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東洋の磁器の原点

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高麗時代の『王は愛する』でしたので、たくさんの白磁や青磁がドラマを飾っていました。
寒くなる前にと思い、先週は東京国立博物館の東洋館に行ってみました。

東洋の磁器の原点~古代のアート

昨年は日本で初めての「磁器」が佐賀県・有田市で焼かれて400年目でした。
豊臣秀吉(安土桃山時代)の半島侵略(文禄・慶長の役:韓国では壬辰・丁酉の倭乱)の際に日本に来た陶工たちが日本でも完成させた技術によるものでした。
江戸時代初期のことです。
原料となる長石の鉱山を発見し、粉砕してパウダー状にしたものを成形し、1000℃もの熱で焼いたものです。

ドラマ『王は愛する』では王室・貴族や豪族たちが白磁や青磁の食器を使っていました。
韓半島に「磁器」の技術が伝わって、盛んに生産されるようになったのは“高麗”の時だったからです。
およそ1000年前です。

(高麗の青磁:東京国立博物館にて)
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1.大陸・景徳鎮

大陸での磁器生産は1000年以上も前のことで、今でも有名な産地が江西省・景徳鎮です。
宋時代に磁器の生産が盛んになり、北宋の皇帝真宗が、1004年に年号の“景徳”を地名として、この地に授けたことにより、景徳鎮と呼ばれるようになりました。
景徳鎮で作られていた磁器の原料はカオリン(kaolinite)で、景徳鎮付近の高嶺(カオリン: kaoling)が由来です。

(長石が故熱高圧で変質したものが写真左のカオリンです。
 右は長石)
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景徳鎮から世界各国に向けて磁器が輸出されました。
思いを馳せると、北宋の皇帝が自らの年号を地名として与えたということは、磁器による経済・産業発展がもたらした富が大きかったからでしょう。
また、景徳鎮は南京の南西に位置するので、南京経由で日本にも輸出されたと思われ、日本では輸入した磁器を“南京焼き”と呼んだそうです。

(景徳鎮の磁器:東京国立博物館にて)
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もともとの景徳鎮には官窯(かんよう)と民窯(みんよう)がありました。
宗・元・明・清の時代を通じて、宮廷ご用達の窯が官窯で、一方の民窯からは国内向けのみならず、海外向けにも生産されていました。
さらに、人気だったのでしょう。
引く手あまたの需要に生産が追いつかなくなり、窯の官と民の区別は無くなりました。
これにより、民窯には実用とアートが発展し、景徳鎮の磁器が世界における地位を確立することになりました。

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2.東京国立博物館・東洋館

時代は2000年も遡って、粘土を成形して焼いたのが土器でした。
韓国半島は高句麗の前の三韓時代で、大陸は“漢”の時代。

(三韓時代の青銅製の薫炉・香炉)
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(トップには鳳凰)
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(統一新羅の頃の土器)
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『善徳女王』でも『王は愛する』でもイヤリングが目立ちました。

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(下のネックレスも含め、いずれも統一新羅時代の装飾品です)
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KJSでは『華政』を視聴しつつ、「磁器」の製造について詳しく記事にしました。

http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2544.html

http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2580.html

長石(結晶は石英:酸化ケイ素:SiO₂)などなど、地表を覆う土や石の主成分はケイ素(シリコン:元素記号Si)で、その純度を99.999…まで高めたのがシリコンウエハー。
私たちの生活に欠かせない電子機器の心臓部、あるいは頭脳となっている集積回路の基盤はシリコンウエハー(半導体)です。
地球に一番多い原料が古代から未来までを切り開いているように思えました。

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関西に渡来した豪族

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(夏の柿の実)

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(11月になってからの実)

関西に渡来した豪族

1.広隆寺と秦氏

半島から4世紀から5世紀にかけて渡来した有力な豪族に、漢(あや)氏と秦(はた)氏の一族がいました。
それぞれが奈良と京都に一大勢力を築き、とくに京都の秦氏は養蚕・機織り、農業灌漑の技術を伝播し太秦から嵯峨野にかけての農業用地開発と産業を発展させました。

京都・右京区太秦(うずまさ)の広隆寺は、603年に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺だとのこと。

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(最初の本尊の弥勒菩薩半跏思惟像)
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ウィキペディアによると次のとおり。

創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。
現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。

秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人といわれ、朝鮮半島を経由し日本に渡来したという。
葛野郡(現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。
広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。
なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。

(本尊は常に公開されていないので、“薬師如来像”は次なのかな?
 検索して想像しているところです)
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(飛鳥~白鳳時代の系図は次のとおりです)
https://ja.wikipedia.org/wiki/舒明天皇

また、794年に平安京遷都がなされた背景には、桓武天皇が秦氏一族が持つ財力に頼ったという推測が十分に成り立つと思われます。

第50代・桓武天皇)
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2.平安京

この5月1日に京都市・平安京創生館を訪ねました。
(平安京創生館:中京区丸太町通七本松)
以下はKJSからの抜粋です。

794年に平安遷都を行ったのは第50代・桓武天皇でした。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3232.html

# ウィキペディアでは次のとおり。
第50代・桓武(かんむ)天皇(在位:781年~806年)は、白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として737年に産まれた。
生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。

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館内の展示でまず目を引くのは1000分の1の平安京の復元パノラマ(その4分の1)です。

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平安京の広さは東西に4.5㎞、南北に5.2㎞、したがって23.4㎢の縦長の長方形でした。
中国の長安を参考にして作られたとされていますが、防衛上の外壁はありませんでした。
ちなみに、長安は東西に9.7㎞、南北に8.7㎞、したがって84.4㎢の横長の長方形で、平安京の3.6倍の面積

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(平安京・豊楽殿:国家の祝宴のため) (白河・法勝寺の八角九重塔:鴨川の東)
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(出土した瓦)
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(当時の女房装束:十二単と束帯)
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(当時の庶民と貴族の食事)
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ソウル特別市と東京23区

