<王朝絵巻>パート7(2) 華城

1.<王朝絵巻 パート7>華城(1)

水原(スウォン)駅からは、
タクシーやバスで5~10分程度
華城(ファソン)へと向かいます。

fason first
(以下、2015.04.13 撮影)

ウィキペディアによると、

18世紀末に李氏朝鮮第22代国王・正祖が、老論派の陰謀により横死した父思悼世子の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移して、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めたものが、華城である。

華城は老論を排除して実学を重視した正祖の理想都市であり、一時は華城への遷都も検討されたが、華城完成直後に正祖が死亡したため遷都は見送られた。

華城建築には、1794年から1796年まで2年を越える月日と37万人の労力が投入された。城壁の長さは5kmを越え、中国から伝わった西洋の建築技術を輸入し、城郭の築造に石材とレンガが併用されている点が特徴的である。東洋と西洋の技術を融合させた設計を行ったのは朝鮮後期の実学者丁若鏞。これは当時の朝鮮の築城技術・建築美術の粋を集めたものであったが、華城を最後として、以降の李朝の築城は衰退した。

まず目に入るのが当時の南の正門にあたる、
八達門(팔달문:パルダルムン)です。

paru mun

半月形に積まれた石の上に、
2階建ての楼閣があります。
この門を通って、漢陽(現ソウル)から、
イ・サンの一行1800人ほど+
800頭の馬が出入りしたようです。

当時の行列を描いたものが華城にあります。
長い隊列の後方になりますが、
“鉄砲隊”がガードしています。

(本物は国立故宮博物館に保存されています)
gyoukou1.jpg

動画にあるように八達門の周囲はロータリーで、
城壁の中には大通りが走っています。
都市交通の妨げにならないようにでしょうか?

下は案内の地図で、左下(南)に八達門です。
外壁の周囲は6km近くあるので、
外壁の中には大通りや、片側1車線の道路、また
博物館などが普通の町のようにあり、
道路の交通量も多いです。

左上(山手)が観光のトレイルバス
(華城列車:地図の赤い線です)の出発点、
外壁(4分の1くらいの距離)の傍を往復しています。
それを避けるように一般の車が走っています。

fason map1
(文字がぼけて分かり難いのですが、
 地図の真ん中あたりに宮殿「行宮」があります。)

2.<王朝絵巻 パート7>華城(2)

修復されてやや短くなったとはいえ、
周囲は5.7kmもある外壁ですから、
写真にあるような西から北東の外壁を往復する、
華城列車(トレイルバス)を使うと楽です。
龍頭と御輿をモチーフにした赤いバス列車です。

fason first4

まずは西の山手まで徒歩で登って、
出発地点へと向かいます。

(長い坂道です)
fason first2

(遠くに市街が見えます)
fason first 3

華城列車に乗ります。

(料金は1500ウォンです)
fason trail

次の3枚の写真は“空心”といって、
偵察、遠望のための塔です。銃口や砲口が見えます。

fason1.jpg

fason 666

fason2.jpg
(2015.04.13 撮影)

3.<王朝絵巻 パート7>華城(3)
-行宮(ヘングン)-


行宮の字の意味からも想像できます。
漢陽(現ソウル)から離れた水原に遷都を考えた、
第22代王・正祖(チョンジョ)です。
すでに紹介した昌徳宮や昌慶宮ではなくて、
父の荘献の御霊をここに祭り、
この華城を行宮として拠点としたかったようです。

荘献(思悼世子:サドセジャ)のことを思い、
13回も参拝し宿泊した宮殿とのことです。
(華城:パンフレットの記述)

八達門が古い城壁の南の正門。
長安門(장안문、チャンアンムン)が北で、
その傍は華虹門(화홍문、ファホンムン)。

(長安門)
fason gate33

西門にあたる華西門(화서문、ファソムン)、
東門にあたる蒼龍門(창룡문、チャンリョンムン)
などで囲まれています。

正殿は中陽門の先の奉寿堂です。
この“奉寿堂”では、
母親の恵慶君の還暦の祝いも行っています。

fason 666
(再現されたシーンです)

(上と下の写真と説明は華城の正殿。
 イサンが恵慶宮に挨拶するところ)
suin hyegyon

(執務室と玉座)
sun hair

4.<王朝絵巻 パート7>華城(4)
-行宮(ヘングン2)-


昨日は先に行宮(ヘングン)の玉座を紹介しましたが、
八達門から行宮までは歩いて5分ほどです。

1500ウォンの華城・行宮の入場料を払って中に入ると、
目に付くのが『大張今(テチャングム:チャングムの誓い』
ここは「チャングムの誓い」の主要なロケ地だったようです。
彼女のことを思い出すと「水刺間(スラッカン)」ですが、
宮廷料理人ではなく、史実では医女だっただけで、
しかしながら、医女としての能力があり、
その面で御医と同格の地位が与えられたようです。

fason 222

ここは後宮にあたります。
次の3枚(写真)にはチャングムの出世の姿が
ドラマと合わせてその衣装・医服で展示されています。

changumu1.jpg

changumu2.jpg

changumu3.jpg

ただし、誤解なきよう付け加えます。
チャングム(長今)が医者として仕えたのは、
第11代王・中宗(チュンジョン:在位1506~1544年)。
「朝鮮王朝実録」では1515~1544年にかけて、
チャングムの記述が出てくるそうです。

つまり、ドラマの撮影には適した場所ではあっても、
この華城は、
チャングムや中宗の時代にはまだありませんでした。

5.<王朝絵巻 パート7>華城(5)
-行宮(ヘングン3)-


もう一度行宮の入り口に戻って、
まずは“新豊楼”。
第22代王・正祖の“新しい故郷”の楼の意味です。

sinnyou mon

内側から見た新豊楼

mun.jpg

左翊門の先には“中庸門”

cyuuyou munn

映画『王の涙(韓国題名:「逆鱗」)』では、
四書五経の中の「中庸」の一説である、
コツコツと“小さなことから改革を進めていくことで、
人々の感動を呼ぶ”という王道思想が底流にありました。

中庸門の先に見えるのが正殿の“奉寿堂”です。
先日書いたように、
正祖はここで母の恵慶宮の還暦祝いを行っています。

6.<王朝絵巻 パート7>華城(6)
-行宮(ヘングン4)-


米櫃事件

第21代王・英祖(ヨンジョ)の息子で、
第22代王・正祖(チョンジョ)の父の荘献。
荘献(チャンボン)が
“米櫃”の中で餓死させられた事件は何度か触れました。

この米櫃は次の写真にあるような大きさで、
大人がようやく入れる大きさです。

komebitsu_201505021800122ed.jpg

この米櫃の写真は、
華城・行宮の中に展示されていますが、
当時の物と同じ大きさではあるものの、
本物ではありません。
また、
21代と22代の王を語るときには避けられない、
痛恨の米櫃事件なので、華城だけではなく、
昌徳宮にも展示があります。
しかし、展示のない
“昌慶宮(チャンギョングン)”が現場
です。

このドラマの『チャン・オクチョン』の第19代王・粛宗から、
『イサン』の第22代王・正祖までの、
改革の時代の汚点だったと思います。
避けては通れない事件なので、
随所で話題になりますが、
米櫃は昌慶宮の後宮に展示して欲しいとも思います。

