王朝絵巻シーズン2 パート1(オクチョンのころ)


<王朝絵巻 シーズン2>
パート1 (2)


シーズン1のパート2の
「女性たちの韓半島(한반도)」にて、
陰の悪女3人を紹介しました。
彼女たちこそ、
韓国半島の歴史を約50年もの間、
世界から孤立化させた真犯人です。

ところで、すでに「オクチョン42歳のころ」で、
私なりの結論を書いたのですが、追加を含めて
以下をまとめておきます。

1.チャン・オクチョンに関する評価

ウィキペディアで見ると以下。

康熙40年(1701年)に仁顕王后が病没すると、西人派は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと誣告した。
その結果、1701年10月10日、張氏は粛宗から賜薬により処刑された。
享年42。

禧嬪張氏の人物像は、粛宗時代のことを記した朝鮮実録がもとになっているが、編集を完了したのは、英祖の時代であり、その母、淑嬪崔氏は、禧嬪張氏と対立していたため、禧嬪張氏に不利な内容になってしまった可能性もあり、本当に根の腐った人だったかは不明である。

しかし、熾烈を極めた宮廷の権力争いの中、中人という決して高くない身分から王妃になった彼女の生涯は「劇的」「悲劇的」などと関心をもたれ、現在の韓国では、しばしば文学や映画、テレビドラマの題材に取り上げられる。

淑嬪崔氏=トンイ=ムスリなのですが、
彼女にとってはオクチョンの存在が邪魔だった。

西人派から送り込まれたこと、
同じ派閥のイニョンとも手を組んだこと、
これは間違いないと思います。
ただ、
1701年の4月に昌慶宮を追い出されており、
その主因は分かりませんが、
淑嬪崔と禧嬪張は両成敗を受けたと思います

ドラマ『トンイ』ではトンイは昌慶宮には戻りませんが、
実際にはこの4年後に淑嬪崔氏は息子と共に、
宮殿で暮らすことが認められました。

north high
(この写真は4月13日の水原・華城です)

2.スクチョンの気持ち

絶対君主として内政、外交、経済を活性化した王です。
内政では、
西人派、南人派そしてその後の老論派と少論派と、
荒れ狂う官僚たちを統治するために苦慮したはず。

優しさと強さの両面を内外に示さざるを得なかった。
そう考えられます。
つまり、政治のためには家族も犠牲にした。
それくらいの怖い存在でもあった。

ドラマでは東平君が「王は怖い人」と言います。
オクチョンは当初「哀れな人」と称します。
スクチョンは「むしろ平凡な身分だったら良かった」
と“王権強化”が時代の要求でもあったので、
家族を犠牲にしてまで仕事を選んだのだと思います。
また、
オクチョンはムスリに「この国は怖い国です」と言います。
つまり、王をも恐れない派閥の官僚たちの存在のこと。

これが第20代の景宗と第21代の英祖という、
二人の息子たちの悩みでもあったと思います。

3.オクチョン42歳の頃

今日で『チャン・オクチョン』はOFFにしたいと思います。
KJSの王朝絵巻などで歴史を駆けたみなさん、
いかがでしたか?

汚い言葉やネガティブな表現は避けたいのですが、
“子作りマシーン”や“嫉妬の正室と側室”などなど、
“生々しい人間の欲望”が渦巻く王と王妃に加えて、
それだけでなく周囲の官僚たちの“欲望の利害”。

こんなことがなければ朝鮮王朝はもっと栄えたのでは?
そんなことを考えますが、人は同じことの繰り返し。

ドラマ仲間との会話ではほとんどが、
男優・女優の演技のことです。
今回の『チャン・オクチョン』でも、
あの時のオクチョンの気持ちはどうだったのだろうか?
そんな質問には誰も答えません。
エンタメなので、そこまで深く考える必要もない。

しかし、
KJSらしさはそこらへんに求めたいと思っています。
あの日あの時あの人は何を思っていたのか?
それを考えるのは実に楽しいです。

1694年、『トンイ』が後の英祖を産んで、
その後の粛宗とそのヨニングンとの野山での遊び。
1701年のオクチョンの賜薬までの間は、
オクチョンは後の景宗の子育てをしていました。
“女”ではなくて“母”としての、
女性だけの楽しみだったと思っています。

(第20話の後半、
 チェ・ムスリに出あった後のことです)

しかし、その夜のスクチョンは
オクチョンの寝顔を見るために、
ムスリと出会った後に、
就善堂を訪れるところでした。

2033d_20150514133602631.jpg

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
ランキング@「にほんブログ村」

fason east2

4月13日・月曜日はソウルからの日帰りで、
水原(京畿道の道庁所在地)の“華城”で、
第22代王・正祖(イ・サン)を思っていました。

帰った後はちょうど『華城』の第1回放送日だったので、
ホテルで早速MBCを見ていました。
最初の所感は、貞明(チョンミョン)公主の子役の
ホ・ジョンウンちゃんの可愛くて、演技の上手さ。

ちょっとしたことで、視聴→ブログの弾みになりました。
実は、
貞明公主とイ・サンには深いつながりがあるのです
これは<王朝絵巻シーズン2>でも触れています。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のランキング@にほんブログ村
スポンサーサイト

愛に生きたオクチョン

Shasta daisy(シャスターデージー)
daisy_20150628163820e64.jpg
(photo by nana)

愛に生きたオクチョン

愛に生きたオクチョン(1)

康 煕奉『朝鮮王朝・王妃たちの運命』
(2011.12.15 実業之日本社)pp.130~134では、
①「小説『謝氏南征記(サシナムジョンギ)』
が市中に出回ると、
 庶民は改めて仁顕王后・閔(ミン)氏に同情し…」
②「(正史)朝鮮王朝実録の編纂作業は
張禧嬪に不利な形となったのだ」
とあります。

詳細をまとめると、
1688年、粛宗(スクチョン)は27歳、
オクチョン29歳。この年にユンが誕生。
2人が溺愛した長男(世子)ですが、
側室の子なので元子(ウォンジャ)ではない。
しかし、オクチョンが正室になることで、
正室の長男=元子となれます。
「なにがなんでも正室になること」は
オクチョンだけでなく、スクチョンも希望する。
これはドラマで上手く表現されています