江戸時代初からは500年以上経ています。
東京23区は622㎢の広さで、約890万の人口です。
また、
ソウル(首都の意:王朝時代は漢陽)は、
1392年に朝鮮王朝が建国されてから今年で625年を迎えます。
ソウル特別市25区は605㎢で、人口は約1000万人です。

ドラマ『逆賊』では「漢城府」という“いわゆる都庁(機関)”がイム・ジャチとチョ・チョンハクが務める官庁でした。
漢陽は都城でもあるので、漢城府(ハンソンブ)と呼ばれていました。

(地図はウィキペディアより)
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この漢城府は、北側の北岳山(プガッサン:342m)、南側の木覓山=南山 (ナムサン:262m)、東側の駱山(ナクサン:125m)、西側の仁王山(イヌァンサン:338m)を連ねるように総延長約19kmの外壁(高さは7~8m)で囲まれた“都城”です。
面積は468㎢で20万人ほどの首都だったようです。

そして、その都城の外の南に漢江(ハンガン)が流れていました。


現在のソウル特別市は漢江の南の江南(カンナム)も含みますから、ソウル特別市(605㎢)マイナス、漢城府(468㎢)=カンナム(137㎢)。
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つまり、
1970年代から開発が進んだカンナム地区の広さは、平安京のおよそ6倍だとのイメージが湧きます。
(カンナムの大通りは片道4車線で、朝夕はこの大通りが車のラッシュで一杯になります。
写真は3年ほど前)

# なお、漢陽府を囲んでいた4つの山(内四山:ネササン)を連ねる外壁の観光コースがあります。
https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=7497

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百済から来た王子

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(ナンテンの実:2017.11.09)

百済から来た王子

高句麗の王族・若光とその子孫が関東に根を下ろしたように、百済の王族・豪族の一部も日本に渡り、関西(大阪)に根を下ろしました。
遡って、新羅と唐の連合軍により高句麗が滅びた話は前回でした(668年のこと)。
それよりも少し前の660年に、同連合軍により百済が先に滅びています。
しかし、残党によるゲリラ戦は各地で行われていました。

1.百済のラストプリンス

百済最後の王は義慈王(ウィジェワン)でしたが、その息子の豊(フン)(日本では豊璋:ほうしょう)と弟の勇(ヨン)は日本にいました。
ドラマ『王は愛する』では高麗の世子が元で育ったように、当時の百済の世子が日本で育っていたということです。
関係強化のための“人質”だったようです。

飛鳥時代の強大な豪族だった蘇我氏(#)が百済と日本との関係強化に努めていたようで、朝廷は豊の願いにより、彼が百済の復興のために帰国した際には5000人の兵士を随行させたとされます。
さらに、豊は2万7000の兵と400隻の軍船の援軍を得て、663年には白村江(はくすきのえ)の戦いを挑みました
結果は新羅と唐の水軍に大敗。
豊の消息はそこで途絶えます。
これが後に、高句麗王族からの使者であった若光の援軍要請に応じなかった大和朝廷(天智天皇)の躊躇の要因でした。

しかし、弟の勇(ヨン)は日本に残っていました。
つまり、百済のラストプリンスとして日本で活躍したということです。

2.百済寺の跡地

勇の曾孫の百済王・敬福が難波からこの地に移り、749年に、先祖を祀る寺として建立しました。
大阪府・枚方(ひらかた)市の案内などを拾ってみると以下です。

(公園には石碑が立っています)
百済寺公園

749年(天平21年)百済王・敬福は陸奥国産出の金を献上した功により、翌年宮内卿兼河内守に任ぜられ、以後百済王氏一族はこの中宮の地に移り住み、 氏寺として建立した百済寺跡で、寺院は11~12世紀に焼失したものと考えられるが、礎石だけはそのまま残っており、敷地全体が国の特別史跡に指定されている。

枚方市内、交野ヶ原の小高い丘の上にある。金堂とその背後の講堂、食堂を中央に、それらの東西に塔を配した伽藍様式をもち、それぞれ礎石が残っている。また中門、南門、東門、東院の跡もわかっている。

(写真の左上がお寺の東塔の跡、右上が西塔の跡
写真の左下は南大門の跡、右下は西回廊の跡)
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聖徳太子から中大兄皇子のころ
(ウィキペディアでは次のとおりです)

聖徳太子

推古天皇(女帝)のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。

(17条憲法)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

(冠位12階)
制定の目的は『日本書紀』等に記されない。
よく説かれるのは二つで、一つは家柄にこだわらず貴族ではなくても有能な人間を確保する人材登用のため、もう一つは外交使節の威儀を整えるためである。

604年1月11日に初めて制定された冠位である。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12階の冠位が制定された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E

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中大兄皇子

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)などによる「大化の改新」

大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自害させ、蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。
天皇の宮を飛鳥から難波に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。

(改新の4項目)
1.(公地公民制)
それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。

2.初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。
国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。
実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。

(班田収授の法)
3.戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。

(租・庸・調)
4.公民に税や労役を負担させる制度の改革。

# 以下は蘇我氏と皇族の関係です。
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高句麗の王族・若光 (2)

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(高麗神社の入り口@埼玉県・日高市:2017.11.01)

高句麗の王族・若光 (2)

先の神奈川県・大磯の高来(たかく)神社の“高”は、高句麗あるいは始祖の高朱蒙(コジュモン)だと思います。
高句麗人・若光についてはもう一つの物語があります。
時代は奈良時代に入ります(710年)。

716年になると、高句麗人たちの嘆願により、朝廷が現在の埼玉県あたりの武蔵国に高麗郡(現在の県にあたる格と規模)を新設することにしました。
各地に散在していた高麗人たちが集まりました。
そして、高句麗系の人々の統率には若光が郡長(知事)として推挙・任命されたとのこと。
“白鬚神社”がこの地方に点在するように、彼はすでに白鬚の高齢だったと考えられます。

