二都のショートショート

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(京都駅から撮影:2017.05.01)

1.平安京創生館を訪ねて

今年は“大政奉還(1867年)”から150年です。
(翌1868から明治時代)
明治天皇は東京で執政しますから、京都でのエンペラーは121代・孝明天皇まで。

(“大政奉還”があった京都・二条城)
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794年に平安遷都を行ったのは第50代・桓武天皇でした。
つまり、大政奉還に至るまで、京都は1070年ほど歴代71人の天皇が在位したということになります。

# ウィキペディアでは次のとおり。
第50代・桓武(かんむ)天皇(在位:781年~806年)は、白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として737年に産まれた。
生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。

この5月1日に京都市・平安京創生館を訪ねました。
(平安京創生館:中京区丸太町通七本松)
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館内の展示でまず目を引くのは1000分の1の平安京の復元パノラマ(その4分の1)です。

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平安京の広さは東西に4.5㎞、南北に5.2㎞、したがって23.4㎢の縦長の長方形でした。
中国の長安を参考にして作られたとされていますが、防衛上の外壁はありませんでした。
ちなみに、長安は東西に9.7㎞、南北に8.7㎞、したがって84.4㎢の横長の長方形で、平安京の3.6倍の面積。

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(平安京・豊楽殿:国家の祝宴のため) (白河・法勝寺の八角九重塔:鴨川の東)
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(出土した瓦)
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(当時の女房装束:十二単と束帯)
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(当時の庶民と貴族の食事)
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2.高瀬川

平安京創生館(中京区丸太町通七本松)からバスで東へと、京都市庁を過ぎて鴨川方面に向かいました。
平安京を西から東へと向かったことになります。
平安京と鴨川の間には水運で重要だった高瀬川。
この高瀬川(運河)を利用して、鴨川から淀川そして江戸へと、京都・伏見の酒などが江戸まで運ばれました。
(江戸での人気は京都の酒でした)

(高瀬川と高瀬舟)
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そして、この高瀬川沿い・付近には明治維新の志士たちが遭遇・遭難したたくさんの料亭・宿がありました。
坂本竜馬と中岡慎太郎が遭遇した近江屋があった場所(石碑)

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坂本竜馬の妻・おりょうが住んでいた付近(石碑)

sakamoto oryo

池田屋騒動の池田屋跡地などなど、現在ではカフェ、料亭、居酒屋などとなっています。

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3.都城「漢城府」

江戸時代初からは500年以上経ています。
東京23区は622㎢の広さで、約890万の人口です。
また、
ソウル(首都の意:王朝時代は漢陽)は、
1392年に朝鮮王朝が建国されてから今年で625年を迎えます。
ソウル特別市25区は605㎢で、人口は約1000万人です。

ドラマ『逆賊』では「漢城府」という“いわゆる都庁(機関)”がイム・ジャチとチョ・チョンハクが務める官庁でした。
漢陽は都城でもあるので、漢城府(ハンソンブ)と呼ばれていました。

(地図はウィキペディアより)
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この漢城府は、北側の北岳山(プガッサン:342m)、南側の木覓山=南山 (ナムサン:262m)、東側の駱山(ナクサン:125m)、西側の仁王山(イヌァンサン:338m)を連ねるように総延長約19kmの外壁(高さは7~8m)で囲まれた“都城”です。
面積は468㎢で20万人ほどの首都だったようです。

そして、その都城の外の南に漢江(ハンガン)が流れていました。


現在のソウル特別市は漢江の南の江南(カンナム)も含みますから、ソウル特別市(605㎢)マイナス、漢城府(468㎢)=カンナム(137㎢)。
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つまり、
1970年代から開発が進んだカンナム地区の広さは、
平安京のおよそ6倍だとのイメージが湧きます。
(カンナムの大通りは片道4車線で、朝夕はこの大通りが車のラッシュで一杯になります。
写真は3年ほど前)

# なお、漢陽府を囲んでいた4つの山(内四山:ネササン)を連ねる外壁の観光コースがあります。
https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=7497

こちらは“Nタワー”こと南山(ナムサン)のタワー
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# GWの佐賀県・有田市の陶器市の模様です(4月28日)。
(有田の源右衛門窯)
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(左は資料館にある古伊万里の皿で、オランダとの交易の図)
(右は今年の新作の皿です)
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(2017.04.28)

<高野山のシャクナゲ>
(APBさんから頂いたmail: 絵と文)
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5月14日、午後から出かけた高野山はシャクナゲが満開でした。

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この日のお目当ては霊宝館。
奈良の快慶展に執金剛神立像他4体の仏さまが出張なさっているので、
少し寂しいですが、
初見の大日如来像 
木村武山筆は私のお気に入りになりました。

じっくり霊宝館を見学して、奥の院に着いたときは夕方5時すぎでした。
観光案内所や納経所も閉まり、参詣の人も少なく静寂が訪れます。
杉木立を渡る風と鳥の声だけの世界。
(奥の院 参道の化粧地蔵)
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推薦したい歴史ドラマ

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https://www.youtube.com/watch?v=zriRcKnlU5g
(歌:キム・サンジュン)

歴史ドラマと映画
GWを前におススメのドラマ・映画です。
史劇では史実とフィクションとが融合しているものの、よ~く考えて仕分けしているうちに、“これは歴史の勉強になった”と思っています。

1.歴代の王の即位年とその時の年齢
また、当時を描いたドラマと映画です。

個人的な庶民としての観点から8本(☆)選んでみました。
(太い文字の王は即位の年齢が未成年)

初代王・太祖(テジョ)1392年:57歳
第2代王・定宗(チョンジョン)1398年:41歳
第3代王・太宗(テジョン)1367年:33歳
第4代王・世宗(セジョン)1418年:21歳
以上の時代では、
『六龍が飛ぶ』(☆)
『根の深い木』(☆)


第5代王・文宗(ムンジョン)1450年:36歳
第6代王・端宗(タンジョン)1452年:11歳
第7代王・世祖(セジョ)1455年:38歳
第8代王・蓉宗(イェジョン)1468年:18歳
第9代王・成宗(ソンジョン)1469年:12歳
第10代王・燕山君(ヨンサングン)1494年:18歳
以上の時代では、
『逆賊』(☆)

第11代王・中宗(チュンジョン)1506年:18歳
有名な、
『チャングムの誓い』『ファンジニ』

第12代王・仁宗(インジョン)1544年:29歳
第13代王・明宗(ミョンジョン)1545年:11歳
第14代王・宣祖(ソンジョ)1567年:15歳
第15代王・光海君(クァンヘグン)1608年:33歳
第16代王・仁祖(インジョ)1623年:28歳
以上の時代では、
『ホジュン』
『亀巌ホジュン』
『華政』(☆)
『不滅の李舜臣』
『宮廷女官キム尚宮』
映画『光海』(☆)

第17代王・孝宗(ヒョジョン)1649年:30歳
第18代王・顕宗(ヒョンジョン)1659年:18歳
第19代王・粛宗(スクチョン)1674年:13歳
以上の時代では、
『トンイ』
『チャンオクチョン』(☆)

第20代王・景宗(キョンジョン)1720年:32歳
第21代王・英祖(ヨンジョ)1724年:30歳
第22代王・正祖(チョンジョ)1776年:24歳
以上の時代では、
『イサン』(☆) 
『ときめき成均館スキャンダル』
映画『逆鱗』(☆)

