賞=キム・ウンスク作家(「鬼」)
◆TV作品賞(ドラマ)=「ディア・マイ・フレンズ」
◆TV作品賞(バラエティ)=「みにくいうちの子」
◆TV作品賞(教養)=「ソル戦」
◆TV演出賞=ユ・インシクプロデューサー(「浪漫ドクターキム・サブ」)
◆TV男性最優秀演技賞=コン・ユ(「鬼」)
◆TV女性最優秀演技賞=ソ・ヒョンジン(「また!?オ・ヘヨン~僕が愛した未来(ジカン)~」)
◆TV男性新人演技賞=キム・ミンソク(「ドクターズ」)
◆TV女性新人演技賞=イ・セヨン(「月桂樹洋服店の紳士たち」)
◆TV男性バラエティ賞=ヤン・セヒョン(「ヤン・セヒョンのShorterview」)
◆TV女性バラエティ賞=パク・ナレ(「私は一人で暮らす」)
◆TV脚本賞=ノ・ヒギョン作家(「ディア・マイ・フレンズ」)
◆TV男性人気賞=パク・ボゴム(「雲が描いた月明かり」)
◆TV女性人気賞=キム・ユジョン(「雲が描いた月明かり」)

【その他の部門】
◆「Instyle」ベストスタイル賞=キム・ハヌル
◆功労賞=故キム・ヨンエ

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今日は文化の日ですね。
現在、東京国立博物館では「運慶」展が開催中です。
下の絵は昨年の「日韓の半跏思惟像」の出会いの特別展示でした。
木造(クスノキ)と銅の像です。
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ラスト ピングン

色づいてきたモミジです
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(2016.11.08)

日韓の文化交流のために (追記)<王朝絵巻シーズン7> 
王朝最後の皇太子妃 李方子妃殿下

今日は次の映像をご覧ください。

(NHKのドキュメンタリー:朝鮮王朝 最後の皇太子妃
https://www.youtube.com/watch?v=Ul0l7GOkf34
(2016年11月8日時点)

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時は既に国号が「大韓帝国」と変わっています(1897年から)

1907年に<朝鮮王朝>第26代王・高宗(コジョン)が亡くなり、第27代王・純宗(スンジョン)が即位。
弟の李垠(イ・ウン)が世子(セジャ)に認めらます。
世子のイ・ウンは日本の皇室の梨本宮妃・方子妃と結婚(1920年)。
世子のお妃はピングンと呼ばれますので、李方子(イ・バンジャ)妃はラスト ピングン

次のカットは、NHKのドキュメンタリーより、雉衣(キジの刺繍があるクィイ)と呼ばれる、王妃とピングンだけが着ることができる最高位の大礼服(テレボク)です。

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(方子妃が創設した障害児の学校・明暉園(ミョンフィウォン)の博物館)

画像の女官たちの頭の髪型(モリ:頭の意味)はカチェと呼ばれるカツラです。
翼のようなカチェはトクジモリといいます。
また、次のような国立故宮博物館(ソウル)のテレボクを着ているクィーンのカチェはテスモリと呼びます。

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夫婦が国籍を得て韓国に帰ることを許されたのは1963年のことでした。
日本の外務省を通じ、朴正煕大統領(現大統領の父)と面会する方子妃。

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大統領のとりはからいにより帰国を許された夫婦でした。
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領といえば、
韓国経済に高度成長をもたらした人。
park chonhi