また、
「粛宗は在位が46年間に及んだ…
『(朝鮮王朝)実録』をまとめる作業に
大変な時間がかかった…、
次の王となった景宗が在位4年で世を去ったので、
その作業は英祖の時代に…」
とあります。
つまり、「朝鮮王朝実録」の編纂には、
オクチョンの息子の景宗も目を通していたものの、
その後を引き継いだのは、
ムスリ=『トンイ』の子の英祖の時代なので、
オクチョンのことは良く書けなかった


小説『謝氏南征記』と合わせて、
正史であってもオクチョン=悪女説が流布された。

本当のオクチョンは、
スクチョンへの“愛に生きた”だけで、
政治にはあまり関心がなかった。
ただし、西人派と南人派の“政争の具”にされた。
そう考えます。

2433h_20150526010112a02.jpg

愛に生きたオクチョン(2)

「オクチョン42歳の頃」で書いたように、
1701年というのは、
西人派の中が“老論派”と“小論派”に再分裂し、
急先鋒の老論派がオクチョンを死に追いやった
この陰にはムスリ=トンイがいた“かもしれない”。
そう推測しています。
そして、老論派の長老のキム・マンギは、
自分の孫娘(新安東・金氏;15歳)を
正室の座に就けた(史実)。

しかしなぜ粛宗がオクチョンを見放したか?
この疑問が今でも残っていますが、
史実では1701年当時は既にムスリには、
7歳になる息子(後の第21代王・英祖)がいた。

ドラマ『トンイ』では、
この息子へと気持ちが移っていた。

さらにはムスリの息子を強力に支援したのが、
キム・マンギを首班とする“老論派”だった。
これも史実であり『トンイ』でも同じ。

ただし、『チャン・オクチョン』では、
淑嬪・崔氏は単なる政略上の側室であり、
派閥のバランスを取るためだけだった。

さらに、
もう一点の疑問を付け加えるとすれば、
淑嬪・崔氏は1701年4月に昌徳宮から
追放されており、
同年8月に仁顕王妃が心臓病で亡くなり、
同年10月にオクチョンが賜薬です。
あの問題の、“藁人形での呪詛”を
宮中から出ていた淑嬪・崔氏が
事件を仕掛けることが可能であったか?

私は謀略を仕組んだのはキム・マンギと
急先鋒の老論派だったと思っています。

2433b_201506270412309de.jpg

最後に『チャン・オクチョン』のまとめ

スクチョン(粛宗)は13歳で即位。
側室を持たなかった先王の正室からの嫡子でした。
ただ一人の世継ぎだったから、
文武両道の教育を受けたことは確かだと思います。
そして、とても賢い若者だったから、
王室での“結婚観”は単に政略
(これは東平君との会話で描かれました)
ただし、
ドラマにあるように彼は最初の正室(仁敬)が好きで、
3人の娘(これは史実)をもうけたのだと思います。

しかし、その後の正室には目もくれず、
オクチョンだけを愛した
崔氏との間に後の英祖をもうけますが、
それは(西人派分裂後の)
老論派との“バランスをとる戦略”だった。

これが脚本の奥義だと思っています。

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
ランキング@「にほんブログ村」
応援のアクセス、ありがとうございました。
心より御礼申し上げます。


『亀巌ホジュン』のころから王朝の歴史に興味が出て、
まだ勉強中ですが、実に不可解なことが多いです。

…なぜ? なぜ?

といつも思いつつですが、
今後も「なぜ?(ウェ?)」が続くと思います。
野次馬に過ぎなくとも、「なぜ?」を大切に、
探求することがとても楽しいです。

また、「日本ブログ村」へのアクセスの数で、
皆様の評価で、自らの反省を繰り返している次第です。

7月1日から『華政』(キム・イヨン脚本)です。
10000_2015062704173995b.jpg

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のアクセスランキング@にほんブログ村

王朝絵巻シーズン2 パート1(粛宗のころ)

H.K. SKY High
hk sky 2015
(昨日の香港 photo by nao)

<王朝絵巻シーズン2>
パート1(1)

1.王朝518年


康 煕奉『朝鮮王朝』(2013.06収穫社)によれば、
1392年の初代王から4代までの約50年間で
王政の基盤が整備された。
この王政を支えたのが官僚制度で、
中央から地方まで内政が組織化されて、
地方の豪族の反乱の芽は摘まれたこと。
もう一つには国教にした儒教。
儒教は秩序ある生活規範を重んじ、
また儒教は男尊女卑を認めるので、
厳格な身分制度を維持することにも都合が良かった。

しかし、官僚への依存が強くなったために、
官僚が派閥争いに明け暮れて、
これが王朝の病巣になったこと。
さらには、儒教の格式主義が実学の発展を遅らせ、
王朝の経済の停滞の要因となった。

以上、
史劇のファンのみなさまも納得だと思います。
であらばこそ、第19代王・粛宗、
第21代王・英祖および第22代王・正祖の
改革路線が評価できると思います。

2.身分の壁

およそ1割の王室・両班を支配者層にして、
壁の向こうの被支配者層が中人、常民、賎民。
とくに賎民の子は賎民なので、職業すら選べず、
奴隷(奴婢)で一生を終える人だって多かった。

こんなピラミッド型の身分制度に加えて、
本来の王道を正す儒教思想が形を変えて、
両班や庶民にまで、
“男尊女卑”を容認するといった横糸のために、
「七去之悪」などを強いていました。
何度も引用している康煕奉(カンヒボン)氏の本には、
この男尊女卑の思想は
“朱子学”によるとの記述があります

縦も横も強固な岩のような身分制度。
宮殿の外では、
男子は武官、女子は宮廷の尚宮・女官へと、
チャンスを見いだしたのかもしれません。
張禧嬪だけでなく淑嬪・崔氏だって、
それ相当の天分がないと側室にはなれず、
またシンデレラだったと思います。

222n_20150616111213d93.jpg
(税が払えず流民となった人々も…)

3.粛宗のころ(1)

