『華政』 当時の歴史を訪ねて


高野山
takao 4
(photo by APB)

<王朝絵巻 シーズン3>

歴史を訪ねて ①清国との関係

(1) サルフの戦い(1619年)の後
(1619年~1627年)


この当時のことをウィキペディアで見ると次のとおりです。
(# で脚注をいれます)

李氏朝鮮は1619年のサルフの戦いで1万人の援軍を明に送ったが、朝鮮の将軍であった姜弘立(# カン・ホンリプ)は後金のヌルハチに降伏した。
姜弘立は、「朝鮮は後金に対して戦う意志はなく、明の要請によって援軍を送ったのだ」と弁明し、ヌルハチもヌルハチの子であったダイシャン(中国語版)も朝鮮への侵攻には興味を持っていなかったので、後金はヌルハチの死まで朝鮮へ侵攻することはなかった

ところが、朝鮮で1623年に西人派のクーデターが起こり、それまで明と後金の両者に対し中立的な外交政策をとっていた光海君が廃位されて、仁祖が即位した(仁祖反正:# インジョバンジョン)。
西人派は後金との交易を停止するなど反後金親明的な政策を取り、後金をひどくいらだたせるようになる。
また明の遊撃部隊の指揮官であった毛文龍(# モ・ムリョン:武将)が、朝鮮半島において後金に対しゲリラ的な戦闘を行うようになった。

最初の後金による侵攻のきっかけは、1624年の仁祖に対する李适(# イ・グァル)の反乱による。
李适は前年のクーデターの首謀者の一人であったが、その論功行賞に不満を持ち、平安道で反乱を起こした。
この反乱はすぐ沈器遠に鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者の一部にハン・ミョンユン(한명윤)の息子、ハン・ユン(한윤)とハン・テク(한택)がおり、ホンタイジ(# 第2代皇帝)に朝鮮を攻めるよう進言し、これが大義名分となった。
(# 1627年の最初の侵攻です)

(2)後金との関係
仁祖反正(1623年)の後
(1627年の第1次侵攻)


1627年、ホンタイジはアミン(阿敏)、ジルガラン(済爾哈朗)、アジゲ(阿済格)、ヨト(岳託)、ショト(碩託)らの率いる3万の軍勢を、姜弘立(# カン・ホンリプ)ら朝鮮人将校の同行の下に朝鮮へ派遣した。
朝鮮軍は後金軍に対して何の備えもしておらず、文禄・慶長の役による被害からも立ち直っていなかった。
後金軍は朝鮮領内に侵攻し、その途上で毛文龍(モ・ムリョン:武将)の軍も破ったが、毛文龍を捕らえることは出来なかった。
後金軍が漢城に到達すると、仁祖は江華島に逃亡した

こうした状況で、後金は朝鮮に和平交渉を申し入れた。
自国の防衛が手薄になることをホンタイジが気にかけていたのが要因と考えられている。
朝鮮側では、反後金派による抗戦論もあったが、結局この和議はすぐに受け入れられた。

以下の声明は、江華島で合意された内容である。
後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約であること。
朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
朝鮮は朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(イグ)を人質として差し出すこと。
後金と朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと

この交渉中、ホンタイジがアミンに和議の署名をするよう命じる前に、アミンの軍は平壌で数日間略奪を行っている。
この和議は後金にとって有利な内容であり、侵攻開始から4ヶ月で後金軍は瀋陽に撤退した。

(3) 清国との関係
江華島での和議の後
(1627年~1636年)


(# 1627年の)戦後の交渉は双方の国で進められた。
後金は明との長期の戦闘によって経済的に疲弊しており、朝鮮に対して国境付近の義州と会寧に市場を開くことを要求した。
朝鮮はワルカ部(瓦爾喀部)の野人女直を後金に返還した。

このように、後金は朝鮮に対して一方的に自国が有利になるような要求を押しつけたので、両者の関係は良いものにはならなかった。
丁卯胡乱(# 1627年)は、朝鮮にとって9年後の丙子胡乱(# 1636年)ほど壊滅的なものではなかったが、「文禄・慶長の役で支援をしてくれた明を無下にするような和議を後金と結んだことは裏切り行為である」という非難の声が、当時の儒学者や儒教派の政治家から挙がった。

こうした感情は、1636年にホンタイジ(#)が皇帝に即位したことを認めるように要求してきた際に噴出する。
この時、反後金派で占められていた朝鮮の政権はこの要求を断り、それによって同年の丙子胡乱を引き起こすことになる。

# ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子のホンタイジ(皇太極)が後を継ぐことになった。

# 「夷狄(いてき:野蛮の地)」とは、いわゆる中国の天下を「中国」とし、他の地域は夷狄。

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歴史を訪ねて ②高野山(こうやさん)

上記のように、文禄・慶長の役で支援をしてくれた「明を無下にするような和議を後金と結んだことは裏切り行為である」という非難の声が、当時の儒学者や儒教派の政治家から挙がったとあります。
儒教界や儒学者が政治・外交にも口を出していたのですね。

ところで、次はAPBさんからの高野山の報告です。

takao 1
(以下、文および写真: by APB)

1599(慶長4)年。
慶長の役から帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子が、
敵味方の双方の戦没者の菩提を葬うために建立した供養碑。

「高麗陣敵味方戦死者供養碑」
ウィキペディアでは、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、
1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けて、日本軍の撤退をもって終結した。

とあるので、帰国してすぐに供養碑を作ったんでしょうね。
それも琉球石です。
この供養碑と、隣の英文の碑は石材が全く異なります。

次のサイトもご参照ください。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment-top

仏教にはいろいろな宗派がありますが、それらを全部包み込むおおらかさが高野山にはあります。
「民族宗教の違いににかかわらず、すべてを受け入れる寛容さが高野山が1200年継承してきた精神…」と開創1200年特設 サイトにあります。

高野山の年表
http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/history.html

韓国籍の事業家のとても立派な銅像まである、お墓もあります。

takao 2

takao 3

# 琉球石とあるのは、サンゴ礁からできた石灰質の岩(写真:左)のようです。


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壬辰の乱と磁器の話 その2

長崎の空
sky at nagasaki
(2015.10.09)

<王朝絵巻 シーズン3>
磁器の話(作製方法)④


ウィキペディア

練られた土は、まずロクロやヘラで大まかな形が作られる。
これを乾燥させて水分が10%程度になったら仕上げ加工を施す。
複雑な形状の製品(人形など)は泥漿(でいしょう)鋳込法等により成形する。

続く焼成は、通常2 - 3段階に分けて行なわれる。
最初に700℃前後での素焼きにより、水分を飛ばす。
この時まず300℃付近で素地の水分が蒸発するが、十分に乾燥させていないと蒸気圧によって形状が崩壊する。
さらに450 - 600℃でカオリンなどの結晶中の結晶水が放出されて大幅に素地が収縮する。
素焼きを終えたこの段階で釉薬をかけ(施釉)、続いて1300℃程度で一次焼成を行なう。
これによって釉薬はガラス化し、光沢や色が得られるとともに、ガラス層が粒界亀裂の進展を抑えるために強度が向上する。
さらにこの後、絵付を施してから800℃前後の2次焼成を行なう場合もある。磁器は焼成中に高温で融解しつつ、ムライトと呼ばれる針状鉱物結晶を生成するため、成分の多くが融解しても形状を維持し続け、ガラス質の器質となる。
# 釉薬(ゆうやく)とは“うわぐすり”ともいいます。

