ホジュンとホギュン

ホ・ジュンとホ・ギュンのこと

王朝時代の韓国半島でのトップの御医といえば、ホ・ジュン。
昨年9月の「日韓交流おまつり」のクイズ大会で回答に迷ったのがドラマ視聴率のランキングのこと。
それで後に調べたのが次でした。

nikkan omaturi
(日韓交流協会のサイトより)

韓国ドラマの歴代視聴率のトップ5位は以下です。
1.2000年『ホジュン~宮廷医官への道(64話)』47.1%
2.2003年『宮廷女官チャングムの誓い(54話)』46.3%
3.2004年『パリの恋人(20話)』41.5%
4.2006年『朱蒙・チュモン(81話)』40.2%
5.2010年『製パン王キム・タック(30話)』38.6%

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(勝ち残った人たちの後半のステージ)

ドラマ(史劇)のMBCといわれるように、イ・ビョンフン名匠が送り出したのが『ホジュン』と『チャングムの誓い』でしたが、凄い視聴率と微妙な差でした。
その際のアシスタントディレクターがキム・グンホ現MBCディレクターで、新しく『亀巌ホジュン』(2013年)を演出しました。

(写真右から)キム・ジュヒョクとキム・グンホ監督とパク・ウンビン
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キム・ジュヒョクとキム・グンホ監督
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ドラマ『亀巌ホジュン』では許凌(ホ・ジュン:役キム・ジェヒョン)の長男の名前が許筠(ホ・ギュン)で、科挙試験に合格して官僚の道を歩みました。

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ホ・ギュン
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toni bogamu
ジュンは医官としての功績により、
第14代王・宣祖の御医となり、
また「東医宝鑑(トンイボガム)」(世界遺産・国宝)を編纂。

(写真の上は世界遺産の「東医宝鑑」
 国立故宮博物館で撮影)

(写真の下は、
 済州島の民族博物館で撮影
 いずれも国宝です)

# たくさんの薬草や病名などが出ています。
(KJSのサイト)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2449.html

また、ホ・ジュンは宣祖の側室(恭嬪:コンビン)の息子の光海君の主治医として、
光海君を家族のように守りました。
したがって、
ジュンの息子・ギュンが光海君の秘書室長になっても自然の成り行きのように錯覚しました。

今回紹介した2012年の映画『光海~王になった男』の都承旨(トスンジ:秘書室長)がホ・ギュン(役リュ・スンリョン)。
ホ・ギュン(1559~1618)は有名な小説「ホンギルドン(洪吉童伝)」の作家です。
最初のハングルでの小説作家でもありました。
早速次の本で調べたのですが、許曄(ホ・ヨプ)という文官の息子で、御医のホ・ジュンとは直接関係ないようです。
(朴永圭(パク・ヨンギュ)『朝鮮王朝実録』キネマ旬報社(2012.03)p.276より)

映画では最後の字幕で次のように紹介されます。

…翌年8月、都承旨のホ・ギュンは王朝転覆(#)の罪で斬首に、
5年後に光海は廃位された。
光海は土地を持つものだけに課税し、
民を救うために、明と対峙した唯一の王である。


ホ・ギュンの異母兄は許筬(ホ・ソン)という文官で、文章力に優れ、「朝鮮通信使」の一行として来日経験があるそうです。
また、2番目の兄の許篈(ホ・ボン)の友人・李達(イ・グル)という漢詩の大家から詩を学んだという記述がありました。

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# 王朝転覆とありますが、
これは小説「ホンギルドン」が身分差別のない民主主義の思想で書かれた小説だからだと言われます。
ホ・ギュンは革命的な思想家でした。
この映画の15日間はまさにホ・ギュンとハソン(影武者)が夢見た理想の国家のため。
また、光海君が“大同法”を制定し、冊封制度による清への”事大主義”に反発したことは史実です。

一握りの特権階級、(約1割の)両班たちは都合の良いように、儒学の中でも朱子学を悪用して身分制度や男尊女卑などの社会を作ったのが<王朝時代>の518年。
欧米では市民の手によるフランス革命、アメリカでは独立戦争あるいは日本の明治維新。
それから大きく遅れた大陸の“清”であり韓国半島だったと思うので、美化する必要はまったくないと思います。
しかしそれでも恥じることなく、たくましい庶民を描いた歴史ドラマには日本の大河ドラマも見習う必要があると思います。
民主主義の視点からでの歴史の見直しが進んでいると思います。

光海君がクーデターで廃位されたのが1623年なので、400年近くも過去のこと。
朝鮮王朝実録でも正室とか側室のこと、ましてや官僚とか医官のことは書き残されてはいないので分からないことばかりです。
次の本は、史劇にある史実とフィクションを見極めるにはお勧めです。
朴永圭(パク・ヨンギュ)『朝鮮王朝実録』キネマ旬報社(2012.03)
なお、ホ・ジュン(1546~1615)の父親は、半島北部の龍川(ヨンチョン)の高官だった武官・許石侖(ホ・ロン)の息子として金浦で生まれたというのが定説とのこと。

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七草をお粥にして1月7日に食べる七草粥の習慣は、江戸時代に広まったそうです。
七草は、早春にいち早く芽吹くことから邪気を払うといわれる日本のハーブ。
そのハーブを胃腸に負担がかからないお粥で食べようというのですから、正月疲れが出はじめた胃腸の回復にはちょうどよい食べものです。
(以上、キッコーマンのクッキングのサイトから拝借しました)

APBさんからは「入れおかいさん」
通常は米からお粥を作りますが、
冷ご飯をさっと洗って、さつま芋も加えて
ほうじ茶で炊いたお粥です。
圧力鍋で1分間シュッシュッ。
ご飯を入れるので「入れおかいさん」かな。
さつま芋が甘くてホクホク。
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添えは、焼鮭をほぐしたもの、クルミといかなご煮、
こかぶのお漬物。
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(by APB)

次の写真はnaoさんから届いた、熟した柿とヨーグルトの組み合わせです。
これも胃に優しく、特に韓国での柿は冬のビタミン源なので、キムチに入れる地域もあります。
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(以上:by nao)

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化学薬品と違って、
漢方薬に即効性を求めるのは無理なことだと思います。
でも、
普段の健康維持には良いと思っています。
旅の帰りには空港で「朝鮮人参」のエキスやドリンク剤は如何?
写真のようにカプセルも発売されるようになり便利です。

# 明日は『青い海の伝説』第11話からドラマの後半を進みます。
SBSの昨年末の“ドラマ演技大賞”ではこんなシーンもあったようです。
天才ハッカーのテオ(チョン・ウォノ)が参加できたのですね。
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ラスト ピングン