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1.高麗(こま)神社

ここでいう高麗(こま)は、新羅を統合した高麗(コリョ)ではなく、高句麗(コグリョ)のことです。
つまり、紀元前に建国された高句麗から、そのシンボルの三本足の八咫烏(ヤタガラス)が埼玉県にも飛来したということ。
高麗神社の入り口の石碑にはヤタガラスのシンボルマークが刻まれています。
この記念碑や神社の案内書に書かれてあるように、若光は1799人の高句麗人を束ねて、新田開発や高句麗の技術によって産業を興したとのこと。
写真のように、現在も高句麗の衣装での祭儀があります。
また、現在の神社の宮司(第60代目)は“若光の子孫”とのこと(神社のパンフレットより)。

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この9月20日には天皇・皇后両陛下が私的行事として参拝されたとのことです。
(本殿)
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2.聖天院

若光の菩提寺が751年に建立された聖天院です。
(高麗神社からは徒歩で数分)

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日高市掲示による聖天院の縁起

続日本紀によれば、今から1,300年前高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の高句麗人1,799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し、高麗郡を置きました。
現在の日高市は、高麗郡の中心をなした地域と考えられ、1,889年(明治29年)まで高麗郡でした。
高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めました。
勝楽寺は若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に751年(天平勝宝3年)に建立しました。
若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の遺志を継ぎ、若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としました。
その後開山以来の法相宗を真言宗に改め、1,580年(天正8年)には本尊を不動明王にしました。
当代までに実に1,250年間絶えることなく継承されています。
2000年(平成12年)には、山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました。
(日高市掲示より)

(若光のお墓)
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1300年もの時空を思わせる旅でした。
高麗駅までは池袋から西部池袋線で(飯能で乗り換えて)1時間弱です。
(神社まではタクシーを呼び、5分ほどでした)

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高句麗の王族・若光 (1)

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(高来神社:2017.11.02)

高句麗の王族・若光 (1)

1.そのミッション


「日本書紀」によると、日本には552年に百済から仏教が伝来。
また、聖徳太子が大切にもてなし、師匠として尊敬した慧慈(えじ)は高句麗から派遣(595年)された僧でした。
もう一人特筆すべき高句麗からの人が、666年に渡来した「若光」で、彼は高句麗の王族の一人。
当時の高句麗は新羅と唐の連合軍との厳しい戦闘状態にありました。
日本からの援軍を求めるということが彼のミッションでした。

しかし、日本の朝廷(飛鳥時代:天智天皇)は動かなかった。
それは、
663年の「白村江(はくすきのえ)」の戦いの際に、27000の兵と400軍船で百済に援軍を送ったものの、新羅と唐の連合軍に日本の水軍が敗れたという、苦い経験があったからです。

韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

そうしているうちに、高句麗は668年に滅亡
(KJS:『善徳女王』と新羅の興亡)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3398.html

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(高来神社への入り口)

若光にしてみれば帰ることができる祖国を失い、日本に住みつくしか道がなかった。
飛鳥時代の大和朝廷は、王族であった彼に官位を与えて、当時の高句麗からの戦争難民対策を命じました。
(従5位下を賜ったのは703年です)
彼は、1000人を超える高句麗からの難民となった同胞たちの中でリーダーシップを発揮し、今の神奈川県での新田開発を行います。
高句麗からの移住者は増えて、同時に若光は渡来した高句麗人たちに慕われ、その後は神として崇められた…。
髙来(たかく)神社、当時の高麗(こま)寺の縁起です。

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2.高来神社(高麗寺)
(次は神奈川県大磯町の広報によります)

高来神社の背後にそびえる山が高麗山です。
“高麗”の名の由来を探っていくと、『新編相模風土記』に「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が往したところにちなむ」とあり、『箱根山縁起』には「神功天皇が三韓を討った後、三韓の神を日本に還して祀ったが、その中に高麗大臣和光を当州に還し奉り、その山を高麗山と名づけた」とあります。
*三韓・・・(# 後の)百済、新羅、高句麗のこと。高句麗の高麗大神を大磯に祀った。

日本に難を逃れたてきた人も多く、その中の高句麗国の官人に 若光(じゃっこう)という人物がいました。来日中に母国が滅びたため、若光は帰国せず日本で官人となりました。
時を経て、若光一族も含めた関東の各地にいた高麗人は武蔵野国に集められ高麗郡が設置され、若光はその郡令に任命されました。
高来神社「御船祭」の木遣歌「権現丸」で「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となる
とうたわれることから中世以降高麗寺では、なにかしらの関係を伝承していたと考えられます。
また、高句麗からの渡来人伝承から「高麗山」の名前がついたといわれています。

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(境内の案内には)
716年、「大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命じられました」と書かれています。
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若光ゆかりの地にはもう一つ、埼玉県日高市があります。
23日にアップする若光の時代は奈良時代です(710年~)。

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JR大磯駅までは東京駅から約1時間です。
神社は小さいので、神社訪問と合せて高麗山(こまやま)へのハイキングを目的とするのが良いと思います。
地元のタクシーでは高来(たかく)神社でも高麗(こま)寺でも同じ。
「この辺りはコマと呼んでいますから…」とのこと。

jr oiso

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『善徳女王』と新羅の興亡

# 今日は、『王は愛する』第35話での感動を再度味わいたいと思っています。

慶州の仏国寺(プルグクサ)
仏寺

<古代の韓半島(ハンバンド)>(9)
ドラマ『善徳女王』と新羅の興亡

大帝国だった高句麗が、唐と新羅の連合により足元をすくわれ、北に追いやられて渤海へと転じました。
三国時代が終わった7世紀末のことでした。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3397.html

