歴史を駈けたカラス

<古代の韓半島(ハンバンド)>(8)
歴史を駆け抜けた八咫烏(やたがらす)


ドラマ『朱豪』では、初めて国家のシンボルマークに三本足の八咫烏(やたがらす)がデザインされました。
新羅と唐の連合軍に滅ぼされても高句麗のヤタガラスは歴史を駆け抜けます。

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1.南北の二国の時代へ

668年、第28代の宝臓(ポジャン)王が新羅と唐との連合軍に屈服し、高句麗が滅びます。
そこで新羅は、滅ぼした百済と高句麗の民や軍を吸収して、半島での覇権を我が物にしました。
さらに、同盟国だった唐を半島から追い出して、676年には「統一新羅」を樹立。

ただし、半島を統一したと言っても、もとからの高句麗(大帝国)の領土であった半島の北部には勢力が及んでいませんでした。
そこで半島の北部に残った高句麗の血が騒いだ。

ゲリラ活動の中から生まれた英雄が大祚榮(テジョヨン)でした。
伝説では、流星が落ちた日に生まれた男。
“天から授かった幸福の子”の意味がある「祚」という漢字を宛てて、名を大祚榮と称しました。
伝説だからなのか、あるいは度重なる半島の戦禍により記録が亡くなったのか…?
生年月日が不明な始祖です。
ただし、彼が698年に“震(チン)”を建国し、後に「渤海(パルへ)」と改名したという史実です。

渤海

2.ドラマの『大祚榮(テジョヨン)』

ドラマでは北方の民族国家「契丹」との熾烈な争いを経て独立を獲得しました。

che s
(主演のチェ・スジョン)

https://www.youtube.com/watch?v=hN57DCDi1UU
(132話より)
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なお、
上記に“高句麗の血が騒いだ”と書いていますが、私は“単一民族”という言葉は字面だけだと思っています。
実際の我々人間は民族の交流により、混血を経て力強く発展したと思っているからです。

3.渤海の滅亡と後高句麗

北の寒冷地の渤海、半島の温暖な南の新羅との南北の国家の時代が9世紀。
しかし、渤海は契丹に押し戻されて滅亡します(926年)。
民百姓は流浪を余儀なくされました。
ただし、その前の900年には百済が再興し後百済を建国し、同じく901年には後高句麗が生まれていました。
流浪の民が後高句麗に向かって南下したのは当然の流れでしょう。

後高句麗についてはドラマ『太祖王建(ワンゴン)』が参考になりました。
ウィキペディアでは以下です。
(後高句麗)
弓裔(きゅうえい:クンイェ)は、後三国時代の群雄のひとりで、後高句麗の建国者。
姓は金、僧号は善宗。
隻眼であったことから一目大王との別称もある。
専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であり有力な部下であった王建に追放されることとなったため、諡号はない。

国破れて山河あり(唐の詩人・杜甫)
(ネットで検索)

「国破れて山河あり」とは、戦乱で国が滅びても、山や川の自然はもとのままのなつかしい姿で存在しているということ。
有為転変の世の中と、変わらない自然とを対比し、感慨深くいう言葉。
杜甫の詩『春望』の冒頭の句「国破れて山河あり、城春にして草木深し(国は滅亡したが山や川はそのままで、町には春が訪れ草木が茂っている)」から。

高句麗は新羅と唐の連合に敗れ、渤海は契丹などの北方民族に敗れますが、高句麗の人々のスピリットはサムジョッコ(3本足のカラス:八咫烏)の旗の下で生き続けました。
八咫烏はさらに後高句麗を経て、そして高麗に舞い降りました。

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ところで、ドラマの『大祚榮(テジョヨン)』での契丹の首長はチャン・ボソクが演じました。
現在KJSでアップしている『王は愛する』の忠烈王ですね。

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歴史を駆け抜けたカラスの三本足の意味

以下はウィキペディアからのコピペです。

八咫烏が三本足であることが何を意味するか、については諸説ある。
熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。
また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。

三足烏の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。
かつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれている。
日本神話の「東征」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武天皇の道案内を務めたとされる。
神武天皇は、当初、西から大阪に攻め入って敗れたため、太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えた。
そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して現在の新宮付近から攻め入ることにし、その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた。

(『大祚榮(テジョヨン)』では左のヤタガラスが旗になっています)
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現代では、八咫烏は主に日本サッカー協会のシンボルマークおよび日本代表エンブレムの意匠として用いられている事でも知られている。
このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した漢文学者・内野台嶺らの発案を基に、彫刻家・日名子実三のデザインにより、1931年(昭和6年)に採用されたものである(天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているともいう。

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<古代の韓半島(ハンバンド)>(7) 三国時代

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(9月末の上野公園)

# すみませんでした
今朝は作成中の第29話(下)を“にほんブログ村”にアップしてしまいました。
チェックを怠っていました。

<古代の韓半島(ハンバンド)>(7) 
 三国時代


1.三国時代

後の第19代王・広開土(クァンゲト)大王(テワン)こと、タムドクが16歳で高句麗王となったのが391年でした。
広開土王の高句麗(コクリョ:고구려)が版図を拡大して次の歴史地図のような状況となっていきました。
では、三国時代と呼ばれる他の二つの国、百済(ペクチェ:백제)と新羅(シルラ:신라 )はどうだったのか?

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(1)百済

高句麗を建国した朱蒙と共に高句麗の女王となったソソノでした。
そして、ソソノは息子二人を連れて南下しました。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3375.html
長男(ピリュ:沸流)は現在の仁川のあたり、そして、次男(オンジョ:温祚)は全羅道(公州)に後の百済の都を築きました。
兄よりも肥沃な土地だったので弟の国が繁栄することになります。
その百済が興ったのは紀元前18年のことですが、まだ伝説の域を出ません。
国としての記録が出てくるのは346年です。

(2)新羅

百済と同じ伝説の国家が新羅(紀元前57年)。
慶州(キョンジュ)あたりのいくつかの部族の連合国家の呼称だったようですが、百済と同様に新羅も肥沃な土地に恵まれて、国力を蓄えていきました。
新羅という国の記録は百済よりも10年後の356年です。
高句麗が版図を拡大するにつれて、自国の力だけでは対抗できないので、百済と新羅は連合関係にあった。
これが4世紀から5世紀にかけての二つの国だったようです。