なお、『チャン・オクチョン』でも『イサン』でも、
舞台は
昌徳宮(チャンドックン)と昌慶宮(チャンギョングン)。
それぞれが西と東に位置し、
それぞれの北側の“秘苑”と庭園は、
当時は繋がっていたので、
実際に王家が散策した場所。
ドラマの撮影にも適した静かな場所です。

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これこそ“木魚”です。
お寺の木魚が一般的ですが、王朝当時のことです。
通信連絡手段の大切な一つです。
敵の来襲などなど、
この“木魚”のリズムで知らせたそうです。

mokugyo.jpg

(今日のラベンダー)
ravender.jpg

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王朝絵巻 パート7(1) 慶熙宮と昌慶宮

4月の旅行をまとめています
昨年に続き、私にとってはソウルに残る5大宮殿の中でも、
訪問の残りの2宮殿でした。

1.<王朝絵巻>パート7(1)
慶熙宮(1)

第15代王・光海君は徳寿宮で即位しました。
そして、彼の計画により
離宮であるこの慶熙宮(キョンヒグン:경희궁)を建設。
下のウィキペディアにあるように、
現在は敷地が狭くなっており、
どちらかと言えば開放された公園のようで、
チケット売り場などはありません。

(写真は正殿への崇政門)
suuseimun.jpg

次はウィキペデイアより。

慶熙宮(キョンヒグン:경희궁)は光海君8年(1616年)に建立された。
ソウルにある5大宮殿の中で最も西側に位置して過去には100以上の建物があったが、日本統治時代にほぼ完全に破壊され更地となった。
隆福殿、会祥殿、集慶堂、興政堂、正始閣、思賢閣、興化門などの建物があったが、壊されたり、強制的に移転されたりした。
1980年にソウル高等学校の瑞草区への移転以後、ソウル市立美術館として使用されたが、再び建物を取り壊し慶熙宮を復元した。
かつての宮殿敷地はより広大だったが現在は狭くなっており、跡地の一部にはソウル歴史博物館、ソウル市教育庁、ソウル福祉財団、大韓サッカー協会、救世軍会館など政府や民間の様々なビルが建つ。
2013年にソウル市と鍾路区庁は総合整備基本計画を定めており、慶熙宮のさらなる復元を段階的に進めることになっている。

慶熙宮(2)

この写真は正殿の玉座。
どこの正殿でも同じデザインの屏風ですが、
屏風には月と太陽(陰陽)と、山。 そして川。
山を背にして川(漢江:ハンガン)を臨む、
“背山臨水”の首都・漢陽を象徴するもの。

その山は5つです。
中国に端を発する陰陽五行説から五山。
五行とは“木・火・土・金・水”で、
万物を創造し育む大自然。

木(木)は燃えて(火)、土(土)に返る。
地中から金属(金)が生まれ、金属には結露する。
露は水(水)となって、水は木を育む。
このサイクルが五行です。

kyonhi1.jpg
(2015年4月12日、夕刻撮影)

さて、正殿の脇を抜けて広々とした公園へ。

khg sakura

2.<王朝絵巻>パート7(1)
昌慶宮(1)

昌慶宮(チャンギョングン)は、
1484年に第9代王・成宗が完成させた宮殿です。
昌徳宮(チャンドックン)の東側に位置し、
大妃たちを住まわせることが目的でした。

ソウルの真ん中にあり、豪華なので、
景福宮(キョンボックン)が一番有名なのですが、
『亀巖ホジュン』で描かれたように、
豊臣秀吉軍によって起きた文禄の役
(1592年:韓国では壬辰倭乱:イムジンウェラン)
の際に景福宮もこの昌慶宮(チャンギョングン)も
暴徒の手で略奪された上に焼失しました。

第15代王・光海君はそのために徳寿宮で即位しました。
そして、彼の手でまず昌慶宮が再建されて、
その後は昌慶宮が273年に亘り朝鮮王朝の正宮でした。
(景福宮の再建は1865年です)

(ソウル大学病院を東に見る弘化門)
kouka gate2

(弘化門とその先の正殿は珍しく東向きです)
kouka gate

正門を入るとすぐに、お清めの川(禁川)が流れ、
その上には500年の歴史を持つ玉川橋が架かっています。
アーチ型の橋です。

changyon1.jpg

arc.jpg

この橋を渡って明政門を通ると、その先に正殿の明政殿。
朝鮮王朝時代の正殿は南向きですが、明政殿は東向きで、
これは先王たちを奉った宗廟(チョンミョ)が南側にあり、
儒教慣習に従って門を開けることができなかったことによるものです。

(玉川橋を渡ると正殿に向かう明政門)
changyon gate

そして正殿の玉座

changyon 2
(以上の撮影は2015.04.14)

ウィキペディアによると、
「1909年、日本が純宗の心を慰めるとして昌慶宮内の宮門や塀を壊して動物園(「京城李王職昌慶苑動物園」)と植物園を造り一般人も観覧できるようになり…」
とあります。

しかし、(私から見ると)
翌年1910年には韓国が日本に併合されており、
当時の純宗(スンジョン)はもう34~35歳なので、
「心を慰める…」がピンときません。
ただ、即位の2年目なので、そうかもしれません。

また、当時の宮殿は、
一般人にとってはどこも閉鎖的な空間だったので、
それを解放するという意味もあったかもしれません。
ただし、宮殿→“動物園・植物園”は、
現代の韓国人たちには負のイメージがあるようです。

(入場料は1000ウォンです)
changgyeonggun.jpg

さてドラマは、
これまではほとんどがフィクションだと思いまずが、
南人派が衰退した反逆(スン暗殺事件)は史実です。

物語りはこれから本格化しますが、今後も、
史実とフィクションが入り混じると思います。

みなさまの連休(GW)はいかがだったでしょうか?
私は4月の中でも、まずソウル→水原、
月末は長崎→佐賀と、国内外の旅行でした。

昨日のラジオ放送では、
4月24日から5月6日まで日本入国者数は、
83万6000人超と、昨年のGWに比し、
4%程度増えたそうです(予定:政府発表)。

日韓・韓日では行く人・来る人で、
年間500万人以上の規模(来日者が多い)。
これからもその中の一人でありたいです。

昌慶宮(2)

昌慶宮(チャンギョングン)は
昌徳宮(チャンドックン)の東。
今日はその後宮あたりと裏の庭園を紹介します。

koukyuu.jpg

『イサン』では、ドラマの最初に父親の荘献(チャンボン)
(後の思悼世子:サドセジャ)が、
米櫃に入れられて餓死しますが、
昌慶宮の後宮の庭がその場所だと言われています。

isan father

景春殿は、
第22代王・正祖(チョンジョ:イ・サン)が生まれた場所。
ここで、
王妃・恵慶宮(へギョングン)とサンが遊んだのでしょう。

changyn 3

後宮裏手の高い場所からの撮影です。

changyon 4

遠くにソウルタワー(南山公園)が見えます。

changyon 5

さて、
北の方の庭園は昌徳宮の“秘苑”に続いています。
現在は切り離されていますが、ドラマでも実際でも、
ここから昌慶宮に入ったと思われます。

この石碑は歴代王が生まれた際の
“へその緒”を祭ったところ。
実際の石碑は国立王宮博物館にあります。

changyon 6

そして春塘池(チュンダンジ)。
ここはボート遊びを目的に日本が作ったところ。
中には“ひょうたん島”があります。

chanbgyon 7
(いずれも2015年4月15日撮影:雨でした)