その唐と新羅の同盟関係ができる少し前のこと。
新羅初の女王・『善徳女王』が第27代王として即位しています。
ドラマはほとんどがフィクションなのですが、当時の時代背景としては、高句麗との戦争状態にあった大陸の“唐”と三国の中でも領土が一番小さかった“新羅”の「利害が一致」していました。

1.ドラマ『善徳女王』(2009年・MBC)

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波乱万丈の即位までのドラマと違って、善徳女王(?~647年)は自然と“初めての新羅の女王”に即位(632年)したようです。

「善徳女王の名は徳曼(トンマン)で、真平王(チンピョンワン:第26代王)の長女。徳曼は生まれつき情が深く明敏だった。王が亡くなって、(他に)子供がいなかったので、人々に推挙されて王になった」
出典は「三国史記」(康煕奉『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社2011.10.p.42)

双子の姉妹だったとして描かれた女王の徳曼(トンマン:役はイ・ヨウォン)。
反対勢力にはミシル(コ・ヒョンジョン)という妖女がいました。

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ミシルは、ピダム(キム・ナムギル)を操って、内乱を起こそうというストーリーでした。

(ピダムの乱)
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反対勢力(貴族・豪族)を抑えて、徳曼を支えていたのが青年エリート集団の花郎(ファラン)の大将軍・金庾信(キム・ユシン:オム・テウン)

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さらに、ドラマの終盤になって「叔母様」と、徳曼を支援して金春秋(キム・チュンチュ:ユ・スンホ)が登場。
トンマンの姉の天明(チョンミョン)の息子でした。

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2.新羅と唐の外交

善徳女王は、大陸の唐との連合により小国が生きる道を選ぼうとしたのですが、唐からの条件が、“唐の皇室”から王を派遣するというもの。
ドラマにもあったように、反対勢力は善徳女王の廃位をもって唐との連合を築こうとしました。
そこに、「とんでもない要求だ!」と金春秋(キム・チュンチュ)が登場したわけです。
彼が後の第29代・武烈王(ムヨルワン)で(654年に即位)、唐・新羅の同盟の立役者となりました。
「先百済、後高句麗」という外交・攻撃戦略だったとされます。
先に攻撃しやすい百済から…、というタイムスケジュールの提示だったようです。

三国時代は半島の南の最も小さい領土に位置した新羅です。
その国が唐の支援を得て大きくなりました。

なお、ウィキペディアでは次のように、金庾信と武烈王との関係が書かれています。
(金庾信は)532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王(# 661年)となる。
金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。

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3.財政難

「しかし、統一新羅の栄華は長く続かなかった。
やがて、貴族が腐敗し、国家財政が窮乏した。
国力が衰退すると余計に弱みとなったのが、慶州の立地条件の悪さだった。
この慶州は半島の東南端にあり、全土を統治するのに限界があった。
結局、慶州から遠い地方には有力な豪族が次々に台頭するようになった」
(上掲書:康煕奉、p.92)

# 次のサイトは私のプサンから慶州への旅です。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2679.html

http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2680.html

4.高麗による吸収合併

新羅は自らの衰退を招き、コントロールできる自国の領土を小さくしてしていったようです。
首都だった慶州(金州)や現在の釜山(プサン)などがある慶尚道くらいに縮小しました。

次はウィキペディアによります。
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唐の力を借りて高句麗、百済を滅ぼした新羅も9世紀末になると国力が衰退し、各地で反乱が起こっていた。
(王建は)北方での新羅への反乱軍の指導者であり後高句麗を建国した泰封王である弓裔に従い、松嶽城主、鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を統率して活躍していた。
後高句麗は、新羅や後百済に対して優勢を占めており、王の弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとした。
しかし弓裔が部下に対して傲慢で乱暴になるなど暴君になったため、918年に弓裔の部下である洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙らは、弓裔を追放し易姓革命を起こして王位を奪い王建を新たな指導者として擁立した。

918年:王建は松嶽郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高麗の後継者を自称して国号を高麗と定め、年号を天授と定めた。
920年:後百済に圧迫されていた新羅の景明王に信書を送り同盟を結ぶことにした。
926年10月:後百済は新羅の首都である金城(慶州市)を占領し、景哀王は自殺した。

後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。
930年から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。
933年:後唐に朝貢し、王建は高麗国王に任じられた

弓裔(クンイェ)と王建(ワンゴン)(『太祖王建』より)
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高麗を舞台にした『王は愛する』ですから、ここまで<古代の韓半島>は高句麗から高麗への流れに焦点をあててきました。
高句麗人の不屈の精神が三本足のカラス(八咫烏:やたがらす)に象徴されるようです。

(『朱蒙』)
2007_20171013132812174.jpg

# 『王は愛する』第35話での感動…。
ワンビ媽媽の死を悼み、そして悲しみが怒りに変わるウォンでした。
今日はイム・シワンの演技を再度味わいたいと思っています。
(視聴している英文字幕のサイトです)
http://www.koreandrama.tv/the_king_loves/The_King_Loves_Episode_35-subs-36328-1/

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歴史を駈けたカラス

<古代の韓半島(ハンバンド)>(8)
歴史を駆け抜けた八咫烏(やたがらす)


ドラマ『朱豪』では、初めて国家のシンボルマークに三本足の八咫烏(やたがらす)がデザインされました。
新羅と唐の連合軍に滅ぼされても高句麗のヤタガラスは歴史を駆け抜けます。

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1.南北の二国の時代へ

668年、第28代の宝臓(ポジャン)王が新羅と唐との連合軍に屈服し、高句麗が滅びます。
そこで新羅は、滅ぼした百済と高句麗の民や軍を吸収して、半島での覇権を我が物にしました。
さらに、同盟国だった唐を半島から追い出して、676年には「統一新羅」を樹立。

ただし、半島を統一したと言っても、もとからの高句麗(大帝国)の領土であった半島の北部には勢力が及んでいませんでした。
そこで半島の北部に残った高句麗の血が騒いだ。