色づいてきたモミジです
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(2016.11.08)

日韓の文化交流のために (追記)<王朝絵巻シーズン7> 
王朝最後の皇太子妃 李方子妃殿下

今日は次の映像をご覧ください。

(NHKのドキュメンタリー:朝鮮王朝 最後の皇太子妃
https://www.youtube.com/watch?v=Ul0l7GOkf34
(2016年11月8日時点)

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時は既に国号が「大韓帝国」と変わっています(1897年から)

1907年に<朝鮮王朝>第26代王・高宗(コジョン)が亡くなり、第27代王・純宗(スンジョン)が即位。
弟の李垠(イ・ウン)が世子(セジャ)に認めらます。
世子のイ・ウンは日本の皇室の梨本宮妃・方子妃と結婚(1920年)。
世子のお妃はピングンと呼ばれますので、李方子(イ・バンジャ)妃はラスト ピングン

次のカットは、NHKのドキュメンタリーより、雉衣(キジの刺繍があるクィイ)と呼ばれる、王妃とピングンだけが着ることができる最高位の大礼服(テレボク)です。

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(方子妃が創設した障害児の学校・明暉園(ミョンフィウォン)の博物館)

画像の女官たちの頭の髪型(モリ:頭の意味)はカチェと呼ばれるカツラです。
翼のようなカチェはトクジモリといいます。
また、次のような国立故宮博物館(ソウル)のテレボクを着ているクィーンのカチェはテスモリと呼びます。

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夫婦が国籍を得て韓国に帰ることを許されたのは1963年のことでした。
日本の外務省を通じ、朴正煕大統領(現大統領の父)と面会する方子妃。

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大統領のとりはからいにより帰国を許された夫婦でした。
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領といえば、
韓国経済に高度成長をもたらした人。
park chonhi


1970年代の
ソウル地下鉄、
江南(カンナム)の開発、
農村の改革(セマウル運動)など。

そして、
1988年のソウルオリンピックへとつながります。

日本は東京オリンピック(1964年)を契機に高度成長期に入りました。
ソウル地下鉄の建設は日本の技術協力、資金協力によるものです。

ところで、地下鉄の駅などのトイレ(化粧室:ファジャンシル)のこと。
風水の世界ではキッチン、風呂、トイレなどの水回りはとても大切です。

naoさんからは上記NHKの番組紹介と共に、次の記事が届いています。

香港のトイレ事情の記事

http://hongkong-bs.com/topics/2016110401/

なぜ、香港の地下鉄(MTR)にはトイレが無かったのか?
市民(地下鉄利用者)に提供すると、掃除が大変だから!
です。
更に、私が推測するには、トイレって意外に犯罪がある場所だと思いませんか?
爆弾テロとか、性犯罪、麻薬、テレビの見過ぎかしら?
日本も公園の公衆トイレでの犯罪…。
あ、香港の公園には公衆トイレあるなぁ。
やはり、掃除が大変!
だから、かな?
(by nao)

こちらはAPBさんからの、奈良「興福寺のトイレ事情」

猿沢の池から石段をのぼり、右手に五重塔と東金堂を望んで、
左手に南大門跡の土塀が続きます。
その一角の門をくぐると公衆トイレがあります。
とっても古いもので、設備も旧式です。

看板に「興福寺南大門跡 公衆便所 WC 」と消えかけた文字があります。 
時代もんです。
ぼう~と歩いていると、気付かず見過ごしそう。
門の中に見える建物がトイレです。
入口に高さが胸のあたりま での木の柵が見えます。
これは鹿除けの仕切り戸で、ぎぎ~っと開けて入ります。
(by APB)

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# ソウルの地下鉄の駅はどこも広く、レストランや商店街となっており、
したがって、トイレは改札口の外にあり、公衆トイレとして便利です。
なぜ東京のJRや地下鉄のトイレは改札内なのでしょうか?

ソウル郊外の仁川(インチョン)駅は地下鉄1号線の終着駅です。
次の写真の左側がトイレの入り口で、ここも改札の外です。
中もキレイに維持されています。

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こちらは標高2000m弱の済州島・ハルラ山の中腹にある休憩所のトイレ(写真の奥)。
この高さになると、水を運ぶのも大変です。
キレイなのですが、さすがに水の事情が良くないです。

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Trick or Treat と 「一人酒男女」

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(2016.10.24 photo by APB)

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(2016.10.29 photo by nana)

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(2016.10.29 @東京競馬場 by UM)

家族が集まるサンクスギビングデイ。
米国(ハングルでは“美国:ミグク”)の本格的なホリデイシーズンは、11月末のサンクスギビングデイからクリスマスにかけてです。
家族とこれからの家族が集まるシーズンに入りました。

そのホリデイシーズンの助走開始は、子供たちが家々を巡って、「トリック・オア・トリート(Trick or Treat:“お菓子をくれないと悪戯するよ”)」のハロウィーンの夜。

ウィキペディアによると、
ハロウィーン(Halloween)とは、毎年10月31日に行われる古代ケルト人が起源と考えられている祭のこと。
もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。
カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある。

# 米国に住んでいた時のこと。
普段は玄関などには電気をつけているのですが、この日は夜の9時を過ぎると明かりを消します。
「もう家族は寝ているから、“お菓子はありませんよ”」と、近所の子供たちへのサインを出します。

(その翌日は)諸聖人の日( All Saints' Day)
カトリック教会の祝日の一つで、全ての聖人と殉教者を記念する日。

古くは「万聖節」と呼ばれていた。
カトリック教会の典礼暦では11月1日

(月末になると)サンクスギビングデイ(感謝祭)
アメリカでは11月の第4木曜日
米国に移民を始めた英国人たち(ピルグリムファーザーズ)に、アメリカ・インディアンが食糧を分け与えたことが起源となった祝いの日。
七面鳥の丸焼きが特に感謝祭(Thanksgiving Day)のご馳走。

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# サンクスギビングデイが週の半ばに設けられているのは、その前後に休暇を取って、実家に帰省するためだとのこと。

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こちらはAPB料理教室

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ロロンカボチャを切りました。
玉子と鶏肉で親子丼、豚肉に替えると他人丼。
どこが”いとこ”なのか わかりませんが、
「なんきんと小豆のいとこ煮」です。



大人のTreatment

竜舌蘭(Agave:アガベ)から蒸留されるのがテキーラです。
これはカクテル「テキーラサンライズ」(右の写真の真ん中)
その右はさっぱりと「マルガリータ」on ICE