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<王朝絵巻> パート6 (下) まとめ

<王朝絵巻>パート6 (下) これまでのまとめ

(前回のつづき)

-皇后暗殺事件の影響-

明成皇后の暗殺後、
高宗はロシアの領事館に逃れて、執政します。
これからが日露戦争へと歴史が動きます。

(ウィキペディアより)
安川寿之輔や金文子は、閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布されたとし、そうした情報操作には福澤諭吉の関与があったと主張している。
この事件を期に、興宣大院君と高宗の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなったさいも略式の葬儀しか行われず、しかも高宗は父親の葬儀に参列しなかった。

福澤諭吉の「脱亜論」

金谷俊一郎『米中韓と日本の歴史』
(2014.10月、朝日新聞出版)P.59では、

「脱亜論(1885年)」について、
…日本は朝鮮や清国と絶縁して、欧米文明諸国と同じ態度で朝鮮や清国に接するべき…
(中略)。
 さらに、福沢は、日本は強大国を目指してアジアの覇権を狙うべきであると主張します。
以上の後段からあるように、現代の目から見ると非常に危険な軍事的思想を広げることになりました。
今度はロシア南下を阻止しようとする日本だけでなく、
英国および米国も日本を支持することとなります。
こうした背景があり、1904年に日露戦争が勃発。

-韓国併合へ-

日本にとっての脅威はロシアの南下ですので、
韓国の統治に乗り出します。
これからが韓国国民にとっての負の歴史です。

1905年に日本はそれまでの日英同盟の改定と共に、
米国とはタフト協定を結び、英米の承認を得て、
韓国併合で保護国化とすることになります。

当然ながら韓国の皇室は国際世論に訴えるのですが、
欧米諸国は既に無視する態度でした。
韓半島では反日の義兵運動が散発し、
1909年には韓国の独立派によって、
伊藤博文・前韓国統監の暗殺事件が起きました。
そして、
日本は1910年に英国とロシアの承認の下、
韓国併合条約を結び、植民地化します。

<王朝絵巻>パート6での歴史の流れはここまでにします
さて、<王朝絵巻>これまでのまとめ

昨年の秋からおよそ3シーズンに亘って、
朝鮮王朝518年の中期以降を中心に、
日本語の本で調べて、パート6まで書きました。
これまで調べたことから、
次に挙げる①と③はほぼ事実だと、自分なりに自信があります。

第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった。
張禧嬪(チャンヒビン:オクチョン)は、
 派閥間の政争の犠牲であった。
③日韓・韓日関係は19世紀まで良かった
 禍根を作ったのは20世紀前半の50年の間。

そして、①と②の罪のことを追記しておきます。

chan gumi

当時の王宮というのは、楕円形の敷地で、
東西と南北にそれぞれ、
ソウル地下鉄の電車の駅の数にすれば、
4~5駅くらいもあります。
この広大な空間の中で何が起きたのか?
正確な記録はありません。
でっちあげが多々あったと思います。
ただ一つ、
「朝鮮王朝実録」に記された王と王妃の記録だけが正史。
なお、側室に関した記録はほとんど残されていません。
この正史から、
海光君とその後の19代王・粛宗、21代王・英祖、
そして22代王・正祖(チョンジョ)は、
国民の味方だったと言っても過言ではないと思います。

それは、両班の既得権益である、
「免税」と「兵役免除」を見直そうとしたからです。
当時はアンタッチャブルであった身分制度の中でも、
とくに、派閥に分かれて、両班が横暴・傲慢だったので、
そこのところにメスを入れ、力を削ぎ、
国防と王権の回復に努力しました。
命を狙われる王の映画やドラマは、
詳細はフィクションだとはいえ、事実でもあった。
その最大の犠牲者が光海君であり、
彼は謀反により追放され、おくり名さえありません。

『トンイ』と『チャン・オクチョン』のドラマも
フィクションがほとんどで、事実として残るのは、
それぞれが、
「追放」と「死罪」を命じられたということだけ。
ただ一点、
「朝鮮王朝実録」には女性の記述が少ない中で、
珍しく、チャン・オクチョンは容姿端麗であったと、
容姿に関する記録が残っているそうです。

co end

明日からは『チャン オクチョン』を始めます。

『トンイ』ではチ・ジニが粛宗(スクチョン)を演じました。
今回の『チャン オクチョン』ではユ・アイン。
この二人のトンイとの関係がどのように違うのか?
興味があります。

さらに、何よりも第19代のイ・スン(粛宗)から、
『逆鱗』でのイ・サン(第22代)までのことは
<王朝絵巻>でも触れたように、
社会・経済がとても発展した時代なので、
その面での興味もあります。

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<王朝絵巻>おわり
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王朝絵巻 パート6 (上) 日清戦争の頃

<王朝絵巻>パート6(上)

ヒョンビンとハン・ジミンの『王の涙(原題:逆鱗)』と共に、
<王朝絵巻>パート6まで進めました。

114b_2015011813550769a.jpg

パートⅤまでは日清戦争に至る経緯まで触れました。
ポイントは韓半島の清国からの独立と近代化こそが、
日本にとってはロシアの南下からの防衛線だったこと。

しかし、清国への帰属意識が強かった朝鮮政府および
その外戚政治でしたので、米国および日本は苛立っていた。

純元(スヌォン)王后の家元の安東・金氏の外戚政治は、
高宗とその父親の大院君により、
王妃には閔ファミリーから迎えることで、金氏の勢力を排除。
しかし、今度は閔氏の勢力が増します。

この王妃となった(KBS)『明成皇后』を見ていると、
彼女は最初は親日派で、
日本を手本にして近代化を進めようとしますが、
いくつかの親日派と独立派が起こす事件により、
また閔氏ファミリーの意向もあり、親清派に変わります。
彼女は清国、ロシア、
そして日本とのバランス外交に力を注いだとされますが、
結局は国内の親日派と独立派からは敵視され、
また明治政府からも敵視されることから、
“暗殺”という事件に巻き込まれることになります。

今度は金谷俊一郎『米中韓と日本の歴史』
(2014.10月、朝日新聞出版)から、
王朝末期のことを紹介します。

-日清戦争と日露戦争と明成皇后-

清国はアヘン戦争などで弱体化が明らかになったために、
清国ではなくて、
日本への接近が積極的だった閔姫(明成皇后)とその一族。

他方では高宗の父親の大院君は軍と民衆の支持を得て、
1882年に日本公使館を襲撃します。
反閔姫の壬午(じんご)軍乱です。
ただし、大院君の考え方は、
「清国が満州人の国」であって「漢民族の国ではない」
との思想の人でしたので、その後、日本は大院君を支援します。

他方で閔姫とその一族が清国への依存を強める。
これはまだ残っていた義大思想と冊封制度への依存と言えましょう。
要は「寄らば大樹の陰」です。

こんな国内での事情がある中で、親日派と独立派は、
ベトナムがフランスの支配下に置かれていたので、
「ベトナムの二の舞になりかねない」と懸念し、
国内の親清国派を追放するために、
1884年に甲申(こうしん)事変をおこします。ただし、
これは清国の軍に鎮圧されます。
背後には日本政府がいたとの認識で、日清間は亀裂。