第23代王・純祖(スンジョ)1800年:10歳
第24代王・憲宗(ホンジョン)1834年:7歳

第25代王・哲宗(チュルチョン)1849年:18歳
第26代王・高宗(コジョン)1863年:11歳
第27代王・純宗(スンジョン)1907年:33歳
以上の時代では、
『明成皇后』
『済衆院』

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(2015.12.15の空@景福宮)

2.未熟な王様

上記の即位の際の年齢では、18歳未満が8人います。
自分の感情をコントロールするという点では、未熟ではなかったのかと思われる少年王です。
それぞれに摂政政治が行われて、王は骨抜きにされていたと思います。
裏には大王大妃(テワンテビ)・大妃(テビ)と、その外戚関係で権力を持った官僚たちがいた…。

『朝鮮王朝実録』に基づき脚本化される史劇なのですが、この原典には偏向がある。
弘文館にいた後世の官僚たちによる(派閥の)バイアスがある編纂の結果だと思います。

そこで、王本人が思っていた政治・治世を実現しようと、国王として自立して治世ができていたのは18歳以上の王だったと考えると、上記から未成年で即位した王のドラマ『チャン・オクチョン』が外れます。
しかし、成人してからの第19代王・粛宗が派閥解消のために換局(ファングク;議会の解散)に努力した姿が描かれていますので、これは参考になりました。

# 『逆賊』の第22話までのところで、燕山君はやはり変わっていたのかと、二面性を感じました。
豹変して、まるで王権を利用した独裁者?
次の動画をどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=MYT4paeimog&t=14s

これまでは絶対王権と官僚(派閥)との政争として見て来ましたが、自分の狩場のために村人たちを強制的に追い出す(執行はモリ:第22話)シーン。
ここで、見方が変わりました。
宮廷内だけでの背徳の行為で、彼の敵は官僚だけだったと思っていましたが、違いました。
民主主義の観点からは行き過ぎた王だったと言うしかありません。
太陽のように民を照らす王道が儒教の本質だと(知っていた)理解していたならば、あのシーンは残念です。
韓国半島の富も民も全部自分の物だとの発想が独裁に繋がったようです。

①勉強嫌い ×(感性と知性は天才的)
②暴君 ○(民百姓を苦しめた)
③酒池肉林 △(不明)

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3.王朝末期のこと

イ・サン(第22代王)が亡くなったのが1800年。
そして、イ・サンが亡くなってからの半島の100年のうち、およそ60年間は勢道(セド)政治と呼ばれる、王の外戚が権力を握った鎖国の時代でした。
外戚とは安東・金氏で、第23代王・純祖(スンジョ)の妻だった純元(スウォン)王后・金氏のファミリーのことです。
(詳細は次回)

その当時の海外のことを列挙すると、
アメリカの独立 1776年
フランス革命 1787年
そして明治維新が1868年

日本は欧米から80年~90年遅れて、明治維新と共にいわゆる「富国強兵」のための近代化が急ピッチで進みました。
また、半島では1897年に第26代王・高宗が国号を「大韓帝国」と変えて、皇帝に就きました。
高宗(在位44年間)が建築した徳寿宮(トクスグン)の中の近代建築に見られるように、日本から30年ほど遅れて近代化が始まったと思います。
ただし、明成王后・閔氏が頼る外国はまず清であり、夫の高宗の末期はロシアでした。

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(写真は韓国観光公社より)

王朝末期のことは『明成王后』『済衆院』、
日韓併合後の独立運動を描いた映画『暗殺』(チョン・ジヒョン主演)しか視聴していないので、これからの作品を期待しています。

この写真は李氏<朝鮮王朝>最後の第27代王・純宗(国立故宮博物館にて撮影)です。
すでに国号が代わり、彼は第2代皇帝であり最後のエンペラーともなります。

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# 放送・第24話でカリョンがオリニ(=サンファ)を知ることになりました。
一部を先に紹介しておきます。

オンランはノクスのチマを踏んで、罰として投獄されました。
(言い伝えられる逸話の部分です)

「どうして私に親切なのですか?」

「ちょっと(クニャン)…、
 私の妹のように思えるからだわ」

「…」

「あの留め紐の残りの半分を誰が持っているのか知っている?
 あれは私の主人の…」

「あれは私の物ではないです。
 サンファの物で、
 サンファはいつもあれを持って歩いているわ」

「…」
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ソン・ドクファンのところにサンファが報告

「何だと?!
 ホン・ギルドンが生きているのか?!」

「ええ、コンファがホン・ギルドンには興味を示しています。
 ホン・ギルドンが傷を負うと二日ほどは気がめいっています。
 とある日に、ホン・ギルドンのことで“死んだと聞いて可哀想です”というと、
 “なぜ死んだと分かるのか?
 同情する必要はない”とのことでした」
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# コンファはノクスの過去の芸名。
サンファ=オリニ(=守貴単の密偵)のようです。

(第24話のおわり)
https://www.youtube.com/watch?v=Se9CQeOe3MM

「お~い! イ・ユン!」
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# イ・ユンは燕山君の本名で、李㦕(りっしんべんに隆でユン:융)
なお、胸のロゴは“仁”のようです)

# 今月末のKJS『逆賊』は5日間ほどお休みして、5月1日から再開します。
その間はイ・サンの映画『逆鱗~王の涙』です。
再編集しました。
今年もGWを前に佐賀県の有田陶器市に行きます。
昨2016年は、日本で最初に磁器が焼かれてから400年目の記念祭でした。

(↓長崎の英国領事館で使われた皿:中央のマークは輸入元の東インド会社のロゴです。
 昨年:佐賀県・有田:源右衛門窯にて撮影)
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(チャン・オクチョン)
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王朝絵巻 王室のファッション

ファッションのこと

ドラマでも目を惹く、王と王妃の最高の礼服です。
「韓国観光公社」のサイトには
当時の王家の服装の解説があります。

国王は表彰である大礼服を祭礼服として着用しました。
大礼服は冕服(ミョンボク)とも言い、冕服冠(ミョンリュウカン)をかぶって袞服(コンボク)を着ます。
冕服は宗廟、社稷(サジク)などで儀礼を行う際や、正月、冬至など大きな儀礼の際に着用しました。
王妃は大礼服であるチョグイ(法服ともいう)を着ました。

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(韓国観光公社のサイトより)

チョグイのことですが、上の写真にあるように、
王妃ならびに世子の妻だけが着る服装で、
最高の格式の翟衣(チョグイ)と呼ばれました。
翟(チョク)はキジのことで、赤い服には全体に、
尾の長いキジの模様が刺繍されています。
高麗時代からの伝統のようです。

1. 王の服装

冕服冠(ミョンリュウカン)と帯です。
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中国大陸では皇帝と名乗っていたので、
ワンランク下の朝鮮半島では王と名乗っていました。
これも、これまで紹介した“事大主義”思想ですね。

王様が着ている赤い服。
これはコンリョンポと呼ばれ、
胸と背中と肩には龍の刺繍があり、 刺繍は円形です。
王は龍の化身だということ。
したがって、王の顔は龍顔。

ドラマのスクチョンは赤だけでなくブルーも着用。
東平君は第16代王・仁祖(インジョ)の孫ですが、
側室の息子で、彼の服はブルーに四角い刺繍です。
円形は“天”、四角形は“地”を表し、
円形の刺繍は王と王の正室・側室だけです。