ドラマでは、こんなお猪口のような磁器でお茶をたしなむシーンがしばしばありますね。
ただし、ドラマではほとんどが真っ白な“白磁”です。

min sakazuki
(知人が所有する「清」の青花磁器です。
 白磁にブルーの“染付け”を青花といいます)

磁器の話(釉薬)⑤

釉薬(ゆうやく)について「大阪市立東洋陶磁美術館」の資料からまとめると以下です。
釉薬とはガラス質を含む泥状の材質で、焼成すると溶けてガラス状の薄い層を作ります。
これに溶けやすくするために「灰」または「酸化鉛」の媒熔剤(ばいようざい)を加えますが、いずれも焼成・還元して透明になります。
大別して「灰釉」と「鉛釉」があります。
「灰釉」
灰釉は約1250℃で溶けます。
①青磁釉…灰釉に酸化鉄を少し加えると焼成還元して青緑色の青磁となります。

seiji nannsou
(松岡美術館の「南宋」の青磁)

②透明釉…鉄分をごく少なくすると無色透明になります。
白磁とは素地に透明釉をかけて焼いたもの。
白磁の素地にコバルト顔料で文様を描き、透明釉をかけて焼いたものを青花(せいか)。
(日本では染付:そめつけ)と呼びます。

seikajiki gen min
(松岡美術館の「元」の青花磁器)

白磁や青花に、さらにさまざまな顔料で文様を描き、さらに釉薬をかけて再び焼成させたものを五彩(ごさい)。
(日本では色絵:いろえ)と呼びます。

Arita cups
(写真の左は私が使っている色絵のカップです:有田の源右衛門窯)

なお、透明釉に酸化コバルトを加えたものは特に瑠璃釉(るりゆう)と呼び、焼成・還元して藍色に変わります。

「鉛釉」
鉛釉は約800℃で溶けます。
① 緑釉(りょくゆう)…鉛釉に酸化銅を加えたもの。焼成して緑色になります。
② 褐釉(かつゆう)…鉛釉に酸化鉄を加えると、焼成して褐色になります。
③ 藍釉(らんゆう)…鉛釉に酸化コバルトを加えると、焼成して藍色になります。

これらの釉薬をかけ分けると約800℃で三彩(さんさい)になります。

磁器の話(絵付け)⑥

磁器の話の終わりは絵付けのこと。
特に赤絵・色絵と日本では呼ぶ五彩のことです。

ウィキペディアで拾います

顔料によって磁器に模様を描く作業は絵付と呼ばれる。
絵付には施釉前に行なう下絵付と施釉後に行なう上絵付がある。
下絵付は2次焼成の必要がないため低コストだが、釉薬と反応しない安定な顔料しか使えない。
このため金属塩化物や硝酸化合物が主に使われ、緑、青、黄などを発色する。
コバルトブルーの染付は下絵付によって描かれる。

これに対し、上絵付は二次焼成の手間がかかるものの、熱処理温度が低いため使用できる色が多く、特に赤色顔料や金彩を使用できるのが特徴となっている。
(このシリーズおわり)

絵付の朱肉入れ(清の時代)と青花の朱肉入れ(韓国製)
清から現代
(知人所有の「清」の五彩・絵付磁器と、青花磁器「韓国」)

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<王朝絵巻 シーズン3>
“紅衣将軍”郭再祐②
(先週よりの続き)

最初は郭再祐のところにやって来る義勇兵はほとんど皆無に近かったのですが、裕福だった義兄を説得して、人と資金を得たようです。
局地的なゲリラ戦で緒戦を飾ると、徐々に義勇兵が彼の元に集まり始めます。
そして、いくつかの小さな戦勝を重ねていくうちに、2000人規模の軍へとなり、陸の交通の要所を制圧・奪回していきます。

郭再祐が“紅衣将軍”と呼ばれるようになったのは、彼が真っ赤な軍服を着ていたからです。
豊臣軍も躍起になって彼を捕らえようとするのですが、“紅衣将軍”郭再祐は、優秀な部下の10人を選んで、豊臣軍をさらにかく乱するため、同じ真っ赤な軍服を着せました。

郭再祐(クァク・ジェウ)の勝利は朝鮮王朝への大きな貢献となったわけです。

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壬辰の乱と磁器の話 その1

壬辰倭乱(イムジンウェラン)と磁器の話 <王朝絵巻 シーズン3>

<王朝絵巻 シーズン3>
磁器の話(歴史)①


豊臣秀吉の時代から江戸幕府に変わり、(原則は鎖国ですが)朝鮮王朝などとは、対馬(鍋島藩)を通じた貿易を行うという国交を始めたことを前回までに紹介しました。

今回は磁器の話として、最初は歴史から。
まずはウィキペディアで拾ってみます。

日本では、豊臣秀吉の朝鮮出兵文禄・慶長の役によって、朝鮮半島から連れて来た陶工・李参平(金ヶ江三兵衛)が肥前有田で磁石(じせき、磁器の原料)を発見したことから製作が始まったと言われている。
窯跡の発掘調査の結果からは、1610年代に有田西部の諸窯で磁器(初期伊万里)の製造が始まったというのが通説となっている。

もともと景徳鎮(中国の大産地)でも青磁を作っていたが、用いていた近傍の高嶺(カオリン)という山の白土は、超高温で焼かなければ固まらない難物だった。
そこで出来た青白磁はすでに磁質(ガラス)化していたが、「影青(インチン)」といって青みが薄く、氷のような硬く冷たい色をしていた。
明の人々は、これは地の白土がガラスのように透き通るので純白にならないためだと考え、他の陶石を混ぜるなどして改良したらしい。
こうしてできた白地が圧倒的に美しかったために、いつしか唯一無二の絵付けの生地として中国を席巻していった。

ちょっとコメントを加えます。
①半島から多くの陶工が連れてこられたために、王朝では一時陶磁器製造が低迷したようです。
②また、現在有田では原石が枯渇し始めており、原石は主に天草(熊本)から運ばれています。

material choseki
(天草)

磁器の話(歴史)②

引き続きウィキペディアで拾います。

西洋の磁器も、初めはこの景徳鎮や伊万里焼を粉砕・溶解するなど長年にわたる詳細な科学調査を繰り返してようやく確立された。

積み出し港の名から伊万里焼と呼ばれた肥前磁器は、江戸時代後期まで隆盛を極め、また中国風の赤絵などのデザインだけでなく、日本独自の酒井田柿右衛門による濁手、金襴手、錦染付などが生まれ、明末清初の混乱で磁器生産が滞った中国に代わってヨーロッパにも輸出され、高い評価を得た。
また鍋島藩では藩窯として生産を行ない、美しく緻密な作品が作られた。
江戸時代後半には磁器焼成は九谷、砥部など各地に広まり、明治頃には瀬戸で大量に生産されるようになり、庶民にも磁器は広まっていった。