そして、1885年年に、
日清の両国は「天津条約」を結び韓半島から軍を引き上げることにします。
この条約の担当は伊藤博文と李鴻章(りこうしょう)です。

次の事件は1894年の減税要求と排日の甲午農民戦争。
これは朝鮮王朝が清国に助けを求め、天津条約に基づき、日本も出兵。
この後は清国と日本が半島に居座る形になります。
日本は親日派の大院君が擁立して親日政権を樹立させますが、
当然ながら清国は怒ります。
これが契機となって、日清戦争の勃発となります。

日清戦争の後に、この親日政権は、
閔姫(明成皇后)およびそのファミリー、派閥によって倒され、
高宗および明成皇后は親ロシアへと傾き、
親ロシア政権を樹立。
翌年の1895年、明成皇后暗殺事件となります。

meisei2.jpg
(高宗と明成皇后)
(次のサイトからお借りしました)
http://zywsky130.blog.sohu.com/61932605.html

-明成皇后暗殺事件-

次はウィキペディアからの引用です。

李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后は朝鮮王后(閔姫)とも呼ばれる。
義父興宣大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局は混乱し、乙未事変で日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された。
(中略)
閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(政治工作者)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
(中略)
息子の純宗および夫の高宗
純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。
禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。
また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。

meisei.jpg
(次のサイトからお借りしました)
http://bbs.tiexue.net/post_4437022_1.html

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『王の涙(原題:逆鱗)』追記


『王の涙(原題:逆鱗)』追記

1.サンの母、恵慶宮(へギョングン)のこと

ドラマ『イサン』をご覧になった方はご存じだと思います。
ドラマの最初はイサンが10歳時に、
父親の荘献(チャンホン)が米櫃に放り込まれて、
最後は餓死させられます。
これがサンの祖父の第21代王・英祖(ヨンジョ)の
歴史に残る唯一の汚点とされます。

しかし、英祖だけでなく、本人と周囲にも問題があり、
英祖の汚点とは言い過ぎだと思います。

聡明な英祖のDNAを受けて荘献も天才肌でした。
荘献は当時の主流の老論派を非難するような改革派。
しかし、主流派の老論派の官僚や両班から睨まれてしまい、
対抗するだけの精神的な強さがなかったからでしょうか、
ついに錯乱状況に陥ります。
天才と何とかは紙一重とも言いますが、
これが米櫃に放り込まれた直接の原因だと思います。

恵慶宮(へギョングン)が回顧録を残しています。
彼女の「恨中録」には、夫の荘献に関する記述があります。

「次第に夫は変わってしまい、
 聡明さを失って奇行ばかりを繰り返すようになった」

荘献は何人も側室を持ち、
そのうちの一人を殺害しています。

「(偉大な)父の英祖を恐れるあまり、
 錯乱を起こして数々の問題を引き起こしたことが原因」

(教育熱心な父親の期待が大きかった)

従って、10歳だったサンが泣いて
「父上を許して下さい」と叫んでも、
恵慶宮(へギョングン)は静観したのだと思います。
さらには
実母からも世子には相応しくない言われたそうです。

なお、後に英祖は我が子を悼み、
思悼世子(サドセジャ)というおくり名を贈りました。

(参考文献)
康煕奉『悪女たちの朝鮮王朝』(2014.6 双葉社)

「とにかく生きなさい」
112e_20150118134933a80.jpg
恵慶宮(へギョングン)
# 演じたのはソウルオリンピック、1988年のミスコリア。
 キム・ソンリョンでした。

次いで、サンが信じた儒教の基本精神を追記しておきます。

2.「中庸第23章」

「どんな些細なことも気を抜かずに最善を尽くすことが大事だ。
些細なことに最善を尽くせば、真心を込めるようになる。
真心を尽くせば表ににじみ出て、表ににじみ出たら表に現れ、
表に現れれば性格が明るくなり、
性格が明るくなれば人に感動を与えるようになり、
人に感動を与えれば自分自身が変わり、自分自身が変われば成長する。
だから、唯一真心を尽くす人だけがこの世の中を変 えることができる」

(其次致曲 曲能有誠 誠則形 形則著 著則明
 明則動 動則變 變則化 唯天下至誠 爲能化)

Next to the above is he who cultivates to the utmost the shoots of goodness in him.
From those he can attain to the possession of sincerity.
This sincerity becomes apparent.
From being apparent, it becomes manifest.
From being manifest, it becomes brilliant. Brilliant, it affects others.
Affecting others, they are changed by it.
Changed by it, they are transformed.
It is only he who is possessed of the most complete sincerity
that can exist under heaven, who can transform.

(Doctrine of the Mean, chapter 23) - 中庸第23章

http://japanese.korea.net/NewsFocus/Culture/view?articleId=119495#none

(この項:by APB)

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3.儒教の五常
(ウィキペディアからの引用)

儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている。

「仁」
人を思いやること。
孔子は、仁をもって最高の道徳であるとしており、日常生活から遠いものではないが、一方では容易に到達できぬものとした。
『論語』では、さまざまな説明がなされている。
ある場合は「人を愛すること」と説明し、顔回の質問に対しては、「克己復礼」すなわち「己に克ちて礼を復むを仁と為す(私心を克服して礼を重んじること。それが仁である)と答えている。
前者は外部に対する行為を指し、後者すなわち顔回に対する答えは自身の内なる修養のあり方を指している。
具体的な心構えとしては、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』顔淵篇)がよく知られている。
すなわち、「仁」とは、思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうことである。

「義」
利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
正義。
中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。

「礼」
「仁」を具体的な行動として、表したもの。
もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。
のちに、人間社会の上下関係で守るべきことを意味するようになった。
儒者のなかでも、性悪説の立場に立った荀子は特に「礼」を重視した。

「智」
道理をよく知り得ている人。
知識豊富な人。

「信」
友情に厚く、言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢の董仲舒は五行説にもとづいて「信」を加えた。

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<王朝絵巻>まとめ

<王朝絵巻>6巻まで

昨年の秋から、朝鮮王朝518年の中期以降を中心に、
日本語の本で調べて、パート6まで書きました。
先週は、

第15代王・海光君は、
 罪よりも功績が大きかった。
張禧嬪(チャンヒビン:オクチョン)は、
 派閥間の政争の犠牲であった。
③日韓・韓日関係は19世紀まで良かった
 禍根を作ったのは20世紀前半の50年の間。

と、これまで調べたことから、
①と③はほぼ事実だと、自分なりに確信があります。

また、①と②の罪のことを付記しておきます。
当時の王宮というのは、楕円形の敷地で、
東西と南北にそれぞれ、
ソウル地下鉄の電車の駅の数にすれば、
4~5駅くらいもあります。
この広大な空間の中で何が起きたのか?
正確な記録はありません。
でっちあげが多々あったと思います。
ただ一つ、
「朝鮮王朝実録」に記された王と王妃の記録だけが正史。
なお、側室に関した記録はほとんど残されていません。
この正史から、
海光君とその後の19代王・粛宗、21代王・英祖、
そして22代王・正祖(チョンジョ)は、
国民の味方だったと言っても過言ではないと思います。

