これからのバンウォンとその功績 2

# ノムラモミジってご存知でしょうか?
 落葉せずに秋から春まで赤い葉で、夏にグリーンの新しい葉が出ます。
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(2016.04.20)

<王朝絵巻 シーズン6>
これからのバンウォンとその功績 2


昨夕からのつづき

4.仏教改革

儒教国家を作るというチョン・ドジョンの政策を引き継ぎました。
バンウォンは仏教界の組織と土地や、その抱える仏僧、奴婢の数まで制限を行います。
1406年、これまでの11宗派の仏教界を7宗に統廃合し、全土の寺の数を342寺にします。
その際、首都・漢陽と前都の開京には各宗派から1寺だけしか認めませんでした。

この仏教制限は次の世宗の時代にさらに強化されます。

この写真は『善徳女王』ゆかりの地、慶州・仏国寺です。
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(昨年の秋・撮影)
# 私の場合、今でもソウルの街ではお寺や仏僧を見かけることはないです。

5.閔無咎(ミン・ムグ)の獄(1407年7月)

バンウォンが後宮を多く抱え始めると、大物のダギョン(元敬王后)もさすがに嫉妬を見せ始め、夫婦の仲が冷えます。
これは、外戚の閔一族にとっては危険な問題。
つまり、これまで得てきた政治(発言権)や経済(既得権・富)での勢力を削がれることになりかねないからです。
不安となるでしょう。
問題の種は、バンウォンが即位後6年目の1406年8月に、長男の譲寧(ヤンニョン)を世子に指名した時に蒔かれました。

閔氏一族の家長の閔霽(ミン・ジェ:1339~1408年)の息子、閔無咎(ミン・ムグ)と閔無疾(ミン・ムジル)は、その不安を抱いて世子のヤンニョンに接近し、バンウォンとダギョンの不仲を吐露してしまいます。
閔兄弟の不安だけでなく不平不満がバンウォンの耳に入ると、即刻、2兄弟は投獄されて流刑となりました。
それにもかかわらず、この流刑地でも2兄弟は大臣たちとも連絡を取り、舌禍が絶えませんでした。

そして、結局は1410年には2兄弟が自害を余儀なくされました。
その上、今度は閔無恤(ミン・ムヒュル)と閔無晦(ミン・ムフェ)が兄たちの無念を訴えるということをやったために、バンウォンはこの二人にも賜毒による自害を命じました。

1410年というのは、一族の家長のミン・ジェが亡くなって2年後ということです。
ドラマの最終話もこの年だったと思われます。

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6.亀甲船の建造・開発

『朝鮮王朝実録』には、1416年に臨津江(イムジンガン:現在の南北の国境)で、亀甲船と倭船との海戦訓練の記録があるそうです。
そして、翌年から本格的なこの装甲船の建造に着手したようです。

ドラマでは最終話にあったように、プニが「倭寇が怖いと村人たちも言っています」と言うと、バンウォンは即座に側近の将軍に倭寇の基地がある島の名を聞き、「焼き討ちしろ」と命じました(1410年頃)。

なお、これは現在の景福宮の正門・光化門まえの広場にそびえ立つ「壬辰倭乱(イムジンウェラン:1592年)」の海戦の英雄・李舜臣(イ・スンシン)の銅像とその足元に飾られている亀甲船です。

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7.医女(ウィニョ)の抜擢

若い女性を選抜して教育を受けさせ、主に「婦人科」の治療を行わせる制度を作ったのもこの頃です。

8.号牌(ポべ:身分証)

16歳以上の男子には、名前と生年+干支を書いた札を配布し、IDとして戸籍や税金の捕捉に努めました。
この制度は通行証としての配布だけでなく、人口の把握や治安上の維持に必要だったため、王朝を通して活用されました。
上記の名前や年齢などだけでなく、科挙に合格した者にはその合格年次なども書かれました。

9.成し得なかった通貨改革

当時は通貨がなく、文品貨幣として主に絹布とコメが基軸となった物々交換がなされていました。
そこでバンウォンは、物流・経済の発展のために、明国の制度に習って通貨を流通の基軸にしようと試みました。
最初は証書のような紙幣通貨を発行したのですが、庶民が信用することなく、なかなか流通せず、改革は逆戻り。
次いで鉄銭を導入しました。
しかし、これも信用を得ることができず、また元の絹布やコメの制度に後戻り。
結局、通貨改革は失敗に終わりました。

通貨の改革は次の代の世宗によって“通貨の定着化”として成功します。
ただし、バンウォンの失敗の経験がここに活用されたことは言うまでもありません。
銅銭の「朝鮮通宝」が最初の貨幣です。

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以上、李芳遠(イ・バンウォン)の功績と影に焦点を当てたところです。
この他にも中央軍を軸として私兵を排した軍制改革や、成均館を中心に置いた学会の制度改革、学術には実学を取り入れたこと。
その他にも、科挙試験に幅を持たせて充実し、その受験者には身分を越えて平等な機会を与えたことなど、それまでの“腐った高麗”の悪政を徹底的に排除しました。

『六龍が飛ぶ』の最終話の最後のバンウォンの言葉は、
「プニさんのためですか?」というムヒュルに、
「俺にそんな温かい心があると思うか?」でした。

鉄血名君らしい見栄を張ったセリフだと思いますが、これまで列挙した点をちょっと離れて全体を鳥瞰すると、鉄血の部分だけでなく、名君としての評価が浮かんで見えます。
バンウォンは、ムヒュルやプニの視点からの改革を進めたと言っても過言ではないと思います。

追記 その 2 昌慶宮と慶熙宮のこと

(1)昌慶宮

「アボジ コンガンハセヨ(お父さん 元気でいて下さい)」…、そんな言葉が聞こえてきそうです。
『六龍が飛ぶ』の最終話にもあったように、バンウォンは三男のイ・ド(後の第4代王・世宗)の才能と性格をとても大切に育てました。
他方イ・ドも自分を世子として認めてくれた父親のイ・バンウォンのために、感謝の気持ちをこめて昌慶宮(チャンギョングン)を離宮として建設しました。
最初の昌慶宮の名前はイ・ドの気持ちを表すように“寿康宮”でした。

現在見られる大きな昌慶宮は1484年に第9代王・成宗が拡張して完成させたもので、王妃たちを住まわせることが目的となりした。

(ソウル大学病院を東に見る弘化門)
kouka gate2

(弘化門とその先の正殿は珍しく東向きです)
kouka gate

また、中にある景春殿は第22代王・正祖(チョンジョ:イ・サン)が生まれた場所。
ここで、王妃・恵慶宮(へギョングン)とサンが遊んだのでしょう。

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もう一度ソウルの5代宮殿の位置を見ておきます。
昌慶宮は5大宮殿の中ではもっとも東で、昌徳宮(チャンドックン)に繋がっていました。

5 palaces

(2)慶熙宮

次いで、5大宮殿の最も西に位置する慶熙宮
ここは元はイ・ソンゲ(初代王の李成桂)の私邸跡でした。

第15代王・光海君は徳寿宮で即位し、そして彼の計画により離宮として慶熙宮(キョンヒグン)を建設しました。
(正殿への崇政門)
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現在もまだ再建の途中で、どちらかと言えば開放された公園で、チケット売り場などはありません。
(広々とした公園)
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(2015年4月撮影)

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この『六龍が飛ぶ』は、キム・ヨンヒョン&パク・サンヨン脚本家が立ち上げた会社(KP&SHOW)での共同創作方式(“クリエイティングシステム”)です。