コメントを加えます。
鍋島藩と加賀・前田藩とは縁戚関係にあり、有田焼と九谷焼にはよく似たデザインが伝播されました。

なお、純白の“白磁”は明のころとのことですが、歴史の考証は難しいようです。
次の写真は明の時代よりももっと古いとの知人の話でした。

seihakuji.jpg
(知人所有の白磁の茶器・杯)

磁器の話(原料)③

genryou-pict-06.jpg
# 要は長石を粉砕してパウダー状にしたものが原料で、これに水分を加えて粘土状にするようです。




焼結して多結晶となる粘土質物、除粘剤となり可塑性を向上させ、かつフラックス(融剤)として融点を下げる石英(SiO2)、ガラス相を形成し強度を向上させ、石英と同種の効果も示す長石の3種類が主原料である。
粘土質物はSiO2(45 - 70%)、Al2O3(10 - 38%)とFe2O3(1 - 25%)、長石は正長石(K2O・Al2O3・6SiO2)とソーダ長石(Na2O・Al2O3・6SiO2)から構成される。
粘土質物にはカオリンが使用され、この他、軟質磁器には石灰、ボーンチャイナには骨灰(リン酸カルシウム)が添加される。
硬質磁器はカオリンが70%以上であり、軟質磁器は長石と石灰が約60%を占め、ボーンチャイナは骨灰が時に半分以上となるなど、磁器の種類によって組成は大きく異なる。

原料処理では、まず透水性向上のために長石・石英を細かく粉砕する。
続いて不純物を水篩などで除去した後に原料を全て混合し、荒練りと菊練りと呼ばれる作業で練り上げる。
これにより土中の水分を均一にして乾燥による歪みを防止するとともに、空気を抜くことで成形性を向上させる効果がある。
練った土はしばらく放置し、水を細部まで浸透させると同時に、繁殖したバクテリアの排泄物により可塑性を向上させる。

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<王朝絵巻 シーズン3>

ドラマ『華政』でも、光海君を慕う北方の義勇兵たちが再度集結しました。
逃げ出した王と違って、しんがりを守備した世子・光海君の人気が高かったことを表現したシーンでした。
もう一つの逸話は海軍を率いて戦況を好転させた将軍に刺激された、愛国の義勇兵たちの話です。

“紅衣将軍”郭再祐①


壬辰倭乱(日本では文禄・慶長の役)の戦局を転じたのは、李舜臣(イ・スンシン)将軍が率いる海軍であった話は<王朝絵巻 シーズン1>で紹介しています。
その李舜臣の活躍を聞いて各地で義勇兵たちが立ち上がります。
彼らは土地を知っている有利さを生かし、ゲリラ戦に持ち込んで豊臣秀吉軍をかく乱しました。
ドラマでも、壬辰倭乱の際に共に戦い、光海君を尊敬していた義勇兵が登場しました。

義勇兵たちの軍団のリーダーの中でも特に有名なのが郭再祐(クァク・ジェウ)。
彼はもとより武官ではなく、33歳で科挙の文官試験に合格したものの、答案内容の一部が王の怒りに触れ、合格を取り消されたという過去を持ちます。
官僚の道を諦めた郭再祐は、地方に帰ってのどかに生活していたのですが、壬辰倭乱での朝鮮王朝軍の苦戦に歯がゆい思いだったに違いありません。
義勇兵を募り立ち上がります。

(来週につづく)

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『華政』 放送おわりました

今週の火曜日で放送が終了しました。

ドラマ50話の構成を少しだけ鳥瞰しておきますと、
第15代王・光海君は世子の時代から在位15年の全てが描かれています。
1623年のクーデターで即位した第16代王・仁祖の在位期間は26年間です。
しかし、その間10年+8年が飛びますから、描かれるのは8年間だけです。
そして、第17代王・孝宗が在位2年目で最後の審判の王命を下します。
最終話はその1651年のことでした。

全50話ではこの時代の歴史の事実を全て描くことは、エンタメの観点からも難しいと思いました。
良い機会なので、これからもKJSでは歴史的なことの説明を加えていきます。
最終話にてニュアンスが出ている点をひとつ。
第17代王・孝宗は光海君の軍備力強化政策に戻ります
チョンミョン公主とホン・ジュウォン、そして元の火器都監の仲間の努力がこれから報われるのです。

最終回のことは次のKstyle エンタメニュースが良いでしょう(よく纏まった記事でした)

最終回と談話

1. 宣祖、光海、仁祖、そして孝宗に至るまで…4代が統治する朝鮮、そして権力の本質

「華政」は先祖(パク・ヨンギュ)をはじめ、光海(チャ・スンウォン)、仁祖(キム・ジェウォン)、悲運の皇太子ソヒョン(ペク・ソンヒョン)に続き、孝宗(イ・ミンホ)に至るまで、4代の王を描く新しい展開で視線を引きつけた。

これと共に貞明王女、ホン・ジュウォン(ソ・ガンジュン)、カン・イヌ(ハン・ジュワン)など、(…中略)多数の人物が登場し、彼らを通じて朝鮮時代の権力争いの一面を描き出した。

このような新鮮な試みは「華政」のテーマである“輝く政治”をより一層強調する装置になった。
正義を追求する人と私利私欲をむさぼる人、ゆがんだ時代を正そうとする人と時代の流れに乗ろうとする人を朝鮮の政界の中に共存させ、権力の属性とその中で見える人間の本質を鋭く描き出し、好評を得た。

2. 人間としての王、立体的な人物描写で共感を獲得

「華政」は王の業績を描く代わりに、人間としての王を描き出した。
そして王は一面的な人間ではなく、変化し、成長していく立体的な人間だった。
普通光海は暴君、あるいは悲運の改革君主として描かれる。
また、仁祖は無能な王、朝鮮歴史上最悪の君主として描かれる。
しかし「華政」の中の光海と仁祖はこれまでとは異なる姿で視聴者を魅了した。

光海は癸丑獄死(光海を支持する対北派が西人勢力と詠唱大軍を除去するため起こした事件)を見過ごし、自身の父親を毒殺したキム・ゲシとイ・イチョムを処罰せず、自身のそばに置いた。
これは自身の支持基盤を固め、善政のための原動力にするためのものだった。
このように「華政」の中の光海は朝鮮の安定のため、自身は非情な君主になろうとした人物として描かれた。
これは暴君としての光海、改革君主としての光海を合わせるものだった。
それと同時に“人間”と“王”の間で絶えず苦悩する光海の姿は視聴者から共感を得て、光海の再発見と評価された。

また、仁祖の暴政にも説得力を与えた。
「華政」は仁祖を自身に王の資質がないという事実とクーデターを通じて王になったということにコンプレックスを持っている人物として描いた。
これで善政を施したいと思っていたものの、奸臣を退くことができず、ひいては息子ソヒョンの死まで引き起こしてしまった。
しかし、死ぬ直前奸臣を退け、鳳林大君(孝宗)に力を与える“王の選択”を通じて成長した姿を見せ、視聴者の涙腺を刺激した。