それは、両班の既得権益である、
「免税」と「兵役免除」を見直そうとしたからです。
当時はアンタッチャブルであった身分制度の中でも、
とくに、派閥に分かれて、両班が横暴・傲慢だったので、
そこのところにメスを入れ、力を削ぎ、
国防と王権の回復に努力しました。
命を狙われる王の映画やドラマは、
詳細はフィクションだとはいえ、事実でもあった。
その最大の犠牲者が光海君であり、
彼は謀反により追放され、おくり名さえありません。

『トンイ』と『チャン・オクチョン』のドラマも
フィクションがほとんどで、事実として残るのは、
それぞれが、
「追放」と「死罪」を命じられたということだけ。
ただ一点、
「朝鮮王朝実録」には女性の記述が皆無の中、
珍しく、チャン・オクチョンは容姿端麗であったと、
容姿に関する記録が残っているそうです。

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# 今週はヒョンビンの『愛してる、愛してない』
 その後『チャン・オクチョン~愛に生きる~』をアップ。
 サブタイトルにあるように、
 第19代王・粛宗(スクチョン)と
 オクチョンの愛の物語ではあるものの、
 “王の女”として凛々しく、
 また“鉄の女”としてのチャン・オクチョンです。
 女の強さを、
 キム・テヒが静かに強くアピールする演技でも感動です。

 物語の3分の1ほどまではオクチョンとスクチョンの出合い。
 過去のことが多く、また官僚たちの戦いなので、
 表面を撫でるようで、そのインパクトは普通並み。
 が、3分の1を過ぎると、人間の欲望をえぐるような、
 心の奥に手を突っ込まれるセリフがたくさん出てきます。

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王朝絵巻 パート5 日清戦争まで(下)


王朝絵巻 パートⅤ ④「楽浪郡化」政策

<王朝絵巻>を調べていた際いつも思っていたのは
「どうして日中韓は仲良くなれないのだろうか?」
赤坂の韓国料理店の人たちも同じように、
これは政治・政府の問題であって、
「庶民たちは“仲良くなりたい”の気持ちは変わらない」
そう言っています。

さて、ペリーの“黒船”の時と同様な政策にて、
米国は韓国との開国交渉をするのですが、失敗。
そのために、肩代わりで列強に根回しして、
世界に先駆けて日本が朝鮮王朝を開国させるのですが、
宗主国としてこだわる清国には二面性がありました。

一つは、
清国だけでなく同じ儒教の朝鮮王朝は、
フランス人宣教師たちと多くの信徒を処刑していますので、
欧米の非難を浴びたくないから、
朝鮮王朝とは別の国扱いして欲しいこと(責任回避)。
しかし一方では、
冊封制度により朝鮮王朝を属国にしておきたいこと。
これは、「楽浪郡化」といいます。

覚えていますか?
2009年のSBSドラマ『自鳴鼓(チャミョンゴ)』は
ホドン王子(第3代ムヒュルの子)の高句麗が、
中国の直轄地・楽浪郡を滅ぼすストーリーでした。
つまり、
李鴻章は韓半島を楽浪郡のように直轄して、
いわば「(韓半島に)外様大名」を置いておきたいとの意図でした。

しかしながら、宣教師処刑の犯罪経験から、
フランスからの介入・侵攻を恐れ、しかも、
明治政府がイギリス、ロシア、米国のバックアップを得ていたので、
朝鮮王朝の開国を認めたのでした。
開国の後は貿易を進めるための通商条約へと進展します。

もちろん、親清派の閔氏一族は従いました。

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日本に続きアメリカ、
その後に欧州の国が修好通商条約を結びます。
もとより江戸時代は、
明とは琉球、オランダとは長崎の出島、
朝鮮とは対馬藩だけが貿易を任されており、
対馬藩との貿易専用に
釜山には草梁倭館(朝鮮の出島)がありました。
当時の貿易品目は、次のようなものです。
朝鮮からは牛皮、フカヒレ、スケトウダラなどの食品、
朝鮮人参や熊胆などの漢方薬が輸出され、
日本からは銅、絹織物、紅花(染色剤)などが輸出されていました。

現在でも開発途上国との間では、
日本からは付加価値の高い工業製品、
プラントなどの資本財が多く輸出され、
日本は原材料やエネルギー資源を輸入するという
「垂直貿易」。
他方で先進国間では相互に
自動車やエレクトロニクス製品のような
付加価値の高い製品の取引のいわゆる
「水平貿易」のパターンです。
近年は例えば「サムスン」の
エレクトロニクスが日本に輸入されるようになっています。

少し時代を遡ると、
この朝鮮半島の開国を巡る明治政府内の出来事が
西郷隆盛の「西南戦争」となりました。
明治維新の志士たちが作った明治政府なのですが、
穏健派と強硬派に分かれ、
いわゆる力でこじ開けようとするのが西郷の「征韓論」でした。
しかし、これは木戸孝允が抑えます。
もとより木戸は政府内の関心を海外に向けて、
政府内あるいは国民の意識をまとめようとする、
古今東西の政治戦略でした。 でも穏健派。

されど、当の朝鮮王朝には何の改革の動きもでません。
海外からの新しい文化、技術を導入する政策は、
清国が好まなかったからです。
あくまでも冊封制度で朝鮮王朝の開化を好まず、
清国の属国であって欲しいからです。
皇帝から外交を任されていたのは李鴻章です。

(『明成皇后』)
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王朝絵巻 パートⅤ ⑤「下関条約」

18世紀末、フランスでは既に市民革命(フランス革命)が起きたのですが、
それから100年も経った後の
日清戦争(1894年)と下関講和条約(1895年)です。
その間に日本では明治維新がありました。

にもかかわらず、清国と朝鮮はまだまだ王政です。
開国はしたものの、内部改革が進まない朝鮮と清国。
また、「冊封制度」の二つの国に、アメリカも日本もあきれ果てます。
日米は、半島に対して徐々に諦めムードだったようです。

本来ならば市民たちの啓蒙化が進み、
抑圧された非支配層が両班に立ち向かうはずなのですが、
これが果たせなかったのは、
教育制度や情報制度が遅れたままで、
さらには清国と朝鮮王朝によって、
市民は極端にコントロールされていたものと考えられます。
貴族や両班たちの私利私欲のためだと思います。

ただし、明治政府は動きます。
また、ロシアの領土野心に対抗できるのは“日本だ”
と考えたのが大英帝国とアメリカです。
このイギリスとアメリカの理解をバックに、
日本は、高宗に“冊封制度”の廃止を認めさせます。
ただし、こうなると清国との戦争は避けられません。

こうして起きたのが1894年の「日清戦争」
戦勝国の日本が清国に求めた「下関条約」では、
第1条が
朝鮮と清国との「冊封制度」を廃止することでした


5回に分けて書いたパートⅤでしたが、
少なくとも
19世紀後半の日韓関係は良好で、
開化に向けて前向きだったと思います。
しかし、
清国の圧力で朝鮮王朝の改革は進みませんでした。

ドラマ『明成皇后』より
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パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」では、
最初に明成皇后と、彼女の暗殺の模様に触れました。
KBSのドラマ『明成皇后(ミョンソンファンフ)』では、
背後に明治政府がいたことになっています。
ただし、当時の日本軍は完全に統率が取れており、
王朝の軍の教育と近代化に務めます。
事件への軍の関与はありません。
むしろ、
朝鮮王朝の総理大臣を含む開化派が共謀しています。
明治政府から見た明成皇后は「親清派かつ親ロシア派」。
目の上のたんこぶの存在だったようです。

