FC2ブログ

岩波新書『韓国併合』

white rose 21
(2018.10.27@府中市)

日韓併合を考える⑧
~謝罪と許し

1.ドラマと史実

(1)1907年8月1日

これまでのドラマの中で折々に紹介した『韓国併合』(海野福寿『韓国併合』岩波書店、1995年5月)では、

軍隊解散は詔勅が発布された翌日の8月1日の午前10時、6000人余の将兵が対象となり、宮中侍衛の歩兵大隊640人だけが残された。

・「(詔勅の)知らせを受けた歩兵第一連隊第一大隊長・朴星煥(パク・ソンファン)の抗議の自殺をきっかけに、同大隊兵卒が蜂起し、…呼応した第二連隊第一連隊の将兵も…」
「2時間の激しい交戦となり、その後は市街戦に移った」

(ドラマ「第22話」より)
<1907年8月1日>
軍隊の解散詔勅

「逆らう者は殺しても良い」
2247a.jpg

パク・ソンファン第一大隊司令官

2247b.jpg
# 歩兵第一連隊第一大隊長・朴星煥(パク・ソンファン)の抗議の自殺です。

ジュニョンは士官候補生の先頭に立ちます。

「銃を手放してはならない!」
2247cc.jpg

スングがダイナマイトに火を付けて、宮中での大爆発

「!」

「後ろを振り向くな!」

そして市街戦へ…。

2255c_20181019215912173.jpg

路面電車の中からヒナも援護しました。

2255cc.jpg

(2)義兵の記録

・1907年から併合の1910年までの「交戦回数は2819回、14万人の義兵がこれに参加しました。1万7688名の義兵の血が山野を染めた。とくに1908年がピークをなす」

また、同書の第5章の「地域ぐるみの抹殺を図る」の中では、
・「たびたびの交戦で日本軍を苦しめた忠清北道堤川(チェチョン)では、討伐に向かった隊長が“将来に禍根を残さないため”と、村落の大部分を焼夷した」

・堤川を「取材のために訪れたイギリスの『デイリーメール』記者マッケンジーは、あまりのひどさに驚きを隠さず、『朝鮮の悲劇』に“堤川は地図の上から消え去った”と記した」

・「国内における抗日闘争が困難になった義兵たちは、鴨緑川(アムノッカン)、豆満江(トマンガン)を越えて間島(カンド)、沿海州へ移り、埋み火のように深く燃え続けて、三・一運動(1919年)後の大韓独立軍に伝統を伝えた」

(ドラマ「第24話・最終話」より)
4433nn_20181024214958919.jpg

「しかし、日本の奴隷にはなりたくないんだ。
 自由な人間として死んで逝きたいのだ」

「あなたは外国の記者だから、
 日本軍に見つからないように武器を買えるのでは?
 支払うから買って貰えないか?」

「申し訳ないが、記者だからどちらの味方もできない。
 ただ、写真を撮って実情を知らせたい」
4434w.jpg
(マッケンジー氏と通訳をするユージーン)

「遠くから来てもらってありがたい。
 どうか我々の戦いを世界に知らせて欲しい」

「マッケンジーさん。
 我々の写真を撮って下さって構いません」

「おそらく、
 義軍の写真はこの一枚だけになるかもしれない」
4439z.jpg

2.同書の「あとがき(p.243)」は次です。

「日本が謝罪を求められているのは個々の不法行為に対してではなく、朝鮮民族をまるごと支配した愚劣な行為であり、問われているのは日本人のモラルの再生状況なのである」
(著者が、1993年11月にピョンヤンで開催された国際討論会に参加した際の感想。
 なお、著者は1961年東京大学大学院卒(農業経済学博士)専攻・近代日韓関係史)

そして、
「韓国併合は形式的適法性を有していた。
つまり国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である、という平凡な見解である。
だが誤解しないで欲しい。
合法であることは、日本の韓国併合や植民地支配が正統であることをいささかも意味しない
当時、帝国主義諸国は、紛争解決手段としての戦争や他民族支配としての植民地支配を正当視していた。
彼らの申し合わせの表現である国際法・国際慣習に照らして、適法であるというに過ぎない。
日本はその適法の糸をたぐって、国際的干渉を回避しながら韓国を侵略し、朝鮮民族を支配し、「朝鮮の民族の奴隷状態」(カイロ宣言)を作り出したのである。
私たちにとって考えるべき問題の本質は、併合に至る過程の合法性如何ではなく、隣国に対する日本と日本人の道義性の問題ではないかと思う
(p.244)

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

以上、この海野福寿著・『韓国併合』岩波書店(1995年5月)にて、
「日韓併合を考える」のおわりとします。
(この著書はすでに古書となっているようで、ネットで検索して購入しました)
また、
以下のウィキペディアにて私が最終的に辿り着いた感想に代えたいと思います。

謝罪と許し

(ベトナム戦争・ソンミ村虐殺事件)
1968年3月16日、ウィリアム・カリー中尉率いる米軍の小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺した。
集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2018年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。

ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。

フリーランスジャーナリストのシーモア・ハーシュが、雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり、『ライフ』誌の報道などでも、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。
ハーシュの記事は「My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath」としてまとめられ、1970年度ピューリッツァー賞を受賞した。

ウィリアム・カリーは41年経った2009年8月19日、ジョージア州コロンバスで開かれた奉仕活動団体の昼食会に出席し、事件について口を開き、謝罪した
これに対し、3人の生存者の一人で犠牲者追悼活動を続けるパン・タン・コン(ティンケ村記念公園博物館長、事件当時10歳。家族を皆殺しにされ孤児となった)は23日、
・「謝罪は無いものと思っていた、あまりにも遅くて驚いたが、犠牲者を代表して受け入れたい
・「カリー氏にはベトナムに来て、当時とその後40年の思いを語ってほしい」と述べている。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村
スポンサーサイト

文春新書『韓国併合への道』

fuki.jpg
(ツワブキ:2018.10.20)

日韓併合を考える⑦
~『韓国併合への道』(文春新書)

(本書のタイトルにあるように「日韓併合」ではなく「韓国併合」です)

王朝絵巻>(右コラム)でも何度か述べていますように、
当時の人口の1割ほどを占めた支配者階級の中で、政治抗争とラブロマンスをミックスさせた史劇が過去には多かったように思えます。
これが最近は、常民以下の9割ほどの民百姓へと目線を変化させているように感じます。
支配者層を美化することに視聴者が飽きたのでは?