ゲリラ活動の中から生まれた英雄が大祚榮(テジョヨン)でした。
伝説では、流星が落ちた日に生まれた男。
“天から授かった幸福の子”の意味がある「祚」という漢字を宛てて、名を大祚榮と称しました。
伝説だからなのか、あるいは度重なる半島の戦禍により記録が亡くなったのか…?
生年月日が不明な始祖です。
ただし、彼が698年に“震(チン)”を建国し、後に「渤海(パルへ)」と改名したという史実です。

渤海

2.ドラマの『大祚榮(テジョヨン)』

ドラマでは北方の民族国家「契丹」との熾烈な争いを経て独立を獲得しました。

che s
(主演のチェ・スジョン)

https://www.youtube.com/watch?v=hN57DCDi1UU
(132話より)
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なお、
上記に“高句麗の血が騒いだ”と書いていますが、私は“単一民族”という言葉は字面だけだと思っています。
実際の我々人間は民族の交流により、混血を経て力強く発展したと思っているからです。

3.渤海の滅亡と後高句麗

北の寒冷地の渤海、半島の温暖な南の新羅との南北の国家の時代が9世紀。
しかし、渤海は契丹に押し戻されて滅亡します(926年)。
民百姓は流浪を余儀なくされました。
ただし、その前の900年には百済が再興し後百済を建国し、同じく901年には後高句麗が生まれていました。
流浪の民が後高句麗に向かって南下したのは当然の流れでしょう。

後高句麗についてはドラマ『太祖王建(ワンゴン)』が参考になりました。
ウィキペディアでは以下です。
(後高句麗)
弓裔(きゅうえい:クンイェ)は、後三国時代の群雄のひとりで、後高句麗の建国者。
姓は金、僧号は善宗。
隻眼であったことから一目大王との別称もある。
専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であり有力な部下であった王建に追放されることとなったため、諡号はない。

国破れて山河あり(唐の詩人・杜甫)
(ネットで検索)

「国破れて山河あり」とは、戦乱で国が滅びても、山や川の自然はもとのままのなつかしい姿で存在しているということ。
有為転変の世の中と、変わらない自然とを対比し、感慨深くいう言葉。
杜甫の詩『春望』の冒頭の句「国破れて山河あり、城春にして草木深し(国は滅亡したが山や川はそのままで、町には春が訪れ草木が茂っている)」から。

高句麗は新羅と唐の連合に敗れ、渤海は契丹などの北方民族に敗れますが、高句麗の人々のスピリットはサムジョッコ(3本足のカラス:八咫烏)の旗の下で生き続けました。
八咫烏はさらに後高句麗を経て、そして高麗に舞い降りました。

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ところで、ドラマの『大祚榮(テジョヨン)』での契丹の首長はチャン・ボソクが演じました。
現在KJSでアップしている『王は愛する』の忠烈王ですね。

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歴史を駆け抜けたカラスの三本足の意味

以下はウィキペディアからのコピペです。

八咫烏が三本足であることが何を意味するか、については諸説ある。
熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。
また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。

三足烏の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。
かつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれている。
日本神話の「東征」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武天皇の道案内を務めたとされる。
神武天皇は、当初、西から大阪に攻め入って敗れたため、太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えた。
そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して現在の新宮付近から攻め入ることにし、その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた。

(『大祚榮(テジョヨン)』では左のヤタガラスが旗になっています)
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現代では、八咫烏は主に日本サッカー協会のシンボルマークおよび日本代表エンブレムの意匠として用いられている事でも知られている。
このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した漢文学者・内野台嶺らの発案を基に、彫刻家・日名子実三のデザインにより、1931年(昭和6年)に採用されたものである(天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているともいう。

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<古代の韓半島(ハンバンド)>(7) 三国時代

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(9月末の上野公園)

# すみませんでした
今朝は作成中の第29話(下)を“にほんブログ村”にアップしてしまいました。
チェックを怠っていました。

<古代の韓半島(ハンバンド)>(7) 
 三国時代


1.三国時代

後の第19代王・広開土(クァンゲト)大王(テワン)こと、タムドクが16歳で高句麗王となったのが391年でした。
広開土王の高句麗(コクリョ:고구려)が版図を拡大して次の歴史地図のような状況となっていきました。
では、三国時代と呼ばれる他の二つの国、百済(ペクチェ:백제)と新羅(シルラ:신라 )はどうだったのか?

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(1)百済

高句麗を建国した朱蒙と共に高句麗の女王となったソソノでした。
そして、ソソノは息子二人を連れて南下しました。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3375.html
長男(ピリュ:沸流)は現在の仁川のあたり、そして、次男(オンジョ:温祚)は全羅道(公州)に後の百済の都を築きました。
兄よりも肥沃な土地だったので弟の国が繁栄することになります。
その百済が興ったのは紀元前18年のことですが、まだ伝説の域を出ません。
国としての記録が出てくるのは346年です。

(2)新羅

百済と同じ伝説の国家が新羅(紀元前57年)。
慶州(キョンジュ)あたりのいくつかの部族の連合国家の呼称だったようですが、百済と同様に新羅も肥沃な土地に恵まれて、国力を蓄えていきました。
新羅という国の記録は百済よりも10年後の356年です。
高句麗が版図を拡大するにつれて、自国の力だけでは対抗できないので、百済と新羅は連合関係にあった。
これが4世紀から5世紀にかけての二つの国だったようです。

(3)高句麗の拡大

高句麗が首都を国内城(クンネソン)に遷都したのが343年です。
朱蒙大王の建国から広開土王の時代までのおよそ400年。
5世紀までに、半島の覇権を握る帝国に育っていったということです。
(上記の地図にあるように、第19代王・広開土王の時代が最盛期だと言われます)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3388.html