ベースをウォッカに変えて、
(左は)グレープフルーツとグラスの縁に塩を付けた「ソルティードッグ」

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ラムはサトウキビから蒸留され、ラムとペパーミントで、「モヒート」
『信義』のユ・ウンスが大好物だと言っていました。

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サングリア第3弾、自家製梅酒べースです(by APB)。
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(# APBさんのブランデーで作った梅酒は絶品です)

仕込んだサングリア

自家製梅酒は砂糖を控え目なので、
さっぱり味の”たべる”サングリアです。
りんごサクサク、柿はとろ~ん。オレンジがアクセント。
飲むと梅酒が軽くて爽やか。

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今日はコラボさせていただきます。
私も氷砂糖をほんの少々にしてサングリアを作っています。
ちょっと変わって、容器のことです。
下の絵のように日本酒(安いスーパーのもの)はビーカーで温めています。
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“ビーカー”で量を、電子レンジで時間を、
日本酒のお燗に便利。

チタンのカップは熱を逃がさないので、
熱いものも冷たいものも、
その温度を長く保てます。




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10月20日は“韓国文化院(四ツ谷)”での講演会に出席しました。

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日本では宗教を持っているという人口が52%ほどで(うち35%は仏教)、他は無宗教だとのこと。
他方2014年の統計では、韓国ではキリスト教30%、仏教23%で合計53%。
ソウル特別市ではキリスト教37%、仏教17%だとのこと。

歴史ドラマではしばしば祈祷師が登場しますが、これは新羅、高麗時代のシャーマニズムが当時の主流の仏教と深い繋がりをもっていたからだとのこと。
しかし、儒教を国教にしてからの<朝鮮王朝>では、例えば『トンイ』とか『チャン・オクチョン』にあるように厳しく禁じられたシャーマニズムでした。
“わら人形”などは禁止です。

さらに、現代になると下の『チャン・オクチョン』の写真にあるような土葬は法律での規制があり、ドラマにあるように“納骨堂”が一般的となりました。
ソウル特別市の人口は東京都23区を超えて1000万人以上ですから、こんな土地の確保は無理。

以下はSBSが新解釈を示し、放送した『チャン・オクチョン』です。
2015年6月28日のKJS『チャン・オクチョン』(最終話)“ただ一人の女”より。

http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2390.html

番組のおわりの字幕

粛宗は在位中に3回の政権交代(ファングク:換局)をさせて、王朝最強の王として在位。
王朝最盛期としての基礎を作った。
チャン氏には送り名もなく、一族とは別の墓に埋葬されたが、1969年に高陽市の西五陵に移葬された。
現在は粛宗やインニョン(仁顕)とともに眠っている。

明陵(ミョンヌン)・粛宗と仁顕の墓

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翼陵(インヌン)・仁敬の墓

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チャン(張)氏一族の墓(高陽市)と
大嬪(テビン)の墓

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「追憶」:The Way We Were
https://www.youtube.com/watch?v=9K-ftw636J0

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日韓の文化交流のために (その4)

オペラ「ラストクイーン」(梨本宮家の方子(のりこ)妃のこと)が11月1日と2日に再公演となりました。
主演・脚本は在日韓国人2世のソプラノ歌手、田月仙(チョン・ウォルソン)
舞台では雉(クィ)が刺繍が施された大礼服(テレボク)をみることができるそうです。

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国立故宮博物館(ソウル)は、昨年の冬から今年の春にかけて内部の一部改装と展示物の入れ替えがなされました。
下の写真の雉衣(クィイ)は、今年の7月に撮影したもので、一番新しい展示品です。
通常、王妃だけが着る最高位の大礼服(テレボク)なので、方子妃が身にまとったとすれば、日本人女性としては最初で最後だったと思います。

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(後ろからの撮影)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人たち④


<朝鮮王朝>最後の王族となるのは第26代王・高宗(コジョン)の子供たち。
明成王皇后との間に生まれた次男の李拓(イ・チョク)が後に(1907年)、第27代王・純宗(スンジョン)となります。
(長男は側室の子・完和君:12歳で早世)

そして、日韓の王室同士の姻戚関係を結ぶのが高宗の4男の李垠(イ・ウン:1897年生まれ)。
高宗が愛した側室・貴妃巌氏の子で、英親王と呼ばれています。
彼は10歳の時に日本に渡り留学生活を送ることになりますが、これはいわば人質であったと思われます。
そして、23歳の時に梨本宮家の方子(のりこ)妃と結婚しました(1920年)。

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梨本宮家の方子妃は1901年生まれで、李垠より4歳年下なので、1920年に19歳で結婚したことになりますが、婚姻を知るのは15歳の時です。
しかも、新聞報道で初めて自分の結婚を知ることになりました。
この時の彼女のショックは計り知れないものがあったと思います。

日本での40数年の結婚生活の後、1963年に李垠と共に韓国での生活となります。
この間には第2次世界大戦と1950年の韓国戦争があり、半島の庶民生活は辛く、王室もプサンへの逃避など、苦渋の時代だったので、身の安全を思えば彼女は比較的幸運でもあったと思います。
さて、
1963年というのは、既に韓国半島は日本の植民地支配から解放されて、ずいぶん時を経ています。
この李垠の帰国が遅くなった理由には、既に民主主義の国に変わっていた大韓民国政府が旧王家には冷たくなっており(大韓民国の初代大統領であった李承晩の時代)、帰国の許可が遅くなったとされます。
朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たしました。
夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮(チャンドッグン)内に住まうことになりました。

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(これは昨年撮影 @ 国立故宮博物館)

方子妃の韓国での活躍のこと

純宗が皇帝に就いた際に李垠(英親王)が世継ぎの皇太子に冊封されます。
時はすでに“大韓帝国”に変号されていたので、方子妃は皇太子妃なのですが、<朝鮮王朝時代>は世子の妃を“ピングン”と呼んでいました。
私としてはラストピングンのほうが可愛い響きに聞こえます。
なお、李方子なのでハングルでは(이 방자:イ・バンジャ)となります。

彼女の韓国での活躍のことは次のウィキペディアを読むだけで感動です。

韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。
趣味でもあった七宝焼の特技を生かし、ソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。
なお、"明暉"は李垠の、"慈恵"は方子自身のそれぞれの雅号である。
方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、1981年(昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
また、終戦後の混乱期に様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。
また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳皇后を始めとする皇族とも会う機会はあった。
1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。
葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。
後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。