1970年代の
ソウル地下鉄、
江南(カンナム)の開発、
農村の改革(セマウル運動)など。

そして、
1988年のソウルオリンピックへとつながります。

日本は東京オリンピック(1964年)を契機に高度成長期に入りました。
ソウル地下鉄の建設は日本の技術協力、資金協力によるものです。

ところで、地下鉄の駅などのトイレ(化粧室:ファジャンシル)のこと。
風水の世界ではキッチン、風呂、トイレなどの水回りはとても大切です。

naoさんからは上記NHKの番組紹介と共に、次の記事が届いています。

香港のトイレ事情の記事

http://hongkong-bs.com/topics/2016110401/

なぜ、香港の地下鉄(MTR)にはトイレが無かったのか?
市民(地下鉄利用者)に提供すると、掃除が大変だから!
です。
更に、私が推測するには、トイレって意外に犯罪がある場所だと思いませんか?
爆弾テロとか、性犯罪、麻薬、テレビの見過ぎかしら?
日本も公園の公衆トイレでの犯罪…。
あ、香港の公園には公衆トイレあるなぁ。
やはり、掃除が大変!
だから、かな?
(by nao)

こちらはAPBさんからの、奈良「興福寺のトイレ事情」

猿沢の池から石段をのぼり、右手に五重塔と東金堂を望んで、
左手に南大門跡の土塀が続きます。
その一角の門をくぐると公衆トイレがあります。
とっても古いもので、設備も旧式です。

看板に「興福寺南大門跡 公衆便所 WC 」と消えかけた文字があります。 
時代もんです。
ぼう~と歩いていると、気付かず見過ごしそう。
門の中に見える建物がトイレです。
入口に高さが胸のあたりま での木の柵が見えます。
これは鹿除けの仕切り戸で、ぎぎ~っと開けて入ります。
(by APB)

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# ソウルの地下鉄の駅はどこも広く、レストランや商店街となっており、
したがって、トイレは改札口の外にあり、公衆トイレとして便利です。
なぜ東京のJRや地下鉄のトイレは改札内なのでしょうか?

ソウル郊外の仁川(インチョン)駅は地下鉄1号線の終着駅です。
次の写真の左側がトイレの入り口で、ここも改札の外です。
中もキレイに維持されています。

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こちらは標高2000m弱の済州島・ハルラ山の中腹にある休憩所のトイレ(写真の奥)。
この高さになると、水を運ぶのも大変です。
キレイなのですが、さすがに水の事情が良くないです。

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日韓の文化交流のために (その4)

オペラ「ラストクイーン」(梨本宮家の方子(のりこ)妃のこと)が11月1日と2日に再公演となりました。
主演・脚本は在日韓国人2世のソプラノ歌手、田月仙(チョン・ウォルソン)
舞台では雉(クィ)が刺繍が施された大礼服(テレボク)をみることができるそうです。

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国立故宮博物館(ソウル)は、昨年の冬から今年の春にかけて内部の一部改装と展示物の入れ替えがなされました。
下の写真の雉衣(クィイ)は、今年の7月に撮影したもので、一番新しい展示品です。
通常、王妃だけが着る最高位の大礼服(テレボク)なので、方子妃が身にまとったとすれば、日本人女性としては最初で最後だったと思います。

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(後ろからの撮影)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人たち④


<朝鮮王朝>最後の王族となるのは第26代王・高宗(コジョン)の子供たち。
明成王皇后との間に生まれた次男の李拓(イ・チョク)が後に(1907年)、第27代王・純宗(スンジョン)となります。
(長男は側室の子・完和君:12歳で早世)

そして、日韓の王室同士の姻戚関係を結ぶのが高宗の4男の李垠(イ・ウン:1897年生まれ)。
高宗が愛した側室・貴妃巌氏の子で、英親王と呼ばれています。
彼は10歳の時に日本に渡り留学生活を送ることになりますが、これはいわば人質であったと思われます。
そして、23歳の時に梨本宮家の方子(のりこ)妃と結婚しました(1920年)。

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梨本宮家の方子妃は1901年生まれで、李垠より4歳年下なので、1920年に19歳で結婚したことになりますが、婚姻を知るのは15歳の時です。
しかも、新聞報道で初めて自分の結婚を知ることになりました。
この時の彼女のショックは計り知れないものがあったと思います。