3. 歴史の1ページ、名シーンで強い印象

「華政」は数々の名シーンを誕生させ、歴史の1ページを視聴者の脳裏に刻印させた。
特に4話で光海が詠唱大軍(チョン・ジンソ)に着せられた謀反の濡れ衣を見逃し、弟の命を救ってほしいと訴える幼い貞明(チョン・チャンビ)に「王室に子供はない」と言いながら冷遇するシーンは、権力の前では血のつながった人まで除去しなければならなかった悲しい歴史である“癸丑獄死”をリアルに描き出した。

それだけでなく、29話で登場した光海役のチャ・スンウォンと仁祖役のキム・ジェウォンの火花散る正面対決により“仁祖反正(インジョバンジョン:光海君を廃し、仁祖を即位させたクーデター)”がより一層スペクタクルに描かれ、第42話で仁祖が清の皇帝に膝まずき、3回お辞儀した恥辱的な歴史である“三田渡の屈辱”は俳優たちの切ない涙の演技でより一層悲劇的に描かれた。

この他にも「華政」は文禄・慶長の役、深河戦闘(朝鮮と明の連合軍が満州で後金の軍隊と戦って敗北した戦闘)、イ・グァルの乱、丙子の乱など、歴史的な事件を強烈な色彩と迫力溢れるストーリーで描き出し、視聴者に強い印象を残した。

「華政」は混沌の朝鮮時代、政界の様々な人物を通じて人間が持つ権力への欲望と、それに対抗し個人的な怨恨を克服して連帯する光海と貞明、そして貞明が仁祖政権下でその権力と欲望に対抗し、最後まで戦うストーリーを描き、視聴者の声援の中で50話の放送を終了した。

fuufu.jpg
元記事配信日時 : 2015年09月30日08時08分
記者 : クォン・ジヨン

MBC月火ドラマ「華政」(脚本:キム・イヨン、演出:チェ・ジョンギュ)で、どこまでもやさしく純粋な姿と、冷徹なカリスマ性を同時に持つホン・ジュウォン役を演じ人気を集めた俳優ソ・ガンジュンが、放送終了を控え最後の感想を伝えた。

ソ・ガンジュンの所属事務所Fantagioの公式Facebookでは、29日の午前「華政」最終回の台本を持ち、明るく笑いながらカメラを見つめているソ・ガンジュンの姿が公開された。
ソ・ガンジュンは「今までありがとうございました。終わると思うと名残惜しさが目を覆い、前が見えません…しくしく」との直筆のメッセージとともに放送終了を惜しむ気持ちを伝えた。

また、公式Facebookを通じてソ・ガンジュンは「7ヶ月間『華政』という作品に出会い、素晴らしい監督と脚本家、スタッフの方々、そして最高の先輩の方々とご一緒できて光栄であり、貴重な時間だった」と感想を伝えた。

続いて「『華政』というマラソンを完走した気分だ。
その時間と過程は決して簡単ではなかったが、挑戦を通じてやりがいと達成感を感じることができた。
力不足の私を最後まで見守り、応援してくださった視聴者の方々に心から感謝する」と感謝の挨拶を付け加えた。

ソ・ガンジュンはこの後、tvNドラマ「チーズ・イン・ザ・トラップ」で自由な魂を持ち、限りのない魅力を持っている男ペク・イノ役を演じる予定で、まもなく撮影に合流する予定だ。

ep-50 juwon
元記事配信日時 : 2015年09月29日10時34分
記者 : クォン・ジヨン

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このところ「三姓穴」「民族自然史博物館」などで知りえたことを追記していますが、民族自然史博物館は大きくて近代的な建物なので、観光客で賑わっています(特に大陸から)。
「三姓穴」はそのすぐ近くにあるものの、訪れる人は非常に少なく、静かなので散策には良いと思います。
オーラすら感じました。

samsungyol.jpg
(入り口の門)

「三姓穴」の入り口には済州では良く見かける石造があります。
道路からの入り口には溶岩で創られたオリジナルの“ドルハルバン”が立っています。

dolhalbang.jpg

ドルハルバンとは?
dolhalban.jpg

ここには第21代王・英祖(ヨンジョ)の名前(製作年代は英祖30年、1754年頃)があります。
この「三姓穴」で見かけた歴代の王の名前は王朝中期の安定した時代の王でした。
比べて、光海君や続く仁祖の第15~16代の時代は対外関係で“激動”でした。

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大陸と半島と島 <王朝絵巻 シーズン3>

アルムダン ウリナラ チョソン(美しい 我らが国 朝鮮)

第15代王・光海君が残したこの言葉が胸に染みます。
このところは済州島の旅(光海の流刑の地、ハルラ山、民族自然史博物館および三姓穴の4ポイント)から、写真・動画をアップしています。

三姓穴とは、済州島に最初に王国を創ったとされる伝説の3聖人の生誕の場所です。
samseon gyyeol

<王朝絵巻 シーズン3>

大陸と半島と島①

このドラマでの「江戸の町」はセットだったのでしょうが、日本の江戸村での撮影なのか、あるいは韓国にあるセットなのでしょうか?

edo2.jpg

その江戸時代をウィキペディアで見ると、以下です。

江戸時代の期間は主流の学説では、慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間を指します。

始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年(慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)や豊臣氏滅亡の1615年(元和元年)を始まりとする見方もあります。

終期については、ペリー来航の1853年(嘉永6年)や桜田門外の変があった1860年(万延元年)や徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)や廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在します。

edo1.jpg

さてこの時の大陸と半島と島の時代を見ると、
日本では室町時代。
大陸では“明(1368年から)”の時代。
そして、半島は“朝鮮王朝(1392年から)”です。

私たちが一緒にKJSでフォローした『信義(シンイ)』の半島が高麗のころは、平安時代から鎌倉時代。
そして大陸では、南には「南宋」と北部には「金」、そして大陸を統一する「元」が覇権を争っていました。

大陸と半島と島②

第15代王・光海君たちは日本の江戸幕府との間で良好な外交関係を結びます。
ただし、北方の国境地帯では、「明国」の敵対勢力として「後金(1616年から)」が興り、その20年後には初代皇帝のヌルハチの力で明が滅びます。
1636年からの大陸は「清国」に名称変更されます。

ドラマ『華政』のころから一貫して、“大陸は野蛮人に制圧された”との思想が王朝末期まで続きますが、さてさて、大陸の人々の発想は大きいです。
いつものようにウィキペディアでの“中華思想”。

清の中華思想

「夷」である満洲人が作り上げ、中華圏を支配した清では漢人の王朝とはやや異なっていた。
儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治していた。
雍正帝は「大義覚迷録」で古代の聖王である舜や、周の文王の出自が「夷」であったことを例に挙げて出自では無く徳の有無が重要とし、中華支配を正当化した。
政策としても辮髪などの胡俗の強制や反清勢力の鎮圧と並行して科挙の存続やかつて反清運動の中心となった者たちを明史の編纂をさせるなど、中華の文化の尊重して漢人知識人に対し名誉と利権に与る道を開く懐柔政策を行い清朝への夷狄視を減らしていた。
ただし漢人の科挙官僚が政治を担えたのは旧明領だけである。
また北方から来たロシアとは対等なネルチンスク条約を締結しているが、乾隆帝の時代に中華として南方経由で来たイギリスとの対等外交を拒絶した。
逆に日清戦争で敗れた後、中華思想は後退する。
魯迅は中華思想に染まって現実を見ようとしない人々を痛烈に批判し、「狂人日記」「阿Q正伝」などを記して中華思想からの覚醒を呼びかけた。