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彼女の日記は同じく国立故宮博物館に展示されています。

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(2015.12 @ 国立故宮博物館)

# 方子妃の夫の李垠については、ウィキペディアには次の説明。

李垠(이은:イ・ウン)は、大韓帝国最後の皇太子で、大韓帝国時代の称号は英親王。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。
妃は梨本宮守正王第一女子方子。
李王朝が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となった。
幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院・陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。

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(2015.12 @ 国立故宮博物館)

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昨年(2015年)に日韓国交正常化50周年を迎えましたが、その起算点は?
ウィキペディアを引用します。

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約は、1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。
通称日韓基本条約
日本の韓国に対する経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などが取り決められた。
なお竹島(韓国名独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた。

# 私の個人的な考えですが、
その島の海域数海里は、“所有権・漁業権など”を両国が放棄して、周囲を自然環境保護区にするのが良いと思っています。

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日韓の文化交流のために (その3)

日韓の文化交流のために

(その1)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3008.html
(その2)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2979.html

日韓の文化交流のために(その3)

第26代王・高宗が亡くなったのが1919年1月で、その3月1日

「我々はここに我が朝鮮の独立国たることと、朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
この言葉で始まる独立宣言書が起草されました。

# ただし、これの直接の相手国が日本(抗日)だけだとする考え方は良くないと思います。
それまでの半島の歴史にあったように、半島は欧米の列強国から政治介入を余儀なくされ、独立運動家たちの母体であった「独立協会」は韓国半島が“全ての国から自主独立すること”であったからです。

以下、韓国観光のサイト“コネスト”から引用します。

三一節(サミルジョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが独立を願って行なった運動をたたえた祝日です。
http://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?no=440

3月1日は街中のいたるところで太極旗(テグッキ)が掲げられ、タプコル公園のある鍾路(チョンノ)では、毎年三・一独立運動で殉死した人々を追悼する記念行事や、独立を祝う記念行事が行なわれています。
普信閣(ポシンガッ)~ソウル劇場までの鍾路1~3街の800メートルの区間は歩行者天国になり、「万歳運動再現行事」をはじめとして、写真展・国楽フェスティバル・農楽(ノンアッ)など多彩なイベントが朝から夕方まで続きます。

またこの日を前後して、独島・竹島問題や歴史教科書問題など、日韓の歴史に関する集会やデモが行なわれることもありますが、観光を控えるほどではありません。
しかし、道を歩いていると「今日が何の日か知っている?」と年配の方に聞かれることもあるので、この日がどんな日であるかを知り、観光することをオススメします。

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# これからは未来志向が大切です
この11月には朴大統領の訪日が予定されています。

(昨年、今年と日韓首脳会談がありました)
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<王朝絵巻 シーズン7>
世紀末を生きた人々③


黒船外交

幕末にペリー提督が率いる4隻の軍艦が到来して以降、日本はまず米国との和親条約を締結して開国の道を歩むことになりました。
当時の米国は、1823年の(第5代大統領)ジェームス・モンローの教書により、欧州などの他国への政治的・軍事的な介入はしないという、不干渉主義を宣言していました。
従って、政治的な意図ではなく、貿易による共栄共存を拡大するという対外政策でした。

ただし、江華島事件を契機に、日本が朝鮮王朝と締結した「江華条約」は米国にとっても都合が良かったのだと思います。
江華条約には2つのポイントがあって、半島が①開国することと、②冊封から独立することです。
2番目の点が重要で、朝鮮王朝が清から独立するということは、清が半島に政治・軍事介入するとなれば、日本も黙ってはいないということ。
つまり、米国は極東の安定化を日本の軍事力に任せたということになります。
1894年の日清戦争を米国は容認しています。
また、その10年後の日露戦争(1904年)を前に1902年には日英同盟(軍事同盟)が締結されているので、英国も日本の半島・大陸での行動を容認していたということになります。

2人の男

朝鮮王朝の政治家たちだけでなく、一般庶民の間でも、清の傘の下に入っての平和なのか、欧米や日本との協力関係で清の冊封から独立を勝ち取るべきかによって、王朝内は割れます。

王朝末期に大きな3つの事件が起きました。
まずは、1882年の「壬午(イモ)軍乱」
これは、西洋や日本に習って近代化を進めようとする派閥に対して、待遇が悪くなっていく守旧派勢力が反乱を起こした事件。
旧来の軍人たちが王宮や日本大使館を襲撃しました。
この際に再度復帰したのが興宣大院君です。
明成王后の力だけでは収束できず、守旧派を抑えるには大院君の力が必要だったからです。
王后が31歳の時です。

次いで、1884年の「甲申(カプシン)事変」
これは日本に留学して福沢諭吉の門下であった、金玉均(キム・オクキュン)が主導した改革派の事件で、王宮は占拠されました。
しかし、日本の後ろ盾を得た開化派の乱であったために、清が黙っておらず、軍事力でわずか3日で収束させます。
金玉均は日本に亡命、後に上海で暗殺されます。

(金玉均)
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3番目は有名な1894年の「東学党の乱」で、正式には「甲午(カボ)農民戦争」と呼ばれるものです。
東学は儒教・仏教などの東洋哲学を意味し、キリスト教の西学を受け入れないものの、基本的な思想は人間平等と社会改革をモットーとするもので同じだと思います。
政府内の混乱により農政が無視されていたので、全羅道(半島の南西)の農民を中心に、彼らの心のよりどころとなり、広がっていた思想で、リーダーは全琫準(チョン・ボンジュン)でした。
東学党は役所を襲撃して全羅道を征圧しました。
しかし、王朝政府とは和睦します。

(全琫準:1894年12月逮捕)
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度重なる内乱は、平定を口実に清と日本の軍隊の駐留を許してしまっていました。

# マクロ経済学でのプレイヤー(主体)は、政府と企業と私たち消費者の3者です。
政府には国家予算・財政収支、企業には企業会計、消費者には家計簿があるように、それぞれの勘定は別々です。
したがって、政治を追いかけるマスコミが“政府=国”と錯覚するような記事には強い違和感を持ちます。
現在の民主主義の下では“国=国民”だとの定義の方がしっくりときます。

政府、企業そして私たち国民と、それぞれに属する人たちの発想法には違いがあるはずだとは思います。
しかし、とくに、日韓併合(1910年)がもたらした大韓民国の国民へのネガティブな、国民の自尊心を傷つけるような歴史を作った両国の高官・政治家たちの責任は大きかったと思います。

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日韓の文化交流のために (その2)