(3)高句麗の拡大

高句麗が首都を国内城(クンネソン)に遷都したのが343年です。
朱蒙大王の建国から広開土王の時代までのおよそ400年。
5世紀までに、半島の覇権を握る帝国に育っていったということです。
(上記の地図にあるように、第19代王・広開土王の時代が最盛期だと言われます)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3388.html

何らかの記録に残る5世紀からが三国時代とも言えると思います。
ただし、もう一つ伽耶の国が興っていましたので、正確には四国時代でしょうか。

(4)そのころの大陸と日本

その後の6世紀の大陸では、乱立の五胡十六国時代を経て、ようやく「隋(ずい)」が統一しました(581年)。

日本は弥生~古墳時代を経て、593年に聖徳太子が摂政政治を始めました(飛鳥時代)。
そして、600年に隋からの使者を迎えています。
太子が“17条の憲法”を制定したのが、604年。
また、小野妹子を607年に遣隋使として派遣しています。
なお、隋から「唐(とう)」に変わるのが618年で、日本からの遣唐使が始まるのが630年です。

韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

2.なぜ百済と高句麗は滅亡したか?
 ~南北国時代の前に


# ドラマ『太王四神記』の後の時代は視聴したドラマがないのでイメージがなく、一気に先に進みます。
その後となると、私の場合は渤海(パルへ)建国の『大祚榮(テジョヨン)』と新羅の『善徳女王(ソンドクヨワン)』です。
なお、KBS、MBC、SBSの地上波3代ネットには、それぞれ“歴史考察委員会”が設置されているので、ファッションに関してもイメージが大きく外れていることはないと思います。

半島での覇権争いが繰り広げられた三国時代は300年ほどで、時は7世紀に入ります。
660年の百済滅亡、668年の高句麗の滅亡により、新羅が統一しました(676年)

では、なぜ百済と高句麗は滅亡したか?
なのですが、
一言で表せば、“新羅と唐の連合軍の勝利”です。

そもそも、三国時代では一番小さな新羅でした(伽耶を562年に既に吸収しています)が、水利事業の展開による農業の生産性が大きかったことと、もう一つは「花郎制度」だとされます。
この「花郎(ファラン)」は貴族階級の青年たちのことで、「忠義」、「孝行」、「信義」などのファラン精神をベースに鍛えられたエリート集団です。
ドラマ『善徳女王』では花郎出身の大将軍・金庾信(キム・ユシン)が軍を統率しました。
史実です。

さて、もとより小国だったので、北の高句麗の侵入に対しては百済と連合関係を築いて対抗してきました。
しかし、自らの領土欲のために百済と連携して得た領土を独り占めにするなど、二つの国の関係亀裂の原因を作りました。
孤立した新羅が応援を求めたのが大陸の“唐”です。
当時は唐と高句麗が戦争状態にあったので、新羅と唐の両者の利害が一致。
まずは百済を攻め落とし、次いで高句麗を攻め落としました。
多くは高句麗と対峙できた唐の大きな力だったのかもしれません。

# この後の「南北国時代」のことは次回にします。

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百済と高句麗の末期の将軍2人の名前を挙げておきます。
・百済の階伯(ケベク)将軍
・高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン):彼は王には就かず、最高官職に留まり、高句麗の屋台骨を支えていました。
階伯(ケベク)も淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)も、同名のドラマになっているようです。

『王は愛する』も終盤に入ってきました。
こちら<古代の韓半島>では、
次回は、渤海(パルへ)建国の『大祚榮(テジョヨン)
次々回に、新羅の『善徳女王(ソンドクヨワン)』を取りあげる予定です。

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『太王四神記』~生きて帰る

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<古代の韓半島>(6)
高句麗大帝国と『太王四神記』~生きて帰る


伝説の王子『朱蒙(チュモン)』は40歳で王位をユリ王に譲り、亡くなります。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3375.html
そして、ユリ王の息子ムヒュルが高句麗の第3代・大武神王(ムヒュル)で、これは同じ作家と主演の『風の国』で描かれます。
さらに、ムヒュルの子・ホドンの秘話は『自鳴鼓(チャミョンゴ)』です。
高句麗の創世記が楽しめました。
そして時は流れ、高句麗第19代・広開土大王の物語は、『太王四神記』へと引き継がれました。

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1.広開土大王・タムドクの史実

高句麗の朱蒙大王は紀元前19年に亡くなりました。
気が遠くなりそうな2000年以上も前の紀元前のことなので、その伝説はフィクションとして割り切れます。
しかしタムドクの話となると、中国の吉林省で発見された石碑に、年号を“永楽”としていたなどの史実が判明しており、にわかに現実感が湧きます。

(碑文とその拓本)
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ただし、漢文でのわずかな記録なので、その解釈を巡っては歴史研究家の諸説があるようです。
とくに当時の国際関係には意見が別れるようで、高句麗・百済・新羅に加えて、倭国(日本)が出ているようなので、なにやら政治的な歴史観の裏を感じます。
詳しくは引用しているウィキペディアなどをご覧になって欲しいのですが、タムドクの偉業は史実として認められると思います。

さて、
第2代・瑠璃(ユリ)王は、首都を鴨緑江(アムノッカン)の中流に位置する国内城(クンネソン)に移しました。
豊かな土壌と軍事的にも優れた土地だったので、その後も国内城が高句麗の首都として繁栄しました。
そして、時は流れて、ドラマ『太王四神記』。
タムドクが16歳で高句麗王となったのが391年です。
後の第19代王・広開土(クァンゲト)大王(テワン)のことです。
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ドラマにあったように製鉄の技術を活用して、強力な鉄騎兵軍団が版図を切り開き、国内城を軸に大帝国を築きました。
その領土は韓半島(ハンバンド)の東北部と中国東北部、西は遼東半島、そして半島の中央部にまで及びました。



『太王四神記』も現在アップしている『王は愛する』のソン・ジナ作家の手によるもので、監督はキム・ジョンハクPD。
同じ監督・脚本で『信義』も描かれました。

いずれもファクションではあるものの、この『太王四神記』では神話を基にファンタジーとしての企画で、新しいタイプの史劇と呼ばれました(MBC:2007年放送)。

また、何といっても主演がペ・ヨンジュンでしたので、最終視聴率は35.7%でした。

2.ドラマに見るヒューマニズム

(1)四人の神が人として生きる

“四神記”は、ドラマの制作発表時に、“四人の神が人として生きる”でした。
太古の大陸から伝えられている東西南北の守護神は青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)です。
例えば平安京でも高松宮古墳でも、あるいはソウルの宮殿も四神が四方を守っています。