大陸と半島と島③

中華民国

章炳麟、孫文、梁啓超らは中華民族のナショナリズムを原動力として清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名に使用した。
この国号の提議は孫文によるものであり、中国同盟会の誓詞「恢復中華」があげられている。
しかし日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満を持っており、日本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した。
この意見は閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発するという動きが続いていた。
日本の知識人には「中華」がかつての中華思想に基づくものであると見て、強い反発を持つ者も少なくなかった。
1930年に中華民国側の要請が盛り上がった際にも、那賀王霞は伊集院の意図が「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」ものであったからだと分析している。
このため日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対も多く見られた。
しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定した。
この決定は幣原の軟弱外交の証拠であるとして、批判の対象となった。

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鼻煙壷(びえんこ) 清時代

鼻煙壺とは、中国の嗅ぎたばこ入れ、もしくは香水瓶のことです。
清朝の康熙帝は、紫禁城の中に工房を作らせ、その後1世紀にわたって素敵なメノウやガラスなどの小瓶が作られたらしいです。
9月16日の“クリスティーズ(NY)”のオークションに出展された鼻煙壷です。
さてお値段はいくらだったのでしょうか?

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左が8,125ドル、右が5,625ドルでした。
先月の予想推定価格の数倍の落札価格です。

ところで今夜は中秋の名月(満月)、明日は地球に最も月が近づくスーパームーンだとのこと。
太陽と地球と、お月様が一直線に並ぶ今夜と明日の夜。
夜空が晴れてくれることだけは祈るしかありません。

昨日は月餅・村雨をアップしましたが、今夜は“むらしぐれ”です。
泉州の老舗の“むか新”から届きました。

お酒でもワインでもない、これこそ煎茶や抹茶が欲しくなる、何とも上品な味でした。
そんな贅沢なワビとサビを感じる味です。
茶をたしなんだ光海にも、信長、秀吉にも分けてあげたいです。

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(左が小豆、右が白小豆です: presented by APB)

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『華政』 史実とフィクションの終わり


『華政』史実の終わりとフィクションの終わり

今朝のKJS、ドラマ第30話をご覧になったでしょうか?
クーデターで光海君が廃位されて、第16代王・仁祖の時代(1623年~)に入ります。
そして、この記事は今週の放送のこと。
ドラマの第48話では仁祖が亡くなる時のことが描かれました。

1.史実上の終わり

先週の土曜日は“ラストファイト”への突入を書きました。
最後の戦いは、チョンミョン(貞明)公主とホン・ジュウォン夫妻、ポンリム世子、ジュウォンの父親のホン・ヨン、チェ・ミョンギルたちがキム・ミョンギル(副総理)とカン・ジュウォン(大監)という、いわば二匹の猛獣“竜と虎”にたった“一本の矢”で戦うということでした。

今週の第47~48話の放送では、このドラマ『華政』の中でのラストファイトが“竜虎合い戦わせる”作戦での勝利が明確になります。
さらには西人派の反逆罪が暴かれます。

ドラマは1645年から1651年にかけて進みます。
西人派の領袖のキム・リュ(総理)以下の反逆者たちはキム・ジャジョムと共謀して、側室・趙氏(ヨジョン)の長男・崇善君を擁立するために、仁祖が指名した次男のポンリム世子を廃位させようとしました。
しかし、これは世子を守ろうとする仁祖の最後の決断で反転させました。
つまり、“史実”はほぼ終ったと思います。

1649 nen

2.罪深き人たち

そういうことで今日は反逆者(主に西人派)たちの歴史上の罪状と終焉をまとめて列挙しておきます。

・キム・リュ(領議政:総理)・反逆罪(1648年処刑)

・キム・ジャジョム(副領議政:副総理)・反逆罪(1651年処刑)

・貴人・趙氏(ヨジョン:側室)・反逆罪(およびソヒョン世子毒殺容疑)(1651年処刑)

・キム・ギョンジン(リュの長男)(1637年没)(ギョンジンは1636年の清国侵攻の際に王室を裏切って逃亡を図ったからだと思われます。ただし、ドラマではまだ生きていることになっています)

なお、キム・リュはキム・ジャジョムよりも先に処罰されていますので、1651年当時はキム・ジャジョムが領議政(総理)です。

また、チョンミョン・ジュウォン夫妻の仲間(味方)のチェ・ミョンギル(崔鳴吉)は1647年に亡くなっています。
作家が上記のキム・ギョンジンと同様にキャラクターを最後まで残したのだと思います。

以上のように処罰は仁祖(1649年没)およびポンリム世子(第17代王・孝宗)によって行われたために、亡くなった年代にそれぞれの差異があります。
つまり脚本は、1645年から1651年をまとめて描いているということが解かります。

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(1649年、仁祖はチョンミョンに懺悔し、死期を迎えます
 ドラマの第48話)

3.フィクションの終わり

そして来週の最終話のこと。
第48話では、「清国」の軍を動かそうとするカン・ジュソン(架空の人物)が逃亡したことから、来週はドラマの最終回に向かって“フィクション”の部分の終わりです。
そのフィクションとは、ポンリムが廃位しない限り、清国軍を侵攻させるという策略。
加えて、カン・ジュウォンは清国でさえ手玉に取ろうとする野望があり、これが裏目に出ると思います。

ただ、心配な点があります。
今週の連休の際に、気になる「二人の男」、カン・イヌ(ジュソンの息子・庶子)と黒騎士・チャギョンについて書きましたが、この二人が身を挺して、おとり作戦を行うことにしたので、フィクションとはいえ結末が心配です。

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次の写真と上の仁祖の写真は第48話からです。
(Kstyleエンタメニュースから拝借しています)
この仁祖と公主との最後の会話の場面はとても感動的でした。

「今でも憎い。しかし、自分を憎めないから、公主のことを憎んだ」と、仁祖は苦しい中でもチョンミョンを呼び出して詫びます。

一方のチョンミョンは、
「王の座がこんなにも重いものとは解かりませんでした。これまでのことをお許しください」と、許しを請う場面です。

とくに、仁祖を演じたキム・ジェウォンの名演技でした。

ep-488.jpg

次の写真は今月13日からの済州島旅行で撮影したものです。
ここ“恋北亭”という海風の東屋(あずまや)に、光海君や他の流刑者(政治犯)が集い、海を隔てた半島の首都・漢陽を偲んだといわれる場所です。

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光海君はここから北の海を眺め、残して托した「華政」と妹の公主のことを思ったに違いありません。
光海君は1641年に、ラストファイトを前にして66歳で亡くなりました。

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(2015.09撮影)
来週も済州島の歴史や文化などを写真と動画で紹介します。
(すでにYouTubeでも、一部をアップしています)

光海が見た海
https://youtu.be/4zdeIyyD8sk

そして月への願い。
今日から秋夕(チュソク)休暇

東アジアでは、今日から明日の秋夕(チュソク)を挟んで、明後日までは3連休(土日が重なっていますね)が一般的では?
ご家族・親族が集まる中で、主婦の皆様は家事で大変だとは思いますが、みんなの苦労はお月様がご覧になっていることと思います。