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それに王の木靴(モッカ)は、字とは違って動物の毛皮製です。

kings boot

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これは世子の服でしょう。小さかったです。

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(いずれも国立故宮博物館:2015.04.15撮影)

2. 王妃の服

次の写真はこのドラマにもあるように、
インギョンやイニョンが
正室として迎えられる際に着ていたデザインの原型でしょう。

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(以下も2015.04.15撮影)

下は普段に着用していた服です。
ドラマでは博物館にある衣装を参考にした、
大王大妃、大妃、王妃と、
王室の衣服のデザインがたくさんありますね。
色合いや文様がとても似ています。

王室の女性たちは、
前垂れのような長いチョゴリ(上着)を着ていますが、
これはタンイです。
タンイを着るときには
両手をチョゴリの中に入れるのが礼儀。

写真はいずれも今年の4月15日に撮影したもの。
次のチマを覚えておいてください。
オクチョンがほぼ同じデザインのチマで登場。
紺色のチマには、
金の刺繍(ドラマの刺繍はもっと幅が狭いですが)です。

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ついでタンへ
花模様の履き物はコッシンとも呼ばれたようです。
絹に刺繍でハナの模様が入ったコッシンは、
韓服の味わいを活かすために重要。
チマの裾の美しいラインを仕上げる意味を持っています。

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ちなみに、これはポソン。ポソンは靴下のこと。
男性用と女性用に特別な差はありませんが、
男性用は縫い目が真っ直ぐであるという特徴があるそうです。

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3. 女性の髪型

最初の写真にある、
最高位の髪型は“テスモリ”
あの傘のような髪型です。
王妃が婚礼や国儀などで付ける最高位のカツラです。
カツラはカチュと呼ばれました
(ハングルでは“モリ”は頭の意味)

女性の髪形をみると、一般に結婚後は
三つ編みの長い髪を巻いているように見えます。
このカチュは“オヨモリ”といって、
一般にも両班の妻も着用したカツラのようです。
また宮廷では尚宮のスタイル。
たくさんの装飾品を付けて、豪華さを競いました。

下の写真は髪の先に赤いテンギがあるので、
未婚者のテンギ(布)モリ用だと思います。
宮廷の女官たちの定番ですが、これもカツラ?
ドラマ『チャン・オクチョン』のキム・テヒの髪形も、
明らかにカツラだったと思いますが…。

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さまざまなバリエーションのカチュですが、
重いものでは3㎏もあったとか。
本物の人の髪のカツラしかなかったからでしょうか、
倒れそうで、肩が凝りそうです。
最近は当然ながら化学繊維、あるいは混合でしょう。
それでも演じる俳優たちからは「大変です」と、
そんな話もインタビューの声には出てきます。
また、
翼のような大きな“トクジ”を付けたのが“トクジモリ”

(トクジです)
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髪飾りには次の写真のように、ピニョ(かんざし)とトルジャム
トルジャムは王妃を始め上流階級の女性達が使った装身具。
「オヨモリ」では、
前の分け目の中心と両側に差して使われました。
(写真の右下です)

ドラマでもスプリングの端に星や蝶の形をした飾りをつけるこで、
まるで髪の毛の上に蝶が飛んでいるような趣を漂わせました。

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(いずれも、2015.04.15:国立故宮博物館で撮影)

なお、普段は下のオクチョンたちの写真のように、
ピニョでまとめたチョクチンモリです。

ピニョ(かんざし)は後ろにきちんと整えた髪をまとめ、
固定する役割以外にも装身具的な意味が強いもの。
ピニョの材料としては金、銀、木、琥珀、翡翠など多様ですが、
昔はその素材はもちろんのこと、
長さなどで身分の高低を表していたとのこと。

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(# 二人のかんざし“ピニョ”とチョクチンモリ)

王室の女性達は龍や鳳凰を、
一般の女性達は竹や梅などの木と花の彫刻。

服装を見ても宮廷の女官たちは
普通は水色のチョゴリと紺色のチマです。

庶民の服装は、
女性たちはモノトーンのチョゴリとチマ。
男性は地味なチョゴリとパジ(ズボン)でした。

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王朝絵巻 パート7(1) 慶熙宮と昌慶宮

4月の旅行をまとめています
昨年に続き、私にとってはソウルに残る5大宮殿の中でも、
訪問の残りの2宮殿でした。

1.<王朝絵巻>パート7(1)
慶熙宮(1)

第15代王・光海君は徳寿宮で即位しました。
そして、彼の計画により
離宮であるこの慶熙宮(キョンヒグン:경희궁)を建設。
下のウィキペディアにあるように、
現在は敷地が狭くなっており、
どちらかと言えば開放された公園のようで、
チケット売り場などはありません。

(写真は正殿への崇政門)
suuseimun.jpg

次はウィキペデイアより。

慶熙宮(キョンヒグン:경희궁)は光海君8年(1616年)に建立された。
ソウルにある5大宮殿の中で最も西側に位置して過去には100以上の建物があったが、日本統治時代にほぼ完全に破壊され更地となった。
隆福殿、会祥殿、集慶堂、興政堂、正始閣、思賢閣、興化門などの建物があったが、壊されたり、強制的に移転されたりした。
1980年にソウル高等学校の瑞草区への移転以後、ソウル市立美術館として使用されたが、再び建物を取り壊し慶熙宮を復元した。
かつての宮殿敷地はより広大だったが現在は狭くなっており、跡地の一部にはソウル歴史博物館、ソウル市教育庁、ソウル福祉財団、大韓サッカー協会、救世軍会館など政府や民間の様々なビルが建つ。
2013年にソウル市と鍾路区庁は総合整備基本計画を定めており、慶熙宮のさらなる復元を段階的に進めることになっている。

慶熙宮(2)

この写真は正殿の玉座。
どこの正殿でも同じデザインの屏風ですが、
屏風には月と太陽(陰陽)と、山。 そして川。
山を背にして川(漢江:ハンガン)を臨む、
“背山臨水”の首都・漢陽を象徴するもの。

その山は5つです。
中国に端を発する陰陽五行説から五山。
五行とは“木・火・土・金・水”で、
万物を創造し育む大自然。

木(木)は燃えて(火)、土(土)に返る。
地中から金属(金)が生まれ、金属には結露する。
露は水(水)となって、水は木を育む。
このサイクルが五行です。

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(2015年4月12日、夕刻撮影)

さて、正殿の脇を抜けて広々とした公園へ。

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2.<王朝絵巻>パート7(1)
昌慶宮(1)

昌慶宮(チャンギョングン)は、
1484年に第9代王・成宗が完成させた宮殿です。
昌徳宮(チャンドックン)の東側に位置し、
大妃たちを住まわせることが目的でした。

ソウルの真ん中にあり、豪華なので、
景福宮(キョンボックン)が一番有名なのですが、
『亀巖ホジュン』で描かれたように、
豊臣秀吉軍によって起きた文禄の役
(1592年:韓国では壬辰倭乱:イムジンウェラン)
の際に景福宮もこの昌慶宮(チャンギョングン)も
暴徒の手で略奪された上に焼失しました。