(「高松宮古墳」 ウィキペディアより「白虎」と「女子群像」)
東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。
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『太王四神記』では、高句麗という帝国の四方を守るために、転生した勇者たちをタムドクが得るという想定でした。

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左から、玄武の転生ヒョンゴ(オ・グァンノク)、
白虎の転生チュムチ(パク・ソンウン)、
青龍の転生チョロ(イ・フィリップ)
そして、タムドクが愛した朱雀の転生がスジニ(イ・ジア)でした。
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(2)生きて帰る

ヒューマニズムと言う点では、何といっても次のことだと思います。
ドラマの後のペ・ヨンジュンのインタビュー記事では、「好きなセリフは…(次のとおり↓)、とても気に入っています」と、百済に出撃する前に兵士たちを集めて語るシーンを回顧しています。

「死ぬな。命を捨てて戦う者は必要ない
 何としても生きて、最後まで私のそばにいろ。
 これは王命だ」

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ソン・ジナ作家の“命を捨てて戦う者は必要ない”は、『信義』のチェ・ヨン(後の将軍)に「勝ち目がなければ、逃亡しろ」と、形を変えて言わせています。
現代的で斬新なセリフだったのですが、これはその後のドラマにも脈々と流れていると思います。

犠牲をゼロにすることは不可能な戦争なのですが、犠牲をミニマムにするため。
鴨緑江(アムノッカン)からの回軍を決めた李成桂(朝鮮王朝の初代王)は、「我々は家族の元に帰る」でした(『六龍が飛ぶ』)。
また、
ドラマ『華政』での朝鮮王朝の第15代・光海君は、明の要請により出兵を余儀なくされた際に、統率する将軍には「観形向背」の4文字を与えました。
戦況に応じて撤退、降伏も辞さないようにという“臨機応変”の指示だと思います。
実際にも、明と振興の清とのサルフの戦いで朝鮮王朝軍は降伏しました。
それを、戦いを知らない身勝手な官僚(文官)たちが、明に対する裏切りだと言うのにはあきれました。

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(『太王四神記』第13話より)

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ドラマ『華政』より(KJS)第24話(中) 出陣の朝

1619年、明国と後金(後の“清”)との大きな戦闘はサルフの戦い
ウィキペディアによれば、光海君は「都元帥の姜弘立(カン・ホンリプ)に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた」とあります。

出陣式

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「皆、必ず生きて帰還するのだ!
 我々が開発した火器により戦うことができるのは
 私の夢でもあった。
 この力でこの国を守るのだ。
 決して異国で血を流してはならない。
 必ず生きて帰ってくるのだ!」
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「…」
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出陣

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「戦争だというのに、生きて帰れとは…?
 光海は何を考えているのか…?」
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カン・ホンリプ将軍には既に“観形向背”という王命が出ていて、“形成に応じては敵に背を向けても退却する”ということです。

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『王は愛する』のイ・スンヒュ師匠(オム・ヒョソブ)は『華政』では主人公の父親。
親子共に文官ではありながらも、サルフの戦いに参加します。

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朱蒙王子の高句麗建国伝説

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(先週末と日曜日の“日韓交流おまつり”での高句麗時代の衣装
@日比谷公園:2017.09.24)

<古代の韓半島>(5)
高朱蒙伝説と『朱蒙(チュモン)』

ドラマ『朱蒙(チュモン)』(2006)には“伝説の王子(Prince of Legend)”というサブタイトルが付いていました。
その伝説に基づいて、チェ・ワンギュ作家が書き上げた作品は、5割台の髙視聴率に支えられて10か月81話の放送でした。
その長い放送の2年ほど後にDVDで視聴したのですが、1話、1話が飽きさせない脚本・演出でした。

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1.高朱蒙伝説

作品のベースとなったのが、「高朱蒙伝説」です。
韓国『統一日報』2012年5月16日(日本語版)掲載、金両基(キム・ヤンギ:比較文化学者)「韓国史を彩る王たちの物語(10)」の内容は次のとおりです。

(古)朝鮮が滅んだ後に、高句麗・百済・新羅そして伽耶が興る。
伽耶を入れると実際は四国時代であるが、伽耶は後に新羅に併合されるので一般に三国時代という。

建国神話からみると高句麗は兄の国であり百済は弟の国であるが、新羅と伽耶は別々の国である。
百済の始祖温祚は高句麗を興した高朱蒙の子または義理の子であり、また他のいずれの国の始祖も天孫が天降ったいわゆる天孫降臨神話を共有している。

朱蒙は高句麗を興して始祖となり、姓を「高(こ)」に定めるがその前は「解(へ)」であった。
「本性は解であるが、いま自ら天帝の子であり日光を承けて生まれたといい、故に高を以て姓とした」
(『三国遺事』高句麗条)。
父神の名を解慕漱(へモス)といい「解」は日(へ)と同音であり日は高いところにあるから高と名付けたのである。
日(へ)や解(へ)と名乗るには恐れ多いので太陽は高いところにあるので高としたと考えると理解しやすい。

国造りの過程を神統譜からみれば、北扶余→東扶余→高句麗→百済の順に国が興り、その部族は古代ツングース語族である扶余族の流れをくむ。
北扶余は現在の中国東北地方に君臨した扶余族の一部であった。

この民族の移動の順を追うと太陽が昇る方向へと向かい、それはあたかも地中海から太陽の昇る方向の東に向かって移動する人々の流れと重なり合う。
地中海から太陽の昇る方向をアジアといい、逆に地中海に沈む太陽を追いかける方向をヨーロッパというがそれぞれの語源なのだ。
そこの古の人々の太陽崇拝が見えてくる。
檀君神話からその流れを想起してみれば、建国の流れが見えてくる。