以下はKstyle Newsからです

ドラマ「清潭洞(チョンダムドン)アリス」には、「根の深い木~世宗(セジョン)大王の誓い~」(以下「根の深い木」)の成功要因が含まれている。
「24-TWENTY FOUR-」「LOST」などアメリカのドラマでは一般的である脚本家たちの共同創作方式、“クリエイティングシステム”だ。

SBS週末ドラマ「清潭洞アリス」(脚本:キム・ジウン、キム・ジンヒ、演出:チョ・スウォン、シン・スンウ)は、クリエイターKP&SHOWが披露した3番目の作品だ。
KP&SHOWは「根の深い木」の共同執筆者のキム・ヨンヒョン(「宮廷女官チャングムの誓い」)とパク・サンヨン(「JSA」)脚本家が意気投合して立ち上げた脚本家専門会社で、2008年「必殺!最強チル」と2011年「ロイヤルファミリー」を作った。

「清潭洞アリス」のキム・ジウン、キム・ジンヒ脚本家はKP&SHOWを立ち上げてから最初に発掘した新鋭だ。
二人はキム・ヨンヒョン&パク・サンヨン脚本家のドラマ「善徳女王」と「根の深い木」を経て5年間共同執筆システムを経験し学んだ。

「清潭洞アリス」の制作陣は、「このドラマが『根の深い木』のように手堅いストーリー構造を持つ理由は、キム・ヨンヒョン、パク・サンヨン脚本家のクリエイティングシステムのおかげだ。この作品が成功する場合、韓国ドラマの現実に体系的な共同創作システムの拡張をもたらせることができ、ドラマの水準を一層高めることができる」と紹介した。

「清潭洞アリス」は恋愛と結婚、出産を諦めた“3放世代”の女性の“清潭洞に嫁ぐプロジェクト”を描いており、ムン・グニョンとパク・シフが出演している。

park sannyon
元記事配信日時 : 2012年12月06日10時33分
記者 : イ・ヒョンジン

<王朝絵巻 シーズン6>はこれにて終了
(今後、シーズン7の記事が書けるような史劇を探します)


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これからのバンウォンとその功績 1

# この香炉は南宋から元の時代のものです。
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(直径7センチほどです:知人所有)

<王朝絵巻 シーズン6>
これからのバンウォンとその功績 1


この2年間ほどは<朝鮮王朝>を理解しようと、努力・勉強してきたつもりです。
振り返ると、ドラマを6本、映画4本、そして10冊を超える本によって<王朝絵巻>を書いてきました。
ドラマでは『イ・サン』『根の深い木』の再視聴も良かったものの、この『六龍が飛ぶ』が新作の中ではエンターテインメントの要素も豊かで、秀逸だと思います。
映画では『王になった男(原題「海光」)』および『王の涙~イ・サンの決断(原題「逆鱗」)』がお勧めです。

そして、最近の作風(脚本)は、ストーリーと“王への評価”の面において過去のドラマに比べて、変わって来ているように思えます。
現代の民主主義の観点を持つ登場人物をあえてフィクションで挿入したのが、『六龍が飛ぶ』だと思います。
プニとムヒュルという、我々のような庶民の視点からの登場人物のことです。
ムヒュルは「人々を笑わせる」ことが政治だとし、プニは「今生きている人々が幸せであること(生生楽々)」を重視しました。

また、過去から変わらないのは、次の3点のドラマの構成要素
①王冠の重さ
王は官僚たちとの政争に勝たないと実権を削がれること。
つまり「王になる者、その王冠の重みに耐えろ」です。
②官僚間の政争
とくに<王朝>中期には官僚同士の派閥抗争が激しく、
王の絶対権限まで我が物にしようとしました。
③身分を越えた愛
これがロマンスの原点となっているようです。

さて、次のように李芳遠(イ・バンウォン)のドラマの前後の功績と“全50話”の後に進んだ道を列挙します。
皆様はどのように評価なさるでしょうか?

1.遷都のこと

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バンウォンが起こした「第1次王子の乱(1398年)」の最大の目的は、明へ出兵するというチョン・ドジョン(鄭道伝)の外交政策への反旗が“大義”でした。
成均館の傍で殺害し、チョン・ドジョンと共謀したという難癖で、8男のバンソクを宮中で殺害。
こうした兄弟間での血生臭い戦いがあった、首都・漢陽を離れるのが目的で、第2代王・定宗は、再度、開京へと遷都(1399年)しました。
事実上、まだ新都・漢陽の整備が完成しておらず、開京への懐かしさも人々にあったので、容易に首都が開京に戻されたとも言われます。

ただし、「第1次王子の乱」でバンウォンと共に戦ったにもかかわらず、功労賞を得ることができなかっただけでなく、政府の要職をバンウォンたちが抑えてしまったので、4男の芳幹(バンガン)と配下が起こしたのが「第2次王子の乱(1400年)」
しかし、圧倒的な軍事力を持つバンウォンにとっては兄・バンガンの軍は敵ではなく、バンガンを逮捕、島流しにしました。

バングァ(第2代王・定宗)からの禅譲を受けバンウォンが1400年に即位。
そして、1404年には9年前から創設が始まっていた景福宮(キョンボックン)全体が竣工しましたので、バンウォンは漢陽へと再々度の遷都を断行しました。

なお、バンウォンはその骨肉の争いを起こした景福宮を嫌い、即位の後、直ちに(1405年)昌徳宮(チャンドックン)の創建に着手しました。

2.太鼓のこと

バンウォンは宰相と勲臣からなる政治(チョン・ドジョンの考え)を改めて、民衆の生活の安定化による国政の基礎固めをモットーにしました。
その一つの象徴として、民からの声を聞こうと、意見・訴えがあるならば太鼓を叩けと、1401年8月に宮殿の外に中聞鼓を設置しました。
これは宗の制度・登聞鼓に習ったものとされます。

こんな太鼓だったのでしょうか?
(光化門より正殿に向かう: 2015.04撮影)
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3.政府の組織改革

鄭道伝(チョン・ドジョン)は上記のように、宰相(総理大臣)と官僚からなる政府を作り、その目的は絶対王権を飾り物にすることでした。

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ドラマでは次の写真のように、
司憲府(サヒョンブ:検察・警察)
司諫院(サガンウォン:王への進言・顧問)
弘文館(ヒョンムングァン:歴史の記録・学問)
の3大組織を同じランクに置いて、お互いの組織を牽制しつつ、それぞれが“王”を支えるという組織案です。

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しかし、バンウォンにとっては自分たち王族の居場所がないことに気づきました。
そこで、中央集権化を目指すためには、官僚組織を王の直轄にすべきとして、兄のバングァ(第2代王・定宗)の補佐官をしている時から改革を進めました。

次のように、「議政府」には総理大臣にあたる両議政と副総理にあたる左議政と右議政を配置するものの、形式的な小さな機関にして、その下に6つの局(曹)を置きました。
それぞれの局を各大臣が統括します。

吏曹(文官の人事担当)、戸曹(農地、財政担当)、礼曹(外交・式典や科挙担当)
兵曹(軍事・武官の人事担当)、刑曹(法務・刑罰・奴婢担当)、工曹(土木・営繕担当)

その他、省庁の“庁”に相当し、各長官たちが統括する庁には、

承政院(王の秘書)
義禁府(警察)
弘文館(王室の記録担当)
司憲府(官庁を監査する機関)
司諌院(王に諌言する機関)
漢城府(首都の司法や治安を担当)

以上の全ての6局が事実上は王の「直轄」です

(明日の夕刻につづく)

<参考>
・朴永圭(パク・ヨンギュ)著、神田聡・尹淑姫(ユン・スクヒ)訳『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)
・康煕奉(カン・ヒボン)『朝鮮王朝の歴史と人物』実業之日本社(2011.07)