「謝氏(サシ)南征記(ナムジョンギ)」

世継ぎを産んだという実績は非常に大きなこと。
しかし、これにてオクチョンが正室になり、
仁顕(イニョン)王妃が廃妃・追放された。
この顛末を風刺した小説が「南征記」で、
このドラマでは、
キム・マンギの弟が書いたことになっています。

西人派のネガティブキャンペーンであったものの、
オクチョンだけでなくスクチョンに対しても、
民心が批判に転じました。

スクチョンが“優柔不断”との説。
これも後世にまで残ります。

民心を重んじ、また、
民心の力を恐れてもいたスクチョンなので、
ことのショックは大きく、ドラマでも悩んでいます。

イニョンを哀れに思う気持ちは宮中にも広がり、
他方ではオクチョンの悪女説が流布されます。
南人派にそれくらいの文才があれば、
歴史の評価は違っていたと考えられる、
巧妙な民衆心理の扇動だったと思います。

311a_201506161112125ff.jpg
(祝日の庶民の楽しみ)

4.粛宗のころ(2)

ウィキペディアで粛宗を検索すると、
彼の功績について以下の記述があります。

粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導した。
そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、民生安定と経済発展に相当な業績を残した。

粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。
そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。
しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。

常平通貨のことはドラマにも出ました。
大同法」は映画『王になった男』でもありました。
光海君(第15代王)の発案によるもので、
両班や地方の豪族にも、所有土地の広さに応じて、
税金を課すというものです(これにて小作農民は無税)。
つまり、両班の懐に手を突っ込んだというわけです。

111b_201506161112109b3.jpg
(庶民とはまた違った華やかな宮中の祝日風景)

5.粛宗のころ(3)

仲良し東平君のこと

東平君はいつもオクチョンの味方でした。
彼は第16代王・仁祖(インジョ)の孫で、
スクチョンよりも1歳年上の幼馴染でした。
スクチョンと東平君がオクチョンと出会うのが、
それぞれ19歳、20歳と21歳でした。

東平君はチャンファミリーにとっても味方。
オクチョンの母親のユン氏、オクチョンの兄のヒジェ、
それにチャン・ヒョンにも近かったと思われます。

何が原因だったのかは分かりませんが、
彼は1701年に亡くなります。

この年の4月には淑嬪・崔氏が昌慶宮を出ており、
8月には仁顕王妃(イニョン閔氏)が心臓病で亡くなり、
10月には張禧嬪が賜薬で亡くなりました


連座でしょうかね?
チャン・ヒョン(叔父)、ヒジェ(兄)も、
この東平君も同年に亡くなっています。
東平君は41歳でした。

私は西人派(老論)による大粛清だと思っています。

2322k_20150519120524aad.jpg

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
ランキング@にほんブログ村

オクチョン42歳のころに

康 煕奉『悪女たちの朝鮮王朝』(2014.06双葉社)では、
淑嬪・崔氏が張禧嬪を陥れる動機が確実に存在した
 …、
 張禧嬪は小さな悪をたくさん積み重ねたかもしれないが、
 実際に人を殺したり露骨な陰謀を仕掛けたり…、
 といったことはしていない」(p.183)とあります。

『チャン・オクチョン』は明日でおしまい。
まだまだ、
ぐいぐいとストーリーが押し寄せてくるのですが、
最終話は素晴らしいまとめ方だと思います。

終盤から第24話へと、
この間には約13年が駆け足で描かれています。
明日の最終を前に、これまでの史実
書き残しておきたいと思います。

siro3.jpg
(ドラマには
 この絵に似たデザインの屏風が出てきます。
 これはイ・サンの“華城への行宮”の様子です。
 国立故宮博物館:2015.04.15撮影)

1.1694年

第21話(下) 民心操作で紹介したように、
仁顕王后(廃妃)を復権させるために、
西人派(老論)が、『南征記』という風俗小説を発刊しました。
この民心操作の効果は絶大だっただけでなく、
粛宗の心も大きく揺れました。

仁顕王后が復位します。
1694年、イニョン27歳です。

②淑嬪崔より第21代王・英祖誕生1694年(9月)
(ムスリ24歳)
なお、淑媛(スグォン)就任は1693年(4月)
(ムスリ23歳)

③この年にオクチョンは“嬪”に降格しました。

この1694年の②を背景に、
①、③の出来事は、明らかに、
西人派(老論)の工作だとしか思えません。

1694年はオクチョン35歳の時で景宗は6歳です。

2.オクチョン42歳の頃(1701年)

そしてオクチョンが42歳の1701年のこと。
(粛宗:スクチョンは40歳)

①張禧嬪(チャンヒビン:オクチョン)
1659~1701年(11月没:42歳)
<南人派>

②仁顕王后(イニョン)
1667~1701年(8月没:34歳)
<西人派>

③淑嬪崔(スクビンチェ:ムスリまたはトンイ)
1670~1718年没
昌徳宮から追放1701年(4月)~1704年
<西人派・老論派>

4月から11月にかけて①~③の一連の出来事。
②の病気のイニョン(心臓病)を背景に、
西人派(老論)の手による“でっちあげ”などなど
(藁人形での呪詛はその一部)
③追放された淑嬪崔と老論派との裏工作にて、
①オクチョンが賜薬にて、
自害させられたと考えるのが自然だと思います。

また、同年には、
伯父のチャン・ヒョン、兄のチャン・ヒョジュだけでなく、
東平君が亡くなっています

この年は老論派による南人派へのとどめの一撃。
大粛清が行われたと推測できます。
ファミリーを支援した東平君も連座だと推測します。

オクチョン没は42歳、景宗は13歳でした。

3.スクチョン(第19代王・粛宗)の換局政治

換局政治について付記しておきます。
この時代は王の権限が著しく蔑まれ、
派閥抗争に明け暮れる官僚たちが悪事を働き、
非人道的な行為を省みなかったと思います。
オクチョンだけでなく、スクチョンも、
二人ともその犠牲者だった。
官僚たちは王を守ることをしなかったし、
王族たちは苦悩の日々を送ったのだと思います。