(その1)は↓
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-3008.html

# 講演会(韓国文化院@ 2016.10.06)では日本通の韓国人の間では、“和モダン”が流行だとのこと。

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wa modan
(@ kawasaki)
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李明博(イ・ミョンバク)前大統領には、国内問題のことがあったために、海外に韓国国民の視線を逸らそうと、竹島・独島を訪問しました。
それが日韓の政治関係の悪化の要因ともなりました。
日韓の旅行者数がアップダウンしたのは、李明博前大統領の任期中(大統領制度の任期は1期で4年)でしたが、それでも日韓の旅行者の数は毎年記録を更新しています。
今年も韓国からと日本からの旅行者の数は、それぞれ250万人を超える予想です。
さらには、
従軍慰安婦の問題も両国が“過去を振り返らない”との約束で和解しましたので、これからが期待されます。

10月6日に、韓国文化院(東京・四ツ谷)で、金恵京(キム・ヘギョン)日本大学准教授の講演会がありました。
テレビや著作活動で彼女の活躍をご存知の方々が多いのでしょう。
「日本・韓国 和解への道」の講演には、ハンマダンホールに200を超える人々が集まりました。

韓国からの旅行者たちは、単に和食通というだけでなく、例えば「ウドンなら香川県の“讃岐うどん”が美味しい」というくらいの愛情を持っているとのこと。
もちろん日本酒や鹿児島の“イモ焼酎”などなど、ブランド志向だとのことです。
“一人一人が理解を深め、その輪を広げていくこと”、それに答えてくれる“政治家を選ぶ”という小さな努力の積み重ねが大切だと力説しておられました。

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(東京・浜松町の大韓航空支社)
# “日韓交流おまつり”のクイズ大会で往復航空券をゲットしました。
何か新情報など紹介できれば本望だと思ってソウルに行ってみます。

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王朝末期のころ(2)
(参考)康煕奉(カン・ヒボン)『宿命の日韓二千年史』勉誠出版、2015年10月

<王朝絵巻 シーズン7>世紀末を生きた人々②

鎖国から開国へ

1867年10月、大政奉還により264年の徳川幕府が終焉しました。
新しい明治政府は対馬藩を通じて、翌年12月に朝鮮王朝に対して明治天皇の国書を届けます。
ただし、この天皇の「皇」が問題。
当時の朝鮮王朝は清国の冊封国(配下のいわば属国)だったので、中国の「皇帝の下」ということで、「王」の国でした。
したがって、もう一つの上位の天皇が存在する新たな国を認めることが出来ず、使節団を無視することになりました。
このあたりが日韓の歴史のこじれの始まりだと思います。

ちょっと遡って、<朝鮮王朝>の第26代王・高祖(コジョン)が即位したのは1863年。
11歳の時でした。
自然と父親の興宣大院君(흥선대원군、フンソンデウォングン)に実権が集中します。
しかし、大院君の政策は鎖国攘夷論だった。
1866年にはキリスト教徒の弾圧、フランス宣教師たちを処刑。
さらには同年に、米国のジェネラル・シャーマン号を焼き討ちするという事件が起きて、米国との関係も悪化させました。
日本の幕末の志士たちが尊王攘夷から尊王開国へと思想を変化させたこととは違って、時代を逆行させるような思想だったと思います。

(興宣大院君)
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そこで歴史に登場するのが高祖の妃だった明成(ミョンソン)王后です。
彼女は1873年に政変を起こして、大院君を失脚させます。
明成王后が22歳の時です。

# 日本では明成(ミョンソン)王后を「閔妃(ミンビ)」と呼ぶようで、閔(ミン)ファミリーの出です。
舅の大院君(李ファミリー)とは早くから対立していたそうです。

(明成王后)
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ただし、明成王后の前に立ちはだかったのが日本政府。
欧米の列強と共に半島に野心を持っていた日本は1875年に「雲揚号」で挑発的な行動に出て、江華島(カンファド)事件を起こしました。
米国も日本も半島への野心から朝鮮王朝を刺激して、武力による政治介入を始める契機と名分作りをしたかったのだと思います。
江華島沖での事件を契機に、日本が欧米の列強に先だって朝鮮王朝を開国させます。

他方の王朝も、もっと老獪に欧米や日本を引き入れて、宗主国の清に対抗するための富国強兵を進めるべきだったと思います。
当時はすでに宗主国の清は衰退を見せていました。
こんな時こそ第15代王・海光君(クァンヘグン)がいてくれたら…、と思う次第です。
とにかく国際情勢を見る目が曇っていたのが半島の政治家たちだったと思います。

(第26代王・高祖) 
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(明日に続きます)

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日韓の文化交流のために (その1)

昨年(2015)は日韓国交正常化50周年を迎えました。
そして、毎年9月に開催される“日韓交流おまつり”は今年で第8回、8年目でした。

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http://www.nikkan-omatsuri.jp/npo/

私は3年目ですが、昨年よりも人出が多かった気がします。
(9月25日の日比谷公園)
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やはり人気は日曜日の夜に開かれるK-Popシークレットコンサートです。
当日まで出演者は発表されません。

昼のステージでテクノボーイズを楽しみました。
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(テクノボーイズ)
http://www.youtube.com/watch?v=y1ZYbwi10sg

夜のK-Popのステージは撮影不可。
しかし、そのうちに主催者側からの公開があると思います。
ただし、聞いてみると「年内には何とか…」の答えでした。

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ところで、1990年代に韓国で起きた“日流ブーム”をご存知でしょうか?
1988年に開催されたソウルオリンピックの後の1989年には、日韓でのVISAの発給の制限緩和などの渡航・文化交流統制が大幅に緩めらました。
それが契機となって、日本のドラマやJ-Popが韓国で大人気となりました。
もう20数年前のことなので、彼・彼女たちは今何歳を迎えたことでしょうか?
とはいえ、1990年代に日本を旅行した若い韓国人たちが火付け役です。

そしてピークは2002年の日韓共催ワールドカップサッカーでした。
他方、日本での“韓流ブーム”の火付け役は2003年の『冬のソナタ』の放送です。

今回は思うところがあって、4回に分けて<王朝絵巻 シーズン7>を書いてみました。
これまで<王朝絵巻>で、朝鮮王朝の初期と中期のことをアップしましたので、<朝鮮王朝>の末期のころの日韓関係のことです。

王朝末期のころ
<王朝絵巻 シーズン7>世紀末を生きた人々①

徳恵(トクへ)翁主(オンジュ)は、第26代王・高宗(コジョン)が60歳の時に、側室の貴人梁(ヤン)氏との間に1912年に生まれた娘(7人目の子)です。
第4回目に紹介する、日本から嫁いだ梨本宮家の方子妃が王朝最後の世子に嫁いだラストクイーンまたはラストピングン(世子の妻)ならば、徳恵翁主はラストプリンセスとなります。