追記 その1 バンウォンの側室のこと

李芳遠の側室9人の名前を列記します。
(正室はダギョンこと元敬王后・閔氏)

孝嬪・金氏
信嬪・辛氏
善嬪・安氏
懿嬪・権氏
昭嬪・盧氏
淑儀・崔氏
徳淑翁主・李氏
貞嬪・高氏
明嬪・金氏

以上のように、金氏が二人いますが、その他の7人の家の名(姓)はまったく別のファミリーからです。
こうしたことからも、初期の王朝では半島の有力な家門(地方の豪族など)との姻戚関係を積極的に進めて、国の安定化を図ると言う一面があったと思います。

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yu ain

俳優ユ・アインが連続して映画やドラマに出演したことについて語った。

23日、ソウル龍山(ヨンサン) 区漢南洞(ハンナムドン) のユ・アインの作業室ではSBS月火ドラマ「六龍が飛ぶ」放送終了記念記者懇談会が行われた。
昨年から映画とドラマで忙しく動きまわったユ・アインは「実は『思悼』『ベテラン』は一昨年撮影したのが公開されたものだ。
2015年から撮影したのは映画『好きになって』とドラマ『六龍が飛ぶ』だった」と話を始めた。

ユ・アインは「同時に多くの作品が届けられ、たくさんの声援を受けてプレッシャーを感じたのも事実だ。『思悼』『ベテラン』『六龍が飛ぶ』に続く流れでキャラクターが全部線の太いものだったので『ユ・アインはあまりにも線の太い演技だけをするのでは』『ユ・アインは強烈なキャラクターだけが好きみたいだ』などと誤解を受ける可能性もあった」とし、
「しかし、この人物たちは僕の番外編だ。僕が最も上手くできたのは『密会』のソンジェだった」と付け加えた。

(ユ・アインと『密会』)
http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2004984

元記事配信日時 : 2016年03月23日16時27分
記者 : チョ・ヘリョン

(放送終了後の打ち上げの模様)
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(制作発表のころ)
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(『ファッション王』のころ)
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(明日の夕刻につづく)

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太宗の息子

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(photo by nana @ibaragi)

<王朝絵巻 シーズン6>

婚礼

ハングル創製


ダギョンとバンウォンは、それぞれ17歳と15歳の時に(政略)結婚しています。
2歳の年齢差。
亡くなった時は、ミン・ダギョン(元敬王后)が(1420年)56歳で、イ・バンウォン(第3代王・太宗)が(1422年)55歳でした。
ダギョンが良妻賢母であったことは既に書いていますが、バンウォンの凄いところは、これも先に書いているチョン・ドジョン(鄭道伝)の改革の思想を実行して定着させたからです。

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現在でもチョン・ドジョンの思想が高く評価される割には、2度の王子の乱により、バンウォンの実行力への評価があまり高くないのではないでしょうか?

ドラマに合わせて、『朝鮮王朝実録(改訂版)』(# 下記)を読みつつ、考えていたことは、<王朝>の基礎固めを支え、それを実行したのはこの妻と夫だったということです。
バンウォンは即位すると同時に、政治機構だけでなく、庶民たちのために貨幣経済を導入する試みや土地改革などの経済改革、成均館を中心にした学問の研究体制と書籍の編纂、さらには文化面では仏教徒だった父の李成桂の反対を押し切って、仏教寺院が持っていた既得権の縮小など、多岐に亘る改革を断行しました。

1.そして第4代王・世宗のこと

世宗と空
(世宗と空: 昨年の光化門 2015.12)

二人の3男坊だったために、バンウォンは禅譲するに際して思考錯誤を重ねたものの、最後には忠寧を選びました。
忠寧の卓越した才能を見抜いていたからです。
忠寧が禅譲を受けたのは1418年です(後に世宗)。

バンウォンの改革のディーテイルを完成させて、その後500年も続く<王朝>の制度を完成したのは世宗だと言っても過言ではないと思います。
ただし、ドラマを見ている韓国人の知人たちとも意見が一致するのは、先が見えない歴史の中で、ダギョンとバンウォン夫婦の歴史的な功績は、「世宗を生んで世子に選んだこと」です。

少年の頃から“本の虫”だったことは前述のとおりですが、言語学では半島で最高の学者だったとも言えると思います。
『朝鮮王朝実録(改訂版)』では、世宗は1436年から1437年にかけて、国内外の政治を自分が完成した政治機構に任せることになりますが、それから何に没頭していたかというと、ハングルの創製です。
これまでの改革を果たした後に、それらを全部束にしても勝てないくらいに、歴史的な偉業にチャレンジしていたのです。
半島独自の文字を持つことは冊封国の“明”の漢字文化に反抗するのではないかと反論する官僚や両班たちが多かったので、単独で開発したというのが、上記『朝鮮王朝実録』での結論です。

ほとんど電撃的にハングルの28文字を公表するのが、世宗の手で完成した1443年で、全国に公布されたのが1446年です。
おおよそ6~7年で完成するのですが、事前には中国や日本から音読みや訓読み、発音に関してはアルファベットや梵語の書籍も集めたようです。
公布に反論した官僚には「お前たちは諸外国の表音文字の数を知っているのか?」という皮肉を言ったことも実録に残っています。

2.ドラマ『根の深い木』

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2011年のSBSドラマ『根の深い木』では世宗(イ・ド)と女官のソイがほとんど二人でハングルを開発しました。
そして、「訓民正音(フンミンジョンウム)」というハングルの解説書を公布するまでの、1443年から1446年までのおおよそ3年間を、ドラマの後半の激戦として描いています。
一般には世宗が学者を集めて研究させたと言われていますが、そんな環境ではなかったことが上記『朝鮮王朝実録(改定版)』が結論として証明していますし、またドラマのとおりだと思います。
私はドラマに“密本”という秘密の組織が暗躍するので、90%はフィクションだと当時は見過ごしていたのですが、このところあのドラマが史実を踏まえたものだったと思い直しているところです。

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(密本の頭首とソイ)

また、ドラマ『六龍が飛ぶ』のベースは「朝鮮王朝実論」の太祖実録、定宗実録、太宗実録ですが、タイトルの“六龍飛天”の基になっている「龍飛御天歌(ヨンピオチョンガ)」(叙事詩)は、世宗の父親バンウォンから遡って先祖6代の英雄たちの物語で、それをハングルに訳させたのも世宗です。

ドラマ『根の深い木』のとおりで、エリート集団の両班層なので、第4代王・世宗が進めていた「ハングル文字」の普及に反対します。
漢字文化に固執したエリート支配者層と庶民との抗争が『根の深い木』で描かれました。

(ハングルの公布・普及のために命を賭けた女官ソイと武官のトルボク)
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架空の組織“無名”のヨニャンの目的とか背景が解り難かったので、そのセリフに注目していたところ、彼女は自由競争、自由貿易の“商道(サンド)”を守りたかった。
だから、“安定”という言葉を何度か使ったのでしょう。
つまり、商業の基盤としての国の安定、国際関係の安定を求めていたのだと思います。

また政治からの中立を守り、村を繁栄させるプニ。
プニとヨニャンの考え方を合わせると、ここに現代社会・経済の視線が浮かび上がってきます。
いわゆる絶対君主をめざした李芳遠(イ・バンウォン)の対抗勢力、対抗する思想の視点として現代の視線を脚本に挿入したのではないかと思います。
とても精緻な脚本だったと思い「さすが韓国ドラマ!」だと…。

(参考のために読んでいた本は以下です)
・朴永圭(パク・ヨンギュ)著、神田聡・尹淑姫(ユン・スクヒ)訳『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)
・康煕奉(カン・ヒボン)『朝鮮王朝の歴史と人物』実業之日本社(2011.07)
など。