第15代王・光海君はそのために徳寿宮で即位しました。
そして、彼の手でまず昌慶宮が再建されて、
その後は昌慶宮が273年に亘り朝鮮王朝の正宮でした。
(景福宮の再建は1865年です)

(ソウル大学病院を東に見る弘化門)
kouka gate2

(弘化門とその先の正殿は珍しく東向きです)
kouka gate

正門を入るとすぐに、お清めの川(禁川)が流れ、
その上には500年の歴史を持つ玉川橋が架かっています。
アーチ型の橋です。

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この橋を渡って明政門を通ると、その先に正殿の明政殿。
朝鮮王朝時代の正殿は南向きですが、明政殿は東向きで、
これは先王たちを奉った宗廟(チョンミョ)が南側にあり、
儒教慣習に従って門を開けることができなかったことによるものです。

(玉川橋を渡ると正殿に向かう明政門)
changyon gate

そして正殿の玉座

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(以上の撮影は2015.04.14)

ウィキペディアによると、
「1909年、日本が純宗の心を慰めるとして昌慶宮内の宮門や塀を壊して動物園(「京城李王職昌慶苑動物園」)と植物園を造り一般人も観覧できるようになり…」
とあります。

しかし、(私から見ると)
翌年1910年には韓国が日本に併合されており、
当時の純宗(スンジョン)はもう34~35歳なので、
「心を慰める…」がピンときません。
ただ、即位の2年目なので、そうかもしれません。

また、当時の宮殿は、
一般人にとってはどこも閉鎖的な空間だったので、
それを解放するという意味もあったかもしれません。
ただし、宮殿→“動物園・植物園”は、
現代の韓国人たちには負のイメージがあるようです。

(入場料は1000ウォンです)
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さてドラマは、
これまではほとんどがフィクションだと思いまずが、
南人派が衰退した反逆(スン暗殺事件)は史実です。

物語りはこれから本格化しますが、今後も、
史実とフィクションが入り混じると思います。

みなさまの連休(GW)はいかがだったでしょうか?
私は4月の中でも、まずソウル→水原、
月末は長崎→佐賀と、国内外の旅行でした。

昨日のラジオ放送では、
4月24日から5月6日まで日本入国者数は、
83万6000人超と、昨年のGWに比し、
4%程度増えたそうです(予定:政府発表)。

日韓・韓日では行く人・来る人で、
年間500万人以上の規模(来日者が多い)。
これからもその中の一人でありたいです。

昌慶宮(2)

昌慶宮(チャンギョングン)は
昌徳宮(チャンドックン)の東。
今日はその後宮あたりと裏の庭園を紹介します。

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『イサン』では、ドラマの最初に父親の荘献(チャンボン)
(後の思悼世子:サドセジャ)が、
米櫃に入れられて餓死しますが、
昌慶宮の後宮の庭がその場所だと言われています。

isan father

景春殿は、
第22代王・正祖(チョンジョ:イ・サン)が生まれた場所。
ここで、
王妃・恵慶宮(へギョングン)とサンが遊んだのでしょう。

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後宮裏手の高い場所からの撮影です。

changyon 4

遠くにソウルタワー(南山公園)が見えます。

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さて、
北の方の庭園は昌徳宮の“秘苑”に続いています。
現在は切り離されていますが、ドラマでも実際でも、
ここから昌慶宮に入ったと思われます。

この石碑は歴代王が生まれた際の
“へその緒”を祭ったところ。
実際の石碑は国立王宮博物館にあります。

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そして春塘池(チュンダンジ)。
ここはボート遊びを目的に日本が作ったところ。
中には“ひょうたん島”があります。

chanbgyon 7
(いずれも2015年4月15日撮影:雨でした)

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王朝絵巻 おわりに

王朝絵巻 おわりに

昨年の11月、
宮殿を巡った際の「宗廟」と「景福宮」のチケットです。

ticket2.jpg

それに、次は「宗廟」のパンフレット。

chonnmyo.jpg
ここは
歴代の王の魂が
祭られている廟。

ただし、
第10代王
燕山君と、


第15代王光海君は(二人が廃位されたからだと思いますが)、
祭られていません。
パンフレットにも記述がありません。

映画「光海(邦題:王になった男)」よりのカット。
この絵は、徳寿宮の正殿・中和殿、または
昌徳宮の正殿・仁政殿だと思います。
kyuannhe2.jpg

「王朝絵巻」を終えるに当たり、気になる2人。
第15代王・光海君と、
粛宗の側室の張禧嬪(チャン ヒビン)のことです。

1.先ずは張禧嬪(チャン ヒビン)。 

彼女は「朝鮮王朝実録」でも、
唯一人容姿が褒められているとのこと。
<康 ① p.170>

朝鮮王朝実録」はネットでも日本語で読めるのですが、
たとえば小学生の日記のように、実に退屈。
王が、
“ある日あの時何を食べた”とかの、
主観性がない実録だからです。
しかし、王が大奥を訪問した日付や、
大長今(チャングム)がどういう治療をしたとかの、
歴史家にとっては最も貴重な実録。
だからなのでしょうか? わずかな文章から、
とても大きなドラマが発想できたと思います。

ただし、事実はあっても真実はない。そんな気がします。
第19代王・粛宗が張禧嬪に出会ったのは王が19歳で、
ヒビンが21歳の時でした。

oku1.jpg

チャンノクスとチョンナンジョンは賤民の出身でした。
しかし、
取り上げた噂の悪女ヒビンの出身は違います。
張禧嬪の父親は通訳でしたので中人(チュンイン)の出。
幼い時からの教育もあったと思われます。

問題は粛宗の正室に嫡子が生まれなかったこと。
側室の淑嬪・崔氏と禧嬪・張氏は、
ただ宮廷内の派閥抗争の渦に巻き込まれた、
悲劇の側室2人だったと思われます。
現に粛宗は両成敗で、ヒビンを自害に追い込み、
トンイのことを宮廷から追放しています。

oku2.jpg

2.次いで、光海君(クァンへグン)のこと

彼は、明国から認められてはいません
(当時は同盟関係の冊封制度でした)。
また、第10代王・燕山君(ヨンサングン)と同じく、
クーデターで宮廷から追放されたので、二人には、
おくり名はなく王子の時の名前と同じです。

kyuannhe.jpg
(映画『光海(邦題: 王になった男)』より 
 : 主演 イ・ビョンホン)

燕山君はまったく評価できませんでした。
しかし、光海君は違います。
ドラマ『亀巌ホジュン』にあるように、
壬辰倭乱では、父の宣祖が北方の義州まで逃避する際に、
平壌城で陣頭指揮を執って国を死守しようとし、
果たせずとも庶民を先に避難させるなど、
市民のことを考えた王だったと思います。
また、乱で焼失した王宮の復旧に尽力しました。
徳寿宮で即位するとともに、
昌徳宮の復旧作業を開始しています。
さらには中国外交を巧みにこなしたという、
歴史的な実績があり、それぞれを評価すべきだと思います。

ちなみに、映画『王になった男』の最後の字幕。
 “(第15代王)光海(君)は、
 土地を持つものだけに課税し、
 明国と対峙した唯一の朝鮮の王である


ではなぜ?
やはり、
『キム尚宮』をコントロールできなかったことが
汚点であり、
また、当時の西人派の勢力に対抗して、
北人派のユ夫人を正室にしていたことなど、
派閥争いでの結果のクーデターでしょう。
(この光海君については、
 再度第128話~129話あたりで説明を加えます)