何らかの記録に残る5世紀からが三国時代とも言えると思います。
ただし、もう一つ伽耶の国が興っていましたので、正確には四国時代でしょうか。

(4)そのころの大陸と日本

その後の6世紀の大陸では、乱立の五胡十六国時代を経て、ようやく「隋(ずい)」が統一しました(581年)。

日本は弥生~古墳時代を経て、593年に聖徳太子が摂政政治を始めました(飛鳥時代)。
そして、600年に隋からの使者を迎えています。
太子が“17条の憲法”を制定したのが、604年。
また、小野妹子を607年に遣隋使として派遣しています。
なお、隋から「唐(とう)」に変わるのが618年で、日本からの遣唐使が始まるのが630年です。

韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

2.なぜ百済と高句麗は滅亡したか?
 ~南北国時代の前に


# ドラマ『太王四神記』の後の時代は視聴したドラマがないのでイメージがなく、一気に先に進みます。
その後となると、私の場合は渤海(パルへ)建国の『大祚榮(テジョヨン)』と新羅の『善徳女王(ソンドクヨワン)』です。
なお、KBS、MBC、SBSの地上波3代ネットには、それぞれ“歴史考察委員会”が設置されているので、ファッションに関してもイメージが大きく外れていることはないと思います。

半島での覇権争いが繰り広げられた三国時代は300年ほどで、時は7世紀に入ります。
660年の百済滅亡、668年の高句麗の滅亡により、新羅が統一しました(676年)

では、なぜ百済と高句麗は滅亡したか?
なのですが、
一言で表せば、“新羅と唐の連合軍の勝利”です。

そもそも、三国時代では一番小さな新羅でした(伽耶を562年に既に吸収しています)が、水利事業の展開による農業の生産性が大きかったことと、もう一つは「花郎制度」だとされます。
この「花郎(ファラン)」は貴族階級の青年たちのことで、「忠義」、「孝行」、「信義」などのファラン精神をベースに鍛えられたエリート集団です。
ドラマ『善徳女王』では花郎出身の大将軍・金庾信(キム・ユシン)が軍を統率しました。
史実です。

さて、もとより小国だったので、北の高句麗の侵入に対しては百済と連合関係を築いて対抗してきました。
しかし、自らの領土欲のために百済と連携して得た領土を独り占めにするなど、二つの国の関係亀裂の原因を作りました。
孤立した新羅が応援を求めたのが大陸の“唐”です。
当時は唐と高句麗が戦争状態にあったので、新羅と唐の両者の利害が一致。
まずは百済を攻め落とし、次いで高句麗を攻め落としました。
多くは高句麗と対峙できた唐の大きな力だったのかもしれません。

# この後の「南北国時代」のことは次回にします。

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百済と高句麗の末期の将軍2人の名前を挙げておきます。
・百済の階伯(ケベク)将軍
・高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン):彼は王には就かず、最高官職に留まり、高句麗の屋台骨を支えていました。
階伯(ケベク)も淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)も、同名のドラマになっているようです。

『王は愛する』も終盤に入ってきました。
こちら<古代の韓半島>では、
次回は、渤海(パルへ)建国の『大祚榮(テジョヨン)
次々回に、新羅の『善徳女王(ソンドクヨワン)』を取りあげる予定です。

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『太王四神記』~生きて帰る

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<古代の韓半島>(6)
高句麗大帝国と『太王四神記』~生きて帰る


伝説の王子『朱蒙(チュモン)』は40歳で王位をユリ王に譲り、亡くなります。
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3375.html
そして、ユリ王の息子ムヒュルが高句麗の第3代・大武神王(ムヒュル)で、これは同じ作家と主演の『風の国』で描かれます。
さらに、ムヒュルの子・ホドンの秘話は『自鳴鼓(チャミョンゴ)』です。
高句麗の創世記が楽しめました。
そして時は流れ、高句麗第19代・広開土大王の物語は、『太王四神記』へと引き継がれました。

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1.広開土大王・タムドクの史実

高句麗の朱蒙大王は紀元前19年に亡くなりました。
気が遠くなりそうな2000年以上も前の紀元前のことなので、その伝説はフィクションとして割り切れます。
しかしタムドクの話となると、中国の吉林省で発見された石碑に、年号を“永楽”としていたなどの史実が判明しており、にわかに現実感が湧きます。

(碑文とその拓本)
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ただし、漢文でのわずかな記録なので、その解釈を巡っては歴史研究家の諸説があるようです。
とくに当時の国際関係には意見が別れるようで、高句麗・百済・新羅に加えて、倭国(日本)が出ているようなので、なにやら政治的な歴史観の裏を感じます。
詳しくは引用しているウィキペディアなどをご覧になって欲しいのですが、タムドクの偉業は史実として認められると思います。

さて、
第2代・瑠璃(ユリ)王は、首都を鴨緑江(アムノッカン)の中流に位置する国内城(クンネソン)に移しました。
豊かな土壌と軍事的にも優れた土地だったので、その後も国内城が高句麗の首都として繁栄しました。
そして、時は流れて、ドラマ『太王四神記』。
タムドクが16歳で高句麗王となったのが391年です。
後の第19代王・広開土(クァンゲト)大王(テワン)のことです。
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ドラマにあったように製鉄の技術を活用して、強力な鉄騎兵軍団が版図を切り開き、国内城を軸に大帝国を築きました。
その領土は韓半島(ハンバンド)の東北部と中国東北部、西は遼東半島、そして半島の中央部にまで及びました。



『太王四神記』も現在アップしている『王は愛する』のソン・ジナ作家の手によるもので、監督はキム・ジョンハクPD。
同じ監督・脚本で『信義』も描かれました。

いずれもファクションではあるものの、この『太王四神記』では神話を基にファンタジーとしての企画で、新しいタイプの史劇と呼ばれました(MBC:2007年放送)。

また、何といっても主演がペ・ヨンジュンでしたので、最終視聴率は35.7%でした。

2.ドラマに見るヒューマニズム

(1)四人の神が人として生きる

“四神記”は、ドラマの制作発表時に、“四人の神が人として生きる”でした。
太古の大陸から伝えられている東西南北の守護神は青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)です。
例えば平安京でも高松宮古墳でも、あるいはソウルの宮殿も四神が四方を守っています。