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イ・バンウォンと王子の乱

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(2016.04.11)

<王朝絵巻 シーズン6>
チョン・ドジョンとバンウォンと王子の乱

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1.バンウォンと「第2次王子の乱」

「第1次王子の乱」にて李芳果(イ・バングァ)が第2代王・定宗になるのですが、彼には側室との間に男子がたくさん生まれるものの、正室との間では子供を授かることがなかったために、世継ぎが不在。

1400年 4男の芳幹(バンガン)が王座を狙って反乱を起こします。

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(左からハ・リュン、イ・バングァそしてバンガン)

これを即座に征圧するのは芳果の一番の側近であったバンウォン。
「第1次王子の乱」と同様に、バンウォンの私兵たちは当時最強の精鋭だったと考えられます。
フィクションとはいえ、その頂点に立っていたのがムヒュルと教官・師匠のホン・デボンというわけです。
バンウォンの勢力と実力を知るバングァは即王位を禅譲して、即位2年後に引退します。

なお、加筆すべきは「第2次王子の乱」の場所のこと。
「第1次王子の乱」で即位した次男のバングァは首都を再び開京に移しています。
したがって、「第2次王子の乱」は開京の市街戦から始まったと考察されます。

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チョン・ドジョンに戻って、再度ウィキペディアを引用します。

政敵の李芳遠やその臣下たちにも鄭道伝の業績自体は認められており、鄭道伝の政策の多くは太宗・李芳遠によって実現した。
そして三人の息子のなか二人は父と一緒に殺されたが、嫡男の鄭津は下賤の水軍に落とされたものの一命を取りとめ、後で人々の嘆願により官位と身分を回復し父の著作を集めて『三峰集』にまとめている。
これは鄭道伝の罪状が国家に対する反逆ではなく、「王族を陥れようとし、嫡男と庶子の区別を乱した」という曖昧な物であり、一族皆殺しには至っていないおかげである。
また朝鮮の法律や当時の常識からすると、反逆者にしては極めて異例の穏便な処置であり、李芳遠が鄭道伝を認めていた証拠の一つともいえる。

2.チョン・ドジョンと密本

字幕ではチョン・ドジョン(鄭道伝)が初代の「密本」のリーダーと出ます。
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再びウィキペディアを引用・加筆します。

鄭道伝は流刑時代に民百姓の荒れ果てた暮らしを見てきた経験から民を哀れみ、農業と農地政策による人民の生活の安定化を目指した。
その第一歩として権門世族の経済的基盤であり腐敗の温床であり百姓に酷い負担を強いていた私田を廃止し、何人かの貴族に独占された土地を再分配しようとした。
鄭道伝が目指していた土地の完全国有化は実現されなかったものの、農民の幾重もの重税の負担を解決した。

民本と易姓革命

鄭道伝は『朝鮮経国典』で「民は至って弱きものなり。されど力を以ってこれを怯えさせることはできぬ。(民は)至って愚かなり。されど智を以ってこれを欺くことはできぬ。即ちその心を得て心服させるべし。その心を得られなければ民はすぐ去ってゆく」
(下民至弱也。不可以力劫之也。至愚也。不可以智欺之也。得其心則服之。不得其心則去之)と。

民こそが国の根本であり政治を行う王や士族は民のために存在するものとした。
またこれはそのまま王としての役目を果たさず人民を苦しめる暴君を討ち人徳のある君主を立てるべきだという易姓革命にも通じ、朝鮮王朝創建の理論的な土壌を作った。
しかしこれは「忠臣は二君に仕えず」と言う儒教の教えに背くものであり、鄭道伝は師の李穡や師弟の李崇仁、親友の鄭夢周など多くの保守派の士大夫(#)から敵対される結果となった。
また彼は著作の中で百姓や隠者の口を借りる形式を取り、人民の保護という自分の任務を全うせず私腹を肥やす役人や理屈ばかりを口にし聖賢の教えを実践しない腐敗した儒者を激しく批判している。

仏教への批判と崇儒抑仏政策

高麗の仏教勢力は大きな力を持ち貴族ともつながって腐敗の温床と化していた。
鄭道伝は従来の仏教を批判し仏教勢力の抑制を図った。
鄭道伝は『仏氏雑弁』で輪廻転生などの仏教の教理を迷信と断定、論破し、蕭衍など仏教に耽って滅んだ中国の王朝や皇帝の故事を引用し政治家は宗教に没頭してはならないし、迷信を打破すべきだと主張している。
この崇儒抑仏政策は仏教徒であった李成桂ではなく奇しくも鄭道伝を殺した太宗・李芳遠の手によって実現され、朝鮮で僧は下賤の身とされ漢陽に入ることを禁じられ多くの寺院が無くなった。

士大夫(#)は支配者階級のことなのですが、チョン・ドジョン達は“成均館”の出身の官僚で、“科挙試験に合格した者たち”という狭義の士大夫グループたちでした。
このグループが「密本」という組織を結成
チョン・ドジョンの死後も思想が引き継がれます。
なお、伝説の組織“密本”の意味は“未だ密かに育っているのものの、大きな木の木の根っこ(根本)をなす”という意味から来ています。
この話は、漢字文化に固執したエリート支配者層と庶民との抗争のドラマ、
『根の深い木』で描かれました。

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3人が演じた芳遠(バンウォン)です

この写真はドラマ『根の深い木』での第3代王・太宗(イ・バンウォン)と、若き日の第4代王・世宗(イ・ド)です。
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(ペク・ユンシク)

これは映画『純粋の時代』でのイ・バンウォン
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(チャン・ヒョク)

同じく30歳ころのイ・バンウォン
Lee Banwon
(ユ・アイン)

# セウォル号の海難事故から2年。
 海に散った若き魂に心より追悼申し上げます。


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チョン・ドジョンと王子の乱

<王朝絵巻 シーズン6>
チョン・ドジョンと「第1次王子の乱」

1.チョン・ドジョン

ウィキペディアで読むチョン・ドジョン(鄭道伝)を羅列すると次の通りです。

1360年 科挙試験に合格
1388年 李成桂将軍の回軍後、将軍の幕僚となる
(ドラマでは東北地域の安定化策を策定)
1389年 昌王を廃して、鄭夢周とともに恭譲王(定昌君)を擁立

「いまこそ、この国の土地が新しく生まれ変わるのです!」
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字幕
…1390年9月、高麗の土地台帳は開京において焼き払われました。
 その火は数日間も燃え尽きることはなかった…。

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1392年初 出生の問題を理由に鄭夢周から追放される
(ドラマにあるように“高麗”の名にこだわった鄭夢周が、“新・朝鮮”を樹立ことに反対したため)
1392年7月 李芳遠が鄭夢周を処刑した後、政界に復帰
李成桂を初代朝鮮の王に擁立する

開国一等功臣と認定を受けて、門下侍郎賛成事、判都評議使司事、判戸曹事、判尚瑞司事、普門閣太学士、知経筵芸文春秋館事、判義興三軍府事など、ほとんどすべての要職を兼職または歴任した。
漢城遷都の以後は、宮と宗廟の位置と称号、門の称号を定め、『朝鮮経国典』を著わして法制等の基礎を作った。
『仏氏雑弁』を著わして崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立した。

1392~93年に世子選びで第一夫人の息子たちとの関係が揺れました。

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太祖・李成桂が2番目の康氏との間に生まれた、当時わずか11歳の末息子、芳碩(8男のバンソク)を世子に指名し、政権樹立に功績があった芳遠を遠ざけたからです。

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(バンソク)