すべてが王の取り巻きの官僚たちの戦術。
朝鮮王朝の病巣だと言われている、王の取り巻きの、
官僚たちの派閥争いに原因があると思われます。

chona.jpg
(ドラマ『根の深い木』より; 背景は景福宮の香遠亭)

この4ヶ月ほど朝鮮王朝の歴史を駆け抜けました。
直感的な感想ですが、王も王妃も犠牲者なのか?
でも、犠牲にならないためには、
その権限をフルに活用できる英知が足りなかったような気もします。
あまりにも若くて即位して、社会生活を知らず、
庶民の苦しみが分からないままに、老獪な官僚たちに操られる。

hakkyu.jpg
(ドラマ『根の深い木』より第4代王・世宗
 : 主演 ハン・ソッキュ)

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男尊女卑の社会であったとはいえ、
男たちの非力さ、さらにはマザコンでしょうか?
実の母、継母への遠慮が強く、
影響を断つことができなかったと思われます。
しかし、
どうもこれは過去の時代だけでなく、
現代の政治や社会でも、さらには
身近な現代の会社内での出来事においても、
同じことが言えるような気がしてなりません。

新年も「義」(私利私欲にとらわれない)と
「仁」(慈しむ心)を大切にしたいと思います。

なお、現在は第26代王・高宗の頃の
「日清戦争」の歴史的背景を調べています。
今年の春には、
映画『光海(クァンへ:邦題「王になった男」)』と共に、
何度かに分けて紹介したいと思っています。

(映画では最初のシーンに雪の宗廟が写されます)
chonmyo1.jpg

先の純元・王后につづく時代のこと。
少しだけ先に紹介しますと、
次の本はアメリカの外交官の目を通した王朝史です。

渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』
2014年12月(草思社)

サブタイトルが、「アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか」

p217の記述を先に引用しておきます。
「アメリカは朝鮮に失望した。米朝修好通商条約では、清国の横槍がありながらも、朝鮮は独立国であるとの主張を貫いた。
(中略)日本をお手本にして、近代化を目指した開化派に期待したが、清国の介入でクーデターは失敗し、朝鮮の将来を担うであろう前途ある若者は虐殺されるか、日本に亡命した」

また、
当時の第26代王・高宗と明成王后については、
王后の一族(閔氏)の外戚政治と、
一族の事大主義(清国への忠誠)により、
朝鮮王朝が清国の属国支配を受けることには
対抗できなかったことが書かれています。
高宗にはリーダーシップが欠如、
王妃は近代化とは無縁だったとの記述もあります。

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王朝絵巻 パート2 女性たちの韓半島(5)

王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」(5)

その8 悪女: キム尚宮 ①


正室および側室たちのことを紹介してきました。
終りに、
この『亀巖・ホジュン~伝説の心医』の時代の、
一人の悪女がキム尚宮(金 介屎:ゲシ)。
『王の女』『キム尚宮』の主人公で、仕えた王が、
第15代王・光海君です。

彼女は賤民の出身でしたが、頭脳が明晰だったらしく、
第14代王・宣祖に登用されて、
至密(チミル)で王と王妃の世話をします。
女官の中でも『大長今(チャングムの誓い)』の
チャングムの最初の舞台は水刺間(スラッカン)。
そこは王家の食事を用意するところでしたが、
至密(チミル:秘書室)は8部署の中でも最高位です。
秘書としての文章力も必要でした。

kim sangun
(ドラマ『キム尚宮』の主演はイ・ヨンエでした。
 チャングム役の前の作品です。)

『ホジュン』で最初に出てきたのが、恭嬪でした。
彼女は臨海君(イメグン)と
光海君(クァンへグン)の2人の母となるのですが、
キム尚宮は、
中でも次期王(世子)と決まった光海君を支えます。

そして、光海君の政権安定のために、
彼を支える大北(テブク)派とキム尚宮が暗躍。
まずは王の兄の臨海君の命を奪います。
1609年のことでした。

なお、臨海君はドラマ『ホジュン』にもあるように、
壬辰倭乱(イムジンウェラン:日本では文禄の役)で、
豊臣秀吉軍の加藤清正の捕虜となりました。

その8 悪女: キム尚宮 ②

キム尚宮(金 介屎:ゲシ)の次の標的が
永昌(ヨンチャン)大君(テグン:正室の息子)です。
第14代王・宣祖には正室の子がなかなかできず、
王が亡くなる2年前に2番目の正室の
仁穆(インモク)王后が生んだ嫡男です。

宣祖が亡くなるのは、
1608年のこと、当時嫡男はまだ2歳だったので、
王座には自然と決まっていた光海君が即位。
それでも執拗にキム尚宮は永昌大君を狙います。
そんな中で、とある強盗殺人事件が発生。
この機会に、
これは単なる事件ではなく、
“武器をも集めており、
仁穆王后の実父たちが
クーデターを起こそうとしている”と、
ありもしない嘘を「でっち上げ」ます。

用意周到に仕組まれた嘘で、
正室の実父の金悌男(ジュナム)は死罪。
その妻は島流しになりました。
連座制で、
仁穆王后を「徳寿宮」に幽閉し、また、
当時8歳の永昌大君を江華島(カンファド)
に島流しにして、その後は刺客を送り込んで、
大君を焼き殺してしまいました。

しかし、キム尚宮は1623年のクーデターで
斬首されます。
クーデターは後の第16代王・仁祖(インジョ)、
当時の綾陽君(ヌンヤングン:宣祖の孫)によるもので、
仁穆王后は復権します。

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<王朝絵巻>


8人の女性に焦点を当てました。

いったい悪女の条件とは?
そう考えた時に私の目線が現代人であったのですが、
実際の朝鮮王朝時代の儒教的な背景の下では、
次の7項目でした。
夫が離縁できる7つの条件で、
「七去之悪(チルゴジアク)」です。

・夫の両親(舅と姑)に従わなかった
・子供(できれば息子)を産まなかった
・淫行などの正しくない行為をした
・嫉妬深かった(妾を容認しない)
・病気になった
・言葉で失敗した(不和の原因となる)
・人を騙すとか盗みを働いた

さらに、「出嫁外人(チュルガウェイン)」という、
実家には戻ってはいけないという規律がありました。
現代的な尺度では馬鹿馬鹿しくも思える
「男尊女卑」の尺度です。

ではなぜそんな悪事を働いたのか?
私見ですが、その要因と思われる一つです。

宮廷内ではすべての女官たちは
「王の女」であり、
宮廷内だけでなく、宮廷を出ても、
誰も結婚は許されませんでした。
王に仕える男たちを愛することができても、
結婚は不可能。
子供を作って庶民のような幸せな家庭は持てない。

とくに、『キム尚宮』を視聴していると、
すさまじい権力欲をみせます。悪魔的です。
あたかもテレビゲームで頂上を目指すように、
官僚たちを手玉に取り、同時に財産も得ます。
そんな楽しみしかなかった宮廷だったのでしょうかね。
人間の欲望は限りなく、“月をも求める”と言います。
恭嬪(コンビン)媽媽(ママ)の、
“欲を捨てると凄く楽になりますよ”
そんな声が聞こえそうです。

