王朝「クーデター」考(下)権力欲
『大君』より「背徳のクーデター(2)」
首陽大君の蜂起(癸酉靖難:ケユジョンナン)から、王位の奪取までのシナリオは配下の韓明澮(ハン・ミョンフェ)と権擥(クォン・ラム)などが作ったとされます。
そして、王位に就くに当たっては、
(ウィキペディアでは)この策士(友人同士)の他に、譲寧大君が後押し。
「譲寧大君(世宗の実兄)や権擥、韓明澮らの後押し」とあります。
ちなみに、権擥は官僚だったのですが、韓明澮は科挙試験には合格していません。
ただし、二人とも名家の出身の両班です。
また、これまで書いていない点がありますが、これは首陽大君の大陸訪問です。
1.冊封の国
1452年9月に、第6代王・端宗を承認するための「誥命冊印」が届きます。
これは、冊封制度を敷く「明」からの王位承認の書面と金印のこと。
これに対して王朝は、返礼として「謝恩使(サウンサ)」を出すことしますが、
この際に首陽大君は、自分が明に行くと意地を張ったようです。
クーデターの準備中なので首陽大君の部下たちは反対したそうですが、強行しました。
「こうしたことから考えると、首陽の中国行きは多分に意図的な行動だったと見なさざるを得ない。
まさに金宗瑞たちの目の届かないところで、より自由に計画を練り上げる一方、彼らの警戒を緩める効果をも狙ったものだ」
(朴永圭、p.129)
1453年のクーデター計画の前には「明」に対して、自分の存在をアピールすること、さらには王座を奪取した後には、明からの冊封(承認)を得る必要があったためだと推測できます。
そうしておいて、明からの帰国後はさらなる私兵の訓練、また多くの武官たちを味方に付けるなど、軍備を進めます。
つまり、用意周到な蜂起だったと思います。
首陽大君が即位した2年後の1457年9月のこと。
慶尚北道に流されていた錦城大君がさらに、端宗(魯山君:ノサングン)復位を計画しますが発覚。
錦城大君は処刑され、魯山君は一般人に落とされた後、賜薬されます。
「首陽と彼の周囲が王権を欲張ったあまり犯した、背徳的な謀叛(むほん)と見るのが正しい評価であろう」
朴永圭(パク・ヨンギュ)『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社、2012.03, p.121
2.世祖の即位後のこと
背徳的なクーデターの後、10数年の独裁を行う首陽大君なのですが、晩年は悪夢に悩まされ、皮膚病が悪化したとのこと。
51歳(1468年)で亡くなります。
首陽が悩まされた悪夢とは、圧力で奪い取り、廃位させた端宗(→魯山君)のことで、
その母の顕徳王后・権氏(第5代王・文宗の妻)が夢に出て来ること。
彼女の怨念だとの噂も広がったようです。
(顕徳王后・権氏)
そこで登場する大王大妃が貞薫(チョンヒ)王后・尹(ユン)氏。
(# ドラマのナギョムのこと)
しかし、彼女には別の不幸がありました。
長男の懿敬(ウィギョン)世子を11年前に、彼が19歳の時に(1457年)失くしています。
そこで、
次男の海陽大君(18歳)が第8代王・睿宗(ヨンジョン)となるのですが、睿宗はその翌年に亡くなります。
まるで祟(たた)りだとの有名な逸話になりました。
(貞薫王后・尹氏)
しかし、気丈だったのでしょうか、彼女はそこでまた大胆な決断をしました。
睿宗の息子(斉安大君)がまだ3歳だったので、先に夭折した懿敬の息子の二人の中から、
次男の者山(チャサン)大君(後の成宗)(12歳)を選びました。
長男に月山(ウォルサン)大君(15歳)がいたにもかかわらず、
次男を選んだわけは?
まず、
(1)癸酉靖難での功労者の韓明澮の娘が者山大君の妻であったこと。
つまり、財力と権力を持っていた韓氏のバックアップを得て、
(2)彼女の権力欲を満たしたこと。
それぞれの王位は後に次のように継がれました。
<首陽大君:第7代王・世祖(セジョ)51歳で死去>
(同年、貞薫王后も51歳)
・懿敬大君(世子:19歳で夭折)
<第8代王・睿宗(ヨンジョン)>(19歳で夭折)
(息子の斉安大君は3歳)
そこで、者山大君が即位。
・・懿敬の長男=月山(ウォルサン)大君(15歳)
・・懿敬の次男=者山(チャサン)大君(12歳)
<第9代王・成宗(ソンジョン)>
ドラマの大王大妃(沈氏)は、王(端宗)が成人するまでの間ということで、摂政(ソジョン)の座に就きました。
簾の奥で政策論議をするので垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼ばれるこの制度。
実際の王朝では、この最初の女性は首陽大君の妻の貞薫王后・尹氏です。
(垂簾聴政:執務室や議会では簾で顔を隠し、臣下の意見を聞いて政策への指示をだすこと)
(第6代王・端宗:後の魯山君)
3.クーデターの反省からなのでしょうか?