当時は1910年の日本政府による韓国政府の併合がなされていた後のことで、彼女が7歳の時に父親の高宗が亡くなりました。
1919年1月に高宗が亡くなると、3月1日に「独立宣言」が起草されます。
それまでも、米国で民主主義を学んで帰国した人々などを中心に、「独立協会」という全国4000人ほどの組織がありましたが、それが母体でした。
独立運動家たちが集まったのは、仁寺洞(インサドン)の入口にある「タプコル公園」(またはパゴダ公園)です。

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今年の夏に韓国で公開された映画『徳恵翁主』

(Kstyle エンタメ Newsの、予告記事から)
目の前の利益に目がくらみ、国を売ってしまった朝廷の大臣たちに向かって怒鳴り散らす高宗(コジョン)皇帝(ペク・ユンシク)の姿から始まるメイン予告編は、実際の歴史的事件を連想させる。
冷たい目つきで幼い徳恵(キム・ソヒョン#)を見下ろす大臣ハン・テクス、そして着物を着て宮を出る徳恵の寂しそうな表情は、大韓帝国の最後の皇女、徳恵翁主の孤独な人生の始まりを知らせる。

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時代に翻弄された徳恵翁主。
13歳で来日、19歳の時に旧対馬藩主(#)の子孫の宗武志伯爵と結婚しました。
しかしこの結婚は薄幸で、とても愛されたというのに、彼女は元からの精神の病(分裂症)の悪化により、離縁となり1962年に韓国に帰ります。
義理の姉となっていた梨本宮家の方子妃の看病の元で1989年に亡くなりました(享年77歳)。

夫の宗氏と一緒の写真(ウィキペディアより)
onjyu.jpg

# 翁主の生涯のことは次のウィキペディアの記事で感動させられました。

徳恵翁主(1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、李氏朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。
「翁主」は、李氏朝鮮(大韓帝国)において王(皇帝)の側室所生の王女(皇女)の称号。
ただし、徳恵は日韓併合後の生まれである。
別名・俗称は李徳恵(イ・トッケ、または り とくえ)、宗徳恵(そう とくえ)。

1916年から高宗が徳寿宮内の即祚堂に設けた幼稚園で学んだが、1921年から京城(現ソウル)日之出小学校2年に編入し、日本語での教育を受けた。
日之出小学校時代に作詞の能力を認められ、「童謡の姫君様」と讃えられ、1922年頃に作った詞「雨」と「蜂」は1923年10月頃に京城に滞在した日本の音楽家宮城道雄が箏で作曲をつけ、1923年末頃に京城で「徳恵姫御作童謡発表会」が行われた。
その後1929年7月には日本ビクターからレコードが発売されている。
1924年には徳恵の作詞した「びら」に黒沢隆朝が作曲し、徳恵の前で演奏した。

1925年3月に12歳で渡日し、東京の学習院に留学する。
兄である李王純宗の見舞いや葬儀、母梁貴人の葬儀の際には京城に戻っている。
1930年頃に奇行を発したり、登校拒否や不眠の症状があったため病院で検査の結果、「早発性痴呆症」(精神分裂症)の診断を受けている。
1931年5月8日に旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁いだ。
朝鮮人である徳恵と武志との結婚には、朝鮮側にも、宗家側に反発が少なからずあったというが、このころ宗家は経済的に困窮しており、徳恵の実家である李王家からの支援を期待できるこの縁談は悪い話ではなかった。
そういう事情はありながらも、武志は妻となった徳恵を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年8月14日に長女正恵(まさえ)が生まれた。

しかし、結婚前から発症していた精神分裂症は新婚時代にも症状が見られた上、正恵の出産後から悪化し、終戦後の1946年頃松沢病院に入院したと思われる。
その後、1950年1月に韓国人新聞記者金乙漢が李垠家に続いて松沢病院を訪問し、徳恵の現状を韓国に紹介し、帰国のための運動を始める。
1955年6月に武志は徳恵と離婚。
徳恵は母方の姓を名乗って梁徳恵となった。

韓国で朴正煕が実権を握ってから李王家の人物の韓国帰還運動に手を差し伸べたため、徳恵は李垠に先立つ1962年1月26日に韓国へ帰国し、ソウル大学医学部付属病院に入院した。
この時に日韓両国の協力を得て韓国国籍を取得している。
純宗の妃尹氏の没後、異母兄李垠の妃だった李方子とともに昌徳宮内の楽善斎に住み、1989年4月21日に同所にて死去。
長らく病に伏していたという。

後に、詩人でもあった武志は、愛妻徳恵との別離の深い痛みと悲しみを山幸彦と豊玉姫の離別譚に託した詩を綴っている。

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(#) 対馬藩(現長崎県・対馬)といえば、江戸時代は朝鮮王朝からの朝鮮通信使の中継点であり、また日韓貿易の中継地でした。
オランダとの貿易を長崎・出島で行っていたことと同じです。
つまり、“江戸幕府=鎖国政策”という考え方は間違いだと思います。
日本と韓国の間にも正式国交があったということです。

映画『徳恵翁主』のヒロインはソン・イェジンで、その子役がキム・ソヒョン

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真夏の夜の夢

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(花屋さん@kawasaki 2016.09.06)

来週開店の店のポスター
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今日は9月9日

ウィキペディアでは次のとおり。
重陽(ちょうよう)は五節句の一つで、9月9日のこと。
旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。
奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。
後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである
邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。
また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。
現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。

1月1日、3月3日、5月5日、そして夏の7月7日が終わって季節は秋へ…。
私はなぜか、歴史ドラマを見たい気持ちになりました。
(『六龍が飛ぶ』より)
https://www.youtube.com/watch?v=AxtGzRDW6Ek

2宝冠
(7月20日初版の阿部智里『玉依姫(たまよりひめ)』のカバーイメージ)

真夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream)

二つの国の二つの微笑み(7月7日のこと)
(「ほほえみの御仏-二つの半跏思惟像-展」)

世界の3大微笑み(アルカイック スマイル)というとモナリザ、スフィンクス、そして奈良・中宮寺の半跏思惟像。
2 heart

日韓国交正常化50周年記念を祝して、
東京・上野の東京国立博物館では、
韓国と日本の半跏思惟(はんかしゆい)像の展示がありました。
(2016.06.21~07.10)