古代朝鮮での高麗の位置づけは次の図の通りです。
韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

「高朱蒙伝説」

朱蒙が生まれたのは
東扶余の金蛙(クムワ)王の時代である。
ある日金蛙王が優渤水の水面下の岩の上に
奇怪な動物が魚をとっているという報告を
漁師から聞き、鉄製の網でその動物を捕えた。
なんと唇が三尺あまりあり、三回も切り落とすと
美しい娘の姿になった。
娘は名前を柳花(ユファ)といい
水神・河伯の長女であるという。
河伯は天帝と称する解慕漱に侵された娘を許せず、
美しい娘を取り上げて追放した。

父の河伯に追放されたという
不思議な話を聞いた金蛙王は柳花を連れて帰って
部屋に閉じ込めておいた。
やがて身ごもり5升ほどの大きな卵を生む。
不吉に思って犬や豚に与えたが食べず、牛や馬も
そして鳥獣も避けるので柳花に戻した。
暖かく包んでおくと
一人の男の子が殻を破って出てきた
(『三国史記』始祖東明聖王条)。

卵から孵ったその男の子が朱蒙であり、
神童であるが故に金蛙王の王子から命を狙われ、
東扶余から逃れて高句麗建国への旅路に出る


2.ドラマの『朱蒙(チュモン)』

(1)ドラマの時代背景

古朝鮮の部族の統一がないままに、大陸の“漢”からの侵入受けている時代がドラマの背景。
クムワ王は、一端は引き取り育てたものの、神童・チュモンの命を狙います。
王子のテソも同じく、神童から“扶余”を守るという名目でした。

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(クムワを演じたのはチョン・グァンリョル)

上記の伝説にもあるように、チュモンは東扶余から逃れて、まずは扶余の大商団の下で働きます。
その際に、商団の行首(ヘンス)の一人娘・ソソノとの初めての恋がありました。

また、部族間の抗争、“漢”との戦争の中で大怪我をします。
そして、記憶も戻らないチュモンを救ったのが同民族・他集団のイェソヤ姫でした。
イェソヤとの間では、後のユリ王子が誕生します。

このように、チュモンを巡る二人の女性がいましたが、いずれも戦禍の中で生き別れとなります。

チュモンは仲間の勇者と共に山奥に砦を作り、古朝鮮(上記、滅びた朝鮮)の流民や大陸での奴隷となっていた朝鮮民族・農民を集め、徐々に村を大きく発展させます。
チュモンの武器は父・へモスから学んだ文武の中でも、弓の名人から受け継いだ卓越した弓の腕でした。

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(へモスを演じたのはホ・ジュノ)
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(母のユファを演じたのはオ・ヨンス)

(2)紀元前37年

チュモンが最初に再会するのがソソノ
ソソノは父・商団長(行首)の右腕だった男性と結婚していましたが、夫は戦いの中で戦死。
既に二人の息子を授かっていました。

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(度重なる戦いの中、チュモンの胸の傷をいたわるソソノ)
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ソソノの父親や周囲の勧めを受けて、また大商団の経済力をバックに、高句麗を建国。
ふたりは結婚して、それぞれ高句麗王と高句麗女王を名乗ります。

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(3)ユリ王子

時は流れユリが成人して、母の話と二つに折られた短剣を基に父がチュモンであることを知り、会いに行きました。
折れた短剣を符合し、親子が再会するのですが、その場面は感涙。
また、やつれたイェソヤをソソノが暖かく迎えました。

(生き別れになった頃のイェソヤとユリ)
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ただし、問題はソソノが連れた息子二人。
兄弟がユリの存在を許せず、暗殺を企てました。

(子供たちのことで悩むソソノ)
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ソソノの力で陰謀は未然に防げますが、ソソノは子供のためにも高句麗を離れて、半島の南方へと旅に出ます。
温かい半島の南部に国を作るのも、父親とソソノの夢であったからです。
こうして、ソソノとその子が百済の祖となるわけです。
百済の建国は、ソソノがチュモンの元を去った19年後の紀元前18年です

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3.最終話より

# 私が好きなシーンをリビューします。
ソソノが南へと去る時のイェソヤとの会話です。

「風が冷たいですよ。
 お体は大丈夫ですか?」
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「高句麗を去られると聞きました。
 本当ですか?」

「ええ」

「それはいけません。
 私とユリが負担ならば、私が去ります」
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「奥様たちのためでは決してありません」

「…」

「昔…、高句麗においでになったとか…、
 なのに
 陛下と私の結婚式を見て、
 高句麗の統一のために去られたそうですね。
 私のせいで苦労なさったことを思うと、
 胸が痛みます。
 奥様がいらっしゃるので私は安心して去れます。
 陛下のお世話をお願いします」
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「…」

私は欲張りな人間です。
 夢を実現させるために去るのです

 奥様こそ心を痛めないでください」
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『朱蒙(チュモン)』


来週は秋夕(チュソク:韓国の旧盆)です。
来週末頃には仲秋の満月を楽しめます。

ところで、夏の終わり。
今年は6月末からこのところまで約3か月に亘り、一般には「沙羅の木」とされる“夏椿”の約30本くらいの木を観察しました。
朝に咲いて夕方にはしぼむとされる、“はかない花”です(せいぜい2日間です)。
朝の散歩の際に、見つけたのはわずか8つの花だけでした。
それも、花が咲いたのは約30本の中の4本の木だけでした。

(7月に撮影)
mid aug

(8月に撮影)
sep mid

(現在は花が咲かなかった実も弾けて種を撒いたようです)
sep first

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<古代の韓半島>(4) 高句麗へとさらにスリップ

<古代の韓半島(ハンバンド)>
(4)
高麗から、さらに高句麗へとタイムスリップ

オスマントルコがエジプトを「属国」にしたこととも、大英帝国がアフリカやアジアの諸国を「植民地」にしたこととも違い、「冊封(さつほう)」制度は中国大陸の独自の外交戦略。
韓半島の“独立と主権”を認め、同盟国としての主従関係を求めるものでした。

黄菊
(@東京駅 2017.09.16)

1.『信義』の時代と『六龍が飛ぶ』の時代

高麗の末期には大陸でも変化が始まっており、高麗の衰退と同時期に「元」も「新興の」の力に押されていました。
そこで、『信義』の第31代・恭愍(コンミン)王は“元から→明へと”外交政策を変えようとしていました
また、移行期の大陸から北方の失地を奪回したのが若き崔瑩(チェ・ヨン)将軍でした。