『六龍が飛ぶ』ではプニと言う名の庶民代表のヒロイン、『逆賊』ではホン・ギルドンという名の賤民代表のヒーローが活躍しました。
今回紹介する呉善花(オ・ソンファ)『韓国併合への道』文芸春秋(新書:2012.7)は、支配者階層および知識人たちへの批判が込められています。
同書のpp217~225から、以下を抜粋しました。

1.独立の英雄か併合の反逆者か?

「戦後歴代の韓国政府および韓国を代表する知識人たちは、合邦運動を進めた李容九(一進会)ら、合邦条約に調印した総理大臣・李完用(#)らをはじめとする多数の“親日派”ならびに“併合推進派”の人々に“売国奴”の烙印を押したまま、いまなお許そうとはしていない

ドラマ第22話より:王宮でのシーン
# 字幕では1905年と1907年の反逆者とされています。

「陛下、なぜハーグに密使を派遣したのですか?
 伊藤総監がお怒りです」
(# 日本との議定書を無効とする密使をオランダ・ハーグに派遣した事件のこと)

「大臣たちは、皆同じ考えなのか?
 私の命まで差し出せと言うのか?」

「日本軍には我々の軍は敵いません。
 彼らとの戦争などはもっての他です」
2244b_2018101915361676b.jpg
(# 李完用:イ・ワニョン)

他方、
「李朝-韓国の積極的な改革を推進しようともしなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。
彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自に独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」

さらに、
「国内で表立った活動をすることなく外国で抗日活動を展開した安昌浩(#)や李承晩らを愛国者・抗日の闘士と高く評価するといったバランスシートは、私にはまったく不当なものと思える」

<ドラマ第22話より:ニューヨークでのシーン>
(軍法会議で受けた3年の実刑から釈放された後に、街で留学生に出会います)

「3年になる。
 現在の朝鮮のことを話して欲しい。
 これまでのことを知らないので、
 日露戦争のことから教えて貰いたいのだが…」
2244ff_2018101915485525b.jpg

「3年間も離れていたら分からないと思います。
 日本が戦争に勝ち、
 1905年には日韓協約に強制的に署名させられました。
 国の基本的な尊厳を奪われたということです。
 朝鮮総監府が設置され、
 日本の管理下に置かれることになったのです。
 アメリカは最初に軍を派遣したものの、
 最初に引き上げ、公使館も閉鎖しました。
 庶民は苦渋を味わっているところです」
an choan ho
(# 安昌浩:アン・チャンホ)

2.「農民の疲弊から遊離した知識人たちの責任」

「李朝は次のような政治的伝統をもっていた。
①世界に類例を見ない硬直した文治官僚国家体制
②中華主義に基づく華夷秩序の世界観
③大国に頼ろうとする事大主義
儒教国家を保守する衛正斥邪の思想
また、ヘンダーソンが言ったように、
すべての非正統的活動を執拗に排除しようとする嫉妬深い中央集権主義の伝統とも無縁ではなかった」

・「挙国一致体制を生み出すことができなかった」

・「下からの改革を巻き起こす第一の条件は、当時の大衆である農民の幅広い団結を生み出すところにあったのは言うまでもない。
この条件もまた、ついに達成することができなかった」

・「日本の保護国になってから併合されるまで、最も強固な抵抗を示したのは、儒生や旧将校らが農民を組織した義兵闘争だった」

・「農民蜂起の根底にあるのは生活の疲弊である。
だからこそ時の権力に対して命を賭けた武装闘争を展開した。
政権が新清だろうと親日だろうと親露だろうと、あるいはそれらの国が政治の実権を握っていようとも、農民たちが疲弊しているということは何ら変わりもなかった。
油が注がれればいつでも爆発した」

・「農民たちの命を賭けた蜂起を全国的に組織することができない知識人たちがいた。
また、呼応しようとすらしない知識人たちがいた。
抗日闘争をした、独立運動をしたということで愛国者とされてきた人々については、そうした意味から責任が強く問われなくてはならないだろう
なぜなら、それもまた日本に併合される事態を招いた李朝-韓国側の大きな要因だからである」

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

明の時代から清まで、大陸の冊封制度という安全保障の傘の中にいた<朝鮮王朝>ですから、欧米列強の帝国主義の大波が押し寄せても鈍感だったようです。
お隣の日本が富国強兵を進めていることを知ってはいたものの、500年以上も大陸の国に保護されていたためでしょうか、国内の西洋化(近代化)に反対する儒教の思想家も少なくなかったようです。

ノブレス オブリージ
(ウィキペディアより)

ファニー・ケンブルが、1837年に手紙に「……確かに『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが、この言葉が使われた最初である。

倫理的な議論では、特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー(英語版)」を要約する際に、しばしば用いられる。
最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。

日韓併合を考える①
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3764.html

日韓併合を考える②
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3765.html

日韓併合を考える③
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3767.html

日韓併合を考える④
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3768.html

日韓併合を考える⑤
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3777.html

日韓併合を考える⑥
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3794.html

# 以上は、ブログの右コラムの第26代王髙宗に収録しています。
「日韓併合を考える⑧」は、11月3日の予定です。
岩波新書より『韓国併合』を紹介したいと思います。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

遠い歴史

sikouno.jpg

日韓併合を考える⑥
~遠い歴史

1.日韓協約

(ウィキペディアより)

日韓協約とは、日露戦争から韓国併合にいたる1904年~1907年の間に、日本と大韓帝国(李氏朝鮮、韓国)との間で締結された3つの条約の総称。
これらの条約により日本は韓国を事実上の保護国とし、1910年の韓国併合へ進んでいくことになる。
・第一次日韓協約(1904年) - 韓国の財政と外交の顧問に日本の推薦者をおくことを定めた。
・第二次日韓協約(1905年) - 韓国は外交権を日本に譲渡し、日本の保護国となった。
・第三次日韓協約(1907年) - 韓国の高級官吏は日本がおいた韓国統監府が定めた日本人になる事が定められ、内政も日本の管理下に入った。