(「高松宮古墳」 ウィキペディアより「白虎」と「女子群像」)
東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。
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『太王四神記』では、高句麗という帝国の四方を守るために、転生した勇者たちをタムドクが得るという想定でした。

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左から、玄武の転生ヒョンゴ(オ・グァンノク)、
白虎の転生チュムチ(パク・ソンウン)、
青龍の転生チョロ(イ・フィリップ)
そして、タムドクが愛した朱雀の転生がスジニ(イ・ジア)でした。
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(2)生きて帰る

ヒューマニズムと言う点では、何といっても次のことだと思います。
ドラマの後のペ・ヨンジュンのインタビュー記事では、「好きなセリフは…(次のとおり↓)、とても気に入っています」と、百済に出撃する前に兵士たちを集めて語るシーンを回顧しています。

「死ぬな。命を捨てて戦う者は必要ない
 何としても生きて、最後まで私のそばにいろ。
 これは王命だ」

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ソン・ジナ作家の“命を捨てて戦う者は必要ない”は、『信義』のチェ・ヨン(後の将軍)に「勝ち目がなければ、逃亡しろ」と、形を変えて言わせています。
現代的で斬新なセリフだったのですが、これはその後のドラマにも脈々と流れていると思います。

犠牲をゼロにすることは不可能な戦争なのですが、犠牲をミニマムにするため。
鴨緑江(アムノッカン)からの回軍を決めた李成桂(朝鮮王朝の初代王)は、「我々は家族の元に帰る」でした(『六龍が飛ぶ』)。
また、
ドラマ『華政』での朝鮮王朝の第15代・光海君は、明の要請により出兵を余儀なくされた際に、統率する将軍には「観形向背」の4文字を与えました。
戦況に応じて撤退、降伏も辞さないようにという“臨機応変”の指示だと思います。
実際にも、明と振興の清とのサルフの戦いで朝鮮王朝軍は降伏しました。
それを、戦いを知らない身勝手な官僚(文官)たちが、明に対する裏切りだと言うのにはあきれました。

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(『太王四神記』第13話より)

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ドラマ『華政』より(KJS)第24話(中) 出陣の朝

1619年、明国と後金(後の“清”)との大きな戦闘はサルフの戦い
ウィキペディアによれば、光海君は「都元帥の姜弘立(カン・ホンリプ)に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた」とあります。

出陣式

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「皆、必ず生きて帰還するのだ!
 我々が開発した火器により戦うことができるのは
 私の夢でもあった。
 この力でこの国を守るのだ。
 決して異国で血を流してはならない。
 必ず生きて帰ってくるのだ!」
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「…」
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出陣

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「戦争だというのに、生きて帰れとは…?
 光海は何を考えているのか…?」
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カン・ホンリプ将軍には既に“観形向背”という王命が出ていて、“形成に応じては敵に背を向けても退却する”ということです。

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『王は愛する』のイ・スンヒュ師匠(オム・ヒョソブ)は『華政』では主人公の父親。
親子共に文官ではありながらも、サルフの戦いに参加します。

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朱蒙王子の高句麗建国伝説

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(先週末と日曜日の“日韓交流おまつり”での高句麗時代の衣装
@日比谷公園:2017.09.24)

<古代の韓半島>(5)
高朱蒙伝説と『朱蒙(チュモン)』

ドラマ『朱蒙(チュモン)』(2006)には“伝説の王子(Prince of Legend)”というサブタイトルが付いていました。
その伝説に基づいて、チェ・ワンギュ作家が書き上げた作品は、5割台の髙視聴率に支えられて10か月81話の放送でした。
その長い放送の2年ほど後にDVDで視聴したのですが、1話、1話が飽きさせない脚本・演出でした。

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1.高朱蒙伝説

作品のベースとなったのが、「高朱蒙伝説」です。
韓国『統一日報』2012年5月16日(日本語版)掲載、金両基(キム・ヤンギ:比較文化学者)「韓国史を彩る王たちの物語(10)」の内容は次のとおりです。

(古)朝鮮が滅んだ後に、高句麗・百済・新羅そして伽耶が興る。
伽耶を入れると実際は四国時代であるが、伽耶は後に新羅に併合されるので一般に三国時代という。

建国神話からみると高句麗は兄の国であり百済は弟の国であるが、新羅と伽耶は別々の国である。
百済の始祖温祚は高句麗を興した高朱蒙の子または義理の子であり、また他のいずれの国の始祖も天孫が天降ったいわゆる天孫降臨神話を共有している。

朱蒙は高句麗を興して始祖となり、姓を「高(こ)」に定めるがその前は「解(へ)」であった。
「本性は解であるが、いま自ら天帝の子であり日光を承けて生まれたといい、故に高を以て姓とした」
(『三国遺事』高句麗条)。
父神の名を解慕漱(へモス)といい「解」は日(へ)と同音であり日は高いところにあるから高と名付けたのである。
日(へ)や解(へ)と名乗るには恐れ多いので太陽は高いところにあるので高としたと考えると理解しやすい。

国造りの過程を神統譜からみれば、北扶余→東扶余→高句麗→百済の順に国が興り、その部族は古代ツングース語族である扶余族の流れをくむ。
北扶余は現在の中国東北地方に君臨した扶余族の一部であった。

この民族の移動の順を追うと太陽が昇る方向へと向かい、それはあたかも地中海から太陽の昇る方向の東に向かって移動する人々の流れと重なり合う。
地中海から太陽の昇る方向をアジアといい、逆に地中海に沈む太陽を追いかける方向をヨーロッパというがそれぞれの語源なのだ。
そこの古の人々の太陽崇拝が見えてくる。
檀君神話からその流れを想起してみれば、建国の流れが見えてくる。