チョン・ドジョンの政治思想は、個人である国王が全ての実権を握るよりも、宰相を中心とした士大夫(成均館出身などの科挙試験合格者)が軍事、財政、人事などを掌握し政治をリードすべきであると主張。
そのため強力な王権こそ社会の安定をもたらすと考える李芳遠と対立した。
明を刺激するであろう遼東出兵を計画したが、1398年に政敵であった李芳遠の軍勢に殺された。

以上がウィキペディアからの引用と加筆です。

ドラマでもあるように王の秘書官だけでなく、チョン・ドジョンは自分でも正義感が強い書記を連れ歩いていたようで、彼に関する記録は多く残っているようです。

2.「第1次王子の乱」

改革のあり方と世子・芳碩(8男)の後見人ということで、チョン・ドジョンに対してのバンウォンの態度は冷ややかになりました。
師匠でもあったのですが、次第にバンウォンの気持ちは怒りに変わります。

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ドラマでは遼東半島に本当に攻め入ることをイ・ソンゲに認めてもらうようにと、ドジョンの領土への野望を打ち明けます。
さすがに行きすぎでした。
バンウォンは明との友好関係を重視していたために、庶民もバンウォンには“大義”があると思ったに違いありません。
“無名”の思想にあるように、“戦争反対”。
家族を戦場に出す両親のことを考えれば答えは簡単では…?

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(明の第3代皇帝・永楽帝とバンウォン)

既に病気を患っていた、
李成桂が危篤だという偽の情報を流して、チョン・ドジョンは自分に反対するソンゲの息子たちを(景福宮に)招集して、一網打尽にする計略」を行います。
しかし、バンウォンは危険を察知。
逆に兄たちを逃がし、待機させていた自分の私兵によって反撃に出ます。
素早い反撃により逆にバンウォンが景福宮を征圧し、チョン・ドジョンを処刑する。

「 」の中が、康煕奉『朝鮮王朝の歴史と人物』実業之日本社(2011.07)と、それ以外は私の加筆です。

ただし、朴永圭(パク・ヨンギュ)(訳・神田聡・尹淑姫)『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)によれば、「 」の中のことを名分に作り上げて、バンウォンたちが真正面からクーデターを起こしたというのが史実のようです。
これが「第1次王子の乱」です。

まずは、チョン・ドジョンとナム・ウンを、ナム・ウンの私邸で殺害。
それぞれの配下の軍と警察の権限を奪った上で、バンウォンたちは景福宮へと進み、王宮を征圧するということになります。
ドラマは史実に基づいています。

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ウィキぺディアで拾うチョン・ドジョンの人物像

・妥協を許さない苛烈な面があり、儒教の教えに背く者や異端と見なした人物は許さず成敗した。
彼の改革は師の李穡や師弟の李崇仁など多くの友人にも反感を買ったが、鄭道伝はこれらの者も容赦なく粛清した。

・唯一生き残った嫡男の鄭津もまた清廉潔白な政治家として有名であり、鄭津が死んだ後、(第4代王)世宗は特別にその葬儀を行うため使者を送り、『実録』にもその人格を記録している。

・李芳遠の政敵だったことから長い間反逆者として扱われた。
しかし1791年、鄭道伝の学問を再評価した(第22代王)正祖(イ・サン)の命で、彼の文集である『三峰(サンボン)集』が再刊行された。

# 痛ましいセウォル号の海難事故から、来週末には2周年忌です。
 心よりお悔み申し上げます。
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(昨年4月10日・光化門広場で撮影)


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第3代皇帝と第3代王


nanaさんから4月のカレンダーが届いています。
2016カレンダー4月F
(made by nana)

よく似た二人の3代目

1.朱棣(チュチェ:後の永楽帝)

李成桂が建国した1392年には、大陸は既に明(1368年より)の時代に入っていました。
ドラマでバンウォンが出会うのが明の太子の朱棣(チュチェ:後の永楽帝)です。

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朱棣は、朱元璋(後の太祖・洪武帝)の四男として1360年に誕生、幼い頃は早朝から学者を招き、一度読んだ本の内容は忘れなかったとされます。
彼が成人した21歳に北方の要衝の防衛拠点を任されます。
追いやられた元が北元としてモンゴル高原に割拠していた時代で、朱棣はその戦場での能力と勇敢さで名を馳せ、太祖・洪武帝は「北顧の憂いなし」と述べたと伝わっています。

1392年に皇太子であった長男の朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたものの、群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだと記録にあり、朱棣が有能な人物であったことを示唆しています(『明史』)。

1398年、洪武帝の崩御にともない長男・朱標の子で朱棣には甥にあたる建文帝が即位。建文帝の側近たちは皇帝権力を確立するため、各地に封じられた皇族である諸王の取りつぶしを画策したが、建文帝は「燕王(朱棣のこと)は血肉を分けた至親である、謀反の心配などはない」と答えたとのこと。

どこの国も官僚たちの政治・権限闘争は激しく、さまざまな謀略の中、朱棣の指揮下にある兵力を削減されます。
この頃から朱棣は仮病の振りや狂人の振りをしていたとのこと。
しかし、この仮病を密告するものがいたために、朱棣の逮捕令が出ます。
ただし、朱棣の側もこの計略を知っていたとされ、反発した朱棣は朝廷関係者と内通者を逆に捕縛し殺害すると共に、兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こしました。

朱棣は自らの軍を靖難軍(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と称される。
逸話として、朱棣は孔子の生誕地曲阜と孟子の生誕地鄒県では「木一本たりとも盗むことを禁じる」の命令があったとのこと。

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1402年、靖難の変に勝利した朱棣は第3代皇帝・太宗・永楽帝に即位。
1403年、北平に首都・北京を定め、1421年に遷都。
また、1406年から既に改築を進めてきた法宮・紫禁城を完成させて移り住みました。

対外関係では領土の拡大主義を取る一方では、半島や日本とは朝貢貿易を許可しています。
さらに李氏朝鮮、琉球王国、室町幕府(足利義満)との冊封体制を築き、朝貢貿易を許可しています。
鎌倉幕府はこの貿易から多大の利益をあげるなど、当時の冊封制度は政治・外交面での友好関係だけでなく経済活動の活性化にもつながっていたと思われます。
この時から日本と半島との使節団の交流も始まっていたので、三角貿易もなされたようです。

2.よく似た二人の3代目

朱棣(チュ・チェ)

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太祖・洪武帝の4男 1360年生まれ
太祖の長男(死去)の息子が第2代皇帝に即位(1398)
1402年 靖難の変で即位・第3代皇帝・太宗
北京に紫禁城を建設

紫禁城2

李芳遠(イ・バンウォン)

太祖・李成桂の5男 1367年生まれ
太祖の8男が世子となる(1392~3年)
1398年、第一次王子の乱で次男・遠果が第2代王に即位
1400年、第2次王子の乱で即位・第3代王・太宗
漢陽に昌徳宮を建設

2昌徳

ドラマでは、この二人はお互いに『孟子』が好きで、外交交渉にあたり、次の話を引用しました。

梁惠王章句下(『孟子』第2巻 3章)
惟仁者爲能以大事小
惟知者爲能以小事大

「仁の人(王)だけが大国であっても小国を尊重して交流できる」
「智の人(王)だけが小国であっても大国と上手に交流できる」

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なんという偶然か?!
歴史の偶然に驚いたところです。
二人の皇太子と王子の境遇が似ていて、また儒学(孟子)生としての会話だった…。
そのことを思うと、二人のトップ会談で“明と朝鮮”だけでなく、極東アジアの平和が保てたのではないかと思えるくらいです。