中宮寺門跡・国宝(写真:左)と、
韓国国立中央博物館・国宝78号(写真:右)



韓・日の半跏思惟像の座高はそれぞれ、52.3cmと87.9cmです。
銅製とクスノキと材料が違うものの、同じく温かい微笑みです。

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学生時代のこと。
奈良・中宮寺に行っても、このように横からとか後ろからは見ることができず、また、木彫の継ぎ目なども解らずに遠くから見つめるだけだったので、今回は感動もひとしおでした。

hanka siyui

材質は腐食しないようにクスノキですが、さらに保存のために何度もウルシ(漆)が塗られているそうです。
そのために、全体に黒。
しかし調査によれば、衣服にはあでやかな彩色が施されていたことが解っています。

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(人が写っていますので、二つの像の座高のイメージが解ると思います。
 展示場は撮影禁止でしたが、写真は放送の録画の際などの模様のようです)

日本への仏教伝来は552年という説が有力で、最初の寺院建設・仏像製作は587年の飛鳥のお寺からとされます。
現在、奈良・中宮寺にある半跏思惟像は、その頃の建築家(止利仏師または鞍作鳥)の2代ぐらい後の後継者の作品だそうです。

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もちろん、仏像のデザイン伝来も韓国半島から。
高句麗・新羅・百済の三国時代の6世紀、仏教美術の一つである半跏思惟像が多く作られたそうです。
それが7世紀の日本の聖徳太子の時代に伝来し、飛鳥時代の一つの流行の半跏思惟像製作に繋がったそうです。

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微笑みが遥か時空を超えて安らぎを運んできたように思えました。
それに、二人が世界の平和へと思いを馳せる心は同じだと思いました。

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なお、韓国の半跏思惟像は、
“宝冠”を被っているのも特徴の一つだとのこと。




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(今回ネットなどで知ったコトバ)

如来(にょらい)…如来は、悟りを開いた人(仏陀ブッダ:釈迦)。
あるいは、大乗仏教における諸仏の尊称。

菩薩(ぼさつ)…悟りを開くにいたっていない修行中の修行者のこと。

弥勒(みろく)…釈迦は自身の入滅後(死後)に「弥勒」なる者が現れて人々を救済すると予言した。

阿弥陀(あみだ)…西方(さいほう)極楽浄土に住み、人々を救うという誓いを立てている仏のこと。


上野の博物館を出て東京駅へ
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(東京国立博物館:2016.07.07)

こちらは東京駅の一角に出張して来たという神社の立て札でした。

函館山がまだ離れ小島だった大昔のこと、一隻の宇宙船が不時着した。
それはイカール星人の乗った辺境惑星調査船だった。
自分たちの星に帰れなくなったイカール星人と人類のファーストコンタクトは、幸運にも争いに発展せず、進んだ科学力を目の当たりにした人類は彼らを「イカ星様」と呼び、畏敬の念を抱いた。
江戸時代、徳川幕府はイカ星様伝説にちなみ函館山の奥に「烏賊有星神社」を建立、海の神として大いに奉った。
しかし、明治期に入り、函館山が軍の管理下になると民間の入山が規制された。
また、イカール星人による幾たびかの襲来によって、イカ星様信仰は急速に忘れ去られていった。
函館山のイカール星人神社は、今も山のどこかにひっそりと眠っているという。
現在も残る伝説のなごりもある。
人々に愛される珍味「スルメ」は「イカ星」が「イカ干し」に転じて考案されたものだという。
また、宇宙船の不時着が夏の時期だったことから、函館港まつりでは「イカ踊り」が踊られているのだという。
江戸時代を懐かしみ、ここ北町奉行所に神社ができたのか?
その答えは誰も知らない。

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人々の文明は、紀元3000年も前のナルル川や黄河流域などで発祥したとのこと。
大陸の文明は半島を経て日本にも伝わって来ました。
奈良時代から平安時代にかけて、漢字を草書体にくずしつつ、表音文字の“ひらがな”が創製されました。
同じく表音文字のハングルが半島で創製・公布されたのは1446年ですから、日本に比べると5世紀ほど後になります。

この文字文化の遅れによって、むしろ素晴らしい歌や語りの伝承文化の発達と深さを生み、韓国ドラマにある豊かな想像力の原点を成しているような気かしました。

↓は『イ・サン』の華城です。
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南漢山城(ナマンサンソン)

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(春に紹介したハナミズキやヤマボウシの花が実になっていました:2016.09.02)
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(2016.09.03)

# 『ドクターズ』でヨングク(英国の意の名前)を演じたペク・ソンヒョンでした。
『華政』でも第16代王・仁祖の長男(世子)として、とても重要な役を演じました。
問題は仁祖にあったという歴史解釈の一部です。

『華政』より

(1)海光君

「いいや、明の安全よりも、
 朝鮮の安全の方を優先すべきだ。
 私の忠誠心は明ではなく、
 “朝鮮の国民”だ!」
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# 明国からの監視を逃れて、密かに南漢山城に“火器都監(ファギドガム)”を創設して、武器弾薬の開発を急いだ第15代王:光海君(クァンへグン)でした。

王朝時代、半島は2度に亘り外国から制圧され、王は法宮を離れました。
1592年、建国200年目の危機は豊臣秀吉軍による侵略(文禄・慶長の役:壬辰倭乱・イムジンウェラン)。
そして1636年、大陸は“清”へと変わり、12万人の兵力で清が半島を征圧しました

その前の1623年のこと。
第15代王・海光君をクーデターで廃位させて、仁祖が第16代王に就任したのですが、その名分の一つには親・“明”でした。
その当時の大陸の変化に気付いた海光君は親明から親清とバランス外交を試みていたものの、仁祖をはじめ、国内の親明派の勢力に追い出されたということです。
ドラマ『華政』では仁祖の明らかな外交の失敗を描いています。

(2)世子

「何だと?!“学ぶ”だと?!
 “野蛮国”と“外国”から学ぶと言うのか!?」 

「そうです。
 外国での生活を通して、
 私たち朝鮮国がいかに小さいかということ、
 いかに敵視しても勝ち目がない戦を、
 明国から強いられたかということが解りました。
 これからの朝鮮のためです」

そこで仁祖が言い出すのは、「では全てが私の間違いだったというのか?お前の方が王に相応しいと言うのか?」と…。
「私が意識を失っていた間は、
 お前が王だと思っていたに違いない!」

「アバママ!
 どうか私の真心を信じてください!」
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南漢山城(ナマンサンソン)