花より団子…、月より御餅でしょうか…?
香港、関西からも甘い写真が届いています。

10cmくらいでしょうか。
家族で分け合って食べる。
そもそも月餅とは五穀豊穣と家族の和を祈って食するものだとか。

(文&写真左上:by nao)
geppeimoti.jpg

泉州名物元祖“村雨”
粒あんも好きですが、
村雨の上品なあずきの風味と
もっちりした口当たりも良いです。

(文&写真左:by APB)
k shiga

月も太陽も(陰も陽も)みんなを平等に照らしてくれますよね。
友情への願いを込めて、ハッピーチュソク

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王朝絵巻 シーズン3 外交使節

上空から見た秋のヒツジ雲です
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(2015.09.13 up and away)

悲しみの韓半島(한반도:ハンバンド)

朝鮮王朝建国200年目の1592年は光海君にとっては青春の17歳。
その時に倭国の豊臣秀吉軍が大陸への進出をもくろんで韓半島を征服しようと侵略しました。
壬辰倭乱(イムジンウェラン:文禄・慶長の役)です。
一月足らずで漢陽の都は陥落するのですが、屈従の中で最後まで戦おうとしたのが光海君でした。
いち早く逃げ出した第14代王よりも、王子で世子だった光海への国民の期待が大きかったのは確かだと思います。
17世紀に入ると大陸の方では後金が興り明国が侵略されていきますので、大陸と日本という島に囲まれた韓国半島は地政学上の重要な位置に転じます。

光海君の執務室の壁には大きな地図が掲げてあり、地図の真ん中が韓国半島(한반도:ハンバンド)でした。
当時は明国の傘の陰で平和を享受しようとする“事大主義”が主流でしたが、見方によれば属国ですので、光海君は真の独立のためには軍事力の強化が国策の最優先だったということは誰もが認めることだと思います。

そんな国王の理想に共感し、大きな目標を共有したのがジュウォン(洪株元)であり、貞明(チョンミョン)公主だったと思います。
“華”のように豪華に見える政治は、結局は内政の権力争いのこと。
しかし、小さな国力の韓半島は外から見れば“ひ弱な花”だったと思います。

<王朝絵巻 シーズン3>

外交使節(朝鮮通信使)①


「朝鮮通信使」と呼ばれる“外交使節”は、江戸時代に合計12回訪日しています。
“通信”とは「信を通じる」の意味で、公式な外交関係・国交を意味します。

最初の通信使は1607年に訪日していますが、その時の王朝では第14代王・宣祖(ソンジョ)。
彼が亡くなる1年前です。
つまり、
内政や外交などの実務には次期(世子)の第15代王・光海君(クァンへグン)が通じていた。
そう考えるのが自然だと思います。

というのも、この国交の正常化の背景には1592年の壬辰倭乱があります。
光海君は自らが戦場で戦ったという武勇伝もあり、日本との関係を留意していたはず。
その戦争後の日韓関係を修復するために、後の徳川幕府が国交を呼びかけた結果です。

したがって、
最初の3回の使節は「回答兼刷還使」と呼ばれ、日本への“回答”を持っていくこと。
さらには、戦争により日本に捕虜として連れ去られていた人たちを、連れて帰ると言う意味での“刷還(さっかん)”。

この『華政』のファイの仲間たちとも、深い関係があった使節団だったということです。

外交使節(朝鮮通信使)②

この「朝鮮通信使」の使節団は、多い時で500人にも及んだそうです。
ドラマでも大歓迎の様子が描かれました。
中には絵師や楽団もいたので、日本の庶民は楽しで、絵師からサインを貰ったりしていたそうです。
文化使節団でもあったというわけです。

そのルートは漢陽から釜山、そして壱岐・対馬、瀬戸内海を通って東海道を進みました。
江戸幕府の招待なので、警備だけでなく、接待などなどで派手な饗応を受けたそうです。
ドラマでも道行く使節団に道を空け、箱根の関でもどちらかといえばフリーパスでした。

以前の室町時代の日本からの使節は、このルートを逆に上って首都・漢陽に行きました。
そして、その際の情報を豊臣軍が利用し、1592年の壬辰倭乱では漢陽を攻めました。
したがって、
朝鮮王朝は日本とは逆に警戒が強く、日本からの使節団の受け入れは釜山までに留めるようになりました。

バランスに欠ける日韓外交とはいえ、日本も、長崎の出島だけに限定したオランダ貿易でした。
さりながら、対馬と釜山とのルートは、重要な日韓の交易ルートであったということ。
加えてオープンだった江戸幕府と日本の庶民のほうが、よりたくさんの外国(朝鮮)文化を知ることができたということになります。

貿易・経済を考えると“鎖国”と言うのは政治だけで、庶民の実態はオープンであったからこそ大いに交易・交流の良い面を享受した。
そう思います。

外交使節(朝鮮通信使)③

江戸時代の後期1828年9月のこと、オランダ商館付の医師シーボルトが出国する際、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、国外退出と再入国の禁止処分となりました。
シーボルト事件です。
“鎖国”という制度は、国防のための情報漏洩を防ぐという、国の国防政策があったことが窺えます。

ただし、私の故郷・長崎には、当時の欧州、中国、韓国との文化交流の跡が多々です。
長崎には毎月のように観光行事があるのですが、欧州・中国・韓国からの文化紹介を兼ねて、各国の領事館が参加するのが恒例です。
来月は“おくんち”という祭りで、中国から伝来の、有名な“じゃ(蛇)おどり”を楽しんできます。
こうして思うと、文化交流はとても大切なことだと再認識しています。

(済州島の北の溶岩の海岸)
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(2015.09.15)

溶岩で作られた像は済州島で有名な“ドルハルバン”です。

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歴史の要衝ハンバンド 2

# この1年ほど『亀巌ホジュン』から始まって歴史を年代を追って調べていましたが、結論としては“東アジアの大陸と半島は、島国の日本と比べて50年程度遅れてしまった(過去形)”と考えています。
この遅れは、一部の政治家・官僚たちの私利私欲により、経済力と庶民・市民生活が犠牲にされたということです。
“冊封制度”にその大きな要因があって、大陸と半島は欧米・日本の列強から見れば、歯がゆくもある共倒れ現象だっと考えています。

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<王朝絵巻 シーズン3>
歴史の要衝ハンバンド 2

「冊封制度とは?」①


前回は“いわば安全保障条約”と呼びましたが、その「冊封体制」をウィキペディアで調べると以下。

「後漢」滅亡後、中国は長い分裂時代を迎えるものの、
日本列島に於いては、邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。

五胡十六国時代には「高句麗」が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。
「新羅」もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。
一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。

南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受けた。
この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華秩序下での支配権のお墨付きを得ようと南朝の宋から承認を得るため自ら冊封を受けた。
新羅については承認されたが、百済は既に宋の冊封国であり倭の百済支配が承認される事はなかった。
高句麗は北朝の北魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。
一方百済もまた高句麗に対抗して北魏に朝貢している。