貞薫王后・尹氏による摂政政治は7年間続きましたが、王が成人すると退きます。
この第9代王・成宗(ソンジョン)の時代に「経国大典」(경국대전:キョングクテジョン)が完成して一応の法整備が終わります。
その法典の中では“王族は品階を持たないこと”が明記されます。
これにて、例えばこれまでのように大君が国防大臣を兼職するようなことが廃されるので、「背徳のクーデター」(兄弟間の争い)への反省のひとつだと考えられます。
さらに、成人した成宗は排除されていた官僚たち(士林派など)を上手く再雇用して、既得権益を持つ官僚たちとのバランスを保とうとしました。
これは、派閥の独占に対する反省の一つだと思います。
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英単語に“narrative”があります。
辞書では単に「物語、話術」なのですが、ナレーションと同様に話法でもあります。
第7代王・世祖(セジョ)は「禅譲」にて王位を継いだとするのですが、自分の権力欲を隠すための話法に過ぎないと思います。
ウクライナ戦争ではプーチン・ロシア政権と軍部が見え見えの“narrative”を使っています。
ウクライナに愛を💙💛
さて、これまで王朝末期のドラマ『ミスターサンシャイン』から<朝鮮王朝>の歴史を遡って来ました。
明日からは初代王・太祖から第4代王・世宗までの『六龍が飛ぶ』を再度アップします。
王朝「クーデター」考の最初に書きましたように、「反正」は、おそらく正(義)に対する反逆というのが本来の意味だと考えています。
しかし、中でも国政の過ちを正すという意味で意義が一番大きかったのは◎のとおりで、疑問符なのは×だと思います。
◎初代王・太祖は、腐敗した高麗貴族の政治を正して<朝鮮王朝>を興した。
(ドラマ『六龍が飛ぶ』参照)
×第7代王・世祖は背徳のクーデターを行った。
(ドラマ『大君』参照)
〇第11代王・中宗は第10代王・燕山君(暴君)を廃位させた。
(ドラマ『逆賊』参照)
×第16代王・仁祖は国際情勢を見誤り第15代王・光海君を廃位した。
(ドラマ『華政』参照)
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首陽大君の蜂起(癸酉靖難:ケユジョンナン)から、王位の奪取までのシナリオは配下の韓明澮(ハン・ミョンフェ)と権擥(クォン・ラム)などが作ったとされます。
そして、王位に就くに当たっては、
(ウィキペディアでは)この策士(友人同士)の他に、譲寧大君が後押し。
「譲寧大君(世宗の実兄)や権擥、韓明澮らの後押し」とあります。
ちなみに、権擥は官僚だったのですが、韓明澮は科挙試験には合格していません。
ただし、二人とも名家の出身の両班です。
また、これまで書いていない点がありますが、これは首陽大君の大陸訪問です。
1.冊封の国
1452年9月に、第6代王・端宗を承認するための「誥命冊印」が届きます。
これは、冊封制度を敷く「明」からの王位承認の書面と金印のこと。
これに対して王朝は、返礼として「謝恩使(サウンサ)」を出すことしますが、
この際に首陽大君は、自分が明に行くと意地を張ったようです。
クーデターの準備中なので首陽大君の部下たちは反対したそうですが、強行しました。
「こうしたことから考えると、首陽の中国行きは多分に意図的な行動だったと見なさざるを得ない。
まさに金宗瑞たちの目の届かないところで、より自由に計画を練り上げる一方、彼らの警戒を緩める効果をも狙ったものだ」
(朴永圭、p.129)
1453年のクーデター計画の前には「明」に対して、自分の存在をアピールすること、さらには王座を奪取した後には、明からの冊封(承認)を得る必要があったためだと推測できます。
そうしておいて、明からの帰国後はさらなる私兵の訓練、また多くの武官たちを味方に付けるなど、軍備を進めます。
つまり、用意周到な蜂起だったと思います。
首陽大君が即位した2年後の1457年9月のこと。
慶尚北道に流されていた錦城大君がさらに、端宗(魯山君:ノサングン)復位を計画しますが発覚。
錦城大君は処刑され、魯山君は一般人に落とされた後、賜薬されます。
「首陽と彼の周囲が王権を欲張ったあまり犯した、背徳的な謀叛(むほん)と見るのが正しい評価であろう」
朴永圭(パク・ヨンギュ)『朝鮮王朝実録(改訂版)』キネマ旬報社、2012.03, p.121
2.世祖の即位後のこと
背徳的なクーデターの後、10数年の独裁を行う首陽大君なのですが、晩年は悪夢に悩まされ、皮膚病が悪化したとのこと。
51歳(1468年)で亡くなります。
首陽が悩まされた悪夢とは、圧力で奪い取り、廃位させた端宗(→魯山君)のことで、
その母の顕徳王后・権氏(第5代王・文宗の妻)が夢に出て来ること。
彼女の怨念だとの噂も広がったようです。
(顕徳王后・権氏)
そこで登場する大王大妃が貞薫(チョンヒ)王后・尹(ユン)氏。
(# ドラマのナギョムのこと)
しかし、彼女には別の不幸がありました。
長男の懿敬(ウィギョン)世子を11年前に、彼が19歳の時に(1457年)失くしています。
そこで、
次男の海陽大君(18歳)が第8代王・睿宗(ヨンジョン)となるのですが、睿宗はその翌年に亡くなります。
まるで祟(たた)りだとの有名な逸話になりました。
(貞薫王后・尹氏)
しかし、気丈だったのでしょうか、彼女はそこでまた大胆な決断をしました。
睿宗の息子(斉安大君)がまだ3歳だったので、先に夭折した懿敬の息子の二人の中から、
次男の者山(チャサン)大君(後の成宗)(12歳)を選びました。
長男に月山(ウォルサン)大君(15歳)がいたにもかかわらず、
次男を選んだわけは?