ところが、後に親「元」派の保守勢力により恭愍王は暗殺されます。
それでも崔瑩将軍は、さらに高麗の立場を強くするために「明」に圧力をかけるべく、鴨緑江(アムノッカン)を渡って遼東半島を得ようとしたのだと思います。
これが『六龍が飛ぶ』のはじめの部分でした。
冊封国からの脱却のチャンスでもあったのでしょう。

ドラマ『信義(シンイ)』から『六龍が飛ぶ』と、チェ・ヨン将軍は年を重ねて、次のようにルックスが大きく変わっていますが、高麗王と高麗への忠誠心・信義、愛国心に関しては揺るぎないものだったと思います。

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2.理想から現実主義へ

ただし、後輩の李成桂(イ・ソンゲ)将軍は、既に「明」の勢いには逆らえないという情報を持って、現実的な道を選んだのだと思います。

5月に出港して8月に九州に上陸作戦を展開した第2次の元寇は台風で壊滅しましたが、李成桂にはその戦術データもインプットされていたのかもしれません。
また、大陸の歴史の流れを察知していた李成桂(イ・ソンゲ)が掲げた「四不可論(サプルガロン)」の“大国に逆らってはいけない”のとおりで、すでに明の勢いは止まらないところに来ていたと思います。
他方では、高麗王族+貴族の外交能力の欠如も否めません。

「四不可論(サプルガロン)」

「我々5万の兵は家族の元に帰る!
 この李成桂は鴨緑江は渡らない!」
sone lee
5月の長雨の季節は鴨緑江(アムノッカン)が激流になる時期でした。
李成桂は「四不可論(サプルガロン)」を提示して、王と崔瑩(チェ・ヨン)将軍(首相)の遼東(リャオトン)への出兵計画には、既に反論していました。

①小国が大国に逆らってはいけないこと
②農繁期に若者を徴兵してはいけないこと
③南方からの倭寇への防衛が手薄になること
④長雨の時期は弓の膠(にかわ)が溶けて使えず、しかも暑さと湿気で伝染病の恐れがあること

結果は『六龍が飛ぶ』のとおりです。
鴨緑江(アムノッカン)から回軍した4年後に、高麗が滅び<朝鮮王朝>の建国となります。

3.高麗から高句麗に遡ります

この<古代の韓半島>シリーズのタイトルのこと。
『王は愛する』の第25代・忠烈(チュンニョル)王の時代(13世紀末)からが、「冊封国」としての新しい高麗の歴史の始まりだと思いましたので、13世紀以前を<古代の韓半島>と区分けしました。
第26代・忠宣(チュンソン)王(ワン・ウォン)の14世紀から19世紀末の朝鮮王朝まで、600年ほども冊封制度の時代が続いたということにもなります。

次回からは紀元前にまで遡って、半島の歴史を“ドラマを通じて概観”しておこうと思います。
ほとんどのドラマがわずかなファクトだけをベースにしたファクションです。
まずは、『朱蒙(チュモン)』のベースとなった「高朱蒙(コジュモン)伝説」を先に紹介しておきます。

韓国の『統一日報』2012年5月16日(日本語版)に掲載された「韓国史を彩る王たちの物語(10)」からの引用です。
著者は金両基(キム・ヤンギ:比較文化学者)です。

朱蒙が生まれたのは
東扶余の金蛙(クムワ)王の時代である。
ある日金蛙王が優渤水の水面下の岩の上に
奇怪な動物が魚をとっているという報告を
漁師から聞き、鉄製の網でその動物を捕えた。
なんと唇が三尺あまりあり、三回も切り落とすと
美しい娘の姿になった。
娘は名前を柳花(ユファ)といい
水神・河伯の長女であるという。
河伯は天帝と称する解慕漱(へモス)に侵された娘を許せず、
美しい娘を取り上げて追放した。

父の河伯に追放されたという
不思議な話を聞いた金蛙王は柳花を連れて帰って
部屋に閉じ込めておいた。
やがて身ごもり5升ほどの大きな卵を生む。
不吉に思って犬や豚に与えたが食べず、牛や馬も
そして鳥獣も避けるので柳花に戻した。
暖かく包んでおくと
一人の男の子が殻を破って出てきた
(『三国史記』始祖東明聖王条)。

卵から孵ったその男の子が朱蒙(チュモン)であり、
神童であるが故に金蛙王の王子から命を狙われ、
東扶余から逃れて高句麗建国への旅路にでる。
(以上)

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高句麗に飛ぶ前に、個人的な感想で若干の推測含みです。
ワン・ウォンは幼少の頃は祖父のフビライ・ハンの孫として、“元の国”で可愛がられて育った。
しかし、世子として母親とは切り離されていたので、母との心の触れ合いが欠けていたとも考えられます。
明日アップする第19話(上)「協力して下さい、オモニ…」はぐっとくる言葉でした。

また、ドラマの最初からあったように、元と高麗の“混血児”であることをどれくらい意識したのかは不明ですが、
元にとっては、手放したくないような有能なバイリンガルの王子であったことは間違いないと思います。

以下は第26代・忠宣(チュンソン)王(ワン・ウォン)の史実です。

・1292年 趙妃が世子嬪に選ばれる(ウォン17歳)
・1295年 第25代・忠烈王の代行となる(同20歳)
・1296年 元より王妃を迎える(同21歳)
・1299年 呪詛事件(世子嬪への嫉妬が原因)
同年に第25代忠烈王が復位(この時ウォンは24歳)
・1299~1308年 元に行き瀋陽(国)王を務める。

・1308年 忠烈王が亡くなり、ワン・ウォン帰国し即位(同33歳) 
・1313年 高麗王を譲り、元の瀋陽(国)王に戻る。
・1325年 元で死去。

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<古代の韓国半島>(4) マルコ・ポーロの伝承物語

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(2017.09.03)

<古代の韓国半島(ハンバンド)>(4) マルコ・ポーロの伝承物語

はじめに、ウィキペディアから“衰退する元と鎌倉幕府”のこと。

浙江大学教授・王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた。
他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする。
また、
高麗においても、二度に及ぶ日本侵攻(文永・弘安の役)及び第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、その後相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる重要な原因となった。