また、ドラマでも見られたように、次のサイトでは、岩波新書(海野福寿『韓国併合』1995)から引用しつつ、以下のように記述されています。
https://www.y-history.net/appendix/wh1403-059.html

日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で日本は大韓帝国(韓国)に対する保護権をロシアに認めさせた上で、1905年11月、大韓帝国(韓国)との間で第2次日韓協約を締結した。
これによって日本の韓国保護国化が確定したが、日本は特派大使伊藤博文を派遣し、軍隊も出動して圧力を加えた上で、締結を強要した。
その干支から乙巳(いっし)保護条約とも言う。
その内容は、朝鮮の外交に関する一切の事務は東京の日本外務省が指揮監理すること、日本の仲介なしに外国と条約・約束を一切結ばないこと、日本政府の代表者である統監を置き外交を監理させること、など外交権を日本が奪ったものである。
このように、この第2次日韓協約は、外交権という主権国家としての権利を奪い、韓国を保護国化したものである。

第2次日韓協約を成立させるにあたり、伊藤博文は特派大使として韓国皇帝高宗に面会した。
皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地位を失うことをこばんだ
それに対し伊藤は「もし韓国がこれに応じなければ、いっそう困難な境遇に陥ることを覚悟されたい」と威嚇し、即決を促した。
その上で、日本軍が王宮前や目抜き通りで演習と称する示威を行い市民を威圧した。
さらに御前会議を開催することを要求、皇帝が病気を理由に欠席すると、閣議というかたちにし、護衛の名目で憲兵に付き添われた伊藤と林権助が出席して同意を迫った。
伊藤は五人の閣僚の曖昧な態度を強引に賛成と決めつけ、多数決で採決されたとして外相に署名をさせた。
閣僚の一人は涙を流して辞意を表明し退席したが、伊藤は「余り駄々をこねるようだったらやってしまえ」と大きな声で囁いた。
宮廷内は日本兵が充満していた。
<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書>

なお、このころから武力抗争に発展したと考えられる「義軍運動」のことを、山川出版社の『詳説世界史図録』では、
1905 義兵闘争始まる」(p.301)と書かれています。

2222c_20181018204934389.jpg
(この時代の電話:髙宗とヒナのホットラインです)

2.ドラマを見ていての所感

「日韓併合を考える④」では臨時政府のことに触れました。
当時の満州には、1909年の約7万人から1931年には70万人にまで増加していたとのこと。
上海にも満州にも義軍あるいは独立軍としての活動家がたくさんいたと思われます。
また、家族との人生を他国(避難)に求めた人も多かったと思います。
今でも中国北部には韓国語と中国語を話す人たちが多く住んでいます。

こうした激動の歴史の中にいた韓半島の人々。
そもそもは欧州や日本の帝国主義列強に四方を囲まれてしまったという現実。
それに対抗するだけの(防衛を果たせるだけの)軍事力、経済力の近代化が遅れていたことも現実。

ドラマの中のユージーン、ヒソン、ドンメ、それにヒナは米国と日本でそれぞれが生活していたので、朝鮮には帝国主義列強から自国の独立を守るだけの力がなく、歴史に流されていくことが読めていたようです。
4人ともエシンには、“なぜ両班の令嬢”としての安全な道を選ばないのかと直接・間接に言っています。
それほどに義兵たちの力も限られたものだったようです。

今の民主主義の時代から思えば、何とも馬鹿々々しい帝国主義・全体主義の時代なのですが、その遠い歴史の時代に生きた人たちの青春にとっては現実。
身の危険も晒される選択を迫られていたのだと思います。

4ninn.jpg

以前、全羅南道の副知事との会話の中で、彼は「遠い国ほど仲良くなれる」との反語的比喩をしました。
第二次インドシナ戦争とも呼ばれるベトナム戦争は、1975年のサイゴン陥落により終結。
つまり、その後に生まれた人は既に40代ということになります。
ドラマのエシンは1875年生まれなので、ベトナム戦争の終結はちょうどその100年後。
「遠い歴史ほど仲良くなれるのか?」
歴史を踏まえて、“仲良くなりたい”ものです。

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

長い編集期間を経て時代考証などが終り、放送が始まったドラマのようですが、
どうもこのドラマ『ミスターサンシャイン』は、<朝鮮王朝>への私の一連の興味を締めくくるようです。
王朝がなぜ始まり、なぜ終わったのかではありましたが、
上昇カーブを描いたのは第22代王・正祖(セジョ:イ・サン)までで、
以降は政治的な腐敗の暗黒時代に陥り、
これが西欧列強に比べて近代化が遅れた一つの原因だったと思います。

韓国ドラマは喜怒哀楽や恨みを明確に描いてくれるのでとても分かり易い。
でも一方では、
自分と相手を見つめる厳しい目線(複数)がセリフに光ります。
過去の出来事であっても、
「一生、罪の意識を背負って生きて欲しい」との言葉を残すこともあれば、
過去の罪や、対するその恨みを静かに「許す」ドラマの演出もあります。

罪を犯した者は許しを乞うべく真心から謝罪しないといけないと思います。
しかし、当事者たちが元のように“仲良く”なるためには、
被害を受けた者からの「許し」がない限り不可能だと思います。

私たち現代人からみると、遠い歴史でありますが、
許し合う時」が来るのを期待しつつ、静かに待ちたいと思います。

# この「日韓併合を考える⑥」までで、おおよそのことが把握できたと思います。
来週の「日韓併合を考える⑦」では文春新書『韓国併合への道』、再来週は上記の岩波新書を紹介したいと思います。
この2冊はお勧めです。
タイトルにあるように「日韓併合」ではなく「韓国併合」です。

日韓併合を考える①
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3764.html

日韓併合を考える②
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3765.html

日韓併合を考える③
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3767.html

日韓併合を考える④
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3768.html

日韓併合を考える⑤
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3777.html

日韓併合を考える⑥
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3794.html

(以上は、ブログの右コラムの第26代王髙宗に収録しています)

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

Sad Ending

hanamizuki_20181004151507209.jpg
(ハナミズキの実:2018.10.04)

日韓併合を考える⑤
Sad Ending~悲しい結末

1.ドラマの結末

既に韓国では『ミスターサンシャイン』の最終回(第24話)放送が終わっています。
(秋夕により1週間延びた放送だったようです)
まずは、Kstyle Newsからのコピペです。