(こちらは、ブログ「七兵衛」さんからの提供です)
new year

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王朝絵巻 パート2 女性たちの韓半島 (4)

# 今年のおわりのブログとなりました。
 新年はヒョンビンとハン・ジミンの新作ドラマ
 (「ジキル・ハイド、私』)に挑戦しますが、ひとまず、
 KJSにいらっしゃった方々に御礼申し上げます。
 アクセス、クリックなどを多々、どうもありがとうございました。
 
 今夜から深夜(元日)までの
 KBS、MBCとSBSのドラマ演技大賞が気になりますが、
 それはまた楽しみにしておいて、とりあえず、おやすみなさい。
 『ホジュン』を観ておられる歴史ファンの
 シナモンロールさん! ライカさん!
 今年も来年もまだまだよろしくお願い申し上げます。
 
王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」(4)

その6 純元(スヌォン)王后


先の貞純(チョンスン)王后の「垂簾聴政」は彼女の引退の、
1805年までの約4年間でした。ただし、
その後も実権は父親の金祖淳(キムジョスン)が握っています。
本貫(ポングァン:本籍または始祖の出身地)は安東・金氏

登場する王后は、同じ出身の純元(スヌォン)王后。
彼女は13歳の時に第23代王・純祖の正室に入ります。
そして、68歳で亡くなるまでの55年間、また、
実家の安東・金ファミリーは1865年まで60年間を、
「勢道(セド)政治」
(王の外戚が実権を持つ政治)を行ってきました。
彼女の罪状は朝鮮王朝の近代化を遅らせたこと。
一族に国の資産が集中し、政権が腐敗し賄賂が横行しました。

その間の第24代王・憲宗(ホンジョン)、
第25代王・哲宗(チョルジョン)
第26代王・高宗(コジョン)までを
安東・金ファミリーが背後で操りました。
朝鮮半島は半世紀以上も
ある一族のために衰退の19世紀前半を送ったのです。

そんな中で、
高宗の父親(孝明)は他家からの正妻を得ることに固執し、
明成(ミョンソン)王后(出身は閔: ミン家)が登場します。
ラストクィーンは、
王朝最後の第27代王・純宗(スンジョン)の母です。

しかしながら、
日本では、もう明治(1868年より)を迎えていました。
さらに、近隣の中国、ロシアまた欧州の列強と、
半島には軍事力の影が徐々に忍び寄っていたのです。

その7 明成(ミョンソン)王后

ラストクィーンの明成皇后(명성황후:ミョンソンファンフ)。
彼女は西洋文化も取り入れようとした人で、後に
「徳寿宮」の石造殿を作った高宗にも影響があったと思います。

(当時の王室の衣装)
myonson1.jpg
(写真提供: naoさん)

museum.jpg
(国立故宮博物館にあります: 景福宮の隣
 photo by nao)

彼女のことをウィキペディアを読んでみると、
外交手腕に照らして実に聡明な女性であったと思います。
時は帝国時代。
清国(中国)、ロシア、日本の覇権争いの中、
国内では彼女の自分の出身の閔氏と
夫・高宗(コジョン)の外戚の
金氏との権力争いの渦の中でのことです。

先に私見を書いておきますが、
彼女は国内では自身の閔氏と金氏との争いと
対外的には親日派でななかったことが
後年の暗殺の背後にはあったと考えられます。
また、
その時の米国は? そんな疑問が湧いてきたのですが、
米国は1823年のモンロー大統領の年次教書にあるように、
他国の政治には「不介入」の「孤立」主義を貫いています。

これは1941年の真珠湾(パールハーバー)まで続いていた、
米国ならではの外交政策でした。
アメリカには他国に関与するまでの必要性が薄く、
むしろ、第2時世界大戦まで国力を十分に養っていました。

なお、
最初に紹介した明成王后をラストクィーンとしたのは、
朝鮮王朝はそれまでの鎖国政策から、1876年に開国し、
1897年に国号が「大韓帝国」となります。
その、高宗が第1代の皇帝となったので、
「李氏朝鮮王朝」では最後のクィーンと称しました。
その後は、
日清戦争、日露戦争を経て、
政治の実権が日本に移ります(1910年:日韓併合)。

以下はウィキペディアからの明成王后記事の抜粋です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%9C%AA%E4%BA%8B%E5%A4%89
# 第26代王・高宗と第27代王・純宗も出てきます。

1894年(# 彼女は満42歳)
3月28日
金玉均の遺体は清の軍艦咸靖で朝鮮に搬送。遺体は六支の極刑(凌遅刑)に処せられる。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。
5月31日
全琫準率いる東学農民軍が全州を占領。清と日本が出兵(甲午農民戦争)。
7月
日本軍が王宮を包囲。開化派中心の政権が成立する(閔氏政権を倒すクーデター)。
金弘集を中心とする政権 甲午改革
閔氏一族の閔泳翊、閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏が殺される。
8月 1日
日清戦争宣戦布告。

翌年のこと。

①乙未事変(いつびじへん:을미사변:ウルミサビョン)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
②純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。また現場いた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。
③サバチン(# ロシア人技術顧問)による事件についての報告書がロシア科学大学の教授に発見され、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている。サバチンの証言は以下のようなものである。
私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。

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“悪女たちの朝鮮王朝”は次のキム尚宮でパート2を終えますが、
引き続きパート3、パート4を整理・準備しています。
新年はパート4で佐賀県・有田町の焼き物の話をお届けします。

なお、『ホジュン』では歴史上の悲しいヒロインの
インモク王妃(次の絵)も出演しますよ。

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王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島」(3)

王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」(3)

その5 貞純(チョンスン)王后 ①


今度は極めつけの“ワル”の貞純王后です。

まずは時代背景。
儒教の教義を巡る論戦は表面上のことで、
王朝の病巣だと言われ続けているように、
王朝内での官僚や両班たちは私利私欲に基づき、
勢力・派閥争いの渦を巻き起こしていた。
そんな王宮では老論派が主流となった結果、
金家のバックアップで貞純(チョンスン)王后(金氏)登場。
彼女は14歳に正室に入ります。
ただし、時の第21代王・英祖は既に65歳です。

当時の王朝の習慣で、英祖は10歳で婚姻。
10歳の時から彼が63歳になるまで、
2歳年上の貞聖(チョンソン)王后と連れ添いました。
(婚姻は第19代王・粛宗の命でした: 『同伊』)
ただし、彼女には子供ができず、
英祖は側室に何人もの子供がいました。

これも当時の慣例で、
英祖が63歳の時に貞聖王后がに亡くなると、
王が単身で長くいることはよくないとされ、
65歳と14歳の結婚式がなされたのです。

18世紀の1759年のことです。
彼女の罪状は、
3年後の①1762年の事件にかかわったこと。
また、1776年にイサンが、
第22代王・正祖(チョンジョ)として即位し、
(その24年後の)
②1800年に正祖が亡くなってから以降のこと。
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今度はドラマ『イサン』の頃です。