次ぎの写真は「六龍飛天」第43話(予告の時)からのキャプで、30歳頃のバンウォンでしょう。
父のイ・ソンゲが脅威に感じた明国ではあったものの、バンウォンは明との関係を築き、グローリアスな帰国を果たしましたね。

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王妃たちの王朝 ③

<王朝絵巻 シーズン6>

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(photo by nana@ibaragi)

王妃たちの王朝 ③


ドラマ「六龍飛天」では、ダギョンはバンウォンとプニを前に、
「二人は結婚しなさい」と言います。

「その話は後にしよう」と、
二人だけになった際にバンウォンは、

「嫉妬か?」と問います。

しかし、ダギョンは、
「あなたは何を考えているのですか?!
 (政治の為なら)100人の側室を持っても、
 私は構いません」

ダギョンは後の元敬(ウォンギョン)王后・閔(ミン)氏です。
ダギョンは17歳、李芳遠(イ・バンウォン)が15歳の時に結婚しました。

ドラマではバンウォンが「王になる」との決心を既にプニに話し、またダギョンもバンウォンを励まします。

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1.バンウォンの即位の前

元敬(ウォンギョン)王后・閔氏の実家は高麗時代からの名門で、その資金力でバンウォンを支え、私兵を雇い勢力拡大を支援しました。
ドラマにもあるように政治好きのダギョンは、父親の閔ファミリーの家長のミン・ジェからの情報を得て、実際にも政敵からバンウォンを守ろうとするだけでなく、武器の調達を進めました。

ドラマでは、バンウォンが積極的に動きますが、当時は15歳でした。
実際はおそらく、イ・ソンゲとダギョン(17歳)の父親のミン・ジェが決めた政略結婚だと思います。
しかし、夫婦仲がとても良かったと伝えられています

なお、<王朝絵巻>では悪女のことをたくさん書いたつもりですが、他方で私は、良妻賢母の代表はダギョンだと思っています。
ドラマで描かれるのは史実で、上記のようにバンウォンを王にするために実家の勢力を活用して、言葉での励ましだけでなく、兵士、武器などの“実力”で支えました。

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<朝鮮王朝>の中期・後期になると側室の子が王になるなど、正室から男子が生まれなかった例も多々あります。

しかし、初期の頃の第4代王・世宗の昭憲(ソホン)王后・沈(シム)氏は8男2女。
李成桂(太祖)の第一夫人であった神懿(シスイ)王后・韓(ハン)氏は6男2女。
そして、この元敬(ウォンギョン)王后・閔(ミン)氏は4男4女と、この3人の正室が<王朝>での子供の数ではトップスリーです。

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2.バンウォンの即位の後

ところが、バンウォンは自分が即位した後は、外戚となった閔氏一族の政治介入と、その勢力の分散を図りました。
そのために、地方の豪族の娘を積極的に側室にしました。
これは“公務”の一面だと思いますが、
「いったい誰のお蔭で王位に就いたのですか?!」と、ダギョンがバンウォンを叱ったとの逸話もあります。
やはり、そこそこでないと嫉妬が生まれるのかもしれません。
いえ、『朝鮮王朝実録』では、バンウォンが後宮を増やすことに王后は激しく嫉妬したとのこと。
“プライベート”でも、バンウォンはダギョンの方を見なくなったようです。

(ドラマで詳細が描かれなかった点はここです)
1406年には、長男を世子に選ぶという自然の成り行きが行われたものの、その世子にダギョンの兄たち(ミン・ムグとミン・ムジル)が両親の不仲のことを吹き込むなど、バンウォンを陥れようとするものだから、バンウォンは彼らを流刑に処しました。
それでも彼らの不満と暴言は収まらず、1410年に自害(賜毒)させました。
閔氏一族の家長・ミンジェが亡くなった(1408年)、2年後のことでした。

そうして、当然ながら元敬王后との仲がますます冷え切っていったことと思われます。
バンウォンの側近たちからは、王妃を廃妃(ぺビ)にするようにとの要請も出したほどです。
しかし、建国の“内助の功”のダギョンにまで罪をなすりつけるのは影響が大きすぎるとの判断なのか、廃妃については却下しました。

元敬王后は、廃妃の話も持ち出されて、悲しんだと思います。
ただし、息子の忠寧(チュンニョン:3男)が1418年に、バンウォンからの禅譲により後の第4代王・世祖となります。
ダギョンはこれを見届けた後の1420年に、56歳で世を去りますが、これが最後の幸せだったと思います。
さらに、現代の目から見ると、彼女が良妻賢母であったことに加えて、ハングルの創製者(世宗)を産んだことは、歴史的な功績だと言っても過言ではないと思います。

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まとめておきます。

第3代王・太宗(テジョン:李芳遠)
元敬(ウォンギョン)王后・閔(ミン)氏


長男・譲寧(ヤンニョン)大君
次男・孝寧(ヒョニョン)大君
3男・忠寧(チュンニョン)・第4代王・世宗(セジョン)
4男・誠寧(ソンニョン)大君
(公主は4人)

(その他、側室から21人:以上合計29人)

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上記のように、ドラマではダギョンが、「100人の側室がいても、構わない」とのセリフがありました。
プニとの結婚の話を彼女から言い出すとは意外でしたが、それは彼女が“大物”だったことの象徴的な描写だと思います。
実際にバンウォンには12人もの側室がいて、正室と側室とを合わせると29人の子を持つことになります。
<朝鮮王朝>の王の中では一番の子沢山でした。
バンウォンにつづくのは第9代王・成宗で28人です。

(プニ)
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(このシーンは最終話でもプニの追憶の場面で出ます。
 愛し合っていたものの、プニは村のリーダーの道を選びました)

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王妃たちの王朝 ②


<王朝絵巻 シーズン6>

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(今朝 街路で桜いちりん:2016.03.20@kawasaki)

王妃たちの王朝 ②

<朝鮮王朝>初期の頃は、地方の豪族の勢力を抑え、国の安定化のために積極的に政略結婚を進めたようです。

初代王・太祖;李成桂(イ・ソンゲ)は建国前の高麗の時代には、故郷の咸州(ハムジュ)に後の神懿(シスイ)王后・韓(ハン)氏を第一夫人とすると共に、当時の高官たちの例に違わず、開京に”京妻”と呼ばれる、都の第二夫人・神徳(シンドク)王后・康(カン)氏を住まわせていました。
もちろん、康氏のファミリーの財力が建国時にも助けとなるのですが、第二夫人をとても愛したと伝えられています。

ドラマでは、
開京のオモニ(ここでは継母のこと)がいらしたわよ」と、ダギョンがバンウォンに声をかけるシーンがありました。

(神徳王后・康氏)
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第一夫人との間では6男2女を得て、その長男が芳雨(バンウ)、次男が芳果(バングァ)5男がバンウォンです。
ただし、第一夫人の韓氏は1391年、建国の前年に54歳で亡くなっています。
第二夫人との間には2男1女が生まれ、イ・ソンゲは8男にあたる芳碩(バンソク)をとても可愛がったとのこと。

1392年の建国時のイ・ソンゲは57歳で康夫人は36歳でした。

さて、ドラマでは建国の1392年に早速、世子選びで“六龍”にも亀裂が入ります。
長男のバンウが失踪したために(実際にもこの頃亡くなっています)、本来ならば次男バングァが世子に選ばれるはずでした。
しかし、こともあろうに康夫人の意見を取り入れて、ソンゲがバンソクを世子に指定したからです。

李成桂の最大の間違いは夫人の要請を断り切れなかったことだと思います。
ただし、ドラマで“無名”のヨニャンが言ったように、どの王子にも反撃のチャンスが生まれたことでもあった…。
バングァたちが「亡くなったオモニがいたらこんなことにはならなかった」などと世子選びに怒りを表しました。