庚申換局(キョンシンホァングク)1680年
 ドラマでは福善君の反乱(南人派→西人派)

己巳換局(キサファングク)1689年
 オクチョンが翌年正室に(西人派→南人派)

甲戌換局(カプスルファングク)1694年
 イニョン復位・オクチョン降格(南人派→西人派)

側室を持たず、長男のスンだけを愛した先王。
その遺言は、“誰も信じてはいけない”でした。
第19代王・粛宗は、
西人派と老論派から政治的、“掟”の前例により、
3人の正室を迎えてはいるものの、
本当に愛したのはオクチョンだけだったと思います。

なお、粛宗は新たに、仁元王后(イヌォン)を迎えます。
彼女は、1687~1757年没。
(ドラマ『チャン・オクチョン』に出る
キム・マンギの孫娘)
推測ですが、1702年、彼女が15歳の時に正室へ。
<老論派>

ending2_20150525232058c60.jpg
(撮影最後のショット:日本語版DVDより)

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
ランキング@にほんブログ村

数年前、『朱蒙』、『チャングムの誓い』などから、
韓国ドラマの史劇も視聴し始めたのですが、
当時はやはり巨匠イ・ビョンフン監督
(当時のMBCのディレクター)の作品をフォローしました。
(日本でもNHKがそうだったと思います)

しかし、『亀巌ホジュン』やこの『チャン・オクチョン』、
さらには映画「宮女」、「王になった男」、「王の涙」と、
次世代の監督たちの作品を見ていると、
歴史の解釈が大きく反転していると考えています。

この1年ほど、たくさんの本やネット検索で調べたことを、
<王朝絵巻>シーズン1~2を通じて紹介しています。
そこで考えたことは、①第15代王・“光海君”、および
②この“張禧嬪”のことでした。
この二人の名誉回復が重要だと思っています。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のアクセスランキング@にほんブログ村

オクチョン30歳のころに

『トンイ(同伊)』を見た人は自然にトンイ派。
『チャン・オクチョン』を見た人はオクチョン派。
私も数年前にブログを開いてから“トンイ”に嵌りました。

しかし<王朝絵巻>を進めるにつれ、
なんとフィクションばかりの王朝ドラマだと気付いた次第。
歴史ドラマファンの方々は既にお気づきだったと思いますが、
私はようやく理解し出したところです。
同時に「なんでこんなにも歴史解釈が違うのか?」
それは、
きっとわずかな資料だけしか残っていないからだ。
脚本家の理解と演出家の描き方にも無理はない…。
そう思うことにしました。

そういう私は“オクチョン派”です。 
先日までの<王朝絵巻>のまとめでも、
次の3点を挙げました。

①第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった。
②張禧嬪(チャンヒビン:オクチョン)は、
 派閥間の政争の犠牲であった。
③日韓・韓日関係は19世紀まで良かった。
 禍根を作ったのは20世紀前半の50年の間。

以上は<王朝絵巻>をパート6まで進めているうちに、
ドラマと数々の書物が教えてくれたからです。

両班たちや官僚たちの“身分差別”と
“実家一族”主義の偏狭さが国をも衰退させた。
そう思わざるをえません。
これに対して、国民を思う王たちの映画・ドラマが、
最近は歴史観を変換させているようです。

映画『光海(王になった男)』の第15代王・光海君、
この『チャン・オクチョン』の第19代王・粛宗、
また、
映画『逆鱗(王の涙)』の第22代王・正祖がそうだと思います。

fajon.jpg
(MBC『華政』より:
 今度は7月から、『華政』をアップをします。
 「①第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった」を追及します)

1.オクチョンとスクチョンの私生活

オクチョンの略歴
1680年:二人の出会い(21歳)
1686年:淑媛(従四品相当)
1688年:第20代王・景宗を生む(29歳)
(この時には、正二品の昭儀)
1689年:“嬪(正一品)”へと昇格(30歳)
1690年:朝鮮史上唯一の中人出身の王妃(31歳)
1701年:42歳で他界。

(康煕奉『朝鮮王宮-王妃たちの運命-』2011.12実業之日本社)
および下記、
(ウィキペディア)
張氏は中人(仁同張氏)の出身で、仁祖の継妃で粛宗の曾祖母に当たる荘烈大王大妃の女官として宮中に入った。
しかしながら、1680年10月から1681年3月の間に宮廷から追われた。
当時の朝鮮では西人派と南人派の党派争いが展開されており、西人派が仁顕王后閔氏を後ろ盾に政権を握っていた。
しかし仁顕王后は王妃に立てられてから6年を経ても子供に恵まれなかった。
そこに目をつけた荘烈大王大妃を始めとする南人派は康熙25年(1686年)に「美貌に秀でた」張氏を再度、後宮に送りこみ、承恩尚宮(スンウンサングン、正五品相当)とした。
張氏は1686年12月10日に「淑媛」(スグォン、従四品相当)に立てられ、さらに1688年に「昭儀」(ソイ、正二品相当)へと昇進し、同年10月27日には王子李昀(後の景宗)を生む。
康熙28年(1689年)1月15日にはその功労によって「嬪」(ピン、正一品相当。側室の最上位)に昇進し「禧嬪(ヒビン)」と号され、李昀は王世子に立てられた。

他界するまでは出会いから21年です。
ただし、
1694年:淑嬪崔(『トンイ』)が息子を産む
したがって、
オクチョンが35歳の時には、
スクチョンとの関係に何か変化が出たと思われます。
しかし、
少なくとも出会いから14年間は愛し合った。
また、
亡くなるまでに息子が13歳になっているので、
少なくとも29歳からの13年間は、
スクチョンと息子と共に家族の生活を営んだ。

以上がオクチョンの略歴と、
これまでの検討から想像できるふたりの私生活です。

ending1_20150525232058575.jpg
(日本語版DVD収録の舞台裏)

2.派閥抗争(老論派と少論派の政争)

まずウィキペディアから、

粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい時期だった。在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年、南人の専横に歯止めをかけたい粛宗が南人を大量に追放した庚申換局(キョンシンホァングク)を契機に、西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになった。