その5 貞純(チョンスン)王后 ②

1759年に14歳で英祖の正室となった貞純王后。
彼女の罪状は、
①1762年の事件にかかわったこと。
②1800年に正祖が亡くなってから以降のこと。

まずは1762年の世子・荘献君(チャンホングン)殺害。
英祖との間には子供はまだできませんが、
英祖と第一側室の映嬪・李氏の間には荘献君がいました。
貞純王后は荘献君より年下の継母に当たります。

問題は彼女の父が老論派だったこと、
また、老論派が荘献君を好まなかったこと。
そして大きな問題は、
英祖と息子の仲が悪かったことです。
これが原因で英祖は荘献君(世子)を餓死させます。
(米櫃に入れたとのこと)
この背後には、
貞純王后が多くの嘘の噂を多々、
英祖の耳に吹き込んだと言われています。
庶民派とされた第21代王・英祖の汚点でした。
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大罪は
②1800年に
正祖が亡くなってから以降の、
キリスト教の弾圧です。







その5 貞純(チョンスン)王后 ③

1800年に正祖(イ・サン)が亡くなった後は
正祖の息子が第23代王・純祖(スンジョ)となるものの、
彼はまだ10歳でした。
貞純王后は55歳にして玉璽も我が物にします。
王の印章を預かることとなると、
彼女の手によって、
垂簾聴政(すいれんちょうせい)」です。
簾の裏で、政治ごとの取り決めを行い、
事実上の女帝となります。

問題はこの後です。
貞純(チョンスン)王后が歴史の暗黒時代を作ります。
天主教(キリスト教)徒の弾圧です。
その事由は、
国教であった儒教の秩序を天主教の平等主義が乱すこと。
さらには、
貞純王后に反対する勢力に天主教徒が多くいたことです。

近所の5軒が食糧事情を把握するための制度を利用して、
密告や告発をさせることで、
数万人の人々が処刑されました。
まさに恐怖政治だったのです。

i san a

名君正祖(イサン)たちの功績を列挙しておきます。

第19代王・粛宗
・農地の整備
・新たな貨幣の鋳造
・国防
商業を通じて国富の拡大に貢献したこと。

第21代王・英祖
・多くの派閥からの登用
・大きな減税
政治の安定化と庶民生活向上

第22代王・正祖
・学術・文化の研究
・朝鮮文化の興隆
加えれば、
水原に華城(ファソン:世界遺産)を作ったのは、
亡き、父親への孝行。

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王朝絵巻 パート2 「張禧嬪(チャンヒビン)考」

王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」(2)

「三人の悪女+」
その4 張禧嬪(チャンヒビン)考 ①


これから「張禧嬪考」を3回に分けて書いてみます。
その歴史的な観点は、
・チェ・ワンギュ作家のような公平な歴史眼
・康 煕奉『悪女たちの朝鮮王朝』2014年6月
 (双葉社)
 p.132「果たして『仁顕(イニョン)王后伝』は
 公平に記述されていたのかどうか。
 勝者の側の評伝が、褒めたたえたい人物の…」
 との記述
・映画「宮女」(パク・ジニ主演)では、
 子供ができなかった仁顕(正室)が、
 自分に子供ができたと主張する嘘を
 医女(パク・ジニ)が暴いたこと
・張禧嬪は、
 これまで紹介した張緑水(チャンノクス)や
 鄭蘭貞(チョンナンジョン)とは違って、
 賎民→妓生→側室と昇格したのではなく、
 生まれは中人(専門職)の娘であったからこそ、
 一時は正室にまで昇格したこと。

ドラマ『同伊(トンイ)』にあるように、
張禧嬪は一時正室にまで上り詰めます。
当時では身元が不明の場合には
たとえ側室のトップに位置するところの
嬪(正一品)にまで上り詰めることはできても、
正室になることは至難であったと思われます。
なぜかというと、
仁顕が復位し、同時に張禧嬪が自害を命じられ、
トンイが淑嬪・崔にまで昇格するものの、
その後すぐに慶州・金氏が正室に迎えられたように、
名家から正室が迎えられていたからです。

ということで、
17~18世紀の宮廷内の派閥から説明します。
当時は、宮廷内の官僚たちの派閥が“東人派”と
“西人派”の二つに分かれ、さらに
西人派は“老論派”と“少論派”に分かれて、
儒教の教義・解釈を巡って激しい対立がありました。

その4 張禧嬪(チャンヒビン)考 ②

ドラマ『同伊(トンイ)』にあるように、トンイはまず
張禧嬪に登用されます。しかし、その考え方を巡って、
正室の仁顕王妃の正義感に生きる道を求めました。
当時はもう王朝前期のようには側室が多くなく、
2~3人まで。

正室の仁顕王妃との間には子供ができず、
他方では禧嬪を溺愛した第19代王・粛宗(スクチョン)。
ただし女性遍歴と優柔不断の王でした。
優柔不断はドラマの通り。
禧嬪との間に、
後の第20代王・景宗(キョンジョン)が誕生。
また、同じ時期にトンイとの間にも子ができます。
そして、トンイとの第2子目が、ドラマでも聡明な
ヨニングン(後の第21代王・英祖)でした。

さて、
世に言う3大悪女の一人が禧嬪・張氏なのですが、
彼女(チャン・オクチョン)が何をしたのか?
ドラマでは王からの愛がトンイのために失われますが、
最初から最後まで粛宗はオクチョンを大切にします。
同じようにヒビンも…。
問題は藁人形で呪術をかけたこととなっています。
しかし、その相手は正室。
ただし、仁顕王妃には世子もなく病弱です。

王の愛を一身に受けるためには、
正室でないといけなかったのか?
こうした感情論になると分かりません。
問題は彼女自身が呪術をほんとう使ったのか?

他方、仁顕王妃と淑嬪・崔(トンイ)にとっては、
張禧嬪の存在が疎ましかったとも考えられます。

その4 張禧嬪(チャンヒビン)考 ③

ドラマ(MBC)『同伊(トンイ)』の主人公の
淑嬪・崔(トンイ)を演じたのはハン・ヒョジュ。
禧嬪・張(チャンヒビン)はイ・ソヨン。
配役に選ばれたのはどちらも美人だし、
その後の『チャン・ヒビン』ではキム・テヒが演じています。
いくつかの考察を読んでいると
ヒビンは王の寵愛を一身に受けていた美女
(「朝鮮王朝実録」でも容姿を褒めているそうです)。
また、両班ではなくとも父が通訳の中人出身。
身分がしっかりしていない限り、
正室にはなれなかったと思います。
呪詛の件も真相が不明です。

tehi2.jpg
(SBS『チャン・オクチョン』最終話より)

一方、
トンイはドラマにもあるように、また実際にも、
その出生が不明で、ドラマでは途中まで姓名を隠していました。
二人は、
喧嘩両成敗のように“自害”と宮廷からの“追放”されます。
他方で粛宗は、
次の動画にあるように慶州・金氏を正室に迎えます。
周囲の官僚たちに揺れ動いたのはトンイやヒビンだけでなく、
粛宗もその渦の中の一人だったと思います。

(『ホジュン』での俳優も多く出演していました。
 『トンイ』第55話より)

この項で最初に書いたように、
『同伊(トンイ)』のころの儒教思想の論戦は
南人と西人派の二つの勢力争いとなっており、
南人派(ナミンバ)のバックアップにより、
張禧嬪(チャンヒビン)は正室にまでなりました。
一方の衰退した西人派(セインバ)は、
仁顕(イニョン)の廃位を余儀なくされるのですが、
その後勢力を取り戻して、仁顕王后の復位に成功。