世子選びに際して、ドラマでは高僧の占いがでますが、実際には、夫人・康氏は実家の財力と集めた側近たちにより、勢力と発言権を持ち、第一夫人の6人の息子たちに対抗しようとしたそうです。
建国にあたり、イ・ソンゲの政敵を取り除いてきた、一番の功労者のバンウォンが憤慨したのも分かります。

(康氏夫人とバンソク)
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ただし、康氏・夫人は1396年に病気により40歳で亡くなります

この時、イ・ソンゲは最愛の妻を亡くしたころから、引退を考えていたようで、実際にも1398年の「第一次王子の乱」を機に故郷に帰ります。

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建国当時、開京では長男と次男、それに特に5男のバンウォンが活躍し、大きな実績をあげたわけで、3男と4男は東北地方・国境を女真族から守るために故郷の咸州にいたようです。
また、8男の世子・バンソクはまだ10歳でした

(高麗の名にこだわったバンウ(長男)はドラマでは失踪。史実では病死しました)
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バンウォンと継母の康氏との確執がとくに激しかったために、バンウォンは第3代王に即位後、継母の陵墓のランクを引き下げ、石彫りの12支神像を他の石橋作りに持って行きました。
神徳(シンドク)王后・康氏の名誉回復は第18代王・顕宗(ヒョンジョン)によるものです。

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まとめておきます

李成桂・太祖
第1夫人・神懿(シスイ)王后・韓(ハン)氏

長男・芳雨(バンウ)・鎮安(チナン)大君
次男・芳果(バングァ)・第2代王・定宗(チョンジョン)
3男・芳毅(バンウィ)・益安(イガン)大君
4男・芳幹(バンガン)・懐安(フェアン)大君
5男・芳遠(バンウォン)・第3代王・太宗(テジョン)
6男・芳衍(バンヨン)・徳安(トガン)大君
(公主は2人)

第2夫人・神徳(シンドク)王后・康(カン)氏

7男・芳蕃(バンボン)・撫安(ムアン)大君
8男・芳碩(バンソク)・世子
(公主は1人)

(他、側室から2人:以上合計13人)

<参考・引用>
ドラマ「六龍が飛ぶ」
康煕奉『朝鮮王宮-王妃たちの運命-』実業之日本社(2011.12)

朴永圭『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)

# 今週放送された「六龍飛天」の第47~48話は、まったく上記の『朝鮮王朝実録』のとおりでした。

フィクションの人物ではありますが、悲しくもヨニの最期についてのKstyle Newsを抜粋します。

女優チョン・ユミが「六龍が飛ぶ」の視聴者に最後の挨拶を伝えた

チョン・ユミは韓国で14日に放送されたSBS月火ドラマ「六龍が飛ぶ」で自殺で人生を終えるヨニを演じ、お茶の間に強烈な印象を残した。
NEOSエンターテインメントの公式Facebookを通じて公開された映像には、視聴者に最後の挨拶を伝えるチョン・ユミの姿がおさめられている。

公開された映像でチョン・ユミは「みなさん、こんにちは。『六龍が飛ぶ』でヨニ役を演じたチョン・ユミです。ヨニという名前を見送る時が来ましたね。50話にいたる長い時間、皆さんの応援と愛がなければ耐えることができなかったと思います。心から感謝申し上げます」と話した。

続いて「皆さんの心の中に良いドラマとして残れば思い残すことはないと思います」とし、
「私は今後また違う作品を通じて皆さんに良い姿をお見せしますのでたくさんの期待と応援をお願いします。『六龍が飛ぶ』を愛してくれてありがとうございます。元気で幸せになりましょう。ありがとうございます」と挨拶した。

「六龍が飛ぶ」で見せたチョン・ユミの活躍は、「六龍」に属する6人の俳優に劣らなかった。
ドラマの序盤にチョン・ユミはベールに包まれた初登場で存在感を知らせ、その後チョン・ドジョン(キム・ミョンミン)の右腕役割をしながら人並み外れたカリスマ性をアピールした。
またイ・パンジ(ピョン・ヨハン)との切ないラブストーリーで輝く相性と感性溢れる演技で視聴者から全幅的な支持を受けた。
「六龍が飛ぶ」は最終回まで3話を残している。

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元記事配信日時 : 2016年03月15日08時18分
記者 : シン・ナラ

# 早いもので<王朝絵巻>シリーズは2年に亘ります。
それぞれの脈絡はないのですが、スクロールが長くなりますので、<王朝絵巻 シーズン6>として収録しています。

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「六龍飛天」ラストページを前に

リアルタイムで視聴中の方々へ

ドラマ『六龍が飛ぶ』の放送は、残すところあと2話だけになりました。
おそらく、バンウォンが王位に就くところで終わりそうです。
チョン・ドジョンが死に、六龍が五龍になりましたが、フィクションの登場人物のヨニが今週の放送で亡くなったことは既にマスコミでも話題でした。
そして、正気を失うイ・バンジ…。
バンジは「バンウォンがチョン・ドジョンの政策を踏襲するなら、“無名”の敵になる」と言いますが、どうでしょうか?

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(今朝の桜の蕾です 2016.03.19am)

1.まずは、今週放送された第48話から
①プニがバンジとムヒュルの闘いを止めるシーン

「百姓たちにとっては、
 生き延びるということが勝ちなのよ

「…」

「だから、帰りましょうよ、オラビ!」

「…」

「私も負けろというの? オラビ?!」
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プニの涙の訴えでした。
ここで、演じるシン・セギョンのかん高い涙声、崩れた涙顔での演技はこれまでにないものと思いました。
真に迫った演技に、見ていて“本物”を感じ、感涙しました。

②イ・ソンゲがバンウォンに刀をかざすシーン

「はい、私は死罪をお受けします。
 私は、
 死んでこの苦渋の道を終わらせることができます」

「…」

「殺してください(チュギシプシヨ)!」
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やはりユ・アインの演技は凄いです。
迫力もたっぷり!

イ・ジランが止めます

「兄貴…。もうここまでにしましょう。
 生きていられなくなりますよ。
 誰に指図ができようものですか、
 息子たちを殺してしまった王に誰がついて行くとお思いですか?
 子供たちは兄貴のもの、この国も兄貴の国です。
 兄貴…。 もう一度許してやって下さい」
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③第48話終わりのバンジとヨニャンのシーン

「我々はイ・バンウォンが何を考えているのか分かりません。
 しかし、必要であれば…」
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「イ・バンウォンを襲撃する機会を作って下さい」

「どんな機会なのか?」

「その機会を作ってもらえれば、
 イ・バンウォンの命を貰います」
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④軍の制度改革のシーン

「では軍政はどうしますか?
 サンボンが急進的だったかこうした革命の原因となりました。
 これまで通りに私兵を認めますか?」

「ふふふ、先生。
 私が狂っているとでも思いますか?
 これからはこの国には私兵は存在させません」

「ええ、分かりますが、また血の嵐が来そうで…」
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2.ちょっとした政策論議

基本的にはバンウォンがチョン・ドジョンの政策を引き継ぐということは、第47話でのチョン・ドジョンの言葉に「お前の描く国と私の描く国には違いがない」で表されていました。
しかし、外交政策では「明とは戦争しない」と言うバンウォンの反戦思想の方が、総理となるチョ・ジュンの考え方とも一致し、お陰で民・百姓は戦場にも行かないで済んだ(史実です)。
この点は、フィクションの“無名”という組織(ヨニャン)と、バンウォンの考え方が「反戦」で一致。