ドラマでは福善君以下の南人派による謀反により、
庚申換局(1680年)がありました。
南人派が一掃されて、西人派が議会を独占。
しかし、仁顕王后が廃位されると共に、今度は
己巳換局(1689年)で西人派が一掃されます。
これで南人派の政権復帰。
ただし、今度は政権を担う力量不足から、
甲戌換局(1694年)で南人派が退かされて、
再度西人派が主流になります。
以上のように粛宗は絶対君主としての権限を、
3度も活用した強い王だったと思います。

そこで、
西人派の「老論派」と「少論派」なのですが、
ウィキペディアによれば、
1680年の庚申換局で分裂とあります。
他方、康 煕奉(カンヒボン)氏の研究では、
分裂は1700年とあります。
(康煕奉『朝鮮王朝』2013.06収穫社)

この20年間のギャップのこと。
ドラマを振り返ると、スクチョン
(世子:イ・スン)の最初の王妃選びの際に、
同じ西人派からの候補ではあるものの、
大妃が協力に推薦するミン・ユジュンの娘の
イニョンと、
キム・マンギの娘のインギョンが選考に残るものの、
分裂を狙ったのか、スクチョンは本命ではなく、
インギョンのことを王妃(最初の正室)に選びました。
これで、
キム・マンギとミン・ユジュンの間に溝ができます。
(1680年頃)
しかし、
ドラマではわずかなシーンであるものの、
二人は西人派のために仲直りと協力のために、
杯を重ねます。西人派が一致団結するわけです。
つまり、
1700年頃を老・少論派分裂とするのは、
再分裂説ではないかと思うわけです。

幸いにウィキペディアでも次の短いフレーズがありました。

復位6年後に仁顕王后が亡くなると、仁顕王后を呪ったとして1701年10月10日、禧嬪張氏は賜薬により処刑された。
しかし党争は西人と南人の対立で止まず、西人がまた老論と少論で分離して対立するようになった。

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
ランキング@「にほんブログ村」

派閥の終焉は正祖が亡くなってから。
イ・サンが10歳の頃でした。
父親の荘献(思悼世子・荘祖)の処遇を巡って、
父親を追い詰めた老論派の中にも、
穏健で同情を示した時派(シバ)と、
強硬派の僻派(ビョクハ)
に分裂します。
その際には映画『逆鱗』に出てくる、
サンの母よりも若い貞純(チョンスン)大王大妃は、
僻派に組します。1762年のことでした。
また、第22代王・正祖イ・サンは、
父親を追い詰めた老論派を嫌います。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
ランキング@にほんブログ村

王朝絵巻 パート8 王室のファッション

<王朝絵巻 パート8>ファッションのこと

ドラマでも目を惹く、王と王妃の最高の礼服です。
「韓国観光公社」のサイトには
当時の王家の服装の解説があります。

国王は表彰である大礼服を祭礼服として着用しました。
大礼服は冕服(ミョンボク)とも言い、冕服冠(ミョンリュウカン)をかぶって袞服(コンボク)を着ます。
冕服は宗廟、社稷(サジク)などで儀礼を行う際や、正月、冬至など大きな儀礼の際に着用しました。
王妃は大礼服であるチョグイ(法服ともいう)を着ました。

mariage.jpg
(韓国観光公社のサイトより)

チョグイのことですが、上の写真にあるように、
王妃ならびに世子の妻だけが着る服装で、
最高の格式の翟衣(チョグイ)と呼ばれました。
翟(チョク)はキジのことで、赤い服には全体に、
尾の長いキジの模様が刺繍されています。
高麗時代からの伝統のようです。

1. 王の服装

冕服冠(ミョンリュウカン)と帯です。
kings hatbelt

中国大陸では皇帝と名乗っていたので、
ワンランク下の朝鮮半島では王と名乗っていました。
これも、これまで紹介した“事大主義”思想ですね。

王様が着ている赤い服。
これはコンリョンポと呼ばれ、
胸と背中と肩には龍の刺繍があり、 刺繍は円形です。
王は龍の化身だということ。
したがって、王の顔は龍顔。

ドラマのスクチョンは赤だけでなくブルーも着用。
東平君は第16代王・仁祖(インジョ)の孫ですが、
側室の息子で、彼の服はブルーに四角い刺繍です。
円形は“天”、四角形は“地”を表し、
円形の刺繍は王と王の正室・側室だけです。

kings1.jpg

それに王の木靴(モッカ)は、字とは違って動物の毛皮製です。

kings boot

kings boot2

これは世子の服でしょう。小さかったです。

sejya.jpg
(いずれも国立故宮博物館:2015.04.15撮影)

2. 王妃の服

次の写真はこのドラマにもあるように、
インギョンやイニョンが
正室として迎えられる際に着ていたデザインの原型でしょう。

wanbi.jpg
(以下も2015.04.15撮影)

下は普段に着用していた服です。
ドラマでは博物館にある衣装を参考にした、
大王大妃、大妃、王妃と、
王室の衣服のデザインがたくさんありますね。
色合いや文様がとても似ています。

王室の女性たちは、
前垂れのような長いチョゴリ(上着)を着ていますが、
これはタンイです。
タンイを着るときには
両手をチョゴリの中に入れるのが礼儀。

写真はいずれも今年の4月15日に撮影したもの。
次のチマを覚えておいてください。
オクチョンがほぼ同じデザインのチマで登場。
紺色のチマには、
金の刺繍(ドラマの刺繍はもっと幅が狭いですが)です。

queens4.jpg

ついでタンへ
花模様の履き物はコッシンとも呼ばれたようです。
絹に刺繍でハナの模様が入ったコッシンは、
韓服の味わいを活かすために重要。
チマの裾の美しいラインを仕上げる意味を持っています。

queens.jpg

queens2.jpg

ちなみに、これはポソン。ポソンは靴下のこと。
男性用と女性用に特別な差はありませんが、
男性用は縫い目が真っ直ぐであるという特徴があるそうです。

queens3.jpg

3. 女性の髪型

最初の写真にある、
最高位の髪型は“テスモリ”
あの傘のような髪型です。
王妃が婚礼や国儀などで付ける最高位のカツラです。
カツラはカチュと呼ばれました
(ハングルでは“モリ”は頭の意味)