イ・ビョンホンがキム・テリと義兵を助けるために、自分を犠牲にし、死を迎えた

9月30日に韓国で放送されたtvN「ミスター・サンシャイン」最終回ではこの日、ユジン(イ・ビョンホン)は、エシン(キム・テリ)が守ろうとした朝鮮人たちが日本軍に殺される危機に置かれた彼女を守るために、命をかけて守った。
結局エシンは助かり、彼女は引き続き、国のために義兵活動を続けることができた。

健康が悪くなったク・ドンメ(ユ・ヨンソク)は、最後にエシンと会った。
彼女はお金を返しに来たと、彼に会いに来た。
彼女は彼を助けたいと話した。
しかし、ク・ドンメはこれを断った。
エシンは「贅沢な両班の娘が私をどれだけいじめたのか知っているのか」と話した。
ク・ドンメは日本で彼を殺しに来た日本人と戦い、結局、死を迎えた。
彼は死んでいくところ、エシンとの出会いを思い浮かべる姿を見せ、切ない純愛を見せた。

sad1.jpg

キム・ヒソン(ピョン・ヨハン)も義兵を助けた彼の行動が日本軍にキャッチされ、結局彼は連れて行かれ、ひどい拷問を受けていたところ、死を迎えた。

sad2.jpg

義兵の拠点が次第に露出され始め、結局ファン・ウンサン(キム・ガプス)は義兵を満州に送ることを決心した。そのためにファン・ウンサンはユジンに助けを求め、ユジンは義兵になった彼らと共にすることにした。
エシンならびに子どもたちと女性たちが先に列車に乗った中、義兵たちの計画が露出された。
結局、ファン・ウンサンが率いていた残りの義兵たちは、日本軍に包囲された。
ファン・ウンサンは、
「僕たちがここにいて、怖かったが、最後まで戦ったと教えてあげないと」と死を覚悟した。
結局、義兵たちは死を覚悟して日本軍と戦った。

sad4.jpg

一方、日本軍は列車に暴徒が乗ったとし、列車を遅延させた。
日本軍がこれ以上来る前に列車を出発させなければならないと、エシンはユジンが来るまでに急ぎ、ユジンはやっと列車に乗ることができた。
続いてユジンは日本軍と戦うエシンのために自分を犠牲することにした。

彼は「僕のヒストリーで、僕のラブストーリーさ。だから行く。あなたの勝利を願いながら……。あなたは進んでいきなさい。僕は一歩下がるから」と話し、車両を分離させた。続いて彼は彼女の目の前で銃で撃たれ、死を迎えた。エシンとユジンの愛は、結局サッドエンディングを迎えたのだ。

sad3.jpg

2年後、エシンは変わらず満州で義兵を教え、祖国のために取り組んでいた。
彼女は「さらば、同志たち。独立された朝鮮でシー・ユー・アゲイン」と独白し、重みのある感動を届けた。

sad5.jpg
元記事配信日時 : 2018年09月30日22時55分
記者 : キム・ジナ

# 二人が米国に旅立つことを期待していただけに残念な結末のようです。
多くの義兵たちが命を奪われ、戦争で青春を奪われる中で、ユージーンとエシンだけが幸せな結末を迎えるような脚本は難しかったのかもしれません。
工藤ヒナなどから“Love”や“Sad Ending”の英単語を最初に習ったエシンでしたが、その言葉がドラマの伏線だった…。

2.日韓併合後のこと

これまで、『だれも書かなかった日韓併合の真実』の併合前までのことを紹介しました。
しかし、さらにその先の併合後の“日本の統治政策”となると、様々な視点からの歴史への評価があって、取り扱うのが非常に難しいテーマだと思います。

上掲書の著者・豊田隆雄氏は“序章”で、
「これ(併合と同化政策)を指して、韓国人や日本の学者のなかには、“朝鮮民族の抹殺を図った”という物騒な物言いをする人もいるが、そう単純な話ではない」

そして、「おわりに(p.200)」では、
「もう終わったと思っている日本と、まだ終わっていないと思っている韓国。
今後、お互いが協力し合う良好な関係になる日は来るのだろうか?
すぐに実現することは難しいだろう。
それでもやはり、都合のいい事実をつなぎ合わせるのではなく、歴史をきちんと見つめることが大切だと私は考える」

もう一冊の本。
ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー著:塩谷紘訳『日本の朝鮮統治を検証する:1910-1945』(2013.08、草思社)の「訳者あとがき(p.306)」では次です。
「当時としては驚くほど現実的…、日朝の発展を意図した」とあり、
他方、
「現代の日本人が誇りを持って語れない汚点があったことは否めません」

ミスターサンシャイン』第18話より、
イ・ワンイクと森大佐の会話

「朝鮮の民族精神を棄損するのだ。
 朝鮮の民族主義者を抹殺することだ」

「…」

「これが私の進む道だから、よく理解しておくように…。
 それに、
 お前のような下層の朝鮮人が私にため口を効くのは許せない」
1834_20180926175154943.jpg

3.第2次世界大戦の前後

満州ではロシア政府の支援を得て、社会主義の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へと展開。
上海・重慶では中華民国(現在の台湾)の支援を得て、現在の大韓民国建国へと発展していきました。
そして、
1950年の「韓国戦争」(日本では朝鮮戦争と呼ばれる)と繋がります。
映画『仁川上陸作戦』
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3498.html

以上は、次の3冊などを参考にしました。
・豊田隆雄『誰も書かなかった日韓併合の真実』(2018.05、彩図社)
・ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー著:
塩谷紘訳『日本の朝鮮統治を検証する:1910-1945』(2013.08、草思社)
・朴永圭『朝鮮王朝実録』(2012.03、キネマ旬報社)

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

「韓国併合を考える④」では臨時政府のことに触れました。
当時の満州には、1909年の約7万人から1931年には70万人にまで増加していたとのこと。
上海にも満州にも義軍あるいは独立軍としての活動家がたくさんいたと思われます。
また、家族との人生を他国(避難)に求めた人も多かったと思います。
今でも中国北部には韓国語と中国語を話す人たちが多く住んでいます。