日本での40数年の結婚生活の後、1963年に李垠と共に韓国での生活となります。
この間には第2次世界大戦と1950年の韓国戦争があり、半島の庶民生活は辛く、王室もプサンへの逃避など、苦渋の時代だったので、身の安全を思えば彼女は比較的幸運でもあったと思います。
さて、
1963年というのは、既に韓国半島は日本の植民地支配から解放されて、ずいぶん時を経ています。
この李垠の帰国が遅くなった理由には、既に民主主義の国に変わっていた大韓民国政府が旧王家には冷たくなっており(大韓民国の初代大統領であった李承晩の時代)、帰国の許可が遅くなったとされます。
朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たしました。
夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮(チャンドッグン)内に住まうことになりました。

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(これは昨年撮影 @ 国立故宮博物館)

方子妃の韓国での活躍のこと

純宗が皇帝に就いた際に李垠(英親王)が世継ぎの皇太子に冊封されます。
時はすでに“大韓帝国”に変号されていたので、方子妃は皇太子妃なのですが、<朝鮮王朝時代>は世子の妃を“ピングン”と呼んでいました。
私としてはラストピングンのほうが可愛い響きに聞こえます。
なお、李方子なのでハングルでは(이 방자:イ・バンジャ)となります。

彼女の韓国での活躍のことは次のウィキペディアを読むだけで感動です。

韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。
趣味でもあった七宝焼の特技を生かし、ソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。
なお、"明暉"は李垠の、"慈恵"は方子自身のそれぞれの雅号である。
方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、1981年(昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
また、終戦後の混乱期に様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。
また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳皇后を始めとする皇族とも会う機会はあった。
1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。
葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。
後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。

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彼女の日記は同じく国立故宮博物館に展示されています。

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(2015.12 @ 国立故宮博物館)

# 方子妃の夫の李垠については、ウィキペディアには次の説明。

李垠(이은:イ・ウン)は、大韓帝国最後の皇太子で、大韓帝国時代の称号は英親王。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。
妃は梨本宮守正王第一女子方子。
李王朝が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となった。
幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院・陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。

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(2015.12 @ 国立故宮博物館)

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昨年(2015年)に日韓国交正常化50周年を迎えましたが、その起算点は?
ウィキペディアを引用します。

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約は、1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。
通称日韓基本条約
日本の韓国に対する経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などが取り決められた。
なお竹島(韓国名独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた。

# 私の個人的な考えですが、
その島の海域数海里は、“所有権・漁業権など”を両国が放棄して、周囲を自然環境保護区にするのが良いと思っています。

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日韓の文化交流のために (その3)

日韓の文化交流のために

(その1)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3008.html
(その2)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2979.html

日韓の文化交流のために(その3)

第26代王・高宗が亡くなったのが1919年1月で、その3月1日

「我々はここに我が朝鮮の独立国たることと、朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
この言葉で始まる独立宣言書が起草されました。

# ただし、これの直接の相手国が日本(抗日)だけだとする考え方は良くないと思います。
それまでの半島の歴史にあったように、半島は欧米の列強国から政治介入を余儀なくされ、独立運動家たちの母体であった「独立協会」は韓国半島が“全ての国から自主独立すること”であったからです。

以下、韓国観光のサイト“コネスト”から引用します。

三一節(サミルジョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが独立を願って行なった運動をたたえた祝日です。
http://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?no=440

3月1日は街中のいたるところで太極旗(テグッキ)が掲げられ、タプコル公園のある鍾路(チョンノ)では、毎年三・一独立運動で殉死した人々を追悼する記念行事や、独立を祝う記念行事が行なわれています。
普信閣(ポシンガッ)~ソウル劇場までの鍾路1~3街の800メートルの区間は歩行者天国になり、「万歳運動再現行事」をはじめとして、写真展・国楽フェスティバル・農楽(ノンアッ)など多彩なイベントが朝から夕方まで続きます。

またこの日を前後して、独島・竹島問題や歴史教科書問題など、日韓の歴史に関する集会やデモが行なわれることもありますが、観光を控えるほどではありません。
しかし、道を歩いていると「今日が何の日か知っている?」と年配の方に聞かれることもあるので、この日がどんな日であるかを知り、観光することをオススメします。