1.文永の役と弘安の役の結末

以下の図表のように悲しい人の命でした。
buneino eki


文永の役では元と高麗の連合軍の兵士たち(27,000~39,700名)のうち、
不帰還が13,500名余と、半数が帰国できていませんでした。

それでもフビライ・ハンの野望は続き、7年後には規模が5倍となって侵攻にチャレンジしています。

弘安の役での出兵は14万人~約15万7000人です。
そして、
母国には帰らぬ人々が8万4000人から14万人以上とのこと。

kouan no eki



家族のことを思うと胸が痛みます。
悲惨な戦争、悲惨な結果を招いたフビライの欲望だった思わざるを得ません。
「外交の最大の失敗は戦争」といわれますが、2度の侵攻は外交ではなくて、“冊封国になれ”との一方的な強迫の結果だったと考えられます。


ウィキペディアによれば、それにも懲りずに第3次の計画があったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87

元寇1

2.マルコ・ポーロの伝承物語

1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。
1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという(ウィキペディア)。
つまり、
有名な『東方見聞録』ですが、マルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話です

ワン・ウォンが誕生した1275年には、マルコ・ポーロの一行が大陸の大都(ペキン)を訪問しています。
その際の日本に関する認識をウィキペディアから引用すると、
「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている…」 

しかし、ファクトとフィクションの伝承物語(folklore)(ファクション)は読んでいて面白くもあり、また唖然とする物語です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
『東方見聞録』(ウィキペディアから抜粋)

「…さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。(略)上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風は極めて強かったので、大カアンの船団はひとたまりもなかった」

「…さて、大カアンの軍隊は、(略)もはや持ちこたえられなくなって、命を助けるかわりに一生ジパングの島から出ないという条件で降伏した。これは1268年に起こったことである(# 文永の役は1274年、弘安の役は1281年です)」

元寇3
(『東方見聞録』の挿絵)

なお、ドラマ『王は愛する』はウォンが12歳の時から本編が始まっていますので、文永・弘安の役は既に終わっています。
第25代・忠烈王の在位の時代には、この他に1287年には、元寇での出兵によって負担が大きかった元の「東方三王家」のナヤンおよびカダアンが反乱を起こしました。
この元の内乱により高麗は巻き添えに遭遇したものの、これもウォンが12歳の時ですから、ドラマでは取り上げられないと思います。

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このドラマの背景は高麗の転換期だったようです。

①大陸からの“科挙制度の導入”により、文官の力が増していたこと。
同時に、
フビライ・ハンの元の勢力が“100年の武人時代”を終焉させたこと。
②第24代王(元宗)の時に冊封国になって、元との主従関係ができたこと。

この二つの内外の大きな波が転換の要因だったと思います。

経済学では国を「政府と企業と国民(家計)」との3つの主体に分けて考えるように、
国=政府ではなくて、「国」は国民が住む場所。
高麗の王朝=政府は、大国からの圧力で冊封制度を余儀なくされたとはいえ、安全保障を得ています。
国民を守るためだとの言い訳も通ると思います。
しかし、国民=民百姓たちは朝貢のための物資を生産しないといけません。
物だけではなく人も差し出さないといけなかった…。
これがドラマの悲劇の背景となっています。

マルコ・ポーロがヨーロッパに伝えたのは、大陸側の人々の心情だけだったと察せられます。

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<古代の韓半島>(3) 「元寇」と若者の命

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(トネリコの木 2017.09.01)

<古代の韓半島>(3) 「元寇」と若者たちの命

1.弘安の役(1281年)

元寇の第一次「文永の役(ぶんえいのえき・1274年)」に続く第二次が「弘安の役(こうあんのえき・1281年)」で、合せて「蒙古襲来」とも呼ぶようです。
とくに2度目の「弘安の役(1281年)」において、日本に襲来した軍船の数はそれまでの世界史上最大規模であったとのこと。

ウィキペディアでは、次のとおりです。
1280年11月 (高麗は)元に使者を発し、兵船900隻など準備が完了したことを報告する。

(元と高麗の連合軍が出帆するのは翌1281年5月)
1281年(弘安4年・至元18年)、
元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘。
両軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。
日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。
そして、
1281年8月、主に九州北部が戦場となったと記されています。

2.石築地(いしついじ)

第一次の「文永の役」から7年を経ていますから、迎え撃たないといけない鎌倉幕府の準備も万端だったようです。
北部の博多湾岸などには石築地(いしついじ:石垣)と呼ばれる防衛線を敷設しました。

高さが平均して2メートル以上もあり、総延長は(西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎までの)約20kmに及ぶというのが定説になっているようです。
とくに、陸側に傾斜を持たせ海側を切り立たせているという構造物ですから、海からの上陸作戦は難しかったと考えられます。
従って、
博多湾の防衛ラインを突破するという史上最大の上陸作戦は困難を極めていたものと想像できます。

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石築地(いしついじ:石垣)
石築地
(福岡県:元寇史博物館など)

では4400もの軍船はどうなるのでしょうか?
恐らく湾上で待機を余儀なくされたと思います。
さらに、
5月に出帆して、壱岐・対馬を征圧して、3か月後に辿り着いた上陸予定地ですから、矢も食料も既に不十分だったと思います。

3.台風シーズン

海岸線の防衛ラインに加えて、いわゆる“神風”と呼ばれた台風のこと。
第一次「元寇」は既に10月でしたので台風シーズンは終わり、気象学的にも台風の可能性は小さいとされます。
他方、第2次「元寇」では台風の直撃があった可能性が大きいとされます。

(図表の右側が元と高麗の連合軍です)
kouan no



海上の船舶にとって台風ほど危険なものはないでしょう。
さらには、
日本の長弓に比し、射程距離が2倍の200mに及ぶとされる騎馬民族が使っていた短弓も無意味。
それに対する御家人(サムライ)たちは馬も武器も、そして兵卒の食料も十分でしたから、戦意にもギャップがあったことを感じます。

図表のとおりで、元と高麗の連合軍の兵士たちのほとんどは帰らぬ人となったようです。
10万人以上もの若者たちをそれぞれの家族が失ったということになります。
なんとも無駄な闘いであり、悲惨な戦争の結果でした。

4.元の衰退期

世界史図録(山川出版社:2014.03)を開くと(p.285)、
元は、
「1257年 ベトナム侵入失敗」

(1274年の文永の役
 1281年の弘安の役)