こうした激動の歴史の中にいた韓半島の人々。
そもそもは欧州や日本の帝国主義列強に四方を囲まれてしまったという現実。
それに対抗するだけの(防衛を果たせるだけの)軍事力、経済力の近代化が遅れていたことも現実。

次週(20日)、「日韓併合を考える⑥」にてドラマの感想も交えたいと思います。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

市民階級の成長

murasaki to kurono
(2018.09.08@Nagasaki)

日韓併合を考える④
市民階級の成長と臨時政府


1.独立協会
(朴永圭『朝鮮王朝実録』より)

①1896年4月、
前年にアメリカから帰国したソン・ジェビルにより「独立新聞」が創刊されます。
さらに、7月になると独立協会を創立させます。
目的はアメリカで学んだ自由主義と民主主義の思想を広く民衆に伝えるためでした。
ドラマ『ミスターサンシャイン』でも、ユージーンが参戦した米比戦争の模様のシーンが新聞記事と共に描かれました。

②「彼らの勢力はたいがい西欧民主主義制度に憧れていた知識層で、初の市民階級とも言える」
「独立協会は、こうした新知識人たちの思想と新興市民層だった商人の資本が結合」
1897年には、高級官僚たちも集い会員は約2000人を超えました。

③ところが、
「独立協会の拡大を憂慮する(保守)反対勢力は、皇国協会を作って独立協会を瓦解させようとした」
この保守勢力は、独立協会が“王政を廃止”する者たちだとの“匿名の文書”によって高宗を動かして、
独立協会を廃止させました。
当時は協会会員が4000人を超えていたとのことです。

ウィキペディアより引用。

独立新聞』(독립신문)は、1896年に朝鮮国(李朝)で創刊された新聞。
漢文を用いずハングルのみ(ただし創刊時は英文記事も併せて掲載された)で書かれた初の新聞であった。
dokuritusinbun1.jpg

2.三.一独立運動
(以下は、豊田隆雄『誰も書かなかった日韓併合の真実』より)

1918年(第1次世界大戦中)、米国のウッドロウ・ウィルソン大統領が提唱した「民族自決」主義に啓発された学生たちが、日本で決起集会を開いたことが直接の要因。

①1919年1月21日に高宗(自殺説と暗殺説あり)が死去。
そして、1919年3月1日に日本留学中の朝鮮人学生が行動(独立決起集会)を起こしたのをきっかけに、3.1独立運動が起きます。

②「2月27日までに宗教界の代表者33人が署名を終えた」
「パゴダ公園に集結し、独立宣言文を読み上げることを計画していたが、…実際には実行されることなく、…集合場所を近くの料理店に変更」
しかし、
「学生たちを中心に“独立万歳”をさけぶデモ(全国で100万人を終えた)が行われるようになる」
(弾圧によりデモでの死者が500人を超えました)

3.大韓民国臨時政府

①1919年4月、上海のフランス疎開地において「大韓民国臨時政府」が創設されます。
大統領には当時アメリカに亡命中の李承晩が選ばれ、翌年12月に臨時政府に合流しました。
臨時政府を担ったのはキリスト教系の組織と学生が中心。

②臨時政府の樹立に先立ち、
それまでの「漢城政府が、満州やシベリアなどのロシア領では露領政府が発足している」
こちらは、社会主義勢力が担っていました。

③ただし、上海勢力(①)と露領勢力(②)は、外交活動(上海勢力)か武力闘争(露領勢力)かで意見の不一致が少なくなかったようです。

④最初に選ばれた李承晩臨時政府大統領が両勢力をまとめる役目を持っていたものの、彼が、ウィルソン大統領に「国連による委任統治安を提唱」したことで、「妥協的」だと猛反対されて、1925年には大統領を解任されてしまいます。

⑤「1940年には、本部を(中国)国民党と同じ重慶に移し、9月には独自の軍隊である“光復軍”を設立した」
設立した当時はわずか30人でした。

4.ドラマの義兵たちの行方

ドラマ『ミスターサンシャイン』は史実に基づいた、フィクションです。
ただし、第26代王・髙宗や米国のアレン公使、日本の林公使は実在しました。

架空のエシンやユージーンはどこに向かうのでしょうか?
史実の義兵・義軍は満州では戦闘(ゲリラ戦)を繰り返します。
他方、上海に終結した人たちは上記のように、李承晩臨時政府に合流。

当時の満州には70万人もの朝鮮人が暮したとのことで、また満州(瀋陽が中心)の人々は社会主義教育を受けて、現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国に向かうことになります。

エシンとヒソン(第20話より)

「新聞社を設立したと聞いています。
 私は文章の力を信じてはいませんが、
 あなたを信じています」

「文字にだって力はある。
 だから、誰かが義兵たちの記録を残さないといけない。
 愛国者と反逆者の記録だ」

「応援します」

「去る前にホテルに寄って欲しい。
 ⑧番ボールの裏に君のために隠している物がある。
 危険に面した時のためだ」

「そうします。 お元気で…」
2000h_20181004120029392.jpg

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

『誰も書かなかった日韓併合の真実』の序章の結語は、
「感情に流されず、一面的な事実だけに依拠しなければ、その実態が見えてくるはずだ」
また、
「こうしてみると、日本は自国の独立を守るためとはいえ、かなりの無茶をやってきたことがわかる」
「日韓併合が(対等合併を期待した)一進会の予期せぬ方向に向かったのは確かだろう」

これまでの
日韓併合を考える①
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3764.html

日韓併合を考える②
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3765.html

日韓併合を考える③
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3767.html

次は10月13日の夕刻にアップします。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

日本の考え

9gatumatuno kannan
(カンナ:2018.09.17)

日韓併合を考える③


1.歴史と言葉の定義

(1)日清戦争までのこと

アジア独特の「冊封制度」は明の時代に完成されたそうです。
そして清の時代にも引き継がれます。
この制度は「冊封」という、いわば安全保障条約により、「朝貢」と引き換えに朝鮮王朝は明国からの軍事保護を得ることができるというものです。
大陸の皇帝よりもワンランク下の国王のタイトルではあるものの、制度の特徴としては、自由な内政と外交の主権を持っていました。
つまり、欧州が19世紀に進めたアフリカや東南アジアの「植民地化」や「属国化」とは違い、独自の内政・外交の主権が認められていたということです。