古代朝鮮での高麗の位置づけは次の図の通りです。
韓国半島の歴史
(出典)康煕奉(カン・ヒボン)『古代韓国の歴史と英雄』実業之日本社(2011.10)より作成

「高朱蒙伝説」

朱蒙が生まれたのは
東扶余の金蛙(クムワ)王の時代である。
ある日金蛙王が優渤水の水面下の岩の上に
奇怪な動物が魚をとっているという報告を
漁師から聞き、鉄製の網でその動物を捕えた。
なんと唇が三尺あまりあり、三回も切り落とすと
美しい娘の姿になった。
娘は名前を柳花(ユファ)といい
水神・河伯の長女であるという。
河伯は天帝と称する解慕漱に侵された娘を許せず、
美しい娘を取り上げて追放した。

父の河伯に追放されたという
不思議な話を聞いた金蛙王は柳花を連れて帰って
部屋に閉じ込めておいた。
やがて身ごもり5升ほどの大きな卵を生む。
不吉に思って犬や豚に与えたが食べず、牛や馬も
そして鳥獣も避けるので柳花に戻した。
暖かく包んでおくと
一人の男の子が殻を破って出てきた
(『三国史記』始祖東明聖王条)。

卵から孵ったその男の子が朱蒙であり、
神童であるが故に金蛙王の王子から命を狙われ、
東扶余から逃れて高句麗建国への旅路に出る


2.ドラマの『朱蒙(チュモン)』

(1)ドラマの時代背景

古朝鮮の部族の統一がないままに、大陸の“漢”からの侵入受けている時代がドラマの背景。
クムワ王は、一端は引き取り育てたものの、神童・チュモンの命を狙います。
王子のテソも同じく、神童から“扶余”を守るという名目でした。

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(クムワを演じたのはチョン・グァンリョル)

上記の伝説にもあるように、チュモンは東扶余から逃れて、まずは扶余の大商団の下で働きます。
その際に、商団の行首(ヘンス)の一人娘・ソソノとの初めての恋がありました。

また、部族間の抗争、“漢”との戦争の中で大怪我をします。
そして、記憶も戻らないチュモンを救ったのが同民族・他集団のイェソヤ姫でした。
イェソヤとの間では、後のユリ王子が誕生します。

このように、チュモンを巡る二人の女性がいましたが、いずれも戦禍の中で生き別れとなります。

チュモンは仲間の勇者と共に山奥に砦を作り、古朝鮮(上記、滅びた朝鮮)の流民や大陸での奴隷となっていた朝鮮民族・農民を集め、徐々に村を大きく発展させます。
チュモンの武器は父・へモスから学んだ文武の中でも、弓の名人から受け継いだ卓越した弓の腕でした。

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(へモスを演じたのはホ・ジュノ)
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(母のユファを演じたのはオ・ヨンス)

(2)紀元前37年

チュモンが最初に再会するのがソソノ
ソソノは父・商団長(行首)の右腕だった男性と結婚していましたが、夫は戦いの中で戦死。
既に二人の息子を授かっていました。

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(度重なる戦いの中、チュモンの胸の傷をいたわるソソノ)
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ソソノの父親や周囲の勧めを受けて、また大商団の経済力をバックに、高句麗を建国。
ふたりは結婚して、それぞれ高句麗王と高句麗女王を名乗ります。

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(3)ユリ王子

時は流れユリが成人して、母の話と二つに折られた短剣を基に父がチュモンであることを知り、会いに行きました。
折れた短剣を符合し、親子が再会するのですが、その場面は感涙。
また、やつれたイェソヤをソソノが暖かく迎えました。

(生き別れになった頃のイェソヤとユリ)
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ただし、問題はソソノが連れた息子二人。
兄弟がユリの存在を許せず、暗殺を企てました。

(子供たちのことで悩むソソノ)
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ソソノの力で陰謀は未然に防げますが、ソソノは子供のためにも高句麗を離れて、半島の南方へと旅に出ます。
温かい半島の南部に国を作るのも、父親とソソノの夢であったからです。
こうして、ソソノとその子が百済の祖となるわけです。
百済の建国は、ソソノがチュモンの元を去った19年後の紀元前18年です

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3.最終話より

# 私が好きなシーンをリビューします。
ソソノが南へと去る時のイェソヤとの会話です。

「風が冷たいですよ。
 お体は大丈夫ですか?」
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「高句麗を去られると聞きました。
 本当ですか?」

「ええ」

「それはいけません。
 私とユリが負担ならば、私が去ります」
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「奥様たちのためでは決してありません」

「…」

「昔…、高句麗においでになったとか…、
 なのに
 陛下と私の結婚式を見て、
 高句麗の統一のために去られたそうですね。
 私のせいで苦労なさったことを思うと、
 胸が痛みます。
 奥様がいらっしゃるので私は安心して去れます。
 陛下のお世話をお願いします」
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「…」

私は欲張りな人間です。
 夢を実現させるために去るのです

 奥様こそ心を痛めないでください」
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『朱蒙(チュモン)』


来週は秋夕(チュソク:韓国の旧盆)です。
来週末頃には仲秋の満月を楽しめます。

ところで、夏の終わり。
今年は6月末からこのところまで約3か月に亘り、一般には「沙羅の木」とされる“夏椿”の約30本くらいの木を観察しました。
朝に咲いて夕方にはしぼむとされる、“はかない花”です(せいぜい2日間です)。
朝の散歩の際に、見つけたのはわずか8つの花だけでした。
それも、花が咲いたのは約30本の中の4本の木だけでした。

(7月に撮影)
mid aug

(8月に撮影)
sep mid

(現在は花が咲かなかった実も弾けて種を撒いたようです)
sep first

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Author:ユーモン
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