この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。

「冊封制度とは?」②

ドラマ『華政』の頃の日本の江戸時代(1603年から)の人口はせいぜい2千万人台(江戸末期は3千万人台)。
韓国半島では多くて5百万人程度です。
他方の大陸では、「清国」になると人口が数千万人から数億人にまで達しようとする頃です。
まだ小国の朝鮮王朝や江戸幕府ですから、大陸の人口=軍事力に対抗するには、欧州の“産業革命(18世紀末)”による近代化を導入するしか道はなかったようです。

何も知らない韓国半島が引き続き「明」からも、その後の「清」からも冊封制度を受入れて、いわば属国扱いにされることも止むを得なかったと思います。
そんな時ですが、光海君の“大きな夢”は冊封制度から脱出し、真の独立を獲得する為には軍事力を強化する。
そうした政策は当時は実に先進主義で正しかったと思います。

大陸では「後金」が1616年に建国されます。

「冊封制度とは?」③

ドラマ『華政』では、後金と明との戦争(サルフの戦い)に派兵させられた1619年に、光海君は捕虜を帰国させる為に、やむなく以前の明国と同様に、冊封体制を受入れる約束をします。
明が衰退し「後金」から「清(1636年)」に変っても冊封体制には変わりがないのですが、“漢民族とは?”で触れてきたように、しょせん大陸は内部抗争であったわけで、大陸内での政権が変わったとしても同化していく民族なので、漢民族の大きな国には違いがありません。
当時の島国日本の江戸幕府は、その地勢的な有利さから海外の侵略は受けてはいませんが、その17世紀と18世紀は、江戸と朝鮮王朝と清国との交易は続き、東アジアの3つの国は、安定した国際関係の中にあったと思われます。

豊臣秀吉の時代から江戸幕府に変わり、日本は“壬辰倭乱(イムジンウェラン:文禄・慶長の役)”で連れてきた捕虜たちを「朝鮮通信使」を通じて帰国させ、対馬(鍋島藩)を通じた
貿易を行うという正式な国交を始めました。

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昨年頃から済州島に向かう日本からの観光客は20%以上減少しているらしく、来月10月からは日本からの直行便は全ての空港で停止されるそうです。
採算がとれず赤字が続いているからとのこと。
先週は成田から大韓航空で済州(Jeju)に飛びました。
すでに少しずつ写真をアップしていますが、済州・ハルラ山から紹介します。

ハルラ山①

ハルラ山は1950mで、韓国で一番の高さ。
済州島はこの火山の爆発で形成されたので、円形(楕円形)。
そのハルラ山(現在は休火山)には、東西南北の四方からの登山ルートがあります。

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(空港からの遠望がハルラ山:2015.09.14 漢拏山 한라산①)

今回の旅行は、光海君が流刑となった北側の現在の済州市辺りを散策するのが目的でもありましたので、北からの登山ルートでした。
ただし、どこから登山しても、登山口からは片道だけで4時間は必要です。
山全体がユネスコの世界遺産でもあり、まったく封鎖されたように環境(自然の生態系)が保護されているので、麓から歩いて登るしかありません。

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(麓の駐車場から見たハルラ山の反対側の山です:2015.09.14 漢拏山 한라산②)

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ラストファイト 『華政』

ハルラ山の路傍の岩
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(2015.09.14)

済州島の北の海岸
光海が見た海岸はこんな荒波でした
https://youtu.be/PXqmajEVIAk
(2015.0916)

ラストファイト 『華政』

『華政』は今週で第46話が終わり、残すところあと2週間でしょうか。

チョンミョン公主とジュウォン、それに仲間たちが“最後の戦い”を挑みます。
ジュウォンが「2匹の猛獣がいるのに、我々には1本の矢しかない状況だ」と、であれば“敵同士を戦わせる”戦略を述べます。
その敵とは、実在したキム・ジャジョムであり、また架空のカン・ジュソンです。

世子だったソヒョンが既に亡くなり(1645年)、その後の1649年には仁祖(第16代王・インジョ)が病気で亡くなります。
ドラマでは、もう仁祖は次男のポンリム(鳳林)大君(後の第17代王・孝宗)に政治を任せます。

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このポンリムはもとより兄のソヒョンと共に、ジュウォンを師匠として、そしてチョンミョンを母親(中殿)の友人であり叔母様と慕っていたので、光海→ジュウォン・チョンミョン夫婦→孝宗と、外交路線を共にするというのが史実です。

これが史実と物語の結論かと思います。

そこで、年代をまとめておくと、
1645年 ソヒョンとポンリム兄弟が清国での人質生活を終えて、帰国
同年 ソヒョン世子が毒殺される
1646年 毒アワビ事件の濡れ衣を着せられ、ピングン(ソヒョンの妻)が死罪

この2件の裏には昭容(ソヨン)趙(チョ)氏とキム・ジャジョム

1649年 仁祖が病死し、ポンリムが即位
1651年 キム・ジャジョムと貴人(←昭容)・趙氏が処刑

この5~6年がこれから描かれると思います。
私が期待しているのは“火器都監”の復活です。
彼らは大のチョンミョンファン+ジュソンを尊敬なので、架空のスタッフたちですが、物語に色をつけてくれます。

ところで、いつも感謝しているInnolifeおよびKstyleのエンタメ記事ですが、署名入りのプロの記者なので、あえて(素人の私からですが)コメントを加えておきます。
下の記事なのですが、チョンミョンは(年下なのですが仁祖の叔母として)①懇願・手を組むというよりも、気高く「あなたには、王としての最後の機会(チャンス)」を与えるといったニュアンスのセリフ(英文字幕より)でした。

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次はKstyle News より第45話と第46話の話題です

仁祖(インジョ:朝鮮時代の第16代王、キム・ジェウォン)と貞明(チョンミョン、イ・ヨニ)が鳳林(ポンリム)大君(イ・ミノ)を王にするためについに手を組んだ①

14日夜に韓国で放送されたMBC月火ドラマ「華政」第45話では、昭顕(ソヒョン)皇太子(ペク・ソンヒョン)の死後、キム・ジャジョム(チョ・ミンギ)と激しく対立する貞明の姿が描かれた。

昭顕皇太子がキム・ジャジョムと昭容趙氏(ソヨンジョシ、キム・ミンソ)の手によって毒殺された後、政局は混沌の渦となった。
仁祖は息子の死体の前で涙を見せたが、犯人であるキム・ジャジョムと 昭容趙氏を処罰する瞬間、世の中の疑いの目が自身に向けられることになるだろうという考えで、二人を罰することもできなかった。
政局の主導権は、全てキム・ジャジョムに移った。

その後、新しい跡継ぎを立てるための議論が始まった。
キム・ジャジョムは昭顕皇太子の息子である元孫(皇太子の長男)の代わりに、自身が影響力を及ぼすことができる昭容趙氏の息子を新しい跡継ぎに立てようとした。

その間、貞明と姜嬪(カンビン、キム・ヒジョン)は昭顕皇太子の弟である鳳林大君に「王になってください」と説得し始めた。
そして昭顕皇太子が死ぬ前に、鳳林大君に「私が死んだなら、お前が代わりに王になってほしい。
幼い息子がキム・ジャジョムの下でどれだけ持ちこたえるというのか」と頼んだ事実が明らかになった。