日本は日清戦争を通じて、韓半島を「冊封国」から解放。
同時に科挙制度などを廃して、さらなる韓半島の近代化を促しました。

(2)日露戦争前後

先の「伊藤博文の考え」(http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3764.html)にあるように、伊藤は「植民地経営はコストがかかる」こともあり、「保護国化」の政策が良いと思っていたようです。
どちらかと言えば、「冊封国」に近い考え方だと思います。
しかし、半島の人々は清に変わり日本の保護下(冊封)に入ることを嫌った。

急進的な日本の行動に対して、同じく「伊藤博文の考え」で書いた「一進会」のこと。
この半島の団体は日本との「対等合併」を目指したようです。
保護国化による上下関係を避けて、よりももう一歩踏み込んだ親日的な、対等関係を築く動きだったと考えられます。

王朝末期に使われた日本の紙幣
(日本の第一銀行が発券した紙幣:1902年)
itienn.jpg

2.日本から見た日韓併合
今回も『誰も書かなかった日韓併合の真実』より、以下を抜粋・引用します。

①「そもそも、日本が朝鮮を併合しようとしたのは、軍事的な理由による。ロシアから自国領土を守ることが第一の目的だ」
「不凍港を求めて南下するロシアが朝鮮半島に進出するのは、時間の問題だった」

②「明治政府は、自国の独立維持のためには、隣国である朝鮮が外国に侵略されないことが大事だと考えていた」
「…後に保護国化、合邦化へと方向転換していくことになる」

③「しかし、軍事力を背景にする性急な日本の改革に、朝鮮内部では不満の声があがった」

④「日本政府内では強硬論、具体的に言えば保護国政策が支持を集めるようになっていく」
「政策として本格的に掲げられるようになったのは、1901年の桂内閣のとき」

⑤「日本の影響力が他国に抜きんでる状態になったが、これに反発する義兵運動が朝鮮各地で起こり、かえって治安が不安定になってしまう」

⑥「日本の国内世論は、次第に…合邦(化)の声が強くなっていった
「その声は、日本支配に反対する高宗が、ハーグで開かれた国際会議に密使を派遣し、日本支配の不当を唱えようとした“ハーグ密使事件”後に高まった」

⑦「日本政府は…、イギリス、ロシア、アメリカの承認を段階的に得て国際社会と同意を取り付けると、1910年8月22日、“韓国併合に関する条約”を結び、ここに日韓併合が実行されたのである」

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

これまでの
日韓併合を考える①
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3764.html

日韓併合を考える②
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3765.html

次いで↓です。
(『ミスターサンシャイン』第15話より)

髙宗は伊藤博文と日本軍の幻想を見ます。

1522b_2018091703341635d.jpg

「伊藤博文が宮中にいた…。
 日本軍も取り囲んでいた…」

「…」

「お前は見なかったのか?」

「…」

「ロシアに背を向けるのべきではなかった。
 美国も同情してはくれないではないか…」
1522bb_201809170334130ac.jpg

1905年11月。
高宗は在韓の米国人宣教師ハルバート(Hulbert)に、 米国の支援を得るべく密書(アメリカの国務長官宛て)を託しました。
しかし、既に米国と日本の間には「桂・タフト協約」が結ばれており、米国は何も行動しませんでした。
なお、この協約は1905年7月の覚書であり、1924年(大正13年)まで公表されなかっものです。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

義兵運動と日本軍

mukuge4.jpg
(韓国の国花のムクゲの花:2018.09.08@Nagasaki)

日韓併合を考える②
teuxon.jpg
(興宣大院君)

朝鮮半島への近代化の波が押し寄せる中、当時の王朝は有効な対応ができなかったようです。
ドラマの最初にあった1871年の“辛未洋擾(シンミヤンヨ)”の際に、朝鮮を開国させようとしたアメリカのロー公使は、
「朝鮮はペリー提督出向前の日本よりもいっそう厳しく鎖した国土である」と評しています。

# ドラマにあった辛未洋擾(신미양요、シンミヤンヨ)
当時の清に駐在していたフレドリック・ロー公使の要請によるもので、5隻の軍艦を率いたのはジョン・ロジャース司令官

艦上の司令官

「我々はまだ外交関係を締結できません」
(米国海軍士官)

「朝鮮の議会は安心ができないようだ。
 しかし、日本での経験からの反省もあり、
 軍事力で開港を求める訳にはいかない。
 これまでの米国の方針により、戦争捕虜たちは釈放する」
(提督:ロジャース司令官)
122z.jpg
(KJS『ミスターサンシャイン』第1話より)

前回に続き『誰も書かなかった日韓併合の真実』より抜粋・引用します。

①「19世紀半ばの朝鮮半島で実権を握っていたのは、国王(高宗)の妻・閔妃(ミンビ)だ」
「もともとは高宗の父である大院君が政権を掌握していたが、…」閔妃が有力な官僚や改革派の一部を取り込んで、大院君を追放しました。

# 高宗の実父・興宣(フンソン)大院君の名は李昰応(イ・ハウン)
# 高宗の妻・明成(ミョンソン)皇后・閔妃(ミンビ)の名は閔玆暎(ミン・ジャヨン)

②ただし、閔妃政権の特徴は「近代化を目指しながらも一族の利権を優先したことにある」

③「日本が日清戦争、日露戦争に踏み切った原因の一つも、…閔妃が清、日本、ロシア、アメリカへと次々と接近する国を変えたり、高宗自身が近代化を拒んだり、…義兵運動や農民運動を防ぐことができなかったりしたことで、朝鮮の独立が脅かされることを日本は焦った」

④しかし、日本のその焦りが強硬論に繋がり、「親日派にテコ入れして内政干渉を強化する強気な策をとっていくのである。当然ながら、朝鮮における日本への反発はさらに高まっていき、義兵運動が増えていった」

⑤「なぜこのような反発が起きたのだろうか?
それは、これまで朝鮮の独立を唱えてきたはずの日本が、独立とは正反対の保護国化を決めたからである」

⑥「ハーグ密使事件後さらに拡大した。日本は韓国政府に第3次日韓協約を結ばせ、内政権を掌握して軍隊を解散させ…」
しかし、「一部の軍人が民衆蜂起に加わり、反日武装闘争抗日ゲリラなどで抵抗するようになったのだ」