その後の西人派ですが、
さらに老論派と少論派に分裂し、
老論派は淑嬪・崔(トンイ)の息子の
ヨニングン(後の第21代王・英祖)を後押し、
張禧嬪(当時42歳)の死罪を求めるという
急進的な行動に出ました。
また、張禧嬪の息子が世子と決まっていたのですが、
その第20代王・景宗(少論派が後ろ盾)は、
わずか4年の在位で亡くなります。
こうなると、
官僚や両班たちの社会では老論派が主流。

後世になってから、もしも公正な味方で再考するなら、
チャン・ヒビンを悪女とする評価は成立しないと思います。
私は、淑嬪・崔と張禧嬪の人生のことは、
「政争の具」であったと考えるべきだと思っています。
王朝の病巣であった官僚・両班たちの
その後も続く王朝内での勢力争いはまだまだ続きます。

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王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島」(1)


王朝絵巻 パート2 「女性たちの韓半島(한반도)」(1)

「三人の悪女+」
その1 張緑水(チャンノクス)


張緑水(チャンノクス)は王族お抱えの奴婢と結婚していました。
強調文が、出世を目指し、夫から逃げ出して妓生へ。
持ち前の美声で有名なキーセンでしたので、
第10代王・燕山君に見初められて側室となります。
朝鮮王朝の初めの頃は10人ほどもの側室がいたので、
そのうちの一人に抜擢されます。

悪女としての罪状は、国家財産の(公私混同)横領。
政治を省みない燕山君と共に酒池肉林の宴席を繰り広げ、
国家財産を我が物顔にして国庫を危うくしました。
その燕山君は、庶民が悪口をハングルで書いたとして、
一時ハングルの使用を禁止するなどの暴君でした。

宴会の場所が「慶会楼」(景福宮の中)と、
私生活で使ったのが最高学府であった「成均館」
まさに成均館(ソンギョングァン)スキャンダルでした。

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(慶会楼: 9月に撮影)

庶民の反感も強く、
1506年のクーデターで燕山君が島流しになる一方、
同罪ではあったものの身分が低かった彼女は斬首されます。
遺体は晒され、庶民の唾や石ころの標的にされたそうです。
<康 ①>

明日紹介する鄭蘭貞(チョンナンジョン)と同様に、
貧しい奴婢の身から両班並みの階級に出世する点では
二人とも同様に美貌、美声で男に取り入るだけでなく、
体を張って、出世を目指したい欲望があったと思われます。
500年を超える朝鮮王朝前期の16世紀でのことでした。

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「三人の悪女+」
その2 鄭蘭貞(チョンナンジョン)」


鄭蘭貞(チョンナンジョン)は正室の実弟の妻。
第11代王・中宗の3番目の正室の
文定王后の実弟の尹(ユン)元衡(ウォニョン)の妻でした。
正室の実弟の妻になるまでに、奴婢から妓生、
そして尹元衡の妾になるまでのストーリーは『女人天下』

彼女は夫の姉の文定王后に気に入られようとして、
罪を犯しました。
文定王后の座を脅かすしていると警戒されたのが
敬嬪(キョンビン)・朴氏。
彼女を追放するために、
1527年に「灼鼠の変」を起こたとの説になっています。

さらには尹元衡の正妻をも(彼と共謀して)毒殺して、
その後釜になります。
その後は従一品という高い品階を得るのですが、
1565年に文定王后がなくなると、後ろ盾を失い夫婦ともに没落。
政敵に睨まれつつ、
夫婦はそれぞれ自害への道へと転落しました。

昨日の張緑水(チャンノクス)と今日の鄭蘭貞(チョンナンジョン)は
それぞれ奴婢の身分から這い上がりました。
それは、朝鮮王朝の女性たちの出世物語でもあったのですが、
男たちを虜にするだけの美貌だけでなく、
智謀の女性たちだったのでしょう。

なお、ドラマ『女人天下』では、
両班(ヤンバン)の娘として生まれるものの、
妾の子ということで賤民として世間から蔑まされて、
「身分」の壁に挑戦するということで、
『ホジュン』と同じシチュエーションです。

この点では、
チャングム(大長今)は別格だったと思います。
『ホジュン』ならば内医女や御医女と呼ばれるほどの
医術での才能で歴史に名を残したのだと考えられます。
また、トンイ(同伊:仮称)も別。
その出生は(奴婢)定かではありませんが、
王からの寵愛を受けて第21代王・英祖を生み、
庶民の味方として夫婦ともに尊敬されていました。
が…?

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「三人の悪女+」
その3 「文定王后」①


文定(ムンジョン)王后は第11代王・中宗の3番目の正室。
そして、
彼女を支援したのが昨日の鄭蘭貞(チョンナンジョン)。
チョンナンジョンの罪状は殺人および呪術犯罪。
1527年に「灼鼠の変」の首謀者だとの説になっています。
焼いたネズミを東宮や景福宮につるした事件で、その
ターゲットは中宗の世子(後の第12代王・仁宗)。
そして、呪術を使ったのは中宗の側室の朴氏だとして、
濡れ衣をかけ、宮殿から追い出した事件です。

さて、文定(ムンジョン)王后。
文定王后の実弟は尹(ユン)元衡(ウォニョン)で、
その妻の鄭蘭貞(チョンナンジョン)が取り入ります。
どうも何かと二人が共謀したようです。

文定王后にとっては、
息子(後の第13代王・明宗)を王位に就ける為には、
既に世子に決まっていた頃から第12代王・仁宗が目障り。
仁宗の殺害を企てます。
まずは毒を入れた餅。
次にその後の下痢にもかかわらず、鶏の粥。
衰弱した仁宗は即位後、わずか8ヶ月で亡くなりました。

当時息子(後の第13代王・明宗)はまだ11歳。
(この話は明日につづきます)
なお、
『大張今(チャングムの誓い)』で
チャングムが出産を助けたのが後の仁宗でした。

「三人の悪女+」
その3 「文定王后」②


文定王后の罪状は何だったか?
正史(『朝鮮王朝実録』)に加えて、
民間に伝承される歴史書の野史では、
仁宗への毒餅+内臓の疾患を悪化させたこと。
つまり、国王の毒殺に関与したことと、
それに、16世紀半ばの半島の農業のこと。
当時の凶作続きへの対応をしなかったこと。
<康 ②>

わずか11歳の第13代王・明宗(ミョンジョン)の背後で、
政権を我が物顔にすると共に、
国民の苦しい実情には耳を貸さなかったとのことです。
1545年の息子(明宗)の即位から20年もの間、
1565年に亡くなるまで、実権を握ったのです。
明宗はその2年後に33歳で世を去り、
1567年に即位するのが第14代王・宣祖。

ドラマ『伝説の心医~ホジュン』を御医にしたのが、
この宣祖で、彼は第11代王・中宗の側室の孫です。
これまではすべての王が嫡子でした。
そして
第14代王・宣祖と第一側室・恭嬪(コンビン)の子が、
第15代王・光海君(クァンへグン)です。
クァンへグンの活躍はドラマの第100話以降になります。

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宣祖の第一側室の恭嬪(コンビン)は
後の第15代王・光海君の母です。
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