では国内政策についてはどうか?
国が管理する土地を民・百姓に分配するというチョン・ドジョンの土地政策には、“無名”もバンウォンも反対(史実)。
自由に私有地を持ち、自由な開墾を認めるというものです。

残る問題はどうも“仏教改革”のようです。
ヨニャンは“無名”のリーダーとして祭り上げられていますが、そもそもユクサン先生、批国寺のチョクリョンに代表される仏教界とは一線を画しているようです。
そこで、チョン・ドジョンの考えを引き継ぐバンウォンと“無名”の対立がヨニャンにどのように影響するのか?
史実ではバンウォン(第3代王・太祖)と次の第4代王・世宗によって、寺院の数と仏教界が所有する土地が大幅に制限されます。

3.残る龍の数

史実からは、チョン・ドジョンが死にイ・ソンゲは病死。
フィクションの登場人物では、少なくとも批国寺のソクリョン、仏教界のユクサン先生は消える。
バンウォンが仏教改革(これは史実)と合わせて“無名”という(架空の)秘密組織を潰す考えだからです。

(第48話から)

「以前に言ったように、次の標的は〝無名“だ
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そこで、ヨニの死で自分を見失ったバンジが心配です。
チョン・ドジョンの手紙を読んで“私のために死んではならない”を選び、またはヨニャンからの言葉で“チョン・ドジョンからは離れなさい”に思い出すのでしょうか?
これを忘れてしまうとバンジはバンウォンと対立して命を落とすかもしれません。
そうなると、残るのは3人の龍になります。
もちろんムヒュルが<王朝>最強の武士となります。

4.現代からの視点

ドラマ全体を大きくとらえると、2011年放送のSBSの『根の深い木』は、伝説の組織“密本(ミルボン)”からハングルの創製を守ることがテーマでした(今回の『六龍が飛ぶ』では、チョン・ドジョンが“密本”の創始者として紹介されました)。
いわゆる“対抗勢力”です。

今度は仏教革命のために“無名”を潰そうというバンウォン。
儒教による思想統制でもあります。
身分制度が厳しい儒教思想により、国を治める方ことが都合良かったからでしょう。

そうなるとヨニャンはどうなるのか?
ヨニャンのセリフに注目していたところ、彼女は土地の私有と開墾の自由と、明との自由貿易を願っていました。
また、政治からの中立を守り、村を繁栄させるプニ
二人とも行首(ヘンス:グループの長)として、“商道(サンド)”を守りたいのであって、そのためには国の安定、国際関係の安定を求めていたと思います。

プニとヨニャンの考え方を合わせると、ここに現代社会・経済の視点をあえて挿入した脚本の意図が読み取れます。

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ドラマ『華政』は史実に沿ってほとんどの登場人物が歴史に残った人たちでした。
他方、この『六龍が飛ぶ』には3人のフィクションの龍が登場しますので、この3人がむしろ史劇をより盛り上げていると思います。
この作風は良いですね。

本の小説と違って最後のページを先に開いて読むことができないので、今日はこれまでを振り返って、エンディングを予想してみました。
予想が当たるか当たらないか?
いいえ、ヨニャンとプニへの期待です。

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史実に沿った乱の背景に…


<王朝絵巻 シーズン6>
「第1次王子の乱」 史実に沿った放送の乱の背景に…


今朝のKJSは1392年の「建国」の模様でした。
最近は、ドラマの参考と<王朝絵巻>に引用するために、次の2書を読んでいます。
康煕奉『朝鮮王宮-王妃たちの運命-』実業之日本社(2011.12)
朴永圭『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社(2015.10)

リアルタイムでドラマをご覧になっている方々にはお分かりのとおりで、実在の人物たちは今週も「実録」にそった行動でした。
しかし、フィクションの部分のバンジとヨニの悲劇が重く心に残ってしまいました。
脚本の凄さにも高い評価が得られるのではないでしょうか?

ところで、次はエンタメニュースとそのショットです。
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私が残念に思うのはダギョン(後の元敬王后)がピックアップされていないことです。

彼女はバンウォンに17歳で嫁ぐに際して、
「私は李成桂(李一族)を選びます。そして李芳遠と結婚します」と父親のミン・ジェに言うと共に、
「もしも私が閔一族を傷つけるようなことがあれば、私のことは捨てて下さい」との言葉を残しました。

そして、夫バンウォンのためにファミリーの財力をバックに、屋敷(景徳殿)を建て、武器を調達し、「第1次王子の乱」の準備を裏で支えました。
それだけでなく、今週の放送では夫バンウォンのクーデターの必然性と“大義”のために、父親と兄弟を動かして、王宮にチョ・ジュン(副総理)の説得に向かわせるという、(まるで女帝のような)指示を行いました。
チョン・ドジョン(総理)の領土意欲=戦争は対外政策の誤りなので、バンウォンの“反戦”が国民に伝えたい“大義”だからです。
何万もの若者を戦争に出兵させてはいけないという、若い龍たちの“大義”を守るためだった…。
そう思います。

今週のInnolifeとKstyle Newsをコピペしておきます

ep-47 end

innolife エンタメニュース
チョン・ドジョンの最期は残忍で、悲しく、虚しかった。 
全ての流れがイ・バンウォンの思い通りにいったため、起きる事全ての結果はた易く予想でき、それだからその過程は一層残念に思えた。 
第1話から第47話まで、ドラマの主軸のひとつだったチョン・ドジョンだが、イ・バンウォンを充分に理解できるようにするストーリーとイ・バンウォンを演じるユ・アインのためにイ・バンウォンの味方になり、チョン・ドジョンを見る目が支配的だった。 
しかし、完全にチョン・ドジョンの最期の集中した今回は、久しぶりにチョン・ドジョンの立場で、チョン・ドジョンの気持ちで見つめることができた。 
死の前に淡々としたチョン・ドジョン、躊躇なくチョン・ドジョンを刺したイ・バンウォン、燃やしたチョン・ドジョンの名を書いた紙、そしてBGM『無以異也』は、もの悲しい感情を一層高潮させた。  

Kstyle エンタメ News
チョン・ドジョン(キム・ミョンミン) がイ・バンウォン(ユ・アイン) の手により死を迎えた。

14日に韓国で放送されたSBS月火ドラマ「六龍が飛ぶ」(脚本:キム・ヨンヒョン、パク・サンヨン、演出:シン・ギョンス) で、イ・バンウォンはチョン・ドジョンの勢力を攻撃し、乱を起こした。
イ・バンウォンはイ・バンジ(ピョン・ヨハン) をこっそりと移動させ、乱を起こした。
イ・バンウォンの勢力はチョン・ドジョンの側近を皆殺し、チョン・ドジョンとナム・ウン(チン・ソンギュ) のみを残していた。

ヨニ(チョン・ユミ)もこの乱の中で死を迎えた。
ヨニは自身を救いに来たバンジに「早く行って!」と叫んだが、言うことを聞かないバンジを見兼ね、結局自身に向けられていた剣に首を当て、自ら命を絶った。
バンジは咽び泣いた。

イ・バンウォンはチョン・ドジョンのいる成均館(ソンギュングァン) を掌握した。
そして「チョン・ドジョン出てこい!」と叫んだ。
チョン・ドジョンは書を通じて「うるさい。すぐ出る」と書かれた文を送り、姿を現した。
チョン・ドジョンはイ・バンウォンに一緒に歩んでいこうと提案し「疲れた、バンウォン」と言った。
イ・バンウォンはチョン・ドジョンを剣で刺した。
結局、チョン・ドジョンはイ・バンウォンの前で膝をついた。

元記事配信日時 : 2016年03月14日23時04分
記者 : チェ・ジイェ

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