高宗は王妃の国葬を行うに際して、
ロシア公館に逃げ込んで、そこから政策を出します。
しかし、この政策は朝鮮半島の改革ではなく、
むしろ、旧制度を保守しようとするものでした。
これは、
日露戦争の原因にもなります。
ドラマは高宗と明成皇后を美化しすぎていると思います。
内政で日本が半島に求めていたのは、
王朝と政治の分離、科挙制度の廃止、
身分・家族制度の改革、税制の改革なのです。

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(ドラマ『明成皇后』の高祖)

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王朝絵巻 パート5 日清戦争まで(上)


王朝絵巻 パートⅤ ①19世紀末の勢道政治

大学受験で選択したのは「日本史」でした。
当時の教科書では
1894年の日清戦争の勝利国の日本のことで、
戦後の下関講和条約では日本が清国の遼東半島を得て、
多額の賠償金をも得たことに焦点があり、
そして、その後の列強の三国干渉でした。
しかし、
今回歴史の本を読んでを振り返ってみると、
下関条約の第1条にあるように、日本は、
半島の独立と近代化を求めていたことが分かりました。
清国と朝鮮王朝の「冊封制度」を廃止することです。

朝鮮王朝500年の歴史の
終りの19世紀は停滞・衰退の時代でした。
衰退という意味は、政治の腐敗もありますが、
欧米や日本の近代化に比べて、
一般市民の生活に物質的な豊かさがなかったからです。

他方の欧米やロシアの列強は国の経済を富ませ、
すでに極東での貿易の利権を争っていました。
今度は、この19世紀後半の様子を
米国の外交官からの視点で書いた
渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』
(2014年12月、草思社)
で紹介します。

まずは、
朝鮮王朝内の当時の時代背景を振り返ると、
第22代王・正祖(イサン)の子が、
第23代王・純祖で、その王妃が純元王后。
彼女が実家の安東・金氏の後ろ盾にて
亡くなる1857年までの55年間、
女帝と外戚が影から操る勢道(せど)政治。
この院政を行ったことは先に書きました。

純元(スヌォン)王后が亡くなっても、
若い第24代王・憲宗、第25代王・哲宗を盾にして、
安東・金氏の勢道政治は続きます。
しかし、登場するのが王族の李是応(イハウン)。
彼は哲宗の後継に自分の息子を就けます。
1863年、第26代王・高宗は11歳で就任。
父の李是応は大院君(フンソン テウォングン)就任。
王の父親のことは大院君と呼びます。

大院君は、同じ儒教の漢民族の明国を中華、
朝鮮は小中華の兄弟関係と考えていましたので、
満州族の清国を嫌っていました。
また、
儒教思想とは反する平等主義のキリスト教を迫害します。
1866年のこと、
フランス人宣教師9人と1万人もの教徒を処刑しました。
他方、国内では安東金氏の勢力を削ぎつつも、
関係は上手く利用していたようです。

しかし、高宗が22歳の時、
王妃と実家の閔(ミン)氏が大院君の追放に成功し、
今度は閔一族に政権は握られることになります。
実家の意を反映して閔妃・明成王后は親清派で、
さらに、開国・近代化には一役をなしていると考えられます。

1876年(明治9年)、朝鮮王朝と明治政府は
「日韓修好条規(江華島条約)」を締結し、
世界に先駆けて王朝は日本との開国を成しました。

なお、宮脇淳子『韓流時代劇と朝鮮史の真実』
(2013年、扶桑社)
も参考にしています。

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(ドラマ『明成皇后』より)

王朝絵巻 パートⅤ ②冊封(さくほう)の国

いわゆる“寄らば大樹の影”の「事大主義」と、
明国への貢物を欠かさない「冊封」が映画『光海』でも問題となります。

冊封体制をウィキペディアで検索すると、
その意味は、
「周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。 職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。 これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる」

そして、
冊封体制の終焉は
「大きく広がった冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。
清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった

帝国主義の時代に入りました。
たとえば大英帝国は、開発途上のアフリカや
アジアの国々を植民地として配下に置きました。
フランス、ドイツ、オランダも同じです。
さらにロシアは西や東へと領土的な野心がありました。
ただし、19世紀前半は
日本も含め各国とも仲良しだったと思います。

日本では1854年に“ペリーの黒船”で和親条約が締結され、
日本は開国し、さらに1858年には日米修好通商条約締結。
また、ロシアのアレキサンドル2世は、
アラスカをアメリカに割譲するだけでなく、
日本との関係も良好でした。
その際の明治政府は欧米の制度、文化、技術の導入には
100%前向きでした。

そうした中でも停滞する清国・朝鮮王朝でしたから、
日本との格差は政治や(民主的な)制度だけでなく、
経済力での格差が大きく拡大しました。

また清国(満州族)と朝鮮(儒教)の2つの国は、
1858年~1866年にかけて、
宣教師やキリスト教徒を処刑しています。
ローマ法王の命によりキリスト教の布教を担っていた、
極東担当のフランスとはこれで当然ながら対立。
欧米列強やロシアが付け入る余地もありました。

こうした中で、明治政府は米国との連携をとりながら、
朝鮮王朝の開国のために、
森有礼(ありのり)に役目を与えます。
彼はイギリス、フランス、ロシアだけでなく、
フランスを恐れる清国に根回しをします。
そして、森有礼(政府代表)と李鴻章(清国代表)との会談など、
清国と欧州の国々を説得に成功し、
1876年には清国の冊封国であった朝鮮と、
「日朝修好条規」の締結に至ります。
アメリカと日本の意図は半島に近代的な国を作り、
大陸(とくにロシア)からの侵攻の盾にしたかったからです。

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(ドラマ『明成皇后』より; 徳寿宮)

王朝絵巻 パートⅤ ③「尊王開国論」

1882年、壬午(じんご)事変が起きます。
高祖の父の興宣(フンソン)大院君(テウォングン)は、
満州民族の清国を嫌っていたので、
閔氏一族の親清政策を歯がゆく思っていました。
名誉挽回のクーデターが壬午(じんご)事変です。
しかし、
これはあっけなく清の軍隊により鎮圧されます。
この際の現場の指揮は袁世凱(えんせいがい)です。

こうして高祖の父親たちの勢力が消えて、
王朝内の勢力は清に頼る事大派(閔氏一族)と
開化・(半島)独立派が残ります。
しかし、何が起きてもいっこうに制度改革がなされない朝鮮王朝。
そんな中で開化派の若手の官僚たちが立ち上がります。

内部からの改革を求めたのはアメリカと日本。
国境を接するロシアと大英帝国には領土的野心がありました。
地政学的にも重要な韓半島(ハンバンド)なので、
ロシアやイギリスからの“盾”となるようにと、
独立した近代国家を求めたのはアメリカと日本でした。

修好条約により、
朝鮮王朝からの留学生を受入れたのは明治政府。
井上馨たちは積極的に日本での若手の研修を進めました。
中にいたのが、金玉均(キムオッキュン)です。

1884年に金玉均はクーデターを起こします。
高宗に発表させた改革の内容は14か条で、
・両班貴族の専制の廃止
・宦官制度の廃止
・門閥の廃止と人材登用
・警察制度の改革
・財政の安定化
などの国内改革に加えて、
・清国への朝貢儀礼の廃止
という冊封制度の廃止などでした。