女性の髪形をみると、一般に結婚後は
三つ編みの長い髪を巻いているように見えます。
このカチュは“オヨモリ”といって、
一般にも両班の妻も着用したカツラのようです。
また宮廷では尚宮のスタイル。
たくさんの装飾品を付けて、豪華さを競いました。

下の写真は髪の先に赤いテンギがあるので、
未婚者のテンギ(布)モリ用だと思います。
宮廷の女官たちの定番ですが、これもカツラ?
ドラマ『チャン・オクチョン』のキム・テヒの髪形も、
明らかにカツラだったと思いますが…。

wig.jpg

さまざまなバリエーションのカチュですが、
重いものでは3㎏もあったとか。
本物の人の髪のカツラしかなかったからでしょうか、
倒れそうで、肩が凝りそうです。
最近は当然ながら化学繊維、あるいは混合でしょう。
それでも演じる俳優たちからは「大変です」と、
そんな話もインタビューの声には出てきます。
また、
翼のような大きな“トクジ”を付けたのが“トクジモリ”

(トクジです)
katyu.jpg

髪飾りには次の写真のように、ピニョ(かんざし)とトルジャム
トルジャムは王妃を始め上流階級の女性達が使った装身具。
「オヨモリ」では、
前の分け目の中心と両側に差して使われました。
(写真の右下です)

ドラマでもスプリングの端に星や蝶の形をした飾りをつけるこで、
まるで髪の毛の上に蝶が飛んでいるような趣を漂わせました。

kanzasi.jpg
(いずれも、2015.04.15:国立故宮博物館で撮影)

なお、普段は下のオクチョンたちの写真のように、
ピニョでまとめたチョクチンモリです。

ピニョ(かんざし)は後ろにきちんと整えた髪をまとめ、
固定する役割以外にも装身具的な意味が強いもの。
ピニョの材料としては金、銀、木、琥珀、翡翠など多様ですが、
昔はその素材はもちろんのこと、
長さなどで身分の高低を表していたとのこと。

1311a_20150504151907000.jpg
(# 二人のかんざし“ピニョ”とチョクチンモリ)

王室の女性達は龍や鳳凰を、
一般の女性達は竹や梅などの木と花の彫刻。

服装を見ても宮廷の女官たちは
普通は水色のチョゴリと紺色のチマです。

庶民の服装は、
女性たちはモノトーンのチョゴリとチマ。
男性は地味なチョゴリとパジ(ズボン)でした。

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
ランキング@「にほんブログ村」

<王朝絵巻> おわり

以上、<王朝絵巻>(シーズン1 として)は、
「韓国観光公社」のサイトおよび、
康 煕奉の次などの著書により纏めました。
『朝鮮王朝-王妃たちの運命-』2011.12(実業之日本社)

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
1週間のアクセスランキング@にほんブログ村

小説『シンイ』 インチョン・江華島への道

# 今日は江華島(カンファド)への道案内をします。

まずは地図
korea.jpg
これは大韓民国

赤い点はポイントの都市

ソウル特別市の西側が「仁川」
(インチョン)広域市です。

江華島(カンファド)は
インチョン広域市に属します。

『信義』を視聴するまで知らなかったのですが、
ここは蒙古からの進撃の際に、
高麗王朝は一時的に遷都したとのこと。
開京(ケギョン:開城ケソン)からです。

inchon 1

そのために、
多くの史跡も残っており、
博物館もあります。











小説『シンイ』第2巻の第10章「生きて必ず」p.333
最後の江華島の場面は先王の慶昌君(キョンチャングン)を連れて、
ウンスと先王を守るヨンです。

ファ・スインが私兵たちを連れてヨンたちを追います。

ヨンは先王とウンスを先に馬に乗せようとします。

「後程伺います」

「どうやって?」

「どこにいても、必ず迎えに行きます」

チェ・ヨンは鐙(あぶみ)を掴み、足を入れるのを待った。
だがウンスは動こうとせず、仕方なく向き直った。
目に思いが籠もる。ウンスは頷いた。

「わかった」

思いもよらない言葉を口にして、ウンスが近づいて来た。
鐙に足を入れるのかと思いきや、ウンスはそのまま
チェ・ヨンの首に腕を回した。チェ・ヨンの息が止まる。
暖かく細い体で大柄のチェ・ヨンを抱きしめ
ウンスは耳元でつぶやいた。

「待っているから」

風に舞う花弁が留まり、再び飛んでいくようにウンスは離れた。

1.江華島(カンファド)

『信義』第6話では
ヨンたちは2頭の馬で江華島(カンファド)へ。
私は最初「カンファド」の「ド」は道で、江華道と、
あたかも
先王は遠い山の中の田舎に蟄居していると思いました。
宮殿とを往復するチュソクも
馬に乗って駆けるシーンしかありませんでしたから。
(ただし、英文字幕はkanhwa islandでした)

ドラマの『信義』ではここは山中での一夜です。
しかし、小説『シンイ』でのこのシーンは船中です。
ヨンは平底の船を選び、馬2頭も一緒です。
今で言えば、フェリーボートでしょうか。

ウンスが「ユ・ウンス」と初めて名前を教えつつ、
チェ・ヨンに「既婚? 未婚?」と質問。
自分も未婚だと語り、“サイコ(psycho)good night"
つまり「“おやすみ”ってことね」とパタリと寝ます。

2.首都の遷都と1251年のウンス

<次の絵は
 ウンスが過去の過去の1251年に行った時の高麗です>


yu unsu1

首都・開京(または開城)が
一時江華島へと移転します。

高麗時代の遺跡
(KONESTのサイトから)
yu unsu2

高麗宮址
(コリョグンジ)は


仁川(インチョン)の
江華島(カンファド)にある
遺跡(史跡133号)で、高麗(コリョ)時代には臨時首都。

朝鮮時代には宮殿のひとつとして機能しました。
1232年、開城(ケソン)にあった高麗の都は、
水際での戦闘に不慣れなモンゴル軍の侵略に備え
江華島に移されます。

都は1270年に再び開城へと還ることになりますが、
新しい宮殿や官衙は開城の都・松都(ソンド)に似せられ、
39年の間
江都(カンド)として臨時首都の役割を果します。