わずかな兵力なのに、仁祖が清の12万の兵力との徹底抗戦を決めて、籠城・立てこもったのが南漢山城です。

(南の門)
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(以下7月13日の撮影)

また、ドラマ『華政』では海光君が明の監視を逃れるために密かに武器弾薬の開発をここで始めました。
火器都監(ファギドガム)の前身です。

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南漢山城はソウルの南東25kmに位置し、海抜480m、城壁の長さは12.3km、面積は2.3km²です。
食料さえ豊かだったら数万人の兵士が生活できたと言われます。
しかし、十分な食料の備蓄がなかった。
仁祖は最後の日の夜に水刺間(スラッカン)の尚宮が料理した最後の鶏の“タッカンマリ(鶏一羽)”の水炊きを食して翌日に清軍に投降したと言われます。

(行宮・ヘングンです)
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(玉座)
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行宮から下った行宮の入り口です。
ここまで仁祖は降りて行き、清と朝鮮の兵士が立つ中で、漢江へと連行されます。

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南漢山城でのドラマ『華政』の降伏のロケシーンです。

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現在でも山菜が豊かな“サムゲタン(参鶏湯)”が名物料理で、雉のサムゲタンもあります。

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<アクセス>
ソウル中心部から地下鉄とバスを乗り継いで2時間はかかります。
地下鉄8号線には“南漢山城入り口”という駅と“山城”という駅がありますが、バス停までは「山城」駅が近くて便利です。
9番のバスが南漢山城の南門と北門(終点)まで、約3kmを運んでくれます。

(バスの中での撮影)
YouTubeに投稿しています。
http://www.youtube.com/watch?v=btv1quLbnBM

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私は南門でバスを降り、東の行宮に向かって(下って)行きました。

(道路の左手)
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行宮のチケット売り場のあたりには、たくさんの食堂やカフェ、コンビニがあります。

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この日の夜はソウルの江北(カンプク)の仁寺洞(インサドン)で王様のレストランでした。
(KJSより「王様のレストラン」)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2943.html

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王朝最大の三田渡(サンチョンド)の屈辱

食料も尽きて、仁祖たち1万3千人の兵士たちは降伏。
清の第2代皇帝の前で、3回ひざまずき、9回頭を地面にこすりつけるという屈辱の謝罪でした。
それだけでなく、多くの庶民が奴隷とされ、また世子のソヒョン(昭顕)と次男の鳳林(ポンリム:後の第17代王)が人質となって8年間を清で過ごすことになりました。

(KJSの『華政』は以下↓などと、王朝絵巻<シーズン4>で紹介しています)
http://jumong007.blog133.fc2.com/blog-entry-2550.html

外交の最大の失敗は“戦争”だと言われます。
20世紀初頭の帝国主義の世界情勢の中で、日本政府も韓国政府も世界の情勢を見誤ったと思います。
その結果が、日韓併合(1910年)であり、また第2次世界大戦だと思います。
韓国は日本の軍事力を見誤り、また日本は米国の軍事力を見誤ったとも思います。
一番苦しんだのはそれぞれの庶民だったと思います。

# ホン・ヨンを演じたのは『ドクターズ』の院長チン・ミョンフンでした。

<『華政』最終話より>

ポンリム(孝宗:第17代王)を訪ねるチョンミョン

「いらっしゃい媽媽。待っていました」
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別造応(旧火器都監

「え?!チョナから食事を賜るのか?!」

「さあ食台を広げるぞ!行こう(カプシダ)!」

そして人生のよき日

賜った食事を前に、硝石班長(焔硝匠)のボンスは、
「チョナだけではないぞ、
 この名誉は公主媽媽やホン大監や、
 イヌ内禁衛(ネグミ)将のお陰だ」
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監造官のパングンは、
「心配するな!もっと良いニュースが二つだ。
 ホン・ヨン大監が右領議政(副首相)に抜擢された。
 もう一つは、ホン・ジュウォン大監が、
 軍部の総指揮という特別職を与えられたんだ!」

「わ~、本当に?!」
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そこに、ホン・ヨンが
「私にも食事を分けてくれ。
 別造応の司令官だからな!」

そこで、昇進したのではないのかと騒ぎ…。

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チェ・ミョンギルもジュウォンを訪ね、
「昇進が却下されたというのは本当か?!」

「ああ、公主媽媽が拒んだんだ
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孝宗とチョンミョン公主

「今日から私たちはチョナの敵になります。
 これがお断りの理由です。
 敵である限りまた宮中を去ります

「媽媽、私の敵になるとは…、
 いったいどういうお考えなのですか?!」

「…」
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チェ・ミョンギルは孝宗を訪ねて
「チョナ…」

「そなたも公主媽媽の言葉を聞いてやって来たのだな?」

「…」
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「そうだ。これが媽媽のお言葉だ」
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孝宗が開いたのは、チョンミョンが「華政」と書いた掛け軸でした。

「“権力というものは最初の意義を自然と失くしてしまう運命にあり、そして変って行く”ものだ」と。

そして公主媽媽が「民には力はありません。今日の民のように喜んだことを、権力者たちはいつの間にか忘れてしまいます。
そして権力者というものは民の声を聞かなくなります。
チョナはこの国最高峰の権力者となられたので、私はお傍ではなくて、正面から対峙します。
私たちは常に権力と戦って行くのです
」と言い残したことをミョンギルに伝えます。

「華政…、ファジョンですね。“輝く花のような政治”」

「ああ、政治は輝いていくだろうから、
 媽媽は自分の民・百姓の元に帰るとのことだ」
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別造応の仲間が、
「昇格が拒否されるなんて?!」

と騒ぎ出しているところにチャギョンが来て、
「これには複雑な背景があるんだ」
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早速チョンミョンは硫黄の精錬釜のチェック
そこにジュウォンも来ます

「窯(キルン)が劣化してひびもあるようだわ」

「どうも蒸気の出方と色が変だと思っていた」
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「どうしてナウリがそんなことまで…。
 私がここの硫黄精錬技師ですよ」
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「分かっているさ。
 しかし、私はこの製造所の責任者の一人だから、
 媽媽の不都合は守っていかないといけないんだ」
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そして、
「私は決してこの手を離さないと決めている。
 媽媽と同じところで、同じ道を歩むんだ」

「ソバニム…」
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仲間達が駆け寄って来ます

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「いったいどうなっているのですか?!
 いったいなぜこんな所に戻って来たのですか、媽媽?」

「だって、ここが私の場所だからです」
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「え~?」

「さて、我々もこの製造所を守らないとな!」

「我々…。ええ、そうですね!」
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「…」
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「…」
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