# どれも近代国家としての重要なポイントだと思います。

しかし、閔氏一族は黙ってはいませんでした。
いつものように清国に助けを求め、
この「甲申(こうしん)事変」は血で血を洗う結果となります。

1週間もしないうちに、
改革に参加した若者たちは清国軍に処刑され、
一部は日本に亡命することになります。
金玉均は日本での亡命生活を余儀なくされました。

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(当時のソウル公館の三浦と岡本役の二人。
 二人が伊藤博文の政策を実行します。
 ドラマ『明成皇后』より)

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王朝絵巻 おわりに

王朝絵巻 おわりに

昨年の11月、
宮殿を巡った際の「宗廟」と「景福宮」のチケットです。

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それに、次は「宗廟」のパンフレット。

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ここは
歴代の王の魂が
祭られている廟。

ただし、
第10代王
燕山君と、


第15代王光海君は(二人が廃位されたからだと思いますが)、
祭られていません。
パンフレットにも記述がありません。

映画「光海(邦題:王になった男)」よりのカット。
この絵は、徳寿宮の正殿・中和殿、または
昌徳宮の正殿・仁政殿だと思います。
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「王朝絵巻」を終えるに当たり、気になる2人。
第15代王・光海君と、
粛宗の側室の張禧嬪(チャン ヒビン)のことです。

1.先ずは張禧嬪(チャン ヒビン)。 

彼女は「朝鮮王朝実録」でも、
唯一人容姿が褒められているとのこと。
<康 ① p.170>

朝鮮王朝実録」はネットでも日本語で読めるのですが、
たとえば小学生の日記のように、実に退屈。
王が、
“ある日あの時何を食べた”とかの、
主観性がない実録だからです。
しかし、王が大奥を訪問した日付や、
大長今(チャングム)がどういう治療をしたとかの、
歴史家にとっては最も貴重な実録。
だからなのでしょうか? わずかな文章から、
とても大きなドラマが発想できたと思います。

ただし、事実はあっても真実はない。そんな気がします。
第19代王・粛宗が張禧嬪に出会ったのは王が19歳で、
ヒビンが21歳の時でした。

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チャンノクスとチョンナンジョンは賤民の出身でした。
しかし、
取り上げた噂の悪女ヒビンの出身は違います。
張禧嬪の父親は通訳でしたので中人(チュンイン)の出。
幼い時からの教育もあったと思われます。

問題は粛宗の正室に嫡子が生まれなかったこと。
側室の淑嬪・崔氏と禧嬪・張氏は、
ただ宮廷内の派閥抗争の渦に巻き込まれた、
悲劇の側室2人だったと思われます。
現に粛宗は両成敗で、ヒビンを自害に追い込み、
トンイのことを宮廷から追放しています。

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2.次いで、光海君(クァンへグン)のこと

彼は、明国から認められてはいません
(当時は同盟関係の冊封制度でした)。
また、第10代王・燕山君(ヨンサングン)と同じく、
クーデターで宮廷から追放されたので、二人には、
おくり名はなく王子の時の名前と同じです。

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(映画『光海(邦題: 王になった男)』より 
 : 主演 イ・ビョンホン)

燕山君はまったく評価できませんでした。
しかし、光海君は違います。
ドラマ『亀巌ホジュン』にあるように、
壬辰倭乱では、父の宣祖が北方の義州まで逃避する際に、
平壌城で陣頭指揮を執って国を死守しようとし、
果たせずとも庶民を先に避難させるなど、
市民のことを考えた王だったと思います。
また、乱で焼失した王宮の復旧に尽力しました。
徳寿宮で即位するとともに、
昌徳宮の復旧作業を開始しています。
さらには中国外交を巧みにこなしたという、
歴史的な実績があり、それぞれを評価すべきだと思います。

ちなみに、映画『王になった男』の最後の字幕。
 “(第15代王)光海(君)は、
 土地を持つものだけに課税し、
 明国と対峙した唯一の朝鮮の王である


ではなぜ?
やはり、
『キム尚宮』をコントロールできなかったことが
汚点であり、
また、当時の西人派の勢力に対抗して、
北人派のユ夫人を正室にしていたことなど、
派閥争いでの結果のクーデターでしょう。
(この光海君については、
 再度第128話~129話あたりで説明を加えます)

すべてが王の取り巻きの官僚たちの戦術。
朝鮮王朝の病巣だと言われている、王の取り巻きの、
官僚たちの派閥争いに原因があると思われます。

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(ドラマ『根の深い木』より; 背景は景福宮の香遠亭)

この4ヶ月ほど朝鮮王朝の歴史を駆け抜けました。
直感的な感想ですが、王も王妃も犠牲者なのか?
でも、犠牲にならないためには、
その権限をフルに活用できる英知が足りなかったような気もします。
あまりにも若くて即位して、社会生活を知らず、
庶民の苦しみが分からないままに、老獪な官僚たちに操られる。

hakkyu.jpg
(ドラマ『根の深い木』より第4代王・世宗
 : 主演 ハン・ソッキュ)

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男尊女卑の社会であったとはいえ、
男たちの非力さ、さらにはマザコンでしょうか?
実の母、継母への遠慮が強く、
影響を断つことができなかったと思われます。
しかし、
どうもこれは過去の時代だけでなく、
現代の政治や社会でも、さらには
身近な現代の会社内での出来事においても、
同じことが言えるような気がしてなりません。

新年も「義」(私利私欲にとらわれない)と
「仁」(慈しむ心)を大切にしたいと思います。

なお、現在は第26代王・高宗の頃の
「日清戦争」の歴史的背景を調べています。
今年の春には、
映画『光海(クァンへ:邦題「王になった男」)』と共に、
何度かに分けて紹介したいと思っています。

(映画では最初のシーンに雪の宗廟が写されます)
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先の純元・王后につづく時代のこと。
少しだけ先に紹介しますと、
次の本はアメリカの外交官の目を通した王朝史です。

渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』
2014年12月(草思社)

サブタイトルが、「アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか」

p217の記述を先に引用しておきます。
「アメリカは朝鮮に失望した。米朝修好通商条約では、清国の横槍がありながらも、朝鮮は独立国であるとの主張を貫いた。
(中略)日本をお手本にして、近代化を目指した開化派に期待したが、清国の介入でクーデターは失敗し、朝鮮の将来を担うであろう前途ある若者は虐殺されるか、日本に亡命した」

また、
当時の第26代王・高宗と明成王后については、
王后の一族(閔氏)の外戚政治と、
一族の事大主義(清国への忠誠)により、
朝鮮王朝が清国の属国支配を受けることには
対抗できなかったことが書かれています。
高宗にはリーダーシップが欠如、
王妃は近代化とは無縁だったとの記述もあります。

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王朝絵巻 パート3 建国200年目の危機(2)


# ドラマ『亀巌ホジュン』は14年前の、
 『ホジュン~宮廷医官への道』(1999年MBC)とは、
 作風に違いがあります。
 1999年の「ホジュン」は最高視聴率が60%を超えて、
 史劇では現在でもこの視聴率記録は破られていません。
 監督はあの巨匠イ・ビョンフンなのですが、
 当時の助監督はキム・グンホン。