「1287年 ナヤンの反乱」
「1289年 カダアンの反乱」

「1292年 ジャワ遠征失敗」

1328年 南北に分裂
と記されています。

そして、1368年には「明」国が建国しています。

(先週の<古代の韓半島>)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3349.html

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『六龍が飛ぶ』で見たシーンです。
<朝鮮王朝>を建国した李成桂(イ・ソンゲ)の回軍(フェグン)の決断は賢明でした。
そして、兵士への優しさと家族への愛を感じさせたセリフでした。
2016年1月27日の記事の一部を再度アップしておきます。

鴨緑江(アムノッカン)の中州の威化島(ウィファド)からの回軍は1388年のことです。
同年に総大将(首相)だったチェ・ヨン将軍を逮捕します。
建国まで、あと4年。

「我々5万の兵士は家族の元に帰るのだ!」
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「5万の子供たちがいるんです!
 我々には10万の両親がいるんです!」

そしてムヒュルの、
「どうか俺の弟たちを救ってください。
 ここにいる俺の弟たちのことを救ってください!」

戦争って、家族の誰かが亡くなる…、そんな悲惨なことですよね。

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<古代の韓半島>(2) 忠烈王と「元寇」

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(ローズマリーの花:8月末)

<古代の韓半島>(2) 第25代・忠烈王(ワン・シン)と「元寇」

第6話ではワン・ヨン大監の妹で、実在したチョンファ王妃(貞和宮主)が登場しました。
ウォンが赤ん坊の頃(生まれた翌年)の史実の一つです
ウィキペディアでは、
「(1276年)12月 前妃貞和宮主による公主クトゥルク・ケルミシュ呪詛の巫告事件起きる」とあります。
つまり、
この忠烈王の前妃貞和宮主をモデルにして、ワン・ヨンの妹(リンの叔母)としてのエピソードが作られた思います。

元成公主(クトゥルク・ケルミシュ)の正室の座を確かなものとするための策略があったのかもしれないとも想像できますが、その結果、前妃は降格・流刑、長男は仏門に入ったようです。

チョンファ王妃(貞信宮主) 
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今回の<古代の韓半島>では2度に分けて「元寇」に触れます

1.先王の約束

ウォンの父・忠烈(チュンニョル)王(ワン・シン)は、36歳まで元で修業して高麗に帰国。
王位に就いたのは2年後の38歳で、1274年です。

この1274年の10月に起きたのが、最初の「元寇(げんこう)」です。
日本では蒙古襲来とも“文永の役”ともいわれる、第一次侵攻でした。
第24代の先王(元宗)の時に高麗は冊封国になっているので、元の命令に従って連合国として日本を侵略する約束が既になされていました。
ウォンが生まれる1年前のことです。
日本は鎌倉時代で、北条時宗の執政の時です。

ウィキペディアでは以下です。
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。
1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

また、第一次の文永の役の年には、
1274年 元は高麗に戦艦300隻の造船を命じ…、日本遠征のために大小900隻を準備…(略)。

5月、元から派遣された日本侵攻の主力軍15,000人が高麗に到着する。
同月、クビライは娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)を高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固にする。

その直後の7月には元宗が死去し、8月に諶が新たに第25代高麗国王・忠烈王として即位した。
6月、高麗は元に使者を派遣し、戦艦300艘の造船を完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗の金州に泊めたことを報告する。
8月、日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)が高麗に着任した。

2.フビライ・ハンの野望

チンギス・ハンが建国したモンゴル帝国の版図をさらに拡大したのが第5代帝王のフビライ・ハンでした。
フビライは、その前の「南宋」を滅ぼし、国号を「元」と改めました。
そしてさらに、彼の興味は日本に及んだ…。

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(「東方見聞録」の挿絵)

日本も高麗と同様に属国にしようと、6回に亘る使節を派遣しました。
ウィキペディアから拾います。

1268年(5月)
クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討する」と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している。

1266年
高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた

1268年
高麗の使節団が大宰府に到来
蒙古軍の襲来に備えて用心するよう御家人らに通達した。
鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、これらの南宋僧侶による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報告もあったとされる。

1269年
使節らは日本側から拒まれたため対馬から先には進めず、日本側と喧嘩になった際に対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を捕らえて、これらと共に帰還した。

(1271年にも使節を派遣)

1272年
日本は使節を派遣
元側は日本使の意図を元の軍備の偵察だと判断し、クビライへの謁見は許さなかった

1272年
クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含み、これまで合計6回、日本へ使節を派遣したものの、服属させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する

3.鎌倉幕府のスタンス

鎌倉幕府の返信が届いたのか分かりませんが、草案が次のように残されています。

「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。
(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。
本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。
ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。
(中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。
(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。
およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。
知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ない、唯一無二の存在である。
よく考えよ

4.文永の役の結果

九州北部に集結した鎌倉幕府の御家人(サムライ)たちの奮闘により、元と高麗の連合軍は敗退します。
既に太陽暦では11月に入っていましたから、(通説となっている)台風ではなくて荒れた玄界灘の波の助けがあったと思います。
元寇



また、騎馬民族にとっては馬が使えず、弓矢も尽きる、食料も確保できないといった“アウェイ”での海洋民族との戦いはいかにも不利。







次のウィキペディアからの図表のように半数の兵士たちが帰国ができない結果でした。
(左が日本側で、右が元と高麗の連合軍です)
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なお、
世界史図録(山川出版社:2014.03)を開くと(p.285)、
元は、
「1257年 ベトナム侵入失敗」
「1292年 ジャワ遠征失敗」
1328年 南北に分裂
と記されています。
そして、1368年には「明」国が建国しています。

(来週に続きます)

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『王は愛する』はファクト+フィクションのファクションドラマなので、ウォンのサンとリンへの愛と友情の物語はフィクション。
また、フィクションとしての史実との大きな違いは、世子は代々「元」で育てられたということ。
ウォンの父親の第25代・忠烈王は、23歳から36歳まで世子として元で教育され、大都(ペキン)の宮中で修業を積んでいます。
第24代王(元宗)の時代に「元」の冊封国となったために、実質的には人質として預けられていたということです。
それ以降も、この慣例が続き、また同時にそれぞれの王妃(正室)は元の皇室・皇族の皇女・公主です。

1351年のこと。
高麗第31代・恭愍(コンミン)王が21歳で即位。
新妻の魯国公主(ノグクコンジュ:元の魏王の王女)と共に高麗の首都・開京に帰国するシーンからドラマ『信義』は始まりました。
恭愍王を警護する主人公のチェ・ヨンは35歳でした。
なお、魯国公主のモンゴル語の本名は宝塔失里(ブツダシユリ)。
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ソン・ジナ作家は今回も若い頃の王の愛と成長を描いています。
『王は愛する』では後の第26代・忠宣(チュンソン)王が19歳の世子の頃からドラマが始まりました(1294年)。
第26代の王に即位するのは33歳の時です。
さて、ドラマの方のラストではワン・ウォンは何才になるのでしょうか?