まず、
(1)癸酉靖難での功労者の韓明澮の娘が者山大君の妻であったこと。
つまり、財力と権力を持っていた韓氏のバックアップを得て、
(2)彼女の権力欲を満たしたこと。
それぞれの王位は後に次のように継がれました。
<首陽大君:第7代王・世祖(セジョ)51歳で死去>
(同年、貞薫王后も51歳)
・懿敬大君(世子:19歳で夭折)
<第8代王・睿宗(ヨンジョン)>(19歳で夭折)
(息子の斉安大君は3歳)
そこで、者山大君が即位。
・・懿敬の長男=月山(ウォルサン)大君(15歳)
・・懿敬の次男=者山(チャサン)大君(12歳)
<第9代王・成宗(ソンジョン)>
ドラマの大王大妃(沈氏)は、王(端宗)が成人するまでの間ということで、摂政(ソジョン)の座に就きました。
簾の奥で政策論議をするので垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼ばれるこの制度。
実際の王朝では、この最初の女性は首陽大君の妻の貞薫王后・尹氏です。
(垂簾聴政:執務室や議会では簾で顔を隠し、臣下の意見を聞いて政策への指示をだすこと)
(第6代王・端宗:後の魯山君)
3.クーデターの反省からなのでしょうか?
貞薫王后・尹氏による摂政政治は7年間続きましたが、王が成人すると退きます。
この第9代王・成宗(ソンジョン)の時代に「経国大典」(경국대전:キョングクテジョン)が完成して一応の法整備が終わります。
その法典の中では“王族は品階を持たないこと”が明記されます。
これにて、例えばこれまでのように大君が国防大臣を兼職するようなことが廃されるので、「背徳のクーデター」(兄弟間の争い)への反省のひとつだと考えられます。
さらに、成人した成宗は排除されていた官僚たち(士林派など)を上手く再雇用して、既得権益を持つ官僚たちとのバランスを保とうとしました。
これは、派閥の独占に対する反省の一つだと思います。
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辞書では単に「物語、話術」なのですが、ナレーションと同様に話法でもあります。
第7代王・世祖(セジョ)は「禅譲」にて王位を継いだとするのですが、自分の権力欲を隠すための話法に過ぎないと思います。
ウクライナ戦争ではプーチン・ロシア政権と軍部が見え見えの“narrative”を使っています。
ウクライナに愛を💙💛
さて、これまで王朝末期のドラマ『ミスターサンシャイン』から<朝鮮王朝>の歴史を遡って来ました。
明日からは初代王・太祖から第4代王・世宗までの『六龍が飛ぶ』を再度アップします。
王朝「クーデター」考の最初に書きましたように、「反正」は、おそらく正(義)に対する反逆というのが本来の意味だと考えています。
しかし、中でも国政の過ちを正すという意味で意義が一番大きかったのは◎のとおりで、疑問符なのは×だと思います。
◎初代王・太祖は、腐敗した高麗貴族の政治を正して<朝鮮王朝>を興した。
(ドラマ『六龍が飛ぶ』参照)
×第7代王・世祖は背徳のクーデターを行った。
(ドラマ『大君』参照)
〇第11代王・中宗は第10代王・燕山君(暴君)を廃位させた。
(ドラマ『逆賊』参照)
×第16代王・仁祖は国際情勢を見誤り第15代王・光海君を廃位した。
(ドラマ『華政』参照)
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