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# これからは未来志向が大切です
この11月には朴大統領の訪日が予定されています。

(昨年、今年と日韓首脳会談がありました)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人々③


黒船外交

幕末にペリー提督が率いる4隻の軍艦が到来して以降、日本はまず米国との和親条約を締結して開国の道を歩むことになりました。
当時の米国は、1823年の(第5代大統領)ジェームス・モンローの教書により、欧州などの他国への政治的・軍事的な介入はしないという、不干渉主義を宣言していました。
従って、政治的な意図ではなく、貿易による共栄共存を拡大するという対外政策でした。

ただし、江華島事件を契機に、日本が朝鮮王朝と締結した「江華条約」は米国にとっても都合が良かったのだと思います。
江華条約には2つのポイントがあって、半島が①開国することと、②冊封から独立することです。
2番目の点が重要で、朝鮮王朝が清から独立するということは、清が半島に政治・軍事介入するとなれば、日本も黙ってはいないということ。
つまり、米国は極東の安定化を日本の軍事力に任せたということになります。
1894年の日清戦争を米国は容認しています。
また、その10年後の日露戦争(1904年)を前に1902年には日英同盟(軍事同盟)が締結されているので、英国も日本の半島・大陸での行動を容認していたということになります。

2人の男

朝鮮王朝の政治家たちだけでなく、一般庶民の間でも、清の傘の下に入っての平和なのか、欧米や日本との協力関係で清の冊封から独立を勝ち取るべきかによって、王朝内は割れます。

王朝末期に大きな3つの事件が起きました。
まずは、1882年の「壬午(イモ)軍乱」
これは、西洋や日本に習って近代化を進めようとする派閥に対して、待遇が悪くなっていく守旧派勢力が反乱を起こした事件。
旧来の軍人たちが王宮や日本大使館を襲撃しました。
この際に再度復帰したのが興宣大院君です。
明成王后の力だけでは収束できず、守旧派を抑えるには大院君の力が必要だったからです。
王后が31歳の時です。

次いで、1884年の「甲申(カプシン)事変」
これは日本に留学して福沢諭吉の門下であった、金玉均(キム・オクキュン)が主導した改革派の事件で、王宮は占拠されました。
しかし、日本の後ろ盾を得た開化派の乱であったために、清が黙っておらず、軍事力でわずか3日で収束させます。
金玉均は日本に亡命、後に上海で暗殺されます。

(金玉均)
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3番目は有名な1894年の「東学党の乱」で、正式には「甲午(カボ)農民戦争」と呼ばれるものです。
東学は儒教・仏教などの東洋哲学を意味し、キリスト教の西学を受け入れないものの、基本的な思想は人間平等と社会改革をモットーとするもので同じだと思います。
政府内の混乱により農政が無視されていたので、全羅道(半島の南西)の農民を中心に、彼らの心のよりどころとなり、広がっていた思想で、リーダーは全琫準(チョン・ボンジュン)でした。
東学党は役所を襲撃して全羅道を征圧しました。
しかし、王朝政府とは和睦します。

(全琫準:1894年12月逮捕)
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度重なる内乱は、平定を口実に清と日本の軍隊の駐留を許してしまっていました。

# マクロ経済学でのプレイヤー(主体)は、政府と企業と私たち消費者の3者です。
政府には国家予算・財政収支、企業には企業会計、消費者には家計簿があるように、それぞれの勘定は別々です。
したがって、政治を追いかけるマスコミが“政府=国”と錯覚するような記事には強い違和感を持ちます。
現在の民主主義の下では“国=国民”だとの定義の方がしっくりときます。

政府、企業そして私たち国民と、それぞれに属する人たちの発想法には違いがあるはずだとは思います。
しかし、とくに、日韓併合(1910年)がもたらした大韓民国の国民へのネガティブな、国民の自尊心を傷つけるような歴史を作った両国の高官・政治家たちの責任は大きかったと思います。

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