 キム・グンホン現監督は巨匠の下で、
 『大長今(チャングムの誓い)』『朱蒙(チュモン)』を手がけ、
kim gunfun

 1999年に
 助監督として出会ったのが
 チェ・ワンギュ作家。

 そして監督として、今回彼が
 2013年に指揮を執ったのが、
 新しい『亀巌ホジュン』です。

 このドラマ「ホジュン」は、
 キム監督とチェ作家により
 近年の歴史考察に基づき、
 新たな解釈を加味した、
 新作ドラマだと思います。

 第15代王・光海君の描写がそれです。

王朝絵巻 パート3「建国200年目の危機」
その4「焼失した景福宮」


日本では文禄の役と呼ばれ、
韓国では壬辰倭乱(イムジンウェラン)。
豊臣秀吉軍の侵攻の際に焼失するのが景福宮です。

現在の景福宮のガイド・パンフレットp.1によれば、
panfret.jpg

①『宣祖修正実録』

「王室と
 臣下たちが
 避難のために
 ソウルを発つと
 怒りをおぼえた
 民衆によって…」

②『宣祖実録』

「日本軍の…
 “この時、王宮が燃えた“」とあり、

また、当時の日本人、尾崎の
③『挑戦征伐記』で
「美しい宮殿」の記述があることから、
実際に焼失する前に日本軍(豊臣秀吉軍)が来た。

つまり、景福宮の焼失事件の犯人は、
秀吉軍なのか暴徒なのか? と二説に分かれています。

ドラマ『ホジュン』では
チェ・ワンギュ作家が「暴徒説」を採っており、
日本軍が侵攻する前に、
北へと逃げ出した宣祖を恨んだ民衆のことが描かれます。
他方、王の国外(明)脱出に反対し、
自ら平壌城を死守した光海君(後の第15代王)が
勇敢かつ民を慈しむ王子であったことを描いています。

panf2.jpg

これまで4年半ほど、
KJSではラブコメやアクション、
それに業界ものをアップしてきました。が、
この3ヶ月ほどは『ホジュン』の
10数年前と今回の『亀巌ホジュン』の2作により、
(チェ・ワンギュ作家の視点で)
朝鮮王朝を視聴しながら考えています。

また、
末筆になり作家にはご容赦願いたいのですが、
パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」
パート3 「建国200年目の危機」は、
次の5冊から多々引用しています。

・康 煕奉『朝鮮王朝の歴史と人物』2011年7月
・同『古代韓国の歴史と英雄』2011年10月
・同『朝鮮王宮 王妃たちの運命』2011年12月
 (以上、実業之日本社)
・同『ここまで知りたい!朝鮮王朝』2013年6月
 (収穫社)
・同『悪女たちの朝鮮王朝』2014年6月
 (双葉社)

康 煕奉氏の事実の説明と考察に納得させられています。

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王朝絵巻 パート3 建国200年目の危機(1)


# 壬辰倭乱(イムジンウェラン)を調べているうちに、
 当時の光海君(第15代王)の活躍に惹かれています。

 1592年のことなので、歴史の解釈は様々で、
 どれが真実なのかを追求するつもりはないのですが、
 『亀巌ホジュン』での、
 キム・グンホン監督とチェ・ワンギュ作家の
 民主主義的な発想の描写が好きです。

王朝絵巻 パート3「建国200年目の危機」
その1 壬辰倭乱(イムジンウェラン)


李氏・朝鮮は518年におよび、最後の3年間は、
国号が「大韓帝国」に変わっています。
日本では室町時代から明治時代に亘ります。
これまでパート2で女性たちの韓半島を紹介しましたが、
それは
第10代王・燕山王の頃の建国100年以降からでした。
それ以前は国の基礎固めの15世紀だと思います。
第4代王の世宗により、
ハングル文字が公布されたのは1446年です。
そして、ドラマ『トンイ』『イサン』の頃など、
その後の300年、16~18世紀を中興の時代だとすれば、
19世紀は衰退の100年だったと思います。
その中心に位置したのが王の外戚による「勢道政治」で、
列強が覇権をめぐり世界が揺れていたにも拘らず、
鎖国を続けていました。

さて遡って、
建国の1392年からちょうど200年目に危機が訪れます。
日本では豊臣秀吉が天下人となり、
大陸(中国・明)での覇権を求めて、
先ずは朝鮮半島に出兵したからです(「文禄の役」)。

当時の第14代王・宣祖は日本にも使者を送るのですが、
その使者たちも派閥抗争の中で、意見が分かれました。
宣祖は日本(倭国)が攻めてくるとは判断せず、
まったく準備を怠っていたようです。
『ホジュン』では第110話からですが、
鉄砲を持った倭軍に弓矢と刀で対抗するシーンがあります。
そして、
釜山から北上する倭国軍を押し返すことができずに、
国王は北へと非難し、中国との国境の義州まで逃げます。

韓国では壬辰倭乱と呼び、この乱は7年間も続きます。

その1 壬辰倭乱(イムジンウェラン) ②

壬辰倭乱の始まりは1592年の春。
小西行長が兵力1万8千人でまず釜山を落城させ、
その後は加藤清正、鍋島直茂らと合流して漢陽を囲み、
漢陽の都は豊臣軍の手に落ちます。

豊臣秀吉は半島を8つに国割して
8名の武将に統治させようとします。
この際に宣祖と恭嬪の長男・臨海君(イムへグン)が
加藤清正の捕虜となります。
国王は北に逃げ、王子が逮捕されるという、
国民にとっては大きな屈辱です。

ドラマ『ホジュン』では、この時に、
恭嬪の次男・光海君(クァンへグン)が活躍。
平壌城では陣頭指揮を執ります。

乱を収めることができたのは、
中国・明からの参戦によるところが大きいのですが、
朝鮮水軍を指揮した将軍、
李舜臣(イスンシン)の働きも大きかったようです。

現在、
景福宮の正門である南の光化門前の大広場には、
ハングルの祖の第4代王・世宗とともに、
李舜臣の像がそびえています。

sejon.jpg
(ハングルを公布した第4代王・世宗)

segion.jpg
(ハングルを守ったソイ: ドラマ『根の深い木』より)

(夏の光化門前の大広場)
hikarino hiroba

その2 「不滅の李舜臣(イスンシン)」

ドラマ『不滅の李舜臣』にあるように、
彼は鉄鋼で保護された「亀甲船」を制作。
無数の針のように矛を付けた鉄板で船上を覆い、
船の前後左右には強力な大砲を並べたものです。

kikou2.jpg
(真ん中の船です)

これで連戦連勝し、制海権を奪回するとともに、
豊臣軍の補給路を断ちます。

壬辰倭乱は7年続くのですが、
1597年には豊臣軍14万の第2次出兵を行います。
(日本では慶長の役と呼ばれる)
その際には既に中国・明からの出兵も万端で、
さらには、
全国からの義勇兵も加わって豊臣軍を撃退します。

最後の戦いがドラマでも描かれます。
これは2年後のことで、
海戦にも慣れていた李舜臣の水軍が、
釜山から敗走する倭国の船を壊滅させます。
ただし、この際に鉄砲玉に当たり、
李舜臣は息を引き取ります。

sunsin1.jpg
(『不滅の李舜臣』最終話より)

今、韓国で放送中のKBSのドラマ『王の顔』にて、
光海君が王になるまでのドラマが展開されています。

主演はソ・イングクです。
inguku.jpg

(パート3「建国200年目の危機」は明夕に続きます

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