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

(KJS『ミスターサンシャイン』第1話より)
<1871年6月10日、第26代王・高宗即位後8年目>

「彼らは江華島への侵入許可を求めて来ました。
 5年前に外国商船を焼き討ちしたことの見返りなのですが、
 今回は外交関係の樹立を求めて来ました」

「美国(アメリカ)とはどのような国なのか?」
100d_20180710163650a64.jpg
# 第26代王・高宗(コジョン)

「アメリカはワシントンが英国との交渉により建国して独立した国です。
 村のような国だと思って下さい。
 北方のオランケ(# )みたいなものです」

「そうです。戦って排斥して下さい」

「では…?」

「オランケとの国交などありえません」

「…」

「江華島の兵力と砲台を増やして下さい」
100cc_2018071016365105c.jpg
# 興宣(フンソン)大院君(テウォングン)
オランケ=女真族などを“蛮族”と蔑む言葉。

# 次の写真は明成(ミョンソン)皇后・閔妃(ミンビ)として広く出回っていますが、
後世の研究により“本人ではない”と結論されました。
当時の閔妃の写真は、暗殺後にすべて焼却されたということです。

mionbi.jpg

# 次の「日韓併合を考える③」は29日に予定しています。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

伊藤博文の考え

日韓併合を考える①
ito.jpg

1.初代統監・伊藤博文の考え

1905年、伊藤博文は第2次日韓協約により設置された統監府の初代統監に就任しました。
そして、天皇の名代として激化する義兵運動を軍隊によって鎮圧するなど、半島の治安維持を図ろうとしました。
その後、
1909年、ハルビン駅にて、民族主義者により暗殺されるという悲劇に遭遇するのですが、それまでの伊藤博文の考え方を『誰も書かなかった日韓併合の真実』より抜粋引用します。

①伊藤博文暗殺事件の背景には、「日本が約束を破って朝鮮を保護国化したことが理由の一つだ」
しかし、「日韓併合反対派の伊藤が暗殺されたことで日韓併合が早まった(1910年)と言われることがあるが、それは誤解だ」

②伊藤は総監時代の前期には「植民地経営にはコストがかかることを懸念していた」
つまり、朝鮮半島が自立するまでの間は一時的に保護国化した方が良いとの考え方だったようです。

③ただし、1907年の日露協商締結交渉の際には、「ロシアに対して、朝鮮との合併の承認を得ようとしていた」

④しかし、伊藤の「保護国化論」には朝鮮民衆の大反対があり、「1909年前半には保護国化を諦めていた」

⑤その後の統監辞任後「枢密院議員」となって、「桂太郎首相から日韓併合の可否を尋ねられた際、特に反対もせずにこれを承認している。伊藤が暗殺されなかったとしても、日韓併合は予定どおり進めてられていただろう」

2.半島の一進会

時期を同じくして、朝鮮国内では日本と朝鮮との「対等合併」を唱える勢力がありました。
1904年12月に設立された「一進会」という団体です。

①一進会の前身の進歩会は「日露戦争中に約5万人を動員して日本陸軍の鉄道建設工事や弾薬の運搬などを支援していたという」

②一進会は日本の国家主義団体を通じて日本政府との連絡を取るようになり、「1907年に成立した李完用(イ・ワニョン)内閣はには、一進会出身者が入閣するほど勢力を拡大していた」

③1910年8月18日、「日本側の意を受けた首相の李・完用が(第27代王)純宗(スンジョン)皇帝に対して、“日韓併合に関する条約”の締結を昌徳宮で奏上した」

④「一進会も支持していたとはいえ、彼らが唱えたのはあくまで日本と朝鮮の対等な合併である」

(22日につづく)

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

以上は豊田隆雄『誰も書かなかった日韓併合の真実』(2018年5月、彩図社) よりの抜粋です。
次は、ドラマでの伊藤博文とイ・ワンイク(第1話より)

<1875年>
日本に来ている訳官(イ・ワンイク)

144_20180714172050b9a.jpg

「小生は貧しい小作農の息子として、
 何も持たないことを恨んでいましたが、
 高価なものを持っていることが分かりました。
 売れば相当の金額になります」

「何のことだ?」

「朝鮮です。
 5万ウォンだけ頂ければ、朝鮮を差し上げます」

「わずか5万ウォンなのか?」

「今は物資の補給もない軍隊です。
 開港を求めようが、制圧しようが、日本の損にはなりません」
144a_20180714172049129.jpg

通訳だったワンイクは、抗日運動を軍の力で抑えようとする者たちと結託し、
東京で活動していたエシンの両親を殺害しました。

144aa_201807141720483e3.jpg

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

ネルー首相の日本観

tafuto.jpg
(ウィリアム・タフトと桂太郎)

ネルー首相の日本観

1.桂・タフト協定
(# ウィキペディアによります)

桂・タフト協定(Taft-Katsura Agreement)とは、日露戦争中の1905年(明治38年)7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定。
なお、タフトは後に第27代アメリカ合衆国大統領に就任した。
この協定当時、日本軍は日露戦争中であったが、すでに日本海海戦での勝利を経たあとで、ロシア帝国軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた。
またアメリカ合衆国は、同国駐韓公使のホレイス・ニュートン・アレンを解任しており、アレンは1905年6月に韓国を去っていた。

この協定では、米国は当時の大韓帝国(以下、韓国)における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。
列強が勢力を模索する時代の中で、日米首脳が相手国の権利を認め合った協定といわれ、その後の日米関係を円滑にするものであった。
また1902年(明治35年)の日英同盟を踏まえたもので、日英米の三国による東アジアの安全保障について意見が交換された。

協定は、互恵的に署名された文書や秘密の条約ではなく、合意を記した会合覚書(メモ)であり、この合意覚書は、アメリカ外交史家だったタイラー・デネットがセオドア・ルーズベルト文書中でこれを発見して、雑誌『Current History』にタフトが時の国務長官エリフ・ルートに宛てて送付した合意の電文を掲載した1924年(大正13年)まで公表されなかった。この協定は、東京で日本の桂首相とウィリアム・タフト特使が1905年(明治38年)7月27日の朝から外務次官珍田捨巳の通訳の下で行なった会合の記録から、長時間になった機密の会話の部分で構成されている。 覚書には1905年7月29日の日付が記入されている。