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古代の韓半島(1) 元と高麗

# ドラマを視聴しつつ、これから朝鮮王朝以前の<古代>のことを概観しようと思って書いています。
すでにアップした記事のまとめです。

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(これは柿の実です:2017.08.01@nagasaki)

<古代の韓半島(ハンバンド)>元と高麗

1.王氏高麗

ソン・ジナ作家は高麗末期を描いた『信義』で、当時の高麗最大の貴族・“奇(キ)”一族の家長キ・チョル(実在)を登場させました。
妹は「元」の皇后となった『奇皇后』です。
『王は愛する』では、ワン一族とウン一族を登場させています。
いずれも貴族ではあるものの、史実としてはワン一族が王家の外戚です。
リンの父親の妹が第25代・忠烈王の最初の妻(実在)です。
ただし、父親(ワン・ヨン:法務大臣)、長男、次男(ワン・ジョン)、そして3男のワン・リン共にフィクションで架空の名前だと思います。
また、高麗最大の貴族のウン一家もフィクションです。

ところで、このワンの姓ですが、朝鮮王朝が“李氏(イシ)”朝鮮と呼ばれたように、高麗は“王氏(ワンシ)”高麗と呼ばれます。
王族王氏のロイヤルファミリーの時代ということでもあり、
これは、建国の祖だった太祖王建(ワン・ゴン)が29人もの妻を持ったように、積極的に地方の貴族・豪族との婚姻を進めて、国内の統一しようとした結果だと思います。
そのためなのですが、門閥の数が増えると貴族や豪族の政治介入も増していったようです。
そこで政府高官の平等な地位を保つためには、財力ではなくて知識・学力も必要だとして、949年に即位した第4代王・光宗(クァンジョン)により大陸から“科挙制度”が導入されました。

2.武人時代

門閥の政治介入を避ける為もあって、科挙制度による実力主義を取り入れた高麗でしたが、文官だけでなく武官も必要な対外関係でした。
たびたび、契丹(国名は「遼」)などの北方民族が侵入し、必然的に武官の地位と勢力が増していきます。
990年代の頃からです。

そうなると今度は、私兵を多く抱える武官同志の権力闘争に発展しました。
そしてついに、文官の権力を排除しようと、1170年には鄭仲夫(チョン・チュンブ)や李義方(イ・ウィバン)らによるクーデターが勃発。
時の第18代王は島流しとなりました。
ドラマのタイトルにもなった、いわゆる『武人時代』の始まりです。
武人の中でも、崔忠献(チェ・チュンボン)が政権を掌握(1196年)した以降は、“崔氏一族”の世襲制による政治が1258年まで続きました。
その後の3人の武人時代を経て、武断政治は1270年まで、ちょうど100年間続きました。
その間の、6代6人の王は常に傀儡でした。

なお、『信義』の主人公のチェ・ヨン(後の将軍)はこの崔氏一族の末裔だと言われます。

3.第25代・忠烈(チュンニョル)王

武官によって高麗王朝は6代に亘って“傀儡(かいらい)”にされましたが、この『武人時代(ムインシデ)』は第24代王・元宗の時に終わります。
1259年、大陸で版図を拡大していた「元」が侵攻。
崔氏による武断政治が「元」の国力に屈して、服従することになります。
長く武官に牛耳られていたものの、この時に高麗王の実権が復活したと考えられます。
ただし、「冊封」制度を受け入れること、つまり元(宗主国)の冊封国として主従関係を余儀なくされました。

この『王は愛する』の第25代・忠烈(チュンニョル)王は、第24代王・元宗の長男として生まれたのですが、この1259年に元に人質として大都(北京)に渡ります。
忠烈王が23歳の時でした。
ただし、その翌年(1260年)には世子に冊封され、1272年に高麗に帰国。
1274年に元宗が死去した後、第25代王に即位することになりました。

なお、第26代王となるウォンが誕生したのはその翌年の1275年です。

4.元成(ウォンソン)公主

ウォンの母親の元成公主は、ジンギスカンの孫の娘。
父親フビライ・ハンの娘でモンゴル名はクトゥルク・ケルミシュ
従って、公主(コンジュ:王の正室の娘)というよりも皇女(皇帝の娘)の表記が正しいと思っています。

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当時の「元」のことをウィキペディアなどで引用します。

チンギス・ハン(1167~1227)はモンゴル帝国の創始者(在位1206~1227)。
廟号は太祖。
幼名、鉄木真テムジン。
モンゴルを統一し、1206年ハンの位につく。
氏族共同体を解体、ハンのもとに統轄された遊牧領主制を確立。
西夏を服属させ、15年金に侵入。
19年以降西征を行いホラズム・南ロシアを征服。
のち西夏を再征したが、陝西省で病没。
「成吉思汗(ジンギスカン)」とも書く。

フビライ・ハンは、1215年にチンギス・ハンの4男であるトルイの子として生まれた第5代皇帝
祖父のチンギス・ハンが広げた領土をさらに拡大をさせ、当時世界の25%もの陸地を支配。
南宋を支配下におき、1267年には、首都を大都(現在の北京)に遷し、1271年には、国の名前を中国風の「元」に改めた。

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高麗(コリョ)時代のドラマを王の年代順に列挙しておきます。
『太祖王建(テジョワンゴン)』高麗の始祖
『千秋太后(チョンジュテフ)』高麗第5代王~第7代王の時代で、千秋太后は王建の孫
そして、
『王は愛する』の主人公は第26代王・忠宣(チュンソン)王のワン・ウォン
同じソン・ジナ作家の作品で、
『信義(シンウィ)』は第31代・恭愍(コンミン)王の時で、高麗の末期
『六龍が飛ぶ』
は高麗末期から<朝鮮王朝>の建国の前後

古代朝鮮での高麗の位置づけは次の図の通りです。
韓半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

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