なので、ちょっと不思議だと思ったのは次の絵にあるように、
慶昌君(キョンチャングン)はもう少し立派な、
上の写真にあるような建物の中に幽閉されていた。
そして史実のように毒殺されたのではないかと思います。

mianada 3
(放送第7話より)

3.仁川(インチョン)広域市

ソウルの中心から電車で1時間強かかります。
インチョンといえば国際空港ですが、
空港があるのは永宗島(ヨンジョンド)の島の中。

インチョン市の港に近いのは
アミューズメントパークがある月尾島(ウォルミド)です。

そして、小説『シンイ』で先王が流された
江華島(カンファド)は、空港のヨンジョンドの北にあります。
北からカンファド、ヨンジョンド、ウォルミドの順です。

地下鉄1番線の最終駅。

boj5.jpg
(以下、昨年10月21日に撮影しました)

駅を出ると、まず目に付くのが中華街の門。
この中華街に入ると
すぐに元祖のチャジャンミョン
(ジャージャー麺)博物館があります。

ここが『3days』でテギョンとボウォンが歩いた道です。

boj4.jpg
(昨年10月21日に撮影)

そして、
賑わうチャイナタウンの南側に隣接しているのが、
旧日本人街の跡です。

この写真は当時を偲んで、スクエアの看板となっています。

nihon village

旧第一銀行(日本銀行)の支店など、
石造りのいくつかの建造物は今でも頑強に残っており
記念館として保存されています。

boj1.jpg

第2時世界大戦のあと1945年ころには
ほとんどの日本人はインチョンを引き揚げています。

inchon sity1
(レストランの名前が“本土”
 なぜか望郷の念を感じさせた看板でした)

その後、韓国半島での南北戦争。

インチョンは1950年の韓国戦争
(日本の歴史書には朝鮮戦争の記述)の際に、
米軍のマッカーサー司令官の下に
国連軍が最初に上陸した場所でもあります。

bojj.jpg

ドラマ『発行家族』ではこの坂の多い街がロケにありました。

inchon sity2

4.第3巻の予告…?

次の動画はヨンが帰ってくるところ。
第2巻につづく小説『シンイ』第3巻(夏の発刊予定)は
次のシーンから始まるはずです。

♪ 降り続く雨のように あなたは私の心を満たす
 …
 歩みがのろく 気がつくのも遅いから…

チェ・ヨンが自分の心に気がつくのが遅かったのか…と。
そんな 生きること=愛 に気づくことが遅かったヨンでした。 

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ

ランキング@「にほんブログ村」


今日紹介したインチョンの観光案内は次のとおりです。

ソウル西部に位置する港湾都市、仁川(インチョン)。
市内中心部にはジャージャー麺発祥の地とされるチャイナタウンや月尾島(ウォルミド)などの観光名所があり、ソウルから地下鉄で訪れる事もできる日帰り旅行先として人気です。
郊外には空の玄関・仁川国際空港や、遺跡が点在する江華島(カンファド)、高層ビルが立ち並ぶ松島(ソンド)国際都市などがあり、エリア毎に雰囲気が異なるのも仁川の特徴です。
現在は2014年に開催されるアジア大会の準備が各地で進められており、大会に向けて市全体が盛り上がっています。

・人口 約271万人 
・面積 約986km²

http://www.konest.com/contents/area_top.html?id=4
(最初の地図を含め、KONEST観光ガイド)

# 小説『シンイ』では
 当時は男の足で2~3日、馬で1日の距離とあります。

# なお、2番目の地図にある松島(ソンド)国際都市。
 ここには大韓民国海洋警察の本部があり、
 ドラマ『ポセイドン』の舞台でした。
 好きなジャンルのドラマでした。

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ

ランキング@にほんブログ村

高朱蒙伝説と『朱蒙(チュモン)』

高朱蒙伝説と『朱蒙(チュモン)』

先月5月でブログ歴も満2年となり、
6月からは3年目に入りました。

数々のいいドラマを見てきたという実感があるので、
ずいぶん昔のように感じますが、
最初に見た韓流ドラマはパク・ジニと
イ・ビョンホンの『遠い路』(左コラム参照)。
本格的にドラマを見始めたのは『朱蒙(チュモン)』。
『遠い路』は2時間ドラマ(特別番組)だったので、
私の最初の長編は『朱蒙』ということになり、
これが、
ドラマの一つのメルクマールということになります。
1話、1話が飽きさせないいい脚本でした。

chu1.jpg

物語のベースとなったのが、「高朱蒙伝説」
韓国の『統一日報』2012年5月16日、
(日本語版)
「韓国史を彩る王たちの物語(10)」に、
その伝説が掲載されました。

「コンギョクコラ~!(攻撃だ~!)」
chu6.jpg

1.高朱蒙伝説

内容を以下に転記します。

朝鮮が滅んだあとに高句麗・百済・新羅
そして伽耶が興る。
伽耶を入れると実際は四国時代であるが、
伽耶は後に新羅に併合されるので
一般に三国時代という。

建国神話からみると高句麗は兄の国であり
百済は弟の国であるが、
新羅と伽耶は別々の国である。
百済の始祖温祚は
高句麗を興した高朱蒙の子
または義理の子であり、
また他のいずれの国の始祖も
天孫が天降った
いわゆる天孫降臨神話を共有している。

朱蒙は高句麗を興して始祖となり、
姓を「高(こ)」に定めるがその前は
「解(へ)」であった。
「本性は解であるが、いま自ら天帝の子であり
日光を承けて生まれたといい、故に高を以て姓とした」
(『三国遺事』高句麗条)。
父神の名を解慕漱(へモス)といい
「解」は日(へ)と同音であり
日は高いところにあるから高と名付けたのである。
日(へ)や解(へ)と名乗るには恐れ多いので
太陽は高いところにあるので
高としたと考えると理解しやすい。