協定の内容
・日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
・極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
・アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。

この協定の中で、桂は、
「大韓帝国政府が日露戦争の直接の原因である」と指摘し、
「朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし大韓帝国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう。従って日本は、大韓帝国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない」と主張した。

桂の主張を聞いたタフト特使は、大韓帝国が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意した。
タフトはまた彼の意見として、ルーズベルト大統領はこの点に同意するだろうという彼の確信を示した。
タフトは、この会談での合意を米国政府へ電文で送付し、電文を読んだルーズベルトは7月31日、
「桂とタフト間の会談はあらゆる点において全く正しいこと、タフトが語ったこと全てを自分が確認したこと」を桂に伝えることを内容とする電文をタフトに送付した。

それを受けたタフトは8月7日、マニラから「ルーズベルトが自分たちの会談における、自分の発言を全ての点において確認した」という内容の電文を桂に送付した。桂は翌日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスに滞在していた外相小村寿太郎にこのことを知らせることによって、日米間の合意をめぐる一連の行為は完了する形となった。

桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果、日本の勝利で講和成立し締結されたポーツマス条約によって、ロシアにも朝鮮に対する優越権を承認させた結果、事実上、列強の全ての国が大韓帝国に対する日本の支配権を承認した結果となり、その後、第二次日韓協約が締結され、大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となる。
しかし、高宗は、この第二次日韓協約の裏をかく形で、再び1907年(明治40年)にハーグ密使事件を引き起こし、結果として退位させられることとなる。
1910年(明治43年)8月29日、韓国併合が実現する。

2.ネルーの日本観

ネルー首相

(# ウィキペディアによります)
1894―95年の日清戦争は、日本がすでに陸海軍を新式で組織・訓練させて用意 万端な状態で臨んだので、旧式の軍隊のままの中国に勝利したことは「朝飯前 の仕事」であった。
中国に勝った日本は、極東における最大の強国の地位を得 たのである。
その後、ロシアが、満州、朝鮮への勢力を拡張したことは日本を強く刺激し た。
日本は無言のうちに、しかし営々として戦争の準備に取りかかった。

日清 戦争10年後の日露戦争に日本が勝利したのを、ネルーは少年時代に、
「ヨーロッ パの大国ロシアが日本に敗れた」と感動しており、それを娘によく話したと書 いている。
ネルーに限らず、アジアの多くの少年、少女も「日本兵の勇気に」 感心したのだった。
西洋ヨーロッパ帝国の侵略を受けていたアジアの国々にとっ ては、それは大きな希望と勇気を与えてくれて、「刺激」ともなったことだろう。

しかし、日露戦争における日本の勝利は、その後の日本を朝鮮の植民地支配 に、さらには中国侵略へと向かわせた。
開戦の責任が重いのは、日本かロシア か。
日本が自衛のためにやむをえず開戦したという理屈は果たして成り立つの だろうか。
戦争の主戦場となったのは朝鮮半島と中国東北部だったにもかかわ らず、中国と朝鮮の民衆の視点はほとんど抜け落ちていたのではないだろうか。

ネルーは、
「日露戦争のすぐ後の結果は、一握りの侵略的帝国主義グループに もう一国を加えたというに過ぎなかった」と述べている。
そ の苦い結果を最初になめたのは、朝鮮の民衆であった。

ジャワハルラール・ネルー(ネール:1889年11月14日 - 1964年5月27日)は、インドの初代首相。
インド国民会議議長。
インド独立運動の指導者。著述家。
マハトマ・ガンディーとともにインド独立運動の最も著名な指導者となり、1947年に独立を達成したインドの初代首相に就任した。

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

ドラマ『大君』より。

「成功者は私だ。歴史が刻んでくれる」

「歴史の勝利者は現世の者ではありません。
 いつの日にか、真の勝利者が判明するのです
2133bb_20180702153509a7b.jpg

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村

ワイツゼッカー大統領の言葉

waituzekka-.jpg

ワイツゼッカー大統領の言葉~平和への祈り

(以下はウィキペディアによります)
ドイツ第6代連邦大統領・ワイツゼッカー(Weizsäcker:1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、第2次世界大戦終戦40年を記念する演説で、
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と述べたことで知られる。

ドイツ敗戦40周年の1985年5月、ナチスの罪を直視するよう呼びかけた西ドイツ連邦議会演説で、
「歴史を変えたり無かったりすることはできない。過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。非人間的行為を心に刻もうとしないものは、また同じ危険に陥るのだ」

同氏は1990年5月、国家元首として初めてポーランドを訪問したのをはじめ、被害を与えた周辺諸国との和解に努力した。

戦後50年に訪問した広島の平和資料館で、
「ここでは言葉も文化も超えて、すべての人がすべてを理解できる」
そして次のようなメッセージを書き残した。
「広島を訪れた者は生涯、平和のメッセージを世界に伝え続けるだろう」。
また若者たちに対して、
「他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることがないように」と語りかけた。

日本でも『荒れ野の40年』(日本語訳は岩波ブックレット)と題する、1985年5月8日の連邦議会における演説の中の一節“過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる”で知られる。
「過去についての構え」である罪と「未来についての構え」である責任とを区別し、個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを呼びかけた。
同時に、
「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい」とも述べた。
この日はドイツ降伏40周年にあたり、ヴァイツゼッカーはこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容した。
他にも“自由民主主義体制において必要な時期に立ち上がるなら、後で独裁者に脅える必要はない、つまり自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で市民的勇気も必要”などがある。

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
1週間のランキング@“にほんブログ村”

未だに北方四島、竹島(独島)、南沙諸島(スプラトリー諸島)など、
領土問題が戦争(帝国主義時代)のマイナスの遺産を引き継いでいます。
なぜ、帝国時代の”奪ったり、奪い返したり”の感情が残っているのでしょうか?
なぜ、共同管理や漁業権の共有や、共同での自然環境保護ができないのでしょうか?
「仲良くやろうよ」と、みんなの空や海を大切にしたいものです。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村
プロフィール

ユーモン

Author:ユーモン
ドラマは たくさんのことを 教えてくれます

最新記事
最新コメント
王朝用語・脚本家など
ドラマと映画・感想など

openclose