キム・ジャジョムが仁祖と臣下が会うことを遮断した中、貞明は計略を通じて仁祖と宮の外で会うことに成功した。
そして貞明は「よじれた選択を元に戻す機会がまだ残っている」と話し、鳳林大君を王に立ててほしいと仁祖に懇願①した。
そして心を変えた仁祖は、宮に戻って「鳳林大君を王に立てることとする」と宣言した。

元記事配信日時 : 2015年09月14日23時03分
記者 : イ・スンギル

イ・ミノが、政治にデビューした

15日韓国で放送されたMBC「華政」では、鳳林(ポンリム)大君(イ・ミノ)が世子(セジャ:王の跡継ぎ)に冊封される姿が描かれた。
仁祖(インジョ:朝鮮時代の第16代王、キム・ジェウォン)は世子冊封後の政治を鳳林に全て任せ、鳳林は次対(王への政務報告)を開き、初めて大臣たちと政務会議を行った。

鳳林は「私は足りないところが多いので、これからいろいろと手伝って欲しい。私はもっと勉強しなければならないと思い、過去を勉強した」とそれまで承政院(スンジョンウォン)日記を調べたことを告げた。

鳳林は「我が国がなぜ二回も清から侵入されたか、わかるような気がする」と過去の清算に乗り出した。
その後、過誤のある大臣たちを捕まえ、罪を尋ねた。

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元記事配信日時 : 2015年09月16日02時45分
記者 : イ・ジヨン

こちらでは萩の花が咲いていました。
萩の花

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歴史の要衝ハンバンド 1

歴史の要衝ハンバンド 1

国境の向こうは中国大陸・北はロシア。
それに海を渡ると日本ですから、挟まれた半島の朝鮮王朝は地政学的に重要な、そして厳しい運命を背負っていたと思います。

ドラマ『朱蒙(チュモン)』では、チュモンが紀元前に半島を国を統一するにあたり、大きな課題が鉄器の開発と経済力でした。
「漢」と漢の鉄騎兵に対抗するためには、ソソノ達の商団と、脇役の軍器博士(クンギバクサ)の力が大きな貢献をしました。
それと何にも変えがたいのは大王の大きな心。
敵の勢力をも“同じ「古朝鮮」の民族の再興”というテーマで民族の団結を国作りの目標にしました。
ただし、王朝末期になと、欧米の利権とも絡み合ってのグローバル(地球規模)な世界に突入します。

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(「元」の時代の青花磁器です・松岡美術館)

「漢民族とは?」①

ウィキペディアや他のネットを読んでいると、漢民族の「漢」の字は、大陸を統一した始皇帝の「秦」を経て「前漢」時代に起因するようです。
「後漢」時代など、当時でも人口は数千万人とのこと。
まだ紀元前のことです。
さらには、今後ドラマにも出てくる「清」の時代になると既に人口が2億人を越え、それからもその倍の4億人へと拡大していく国へと大きくなります。
それでも、紀元前に半島を統一して高句麗を建国したように、ドラマ『朱蒙(チュモン)』では朝鮮民族も漢民族に対峙・抵抗できたようです。
その紀元前の頃、島国の日本は卑弥呼の邪馬台国でした。

700年以上ワープして、“なんと(710年)綺麗な平城京”と歴史の勉強で年代を覚えたのが「奈良時代」の始まり。
当時の大陸は耳慣れた言葉の「唐」の時代で、半島は高句麗・新羅・百済の三国時代の後、「新羅」が統一して、その後にドラマ『善徳女王』の時代に入ります。
他方では高句麗の血を引くドラマ『大祚榮(テジョヨン:대조영)』の「渤海」が現在のロシア沿海州あたりに生まれています。

このころも(当然ですが)それぞれがお隣同士ですから、交易がありました。

「漢民族とは?」②

時代はさらにワープして『信義(シンイ)』の頃は高麗の末期でした。
大陸ではモンゴルに発する「元」から「明」へと変わろうとする中で、「高麗」の第31代王・恭愍王(コンミンワン)の在位が1351年~1374年でした。
ドラマでは、迂達赤(ウダルチ:王の親衛部隊)の隊長チェ・ヨン将軍が主人公。
彼を愛した柳(ユ)夫人(ドラマのユ・ウンス)は、コンミン王ともノグク公主とも大の仲良しで、“イングニム(王)から刀を貰った”、とか王妃には“サラン(愛)”のハングル語を教えたりで、“ワンビママ(王妃媽媽)”と呼んでいました。

ウィキペディアでは次のとおりです。
恭愍王は幼少時は元の宮廷で育つ。
しかし、元の衰えと明の台頭を見て、親明政策を取り始めた。
まず、高麗国内の親元勢力を排除として、元の外戚として権勢を振るう奇氏(キ・チョル)(奇皇后(順帝トゴン・テムルの皇后)の実家)を討ち、次に軍備を増強した。
李成桂をはじめとする武人を登用し、元に奪われた領地の奪回を果たした。
また100年以上続いた胡服弁髪令をも廃止した。
王妃魯国大長公主(ノグクコンジュ)を愛し、他の妃達はただ継嗣を得るため娶ったが、形式上の婚姻だったという。

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ストーリーを離れて国際関係に触れると、すでに「高句麗」の時代から、強大な大陸から半島の独立と国防を得るためには、大陸への忠誠を示す“冊封制度”に頼り、独立国としての認定を受けなくてはならなかった。
もちろんその代償としては、派兵と物を献上するという、いわば安全保障条約があったようです。

(写真は「高麗・青磁」)

漢民族とは?③

漢民族とはどんな定義なのかと、ウィキペディアでみると、現代の国家の枠組みでの統計では次のとおりです。

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。
人類の20%を占める世界最大の民族集団である。
中華人民共和国の民族識別工作では漢族(簡体字:汉族, 拼音: hànzú)と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。
漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。

これってどういう意味・含意なのか解りますか?
(以下は私の解釈なのですが)
狭義には純粋な漢民族とは現在の中華民国(台湾)にしか残っていないという学説もあります。
しかし、広義にとらえれば、漢民族というのは様々な民族が融和・同化して一つの大きな「漢民族」となって行ったのだと思います。
だからこそ現在の中華人民共和国の90%以上が漢民族であって、その他の融合がなされていない民族が少数民族であって、さらにそれぞれの民族が独自性を主張しているのではないかと思います。

アンコールワットの中の壁一面の彫刻(レリーフ)
左がクメールの人々、右は中国の人々だそうです。
k c 人
(photo by nao at Angkor Wat)

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文化や民族の違いから排他的になるのは人のサガ(性)なのでしょうか?

しかしながら、現代の“ヒト”、“モノ”そして“お金(資本)”が国境を越えてボーダーレスになると、そうも言ってはおられません。
文化・スポーツでのヒトの往来、工場移転(モノ)、債権・外国為替への投資(お金)が盛んになると、私は政治の対立を超えることができると考えています。
翻って、
このドラマの当時はようやく「朝鮮通信使(外交団)」と貿易が始まった時代なので、グローバル化のほんの小さな一歩だったと思います。

東京駅・大丸百貨店 こちらはマーガレット・ハウェル(英国ブランドでしたっけ?)の秋の新作です。
ノースリーブ・ハイネックのセーターが流行りそうです。
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