国造りの過程を神統譜からみれば、
北扶余→東扶余→高句麗→百済の順に国が興り、
その部族は古代ツングース語族である
扶余族の流れをくむ。
北扶余は現在の中国東北地方に君臨した
扶余族の一部であった。

この民族の移動の順を追うと
太陽が昇る方向へと向かい、
それはあたかも地中海から
太陽の昇る方向の東に向かって移動する
人々の流れと重なり合う。
地中海から太陽の昇る方向をアジアといい、
逆に地中海に沈む太陽を追いかける方向を
ヨーロッパというがそれぞれの語源なのだ。
そこの古の人々の太陽崇拝が見えてくる。
檀君神話からその流れを想起してみれば、
建国の流れが見えてくる。

朱蒙が生まれたのは
東扶余の金蛙(クムワ)王の時代である。
ある日金蛙王が優渤水の水面下の岩の上に
奇怪な動物が魚をとっているという報告を
漁師から聞き、鉄製の網でその動物を捕えた。
なんと唇が三尺あまりあり、三回も切り落とすと
美しい娘の姿になった。
娘は名前を柳花(ユファ)といい
水神・河伯の長女であるという。
河伯は天帝と称する解慕漱に侵された娘を許せず、
美しい娘を取り上げて追放した。

父の河伯に追放されたという
不思議な話を聞いた金蛙王は柳花を連れて帰って
部屋に閉じ込めておいた。
やがて身ごもり5升ほどの大きな卵を生む。
不吉に思って犬や豚に与えたが食べず、牛や馬も
そして鳥獣も避けるので柳花に戻した。
暖かく包んでおくと
一人の男の子が殻を破って出てきた
(『三国史記』始祖東明聖王条)。

卵から孵ったその男の子が朱蒙であり、
神童であるが故に金蛙王の王子から命を狙われ、
東扶余から逃れて高句麗建国への旅路にでる。

以上、
金 両基(キム・ヤンギ:比較文化学者)著

2.ドラマの『朱蒙(チュモン)』

この記事を読むと、
伝説の王子(Prince of Legend)『朱蒙』という
タイトルが良く似合います。
ドラマでも父の名前は弓の名人へモス

chu3.jpg
へモスを演じたのはホ・ジュノ

そして母はユファ姫。

chu8.jpg
ユファを演じたのはオ・ヨンス

ストーリーでも、
クムワ王とその王子のテソなどが
扶余を守るという名目で、
引き取り育てたチュモンの命を狙います。

chu2.jpg
クムワを演じたのはチョン・グァンリョル

チュモンは戦火の中で大怪我を負い、
助けてくれた同民族のイェソヤとの間に
ユリ王子をもうけます。
チュモンを愛した母ユファは
当然イェソヤ姫とユリを扶余に受け入れます。

イェソヤはチュモンと再会したい。
またチュモンの妻ということで、
扶余でも危険を察知し、
ユファの助けを得て脱出します。
しかし、追っ手を避けるのが精一杯で、
チュモンには会えずに生き別れ。

chu7.jpg

そのチュモンは山奥に砦を作り、勇者を集め、
古朝鮮(上記、滅びた朝鮮)の流民や
中国で奴隷となっていた朝鮮民族を農民として集め、
徐々に国力の基礎を固めます。

チュモンは、
若い時に修行をしていた商団の
長の娘ソソノには一目ぼれ。
しかし、
チュモンが行方不明になっていたころ、
ソソノも父商団長の右腕だった男と婚姻。
ただしその夫は戦火で死亡します。

未亡人となっていたソソノは、
父親や周囲の勧めを受けて、
高句麗を建国した後のチュモンと一緒になり
ふたりはそれぞれ高句麗王・女王を名乗ります。
その際に商団は資金面で高句麗を支援します。

chu5.jpg

戦火の中、チュモンの傷をいたわるソソノ

chu4.jpg

時は流れ、
ユリ王子も成長し父チュモンに会いに行く。
親子再会の場面は
涙を流さずには見られませんでした。
そして、
やつれたイェソヤ姫をソソノは暖かく迎えます。
ただし、
ソソノの嫡男がユリ王の存在を許せず、
暗殺を企てる。

子供たちのことで悩むソソノ

chu10.jpg

ソソノの力で陰謀は未然に防げますが、
ソソノは子供のためにも
高句麗を離れて、南方への旅路に出る。
こうして、
ソソノとその子が百済の祖となるわけです。

chu9.jpg

『朱蒙』は伝説に忠実であったのですね。

3.最終第80話より

私が好きなシーンをリビューします。
ソソノが南へと去る時のイェソヤとの会話です。

「風が冷たいですよ。
 お体は大丈夫ですか?」
chu12.jpg

「高句麗を去られると聞きました。
 本当ですか?」

「ええ」

「それはいけません。
 私とユリが負担ならば、私が去ります」
chu11.jpg

「奥様たちのためでは決してありません」

「…」

「昔…、高句麗においでになったとか…、
 なのに
 陛下と私の結婚式を見て、
 高句麗の統一のために去られたそうですね。
 私のせいで苦労なさったことを思うと、
 胸が痛みます。
 奥様がいらっしゃるので私は安心して去れます。
 陛下のお世話をお願いします」
chu14.jpg

「…」

「私は欲張りな人間です。
 夢を実現させるために去るのです。
 奥様こそ心を痛めないでください」
chu13.jpg

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
「にほんブログ村」ランキング。
『朱蒙(チュモン)』


なお、
チュモンは40歳で王位をユリに譲り亡くなります。
そして、ユリ王の子が高句麗第3代
大武神王ムヒュルで、『風の国』で描かれます。
さらに、ムヒュルの子ホドンの秘話は
『自鳴鼓(チャミョンゴ)』です。
高句麗の創世記が楽しめました。
そして時は流れ、
高句麗第19代の広開土太王の物語は、
『太王四神記』と『広開土太王』へと続きます。

chu15.jpg

にほんブログ村テレビブログ韓国ドラマへ
「にほんブログ村」ランキング。
『朱蒙(チュモン)』
王朝用語・脚本家など
ドラマと映画・感想など

openclose